Ep.5 Pal

 ふと風が吹いて、リアンは自分がまた生活に引き戻されたことを現実と悟った。空間に満ちた自然光が頭に染み込んで、くらっとくる。約束のあの場所。後ろに立つマルヴィナは相変わらず無口で、トレイシー以上に感情が伝わってこない。それ故に、リアンも何も言えない。

 昨日の夜、突然リアンがあの暗闇から出された時、トレイシーはいなくなっていて——彼だけまだ閉じ込められているなんてことはない、と思う——主にスタンレーやヴェラの身の回りはタバサが、その他はマルヴィナが担当していた。トレイシーはどこに行ったの、と訊きたかったけれど、訊けなかった。元々彼を逃がしたいと考えていたことを思い出して、自分を無理矢理納得させることしかできなかった。

 あの部屋にいるのと比べればなんてことはないが、リアンはいよいよ暑くなってきた中で全身の鞭痕を隠せる七分袖の布の厚い服を着る羽目になっていて、じっとりと肌が汗ばんでくる。ぼうっと時間が過ぎるのを待っていると、ここにあまり人が来ない理由がよく分かった。あの時はもっと明るい場所のように感じていたけれど、ここは日当たりが悪いし、植物は手入れされていなくて雑草が伸び放題だし、廃材が積み重なっていて危険だ。

 ベンチはよく見ると傾いていて、あまり座りたいとは思えなかったし、歩けば時折固い感触が靴裏を抉る。オスカーは、……彼もあの時この場所をああ幻視して、その思い出を今描こうとしているのだろうか。

「……リアン!」

「……——」

 名を呼ばれて、リアンはゆっくりと視線を向けた。息を切らして走ってきたらしいオスカーが、ところどころ骨の露出した顔でこちらを見ている。リアンは自分で思ったよりも小さく「オスカー様」と呟く。彼は歩みを遅くしてリアンに近寄ると、「来てくれてありがとう」と嬉しそうな声で言った。

「……手紙に書いたけど、クラリッサとも喧嘩しちゃったんだ。リアンは分かってくれるのに、って言ったら、怒っちゃってさ。だから……まずは君と仲直りできてよかった」

「仲直り」

「うん。ほら、今日は君のおかげでこの場所は最高の楽想になった。まずはスケッチをするから、君は見てるといいよ」

 彼はいつより楽しそうに口角を上げたが、リアンには悍ましい形相にしか見えなかった。気分が彼についていかないまま、リアンは手を引かれてまた彼の隣に座る。彼は画材を持って慌てて追いかけてきた従者に準備をさせながら、「決めたんだ。今度は発表するとしても思いきり好きにやってやるって!」と高らかに言った。

「君のおかげで、俺は正しいって分かった。父上もクラリッサも世間も、いつかは俺のことを理解してくれるはずだ。その時のために、俺は描き続けるしかないんだ」

「————」

「リアン? ……どうしたの、聞いてる?」

「……うん、感心してただけ。すごいね、オスカー様」

 オスカーは微笑んで、「疲れてる? 緊張しなくていいから」とリアンを労った。その仕草だけなら優しいのだけど。先ほどのリアンの返答はあまりお気に召さなかったらしい。やはり絵を褒める方が、彼にとっては直接的なのだろうか。

「そういえば、いつもの使用人は? えっと……トレイシーとかいったっけ」

「あ、……。トレイシーは、今……お休みで」

 リアンは目を泳がせながら答える。

「そうなんだ。——ねえ、二人にしてくれないかな?」

 オスカーがマルヴィナにそう言うと、マルヴィナは「えっ」と嘴が開ききらないまま篭った声を上げた。彼はトレイシーが聞き分けよく下がっていたのを覚えているのだろう。止めに入ってくれた時のことを思い出して、リアンはまたオスカーがああやって苛烈な部分を顕にするのではないかと怯えたが、反対できるはずもない。彼の神経に障ることをしなければいいだけの話だ。

「放っておけとは言わないからさ」

「え? えっと……はい……わか、わかりました」

「どうも」

 マルヴィナは押しに弱くて、何かを断っているところを見たことがない。今回も然りで、彼女は子供だけを残すことに躊躇いつつも言われた通りに少し離れた。オスカーは彼女に全く興味がない様子でリアンをじっと見る。

「リアンってさ……あの人が好きなの?」

「えっ」

「トレイシー・コルディエ」

 突然訊ねられて、リアンは頭の中身が全部すっぽ抜けるくらいに驚いた。オスカーもその大袈裟な反応には思わず呆気に取られて、それから、「やっぱりそうなんだ」と妙に納得した様子である。リアンはサアっと血の気が引いて、反射的に「違うっ」と食い気味に叫んだ——リアンはオスカーと結ばれなければならない。だから、リアン・ハーツホーンはオスカー・ジャーヴィスのことが好き。トレイシーじゃない。よりにもよってオスカーにそんな勘違いをされては堪らない。

「ふうん?」

「本当に、違うから」

「でも、好きだよって言ってなかった?」

「…………」

「……もういいの?」

 オスカーがリアンの顔色を窺って問う。

 リアンはギギギと滑りの悪く感じる首を折って頷いた。オスカーはまたふうん……、と興味なさげにして鉛筆をとる。どう解釈されたのか分からなくて不安になりながらも、見ているといいと言われた通りそれが描く線を目で追った。迷いなくサッと引かれる線は、たった二つで立体となった。それが魔法みたいで、暗くなっていたリアンの視界は徐々に明度を取り戻していく。

 ——やっと実感が湧いたが、オスカー・ジャーヴィスは紛れもなく天才だ。「現実を写し取っただけの絵なんて誰にでも描ける!」——彼が当然のようにああ言えたのは、彼が現実を絵に書き起こすことにおいて与えられた才能が天賦のものだからだ。

 多分、それ故にオスカーは、いわゆる普通の絵では到底満足できなくなってしまったのだろう。勉強した内容を冷静に反芻して、リアンはそう思った。

「オスカー様は本当に、『天才』っていう言葉がよく似合うね」

「……天才は孤独って言うしね」

「それは、違うんじゃないかな。私が見てる……」

 ——だからもう、お願いだから、他のことは何も考えずに絵を描いていて。その素晴らしい芸術を精一杯受け止めるから、どうか綺麗なあの姿に戻って、そのままでいて。

 オスカーが、目を細めて少し笑ったような気がした。しかし今まで見た絵の中で一番好きだと言ったあの時のようには、爛れは引かなかった。

 彼が何を考えているのか分からない。クラリッサへの恋心と絵に対しての情熱、彼にとってどちらが大切なものなのだろう。それと、あの牙を剥いた姿……あれと、綺麗だった時の姿——どちらが本当の彼なのだろう? 分からなくて、恐ろしい。けれども目が離せない。リアンは既にどうしようもなく画家オスカー・ジャーヴィスのファンで、彼の描く線が、色が、世界が好きだった。そのように彼自身も素晴らしい存在であると信じたくなってしまうくらいに。

「…………」

 ふと、オスカーが何か悩むように手を止める。

「……どうしたの?」

 リアンは訊ねて、余計な口出しだったかと後になってヒヤリとしたが、オスカーは「うん……」と珍しく本当に困った調子でぼんやり応えた。

「何か足りない……」

「足りない?」

「この場所。どの構図で切り取っても雑然としてるから、なかなかどう描くか決められないんだ……。普通なら俺が情報を整理したり描き足してもいいけど、俺はここがこうなことが不満なわけじゃない……」

「……?」

「やっぱり、良い被写体が良い絵になるわけじゃないんだよ、リアン」

 オスカーは顎に手を当てて黙り込み、視線をあちこちに動かしては少しずつ動いて、眼前に指で長方形を作りながら立ち上がった。そして、不規則に移動すると様々な角度からこの場所を観察する。リアンはそれをしばらく見つめていた——そして、まだまだ煮え切らない雰囲気で戻ってきて、リアンと目が合って——彼は「あ」と声を出した。首を傾げると、オスカーはまた自分の世界に入って、唸って何かを考えだす。リアンはなんだか、そうしているオスカーは好きだったので、じっとそれを待った。

「……。……」

「——……」

「…………」

 オスカーは恐る恐る目を開いてちらとリアンを見て、気まずそうに口を開く。

「——?」

「……リアン。……君を……」

 オスカーがここまで弱気になっているところを見るのは、出会った時以来初めてだった。

「——。……、」

「なに?」

「——?」

「——え?」

 言われたことがすぐには理解できなくて、リアンは暫し呆然とした。——描く? そう聞いて真っ先に思い出されるのは、あのクラリッサの絵だ。あの、オスカーの激情が込められた絵。絵に情動を込めるオスカーが人物を描くということは、つまり……。リアンの頬にほんのりと朱が差す。つまり、リアンは画家オスカー・ジャーヴィスにとって本当に価値のあるものになったということ。

「で、でも……、さっき、発表するって。それじゃ……」

 ——この逢瀬は秘密の時間で、貴族オスカー・ジャーヴィスはクラリッサ・ブッシュネルとの関係を祝福されている。しかしトレイシー曰く、画家オスカー・ジャーヴィスがこれまでにクラリッサの絵を発表したことはない——理由は分かる、世間に認められるためのカンバスでは、彼は彼女を充分に表現できないからだ。そんな中でクラリッサとは同年代でも似ても似つかない漆黒の少女を描けば、必ずそこに意味が発生する。画家オスカー・ジャーヴィスの、貴族の形に押し込められた魂を理解しているのはリアンだけだ。

 オスカーは少し拗ねたように俯いて、「……いいんだよ」とぶっきらぼうに呟いた。「描きたい絵を描いちゃいけないなんて、そんなのおかしいだろ」

 それは、リアン・ハーツホーンが貴族たるオスカー・ジャーヴィスという存在に食い込める、たった一つの可能性だった。リアンはドクドクと冷たく高鳴る心臓の前で手を握って、ごくりと唾を飲む。そうすればオスカーも、リアンも、スタンレーもヴェラも……。

「——いいよ。私を描いて」

「……! ありがとう。じゃあ、次は、最初に会った時の服で来て欲しいんだけど……」

「最初に……うん、分かった」

 最初に美術館で会った時、リアンは腕の痣を隠すため露出の少ないドレスを着ていた。あれなら、今刻まれている鞭痕も隠せるだろう。リアンは頷いて、オスカーが爛々と目を光らせて何倍もの速度で描いていく構想を見つめ、ほっと息をついた。彼の顔の爛れはなくなるとはいかなかったが、随分とましになっていて、リアンはあの綺麗な顔立ちの面影をそこに感じることができた。

「うん……、やっぱりこれがいい。決めた、俺はこのカンバスで、誰に何を言われようと最高の絵を描いて、今度こそみんなを黙らせてみせるよ。タイトルは、そうだな——」

 オスカーは顔を上げてリアンを見て、その透き通る瞳でリアンを射止めた。まるで彼の頭の中で丸裸にされるような、気恥ずかしくもどこか心地の良い予感がする。彼はしばらくして瞬きをすると、感嘆を漏らすように自然に、うっとりと言葉を紡いだ。

「——『うつろいの少女ヴァージン・コンバージョン』。うん、間違いないね」


      ■


 構想を終え本格的に絵を描き始めると、オスカーは今度は「完成したら見せる」ともったいぶって言うようになって、リアンが被写体、あるいはオスカーの話し相手として約束の場所に通う日々はおよそ二ヶ月に亘って続いた。その間、リアンは十三歳になったが、ハーツホーン家は何も変わらなかった。トレイシーは帰って来ていない——勇気を出してマルヴィナに訊いてみたところ、どうやらトレイシーは東方で別の職場に移されたらしい。そこで彼が平穏無事に暮らしているのなら、リアンはそれでいいと思う。リアンはトレイシーがいなくても、なんとか立って生きている。

 オスカーの絵は期日が迫っていてリアンは内心心配だったが、彼の手は段々遅くなっていった。仕上げに入ったということだろうか? 絵を描かないリアンには、その感覚はあまり分からない。はじめの頃は最初に会った時の服で通っていたが、リアンが汗だくになっているのを見たオスカーは「何でもいいよ」と言うようになった。服の描写が必要な段階は過ぎたのだろうか、と思ったが、もう来なくていいと言われたことはない。クラリッサとの仲は改善していないようだから、人に飢えているのかもしれない。もはや彼を理解しようとすることは諦めた。芸術家とはそういうものなのかもしれない。少なくとも、リアンに求められた役割はそれではなかった。

「リアン」

「何?」

「今度お忍びで、一緒に展覧会に行かない?」

「いいの……?」

 他の場所へ一緒に出かけたりなんかして、その上他の人の絵を見ても……。

「もちろん。俺からのお礼だと思ってよ。それに、他の絵を見たら、改めて俺のすごさを実感してくれるでしょ」

「分かった。今度って、いつ?」

「この絵が完成したら……」

「楽しみにしてる」

 絵が完成した後も一緒にいていいの? とは聞けなかった。そう聞いたことによって、今の言葉がなかったことにされてしまってはかなわないから。オスカーは穏やかに筆を運びながら、いつものようにゆったりと眠るような呼吸で話しだす。

「リアンは……あの使用人の、どういうところが好きだったの?」

「え、ええと……」

 いつもクラリッサやジャーヴィス家について彼が語ることが多かったから、突然訊ねられてリアンはたじろいだ。それによりにもよって、殺したトレイシーへの情を掘り起こすような。……しかし、この時間のオスカーは吐き出したことを何でも解いてくれそうな神聖さすらあって、リアンはそれに逆らえない。どうせ、好きだと言ったところを聞かれているのだし。「や、優しいところ……」と答えて、年上の彼の大きな手を思い出してズキリと胸の痛みを感じた。

「優しいって、使用人としての働きとは違った?」

「……ど、どうだろう。トレイシーは……使用人の仕事を、してただけなのかな。そうかもしれない。でも……、私にとっては、トレイシーは使用人じゃなくて、友達みたいなものだった。私は、何も返せなかったけど……」

「友達……」

 オスカーは舌の上で転がすように繰り返しながら、伏せた目で絵を俯瞰する。彼が直感で口を動かす度に、リアンはとても嬉しくて、同時にぞっとする……。彼はどうしてトレイシーの話を、リアンの話を聞きたがっているのだろう。

「君にとって、友達って何?」

「え、……。友達……友達は、私にとって、……」

 脳裏に、すぐ近くに座った彼と笑い合った思い出が蘇る。会いたい、と思ってしまいそうでリアンは一度唇を噛み締めた。——せめてこれ以上は、彼に迷惑はかけたくない。リアンにはもう、彼の友人でいる資格がない。

「……一緒に、今日と明日の境なく、ダメなところも許して、支え合える人……」

「——じゃあ、俺は?」

「へ、」

「俺はリアンと友達?」

 ほとんど毎日会って、お互いの弱いところを晒して、話をして。リアンはオスカーと過ごしてきた時間を思い返して、『オスカー・ジャーヴィスと友達である』という現実味のない可能性に呆然とした。思わず、「……し、失礼じゃないかな……?」と顔を伏せながら彼の反応を窺う。リアンに視線を向けた彼から、不快感は読み取れなかった。

「……じゃ、じゃあ、……友達って、思ってもいい?」

「もちろん」

「ほ、本当に?」

「最初に会った時からずっとね。君は俺の唯一の理解者だから遠慮しないでって、ずっと言いたかったんだ」

 言われて、リアンは半ば放心しつつ「……ありがとう」と素直な気持ちで言った。これまでリアンにトレイシー以外の友人がいたことはない。いつだって、暗くて控えめなリアンの言葉を引き出してくれるのは彼だった。彼はもうリアンの手の届く範囲から遠ざかってしまって、そうやって受動的に受け取ったものを返せないままになってしまったから、今度こそちゃんと向き合いたかった。リアンは意を決して、角張った声でオスカーに訊ねた。

「お、オスカー様は……クラリッサ様が好きなんだよね? あの方とは、どういう関係なの?」

「うーん……。まだ将来の話はしてないから、友達かな」

「友達って、何をすればいいの? どうしたら、トレイシーが優しくしてくれるみたいに、あなたが芸術を教えてくれるみたいに、何かを返せるの……」

「返すって……だから、そんなに堅苦しく考えないでよ。大体、俺は君に芸術を教えてるわけじゃない。それは君が勝手に興味を持ってるだけ」

「あ、ご、ごめんなさい……」

「はぁ……で君もが何かは分かっただろ? その一線を越えなきゃ、芸術は自由だ。——で、同じように俺も、君が何もしなくても今ここに価値を見出してる。そうじゃなきゃ君の絵なんて描いてない……えーっと、つまり何が言いたいかって、君は考え過ぎだってこと」

「……——」

「もっと笑って、リアン」

 オスカーは自分の言葉の整理がつかなくなったようだったが、だからこそ最後のその一言は全部本心だろうと思えた。リアンは言われた通り、微笑んだ。自分のために彼が言葉を選んでくれたことを心から嬉しく思った。……でもやっぱり、トレイシーの優しさは、リアンがそう捉えただけだったのだろうか。いつもトレイシーが「私も好きですよ」と返してくれたのはリアンの機嫌を取るための方便で、彼はリアンが期待するほど愛着を持ってくれてはいなかったのかもしれない。

 そうであればいい。どうか、彼がリアン・ハーツホーンのことなど忘れてどこかで幸せになっていますように。

「オスカー様」

「うん?」

「絵、とっても楽しみにしてる。あなたに私がどう見えてるのか、教えて欲しい」

 リアンは少し晴れた気分で、オスカーに笑いかけてそう言った。するとオスカーもにこっと嬉しそうに、まるで街で見かける子供たちの中の一人のように快活に笑った。……自惚れではなく、今、オスカーは心から振る舞っているように思える。それなのにあの綺麗な顔を見せてくれないのが、リアンには不思議で堪らなかった。

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