Ep.4 Error

「さあ、今日はどうだったのかしら、リアン? 詳しい話を聞かせて頂戴?」

 ハーツホーン家でわざわざ皆が集まることがあるとすれば夕食どきくらいで、リアンはこの時間を死期しごのように感じていた。言い訳を考えなければ、そのつもりで騙し始めたのだからと思っても、下された命令を遂行する回路だけが発達した脳は何も動かなくていけない。それは今も同じで、『命令に忠実な報告』をしようとする脳が、空っぽの納品所を目の当たりにしてエラーを起こしている。ただでさえ、ダメージの修復に忙しいのに。

「リアン」

 ヴェラの声に少し苛立ちが混じる。「はい」と返事した声だけは嘘で明るくて、リアンは逃げ場をまた一つ失った。あっても、元々狭くて通れそうもなかったが。

 どうする? 嘘を吐いてしまうか? いいや、上手くいけば普通は文通が増えるところだっただろう。きっともう手紙は届かない——すぐに気付かれる。次の直接会う約束をしてきた、と誤魔化すか? 手紙を偽装? 駄目だ、どれも現実味がない……。口籠もっているうちに、ヴェラの視線に貫かれたところが痛みを催してくる。

「あ、……今日は、……オスカー様に会って……」

「そうね」

「え、っと……お、王城の、絵を……見せて、もらいました。……とても、素敵で……」

「それで?」

「わ、私の絵も……見せて……」

「ええ」

「…………」

 言葉に詰まったリアンに、ヴェラは三つ、四つと視線を集めた。息が詰まる。はく、と開いた口から息だけを漏らして、苛立ったヴェラの食器がぶつかる音に肩が跳ねた。——その絵はすぐに破られて、醜悪だと言われて、表現を盗んだと言われて、そして、……二度と顔を見せるなと。そんなこと、言えるわけがない。

 オスカー・ジャーヴィスとの婚約という計画はこれで確実に頓挫したし、下手をすればジャーヴィス家を敵に回したと言えるほどの怒り方だった。リアンはマルヴィナの姿をそのままに描いただけだったが、オスカーが醜悪と言うのだから、そうだったんだろう。リアンは思わず恐怖していたが、オスカーは悪くなかった。悪いのはいつもリアンで、今回もその例に漏れなかった。これでスタンレーとヴェラの仕事や社交に影響が出たらどうしよう。いや、出ないわけがない。ハーツホーン家はおしまいだ。リアンのせいで……。

「——お嬢様に代わって、私が説明致します」

 横から名乗り出たくぐもった声に、リアンはハッと顔を上げた。トレイシーはリアンの絵が破られたことに怒いかって駆けつけただけで、絶望したリアンは彼にすら事情を話すことはできなかった。一体何を説明するつもりで。リアンは何か嫌な予感がしたが、トレイシーは真っ直ぐ前を向いて、スタンレーへ告げた。

「旦那様、どうかオスカー・ジャーヴィス様とお嬢様の件はなかったことにして頂けませんか。ラドフォードとの関係性があるとはいえ、ジャーヴィス家に拘らずとも、堅実に他の家との関係を築いていけば……」

「そうする必要があることが起こったのか?」

「っ、」

 そして彼は勇敢にも、強く食いかかった。

「——無理な話でした、最初から。あの日オスカー様と好意的に接触できたのは偶然中の偶然! そして、あなた方は依然としてお嬢様に全てを背負わせて、他の家に協力を依頼する努力も、オスカー様の籠絡の準備もろくにしなかった……!」

 リアンは服の下でだらだらと冷や汗をかいた。スタンレーはガタッと立ち上がり、スタスタと歩いてトレイシーに歩み寄る。リアンのカトラリーを持つ手は静止していて、まだ体の中を規則的に血が流れて自分が生きていることを不思議に思った。

 ゴッ——拳が頬骨を強打する音が頭上で響いて、リアンは泣き出してしまいそうだった。もう一発。スタンレーはよろけて壁に寄り掛かったトレイシーの胸倉を掴んで、ドンっと壁に押し付ける。

「——私とヴェラが現在のために動いている間、暇を持て余しているのはお前達使用人とリアンだけだ! よくもそんな恩知らずなことが言えるな、トレイシー! お前をに回してやってもいいんだぞ!」

「……! それでお嬢様が幸せになるのなら、私は……! ですが! その余裕ができたところで、あなた方はきっとお嬢様に何もして差し上げない……いッ‼︎」

 スタンレーの手がトレイシーの首をぐっと締めて、トレイシーが不規則に息を漏らす。リアンは居ても立ってもいられず立ち上がりそうになったが、ヴェラが変わらぬ様子で料理を口に運んで睨みをきかせ、「お座りなさい」と言うので、何もできなかった。

「……っ、かはっ……、っ、ぅ、……、……!」

 トレイシー。死んでしまうかもしれない。スタンレーの手首に添えられた抵抗の手に力はろくに入っておらず、顔色がどんどんおかしくなっていく。びく、と跳ねる手が空を切る。そしてそのまま、ふっと指先から彼の全身の力が抜けた。スタンレーはその体を受け止める素振りなど全く見せず、一歩引いて倒れ込んでくるのを避けた。リアンは、トレイシーの名前を、口の中だけで叫んだ。唇がわなわなと震えていて、リアンのために声を上げてくれた彼を抱き起こすことすらできない己に鞭を打つ言葉が脳を埋め尽くす。

 表現者オスカーと出会っても、リアン・ハーツホーンは何も変わっていない。ただの意志なき傀儡くぐつである。

「タバサ、こいつをあの部屋に入れろ。謝罪が私の部屋に届くまで出すな!」

「かしこまりまシタ」

「——リアン、お前も後でだ」

「、‼︎」

 ようやくトレイシーではなく正しく自分に向いた矛先に、リアンはむしろ歓喜すら覚えて恐怖し、速くなる呼吸の中で返事をした。

「っは……はい……はぁっ、……ぁあっ! っつ……‼︎」

 血走った眼で捉えられ、長く伸ばした髪を引っ張られて、椅子から引きずり下ろされる。それから大きな手で頭を掴んでぐっと押し沈められて、ガクンと膝が折れた。額を床に着けて、半ば強制的に服従の意を示す。

「お前の罪を全て吐け、リアン! そして精々許しを乞うて見せろ! ああ、いつもいつもいつもお前がハーツホーンを陥れる……!」

「も、うしわけ、ありません、おとうさま、オスカーさまは、あ、もともと、クラリッサさまのことがお好きで、わたしのことなど、さいしょから眼中になく、あう約束をしたのは、わたしが、ただ、あのひとの絵をみたかったからです、あまりにすてきで、わたしは、盲目になってしまいました。わたしは、わたしがみる世界を、あのひとみたいに絵にして、あのひとに見てもらいたかったのです、ですけれど、その、わたしは、芸術の面汚しだそうです。わたしは、なにもせず、オスカーさまの絵をほめていればよかったのに、よけいなことをしました。わたしが、オスカーさまののぞむ女でいつまでもあれば、まだ、きっと、なにか、かわっていたかもしれないのに」

「顔を上げろ」

 言われて、言葉を止めてその通りにすると、頭を押さえていたスタンレーが立ち上がって、彼の革靴の爪先が鳩尾に突き刺さった。キィンと耳が閉じて自分の悲鳴が聞こえない。体を丸めて床に倒れると、スタンレーは襟を掴んで、ぐわんぐわんと揺れる意識のリアンを引っ張って廊下をスタスタと歩いた。必死で着いて行こうとして、足を滑らせても引き摺られるので、落ち着く暇などなかった。

 地下の暗さに瞼が融けて、に連れてこられたということは分かった。ハーツホーンの邸宅には座敷牢が丁度ふたつ存在する。先に造られた地下のそれは、多分トレイシーが連れて行かれた一階の隠し部屋よりも厳重で、昼夜問わず気が狂いそうな闇に支配されていた。リアンは虚ろな目で暗闇をなぞって、スタンレーが慣れた手つきで足枷を嵌めるのを甘んじて待つ。スタンレーはリアンを座らせて、ブラウスを剥ぎ取り、そして、持った杖でまず一発、その背を叩いた。


      ■


「ぁ……あッ‼︎ あー……っはぁ、ああっ、っ……っ、う、ぁあッ!」

 掠れた絶叫と共に眦からこぼれた涙が、乾きかけていた筋を伝いきらずにぽたぽたと落ちる。背中の皮膚はもう多分ぼろぼろで、捲れたところを更に叩かれたり、擦られたりすると、引き攣れるような激痛が走ってとても耐え難かった。

 オスカーと接点ができてからの約一ヶ月の間、スタンレーはリアンを叱らなかった。まるでその分を発散しているかのような苛烈な折檻は、いつもより長く続く。また次に備えて痛みを逃がしきりたくて、押し出した荒い息に汚い声が混じった。ここでいくら叫んだところで誰にも届かないとか、そういう話ではなくて、そうしないとやっていられなかった。第一、助けを求めるとか、逃げる資格などリアンにはない。

「はぁっ、……、っ……、は……」

 強張ろうとする体をなんとか弛緩させて次を待っていると、想定した間隔で痛みが訪れないので、リアンはぼうっとする視界を少しだけ上向けた。光の点がある。蝋燭の光が一つ、揺れている。ヴェラだった。

「もう、遅い時間だわ……構うだけ時間が勿体ない。私たちは、明日も早いんだから」

「——。そうだな」

「…………」

 いや、終わった、のか。スタンレーは未だにすっきりしていないようだったけれど、ヴェラがわざわざ呼びに来るほど時間が経っているからか、素直に杖を下ろした。ここまでしてリアンには何の興味もなさそうな二人は、ここから出ることなどできないと分かっているので何も言わずに階段を戻っていく。

 リアンは何も聞こえなくなってしばらく経ってから、ふらりと背中から倒れ込んだ。足枷に嵌まったまま寝そべることはできるが、それは寝台とはとても言えないただの板である。背中の傷に痛いが、体の力を全部抜いて、できることならこのまま消えてしまいたかった。静寂が耳に痛い。多分これから、この朝昼夜もない闇の中で何日も過ごすことになるのだろう。今根を上げては精神がもたない。——でも、慣れたものだ。きっと大丈夫。

 そういえば、トレイシーは大丈夫だっただろうか。リアンがスタンレーの相手をしている限り彼にこのような罰が下らないのなら、それでいいのかもしれない。……本当は、もう少しは引っ張れるものだと思っていた。トレイシーを傷つけずに辞めさせる方法をまだ考えたかった。オスカーと話してみたいことだってまだまだあった。ああ、あの時、自分からものを言い出しさえしていなかったら。出来損ない——ぐるぐる回る思考全部がそう言ってリアンを嘲笑う。

 そんな時に、また階段を下ってくる足音がふと聞こえて、リアンはびくりと体に力を入れた。誰だ——スタンレーが戻ってきたのか? いいや、彼よりは体重が軽い足音だ。トレイシー? 違う、彼でもない。トレイシーはまだ外に出れない。足音の主は階段を降り切ると立ち止まり、リアンを焦らす。こんな——こんな、揶揄うような態度を取るのは——。

「惨めだね。『お嬢様』?」

「——、……?」

「いつかは終わりが来るなんてこと、べつにあの画家と関わる前からとっくに分かっていたでしょう。——まあ、それが僕が受ける苦痛だったかもしれないと思えば、僕は僕を殺してくれたキミにありがとうとか言うべきなのかな。でも、それももう終わりだよ」

 鏡はここにはないのに。クス、と小さく可笑そうに笑った少年は、リアンとは対照的にいつもより楽しげに言った。まるで、本当に死んだはずの彼がそこに立っているみたいだった——彼はそれらの動揺も見透かしたように、「姉様、僕はいつだってキミを見てきた」と語る。

「キミはずっと変わらずどうしようもなく視野が狭くて、頭が悪くて、愛嬌もなくて、おまけに不幸を呼ぶ。僕を殺した厚かましさだけは評価できるかもしれなかったけれど、それも鳴りを潜めてしまったらしいね」

 かわいそうな姉様……。足枷は固定されている、仰向け以外の姿勢になることはできない。それでも必死で逃げたくて、奥の壁の方を向いて、ドクンドクンと鳴る心臓を抱きしめて隠すように体を丸め、息を殺した。しかし彼は全て見えているかのように迷いなく近づいてきて囁くので、リアンはその毒を脳いっぱいに受け止めるしかなかった。

 ——彼はリアンを恨んでいる。誰よりも強く。その言葉はリアンを圧迫する自責を、存在否定にすら近いものにする。

「自身を追い詰める存在が憎いかい? じゃあ、僕をそうしたみたいに殺してしまいなよ! お母様も、お父様も、タバサもマルヴィナもトレイシーも、そうすればきっとキミの無念ぶねんは晴らされる。キミは解放される」

 兄は自分を守るのに必死なリアンとは違って破壊的なきらいがあった。その過激な思考は暴力的なままにリアンの自制心にメスを入れようとするので、スタンレーやヴェラに従わないといけないリアンにとってはこれ以上ない天敵だ。

「殺されたくなったら、他の誰かに殺される前に僕に言ってよ。——、それは決定事項だからね」

 彼はそう言って離れて、壁に寄りかかったのか雰囲気を落ち着けた。こんなに長く彼と相対したことはない。内側からおかしくなってしまいそうで、リアンの口はいやだ、ごめんなさい、出て行ってとうわ言のように繰り返しこぼすが、彼はそれを聞き入れる性格ではなかった。彼は「そうだ、」と世間話をするかのようにまた何かを言い出す。

「姉様は何の役にも立たないと思ったけれど、オスカー・ジャーヴィスの件は素晴らしかったよ。あの絵、キミが夢中になるのも分かる。僕はキミよりも夢中だった、キミがしくじったのは本当に残念だったけれども許すさ。あれはキミが問題なのではなくて、彼が難儀な性格だったからね」

「……わたしが、余計なことを……」

「残念だけれどあの時のキミに迷いはなかった、魅せられたんじゃあしょうがないでしょう。まあ、お父様やお母様にとってはどちらも同じだろうけれどね」

 まるで同情し、慰めるようなことを。その言葉に騙されたくなる心の主導権をぎゅっと抱きしめて、リアンは瞑った目から何が理由かももう分からない涙を流した。どうしていつものようにすぐに消えてくれない。雁字搦めのリアンとは違って責任を取る必要のない亡霊の言葉など、もう聞いていたくない。

「僕が生きてきたのは姉様を殺すためみたいなものだ。だけれどキミを殺したら、芸術家を目指してみようかな。才能があるかどうかは分からないけれど、あの時の姉様は嫉妬するくらい楽しそうだった……。酷いじゃあないか、まだ僕への罪を贖っていないのに、キミだけあんな顔するなんて」

「……やめて……兄様……そんなこと、私が、一番……分かってるから」

「姉様は、分かったところで何もできないでしょう」

「っ!」

 痛いところを突かれて、リアンは凍りついた。彼は本当に、リアンの全てを見ているのだ——そして、リアンが目を逸らしてきたものの全てすらも把握している。彼はこれでも手加減をしてリアンを弄んでいる。これまで犯した過ち全て。全てが。何よりの恐怖がどっと襲い来る——「あ、あああああっ——‼︎」リアンはもう何も聞きたくなくて狂ったように叫んだ。喉はもう枯れていて、ろくに大声にはならなかった。少年はそれに不快そうに「うるさいなあ」と、腹いせのように少し声を張って言った。

「はあ、もういいよ。姉様はまだ僕の言葉に耳を貸さないみたいだし……、これ以上姉様の思考能力を落としたら、お父様たちの怒りを買ってキミが本当に殺されてしまうかもしれない。それだけはいけない」

「あああ、ああ——ああ、」

「とにかく、こうなったからには、キミは僕に殺されるまで死なないことを第一に考えるんだ。いいかい?」

「あ、あ……はぁ、」

 もう叫んでいても、何も意味がないと分かって、リアンは死んだように脱力して応じた。

「……は、い……はい、兄様」

「その返事! 虫唾が走る。まあ、お父様たちに何も言えなくなったらいけないけれどね、僕にはしないでよ。じゃあね」

 少年は無情に吐き捨てて、スタンレーと同じように去っていく。安堵と、また暗闇に一人取り残される不安が同時に空間を満たし始めて、でも、彼らはここにいてと呼び止めるにはあまりにも恐ろしかった。リアンの味方は本当に、トレイシーだけなのだ。

「トレイシー……す、」

 届かないだろうけれど、返事がもらえなかった前回を取り返すくらい精一杯に伝えたくて、でも言葉が詰まる。——トレイシーがこんな自分を好きでい続けてくれることが、リアンには何より心苦しかったのだ。

 そんな地獄が、たぶん、分からないけれど、四日間くらい続いた。


『——親愛なるリアン・ハーツホーン嬢、

 先日は申し訳ないことをした。

 君は美術に触れたばかりだった。君の、俺の絵が好きだという気持ちを疑ったわけじゃない。俺の絵を見てくれている時の君の顔を見れば分かる。俺はそんな君に甘えていた。

 君と喧嘩してから絵が描けなくなったんだ。クラリッサは相変わらず何も分かってくれない。俺は君がいないと駄目なんだ。どうか戻って来てほしい、今は思い出が褪せないうちに、君と出会った場所をどうにか描こうとしている。君の笑顔が恋しい、一人は寂しくて気が狂いそうだ。こんなわがままを許して欲しい。

 いつでも夕暮れのあの場所で待ってる。

 愛をこめて、

 オスカー・Jジャーヴィス

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