Ep.3 Theory

 芸術、美術を語る言葉はきっと繊細で感覚的で難しいものだろう。オスカーと次に話す時までに知識を深めておくべきだろうと思い立ち、リアンが迂遠な馴染みのない言い回しで構成された活字に目を滑らせていると、トレイシーは息を漏らして恐らく苦笑した。

「お嬢様。私が思うに、芸術というものは他の勉学とは大きく異なります。実際に触れてみないことにはあまりピンとこないかもしれませんね」

「……? でも、評論家はたくさんいるでしょ。みんな絵を描いてるってこと? お母様も?」

「ああ、いえ、必ずしも描き手にならなければ……というわけでは。ただ、彼らの話は、ヒントにはなるかもしれませんが……お嬢様のお得意な算術とは違って答えのない分野ですから、それらはほとんど、あくまで一個人の解釈なんですよ。著者と全く同じことを知っても、お嬢様がこの本に同意できるかどうかは分かりません」

「んん?」

「例えば——件のニック・ゴールドバーグ氏、それからお嬢様の話に聞くオスカー様のような、非写実的というか、感覚的な絵を好む方々は残念ながら界隈では厭われていますから、その本では好意的に書かれていないかもしれません。記述が全くない可能性もあります」

「そういうものなの……」

 言われて、リアンはぱらぱらとページを送ってみた。確かに、目に付くのは有名な宗教画に描かれたアトリビュートについての話やらばかりで、画家自身の感情を重視する絵については言及さえされていないような気がする。トレイシーの予測通り、この本はそもそも彼らをないものとして扱っているわけだ。『アリリスの夕景』に惹かれ、オスカーの絵に心打たれたリアンにとっても遺憾なことに。

 しかし、それはそれとして——あまり面白く感じなかった他の絵にも細かな深い意味があると分かる見出しの数々は、リアンの好奇心を呼び覚ます。「現実を映し取っただけの絵なんて誰にでも描ける!」とオスカーは言っていたが——本当にそうなのだろうか?

 リアンはあまりの己の無知に途方に暮れていた。

「……画材って……高いよね?」

「そうですね……。本格的に物を揃えるとなると、かなり。でも、オスカー様のためなら、ある程度旦那様も頷いてくださるかもしれませんよ」

「…………」

 トレイシーは前向きにそう言ったが、リアンは顔を曇らせた。リアンには、オスカーが実は既にクラリッサにぞっこんで、リアンのことなどちっとも女として見ていないということを隠している引け目があった。

 あの様子だときっとクラリッサもオスカーのことが好きだ——さして可愛げもない新参者のリアンに勝ち目はない。つまり、オスカーが伴侶を選んだその瞬間、リアンはスタンレーとヴェラの期待を高めておいて裏切ることになる。同時にハーツホーン家も失墜を確固たるものにするだろう……リアンは窓の向こうで外壁を歩く歪んだ蜘蛛に視線を遣って、最悪の未来を想像して、ぞっと身を震わせた。

 どうしてオスカーと特別に仲良くなったなんて言ってしまったのだろう。ヴェラの本当に嬉しそうな声と優しく抱きしめられた熱を思い出して、リアンはあまりの罪悪感に息が止まりそうで唇を噛んだ。あの時は、目が眩んでしまっていたのだ。二人を、トレイシーを騙し続けて、その後には何が残る?

 リアンはもう、待ち構える恐怖を軽くすることしか頭になかった。画材を買うなんて以ての外だ。ただでさえ出来損ないなのに、金をかけたことが全て無駄になってしまったら……。

「私からも頼んでみましょうか。オスカー様のためとはいえ、お嬢様が何かを始めようとなさるのは、初めてですから……応援させてください」

「あ、」

 相変わらずトレイシーの表情や声色は分からないのだけれど、その言葉が純粋な厚意であることを感じ取って、リアンはますます罪悪感に胸を締め付けられた。

「……ううん。絵なんて練習しても、オスカー様は私なんか好きにならないよ……」

「——本当にあの方のことをお好きになられたのですね、お嬢様」

 と、トレイシーは少し小さな声で言った。

「……大丈夫ですよ。男児というものは、皆健気な女の子にときめくものです。お嬢様のような素敵な人が自分の得意分野のことを一生懸命調べてきてくれたら、きっと誰しもお嬢様のことを好きになってしまいますよ」

「……トレイシーも健気な子が好き?」

「私は、お嬢様が好きです」

「健気なのはトレイシーの方じゃない。……私も好き」

「恐縮です」

 いつも通り安定した返しをするトレイシーは、本当に喜んでいるのかいまいち分からない。彼は「話が逸れましたね」と平然と仕切り直した。リアンはそれがつまらなくて恨みがましくトレイシーを見たが、彼の反応はないように見えた。

「……お嬢様は、芸術を勉強なさって、オスカー様に何をして差し上げたいのですか?」

「作品を……ちゃんと評価したい。あの人の絵を悪く言う人を言い負かしたい」

「なるほど。それなら、きちんと勉強しなくてはなりませんね。とはいえ、残念ながらこの家に教師を雇う余裕はありませんから、私がお手伝いします」

「本当? トレイシー、芸術を学んだことがあるの?」

「オスカー・ジャーヴィス様のことは前々から調べていました。それに、本当に貴族との婚姻を目論むなら、お嬢様に芸術を勉強して頂くことはかなり有効なのでは……とかねてより思っていましたので、その関連の話には敏感だったんです。……オスカー様はやはり、貴族でありながらもきちんと『芸術家』のようでしたね。そこに理解を示すのは恐らく、彼にとって極めて効果的です。言い方が少し悪くなりますが、お嬢様のお話であるとブッシュネル嬢はそれができていないとも取れます」

 勝機があるならそこ。トレイシーの鋭い指摘に、リアンはほうと息を吐いた。たちまち、天秤にかけた二つの事を同時に叶える道が見え始める。藁にも縋る思いだったが、今掴んだものは筏にも思えた。それを組んだのはトレイシーだ。

「トレイシーはやっぱりすごいね」

「貴族様とは少し価値観が異なるというだけです。私からすれば、お嬢様の方がすごいですよ」

 トレイシーはいつだってリアンの味方でいてくれる。ヴェラやスタンレーが手を上げる時だって、リアンを庇ってくれる。火に油を注ぐ結果になることもあったけれど、リアンはその気持ちだけで救われるのだ。いつも助けられ、救われるリアンの方がすごいなんてことはあるわけがないと、リアンは思うのだが。

「お嬢様が笑顔を見せて下さるなら、私は何でも致します。それだけのことです」

「なら……」

 リアンは反射的に顔を上げて、しかし言葉を詰まらせた。

「……ううん、何でもない。そうだ、お父様には頼まなくていいよ」

「そうですか?」

「オスカー様は、私が文字を書くような筆で絵を描いてた。画材は何でもいいの」

「なんと、そうでしたか。『へたな職人は道具のせいにする』ということですかね。オスカー様のことを理解するということにおいては大変効果的かと思います……が、まだ難しいかもしれませんよ」

「そう思う」

 もちろん、いきなり彼のような絵が描けるとは思っていない。しかし、何よりお金を使って欲しくなかった。

「……いいの、今は真似するだけで。あの人は何を考えてあの絵を描いたんだろう……って、想像するだけで」

「分かりました、お嬢様がそう仰せなら。では、鉛筆で小物のデッサンなど如何でしょう。鉛筆ならばすぐにお持ちしましょう」

「ありがとう。見ててくれる?」

「もちろん。夕食の支度の時間までは」

「やった」

 リアンは頬を緩ませて、早速紙を見繕った。鉛筆を手に戻ってきたトレイシーは小刀で先を削り出して尖ったそれを渡すと、椅子を寄せてリアンの隣に気安く座る。トレイシーはリアンにとって、使用人というよりは友人に近い関係である。リアンは少し机周りを見渡して、トレイシーが買ってきてくれたブローチを前に立てかけて置いて筆をとった。自然に手が動いて、線が重なっていく。

「さすが——お上手です、お嬢様。初めてとはとても思えませんね。オスカー様もきっと感心してくださいます」

「まだ全然描いてないんだけど」

「こういうのは、ちょっとした筆の運びで分かるんですよ。普段から物を丁寧に見ていらっしゃる証拠ですね」

「……そんなことないよ」

 リアンは少し顔を伏せて答えた。トレイシーはリアンが照れていると思ったのか、心なしか明るく「ありますよ」と言ってリアンの手元を覗き込むようにする。リアンは彼と間近で顔を見合わせて、その平坦な陰影に困って片眉をへにょりと下げた。


      ■


『——親愛なるリアン・ハーツホーン嬢、

 先日はありがとう。

 私が再び筆をとったことを、父上は大いに喜んでくださった。君は私が父上に知らせた支持者の一人目だ。明哲な君の支持を厚く歓迎する。

 さて、早速君に見せるべき次の作品が完成したため、手紙を認めている。今度は余っていた小さなカンバスに風景を描いた。クラリッサと出会った場所の心象だが、彼女には全然違うと言われてしまった。怒った顔も可愛かった。

 君にはきっと分かるはずだ。楽しみにしていて欲しい。急ですまないが今週末、私の領地のとある場所でどうだろうか。住所等は別紙に記載している。君の都合を教えて欲しい。

 よろしく、

 オスカー・Jジャーヴィス


『親愛なるオスカー・ジャーヴィス様、

 お約束通り、私めにお手紙などありがとうございます。

 オスカー様に合わせて頂くことは恐縮ですが、今週末となるともう日にちがありませんので、では、五日のお昼頃で如何でしょうか? お待ちしております。

 また貴方様の描いた絵を見せて頂けるとは、身に余る光栄です。はい、楽しみにしております。

 敬意を込めて、

 リアン・ハーツホーン』


 ——と、いうやりとりをしていた時も実感など何も湧いていなかったが、まさか当日になってもそうとは思わなかった。返事がないということは、『五日のお昼頃』で構わないということで大丈夫なのだろうか。あれからもう三週間が経つが、オスカーと交わしたやりとりはこの一通ずつの手紙だけ。不安になって、リアンはトレイシーにも絶対に見られないように肌身離さず持ったそれを読み返した——疚しいことはないと説明するのは大変だったが、読まれては、クラリッサとオスカー、オスカーとリアンの仲の現状が分かってしまうからだ。

「お嬢様、嬉しいのは分かりますが、失くされてしまわないようにしてくださいね」

「うん。……オスカー様、本当に来るのかな?」

「ええ、きっと。約束を守られる方ということは、手紙が来てもう分かったではないですか。お返事がないのは、我々との親交を最低限にして人目を忍ぶためかもしれません——しかし、一通はくださったのです、お嬢様。ゼロと一とは決定的な差ですよ。確実にオスカー様はお嬢様にそれなりの愛着を持っていらっしゃるということです」

 トレイシーはそう楽観してリアンを励まそうとしているが、悩んでいる点はそこではなかった。どうしても気が重いリアンに、トレイシーは「応援しています。ほら、もう着きますよ」と言った。

 手を引かれて角を曲がれば、また新しいワンピースの裾がふわりと風に浮かされた。白を基調とした青藍のマットなスカートのそれは、リアンの雰囲気によく似合っていた。ヴェラは着飾ろうと張り切っていたが、リアンがこれで構わないと言った。オスカーは多分、オスカー・ジャーヴィスとしてではなく姿を現すだろうから。この逢瀬が目立ってはいけない。そんな心配は、リアンには無用かもしれないが。

「トレイシー、オスカー様が来たら二人にして。多分、向こうもそういうつもりだと思うから」

「そ、うですか。分かりました、しかし、遠くからは見守らせて頂きます。いくらお嬢様のお願いでも、これは譲れませんよ」

「うん」

 オスカーが指定したのは、市民向けの広場の、開発段階で妙に周囲の空間から浮いてしまったような場所だった。バルコニーの下もそうだが、彼は人目につかない秘密基地みたいな場所を見つけるのが得意みたいで、リアンはそれを共有してもらっているということに高揚を隠せなかった。ここは建物と建物の間にあって、庇の影が涼しく、雑草を照らす陽射しが明るい。二人はベンチに腰掛けて、オスカーが来るかもしれないのを待つことにした。

「……トレイシーって、いつからうちにいるんだっけ?」リアンはふと呟いた。

「珍しいですね、お嬢様がそんなことをお訊ねになるなんて。——以前よりハーツホーン家と親交はありましたが、正式に雇っていただいたのは私が今のお嬢様ほどの年齢の頃でした。両親が病に罹りましたし……何より、丁度奥様の出産に立ち会って、あなたのことをお支えしたいと思いましたので」

 リアンは途方もない話に少し沈黙してから、「……やめてもいいよ」とか弱く呟いた。

「な、にを、仰います」

 トレイシーが動揺を隠しきれずに声を大きくする。リアンはどうせのっぺらぼうだとしてもトレイシーの顔が見れなくて、俯いて膝の上で拳をぎゅっと握った。

 トレイシーは雇われているだけ。ハーツホーン家にずっといるのは、仕事だから。——今のうちに逃げて欲しかった。他の平民たちはいつも、リアンの目にも楽しそうにしている——トレイシーがその中にいたら、リアンは彼の笑顔だってもしかしたら見られたのかもしれない。そもそも、トレイシーの出身はもっと西方の島国だ。家に縛り付けている『リアンを支えたいと思う気持ち』は、彼にとって毒なのではないか。ならば、……。

「お嬢様! そんなことを仰らないでください。私のことが嫌になりましたか?」

「! 何言ってるの? 違うよ」

「不満があるのならそう仰ってください、どんなことであっても、私にできることなら改善致しますから」

「トレイシー……」

「お嬢様、私こそがあなたをお支えします。……そのくらいは、許してください」

 トレイシーが真剣に言うので、リアンはそれを喜んでしまうことへの申し訳なさで胸がいっぱいになった。ごめん、とひとまず伝えたが、その言葉に含むところがあるのはトレイシーには伝わってしまっただろう。トレイシーのための憂慮が、トレイシーの憂慮になってしまった。

「……私こそ、出過ぎたことを申しました」

「トレイシー。好きだよ、……」

「……ありがとうございます」

 何を言えばいいか分からなくて、リアンはいつもと同じ言葉を紡いだ。だが、受け止めるだけでいつもより力ないトレイシーの返事に、今この瞬間彼にとってその言葉が安くなってしまったことが何となく分かった——もがけばもがくほど沈んでいく泥沼のようだった。トレイシーの様子はいつもと変わらないように見える。そんなはずはないのに。傷付けてしまったに違いないと思うのに——こんな時でさえ、リアンに彼の表情はやはり見えないのだ。

「——リアン」

 時が永遠の間で止まってしまったかのような感覚は、背後からかけられた声で終わった。振り返って見上げると、素朴な格好に中折れ帽を被ったオスカーが、前と同じ整った綺麗な顔で二人を見下ろしていた。

「オスカー様。……お待ちしておりました」

 トレイシーは切り替えて立ち上がってしまって、リアンはもやもやとしたままオスカーと相対することになった。「元気ない?」と、オスカーは空いた隣に座りながら気さくに問うてくる。彼にはもっと相談するわけにはいかないことなので、「ううん、何でもないよ」とリアンは努めて気丈に振る舞った。彼は暗い色だが透き通った瞳でじっとリアンを見つめて、納得いかなさそうにしばらく沈黙を守った。

「……。本当にいいの、ごめんなさい」

 リアンは耐え切れなくて目を逸らす。

「前みたいに、明るい服着て笑ってる方が可愛いよ」

「ごめんなさい。今日はこんな服で」

「いや、お忍びって説明し忘れてたからありがたいけど」

 オスカーにまでこの暗い気分が伝播するのは嫌で、リアンは「そうだ、早く絵が見たいな。ずっと楽しみにしてた」とオスカーにねだった。オスカーは少し躊躇った様子だったが、愛しのクラリッサのことを思い出したのか、段々すっきりしない空気は払拭されていく。

「いいよ。——これはあの時から描きたくて堪らなくなって、数日で描いたんだ。父上の前では別の絵を描いてたから、あんまり時間は取れなかったんだけど。俺とクラリッサが出会ったのは六年くらい前でね、王城ですれ違って……俺の一目惚れ」

 オスカーは恥ずかしそうに、しかし溢れ出そうなほどの喜びを込めて語った。

「それから会うたびに声をかけて、やっとクラリッサの方から声をかけてくれるようになったんだ。王城の建築は彼女の美しさに相応しかった——」

 語りながら、オスカーは絵を広げた。——柱の間から陽光が麗かに差し込み、窓が色鮮やかに光り輝く。瑞々しい緑の草本たちはこの景色を見る二人の出会いを祝福するように舞い踊り、光が透かした花の色が無機質なはずの人工物をあたたかに染めた。その柔らかな眩しさは見る者の心を融かし、オスカーの感じた甘い衝撃に共振させる。中央奥に立つクラリッサは踊って風を呼んでいるみたいで、重力を感じさせない。リアンは自分でも知らぬ間に微笑みを浮かべて、うっとりとその世界に浸った。リアン・ハーツホーンは王城にお呼ばれしたことなどないが、きっと今、自分は自分で本物を見るよりも素晴らしいものを共有してもらっているに違いないと思った。

「……やっぱりあなたの絵が好き。見て、嬉しくなる」

「ありがとう」

「私もあれから勉強して、できるだけ色んな絵を見たよ。、やっぱり魅力的なのはオスカー様の絵だった。もっと理解したくて、自分でもあなたみたいに描いてみたんだけど——」

 打ち明けると、オスカーは少しぽかん、として、「ああ」と微妙な相槌を打った。リアンは緊張でバクバクと鳴る心臓に揺すられながらも、隠していた紙をそっとオスカーに差し出す。そこになんとか描いたのは、使用人マルヴィナの姿。彼女は、いつもを閉ざしている、細かい気配りのできる掃除上手。彼女の姿は少し怖いけれど、リアンは彼女に感謝している。面と向かって言えたことはないから、オスカーのように感じたことをそのまま表現したいと思った。オスカーはそれを手に取りつつ、「俺の真似?」とぼそっと呟く。さすがにオスカーと同じことはできない。あなたが何を考えてるのか知りたくて、とリアンは言おうとして——

「何、これ」

「え……?」

 びり。絵を一瞥してすぐに紙を破かれて、リアンはどきりと覚えのある冷たく激しい動悸を感じた。目を見開いて見れば、オスカーは嫌悪感を剥き出しにして眉を顰めている。

「ねえ、何これ。……何の意図があるわけ? 俺の表現に重ねてこんな醜悪なものを描いて、何がしたかったの? 他のナンセンスな奴らを褒めた上に。最悪だ!」

「あ、……」

「俺にあんなことを言っておいて、よくもこんなものを描けたね。——君、もう絵は描くなよ。芸術の面汚しだ」

 冷たく尖った声で吐き捨てたオスカーの縮小した瞳孔は縦に割れてリアンを睨んで、その犬歯は徐々に凶猛な牙となり、あの素顔の穏やかさなど欠片もない形相がリアンを威嚇する。彼の皮膚は出会った時よりも更にどろどろに爛れて、引き裂かれた絵をぱっと離した手は大火傷をしたみたいになっていた。その全てが、リアンの心に刃となって突き刺さる。

「……君は分かってくれてると思ったのに。君はジャーヴィス芸術家系の人間じゃないんだから——!」

 リアンの体はすっかり竦んでしまって、気圧されるままに「はい」と気の抜けた返事をした。徐々に周りから暗くなり狭くなった視界を、ばっと誰かの背中が占領する。トレイシーだ。だけれどもリアンにはもう何も聞こえなくて、落ち着いて欲しくて「分かりました」と言う。前髪が流れて、世界が閉ざされていく。「もうしません。ごめんなさい。私が悪かったです。ごめんなさい、わたしは、ゆるされないことをしました……」うわ言を繰り返しながら、リアンはベンチからずり落ちてへたりと額が地面につくほど頭を下げた。

「お嬢様‼︎」

 大好きな、滅多に聞くことができない明瞭な声で呼ばれて、リアンは少しだけ視界に光が戻ってくるのを感じた。トレイシーが叫んだのだ。

「落ち着いて下さい、大丈夫です、お嬢様が傷つく必要はありません! ——オスカー様、……‼︎」

 トレイシーに両手でそっと肩を支えられ、顔を上げさせられる。まだ頭を上げてはいけないだろう、と抗議する前に、一歩引いて失望に顔を顰めたオスカーの軽蔑に串刺される。

「最初の印象通り、気味の悪い奴。君になんか見せなきゃよかった——二度と顔を見せないでくれ」

「——……」

 心にぱき、と罅が一つ入って、細かな破片が風に浚われる。顔を歪め、舌打ちを残して踵を返した美しかった少年の罵声に、リアンは死んだ脳で応えた。

「……はい」

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