Ep.2 Image

 新しい匂いがする革靴は、上品に足元を引き締めてくれる。だが今日リアンが着ているのは、ヴェラが望んだ華やかな紅のドレスだった。鮮やかな色彩は若々しく可憐であり、露出した痩せ気味の白い肩や腕は大人に背伸びする可愛らしさを醸し出す。靴も、新しくヴェラが買ってくれたものだ。オスカーの気を引けるように、隣に並んで惨めでないように。

 オスカーがリアンを公式に招いたわけではないが、リアンが彼に会う機会はリアンが思っていたよりもすぐに訪れた。社交パーティだ——普段ならいち商家がジャーヴィスと深く話すことなど絶対にないのだけれど、今回はあの約束がある、またとないチャンス。このためにスタンレーが無理をしてくれたと言うのだから、必ず成果を得なければならない。ヴェラはずっと機嫌が良くて、彼女を悩ませていた痣も綺麗になった。リアンは少しだけ、何かが変わる予感がしている。トレイシーが「お綺麗です」と、心なしかいつもより更に柔らかな声音で言った。

「変じゃない……?」

「とてもよくお似合いですよ。髪の黒が映えますね」

 トレイシーはリアンの髪を一束すくって、それを指に滑らせる。ずっとリアンの髪を手入れしてきた彼の手つきは、その流れを全く阻害しない。

「——そうです、お嬢様。今日こそは、姿見を出してもよろしいでしょうか?」

 いい思いつきをした、とばかりにトレイシーはそう言って手を打ったが、リアンはひゅっと息を呑み「な、何で」と食い気味に怒鳴った。せっかく気分がいいのに、余計なことはしなくていい。トレイシーが良いと言うならそれだけでいいのだ。

「……姿見が苦手というのは、もちろん知っていますよ。ですが、以前その理由を教えてくださった時、あなたはご自分の写る姿が嫌いだと仰いました」

 部屋の隅で布と埃を被った姿見を、トレイシーは嬉々として寄せてくる。リアンはそれを掴みかかって止めようとして、細腕では年上の男性のトレイシーをどうにかすることはできなかったが、トレイシーはそれを無視してまで強行するような人でもなかった。

「……私は自信を持っていただきたいのです……、お嬢様は元々美しかったですが、その魅力は増すばかりです。今日の装いであれば、きっと間違いないですよ!」

「い……、嫌だってば! トレイシーは何もわかってない‼︎」

 珍しく声を大にして、リアンはトレイシーを突き飛ばした。まさかそこまで拒絶されるとは思わなかったか、トレイシーが少し後方に踏鞴を踏む。

「お、お嬢様……? すみません、無理にとは言いませんから。ただ、私は……」

「っ……‼︎」

 気が動転して、判断が鈍っていた。——トレイシーの踵が鏡にかかっていた布を踏んで引っ張り、はらりと鏡面を滑る。背後だから、トレイシーはそれに気付いていない。リアンは「早く戻して‼︎」と狂乱しながら、瞑った目を更に腕で覆おうとして硬直した。その前の一瞬に鏡面が目に入って聞こえてきたのは、トレイシーの返事ではない。

「……目を逸らさないでよ。寂しいな」

「、‼︎」

 声……リアンの正気を狂わせる声。突然金縛りにあったようになって、腕と瞼がこじ開けられる。鏡に写るのはリアンではなく、少女によく似た少年だった。今日のリアンと対にも見える暗赤色の衣装に身を包んで、亡霊の空気を纏っている。

 何を見ているのか分からない黒々とした瞳でリアンを突き刺すように見て、彼は殺意でリアンの体を絡め取った。

「ぅ、っ……! ……‼︎」

「あはっ、どうして怖がるの? のは——の方じゃないか」

「あ、ああっ……! ……ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「お嬢様ね……十二年も生きてさあ、そんな服着て、恥ずかしいとか思わないわけ? いい加減にしなよ。姉様に似合いなのは精々死装束さ」

「ごめんなさ、あっ」

 突然奪われていた視界が暗くなって、リアンは言葉を止めた。どうやら、トレイシーに抱き締められているらしい……。彼はそうしたまま後ろ手に布を掛け直して、いっそう強く腕に力を込める。リアンはその温かい腕の中で徐々に落ち着いて、強張っていた体を弛緩させていく。トレイシーは深い後悔を込めて言った。

「すみません、軽率でした。……姿見は部屋から撤去しましょう」

「……トレイシーは悪くないよ。ごめんなさい……」

「お嬢様、……。……私は、あなたのことが心配です。答えたくなければ、今はそれでよろしいですが——あなたは鏡に……一体、んですか?」

 トレイシーの声が僅かに震えている。膜を隔てたように聞こえていなかったら、きっともっと。「……が……」と、リアンは掠れた小声で伝えた。トレイシーはその言葉を聞いて息を呑む。

 ——ヴェラ・ハーツホーンの産んだ第一子は、数日しか生きられない命だったという。両親は初めての子を愛し、哀れみ、僅か三日間で訪れた別れに深く悲しんだ。

 だが、……その日、その命と入れ替わるように、ヴェラはまた一つの命を産んだ。

 母が身籠ったのは双子だった。『兄様』は、選ばれなかったのだ。

 トレイシーはしばらく沈黙して、「……話してくださって、ありがとうございます」と優しく声を吐息に溶かした。

「それで……その、彼は何と?」

「……もういいでしょ。もう、……早く行かないと……」

「ですが」

「いいから。早くしないとお母様に叱られるよ」

 そう言うと、トレイシーはようやく観念して腕を解いて、几帳面にリアンのコサージュの向きを正してから離れる。……トレイシーが良いと言ってくれるなら、リアンはそれだけで胸を張れる。それなのに兄に「そんな服」と言われて、リアンの心はずっしりと重たくなっていた。自分でも、こんな露出の多い服を着るのは恥ずかしいと思っているのに……。こんな時に、トレイシーの表情が見えたらいいのに、と思う。

 廊下に出て玄関の方へ向かいながら、暗い顔のリアンにトレイシーは申し訳なさそうに声をかけた。

「……大丈夫ですよ、お嬢様はいつでも魅力的です、自信を持ってください。——ところで、オスカー様は好感の持てる方ですか?」

「……うん。すごい人だよ」

「そうですか、安心しました。……応援しています」

「ありがとう」

 玄関では、スタンレーとヴェラが待ちくたびれた様子で居る。兄のことは怖かったけれど、リアンの足取りはいつもより少しだけ軽かった。貴族の邸宅にしては少し薄暗いように感じる玄関で、鹿の剥製が真っ直ぐ外を見つめている。スタンレーはリアンの姿を認めると背を向け、ヴェラもまた何も言わず、リアンを四つの目で一瞥してから先に馬車に乗り込んだ。

 馬車を使う日は好きだ、使用人で唯一男性であるトレイシーが御者をするために来てくれる確率が高いから。


      ■


 パーティの会場は、オスカーと出会ったあの場所よりも更に煌びやかで、勢いをなくした商家のハーツホーン家が踏み入るにはあまりに場違いのように思えた。

 こういう場では、いつもは並べられたグラスや食器に写る像を見ないように顔を伏せている。そんなだから暗いとか、気味の悪いイメージを持たれるのかもしれない。けれど今日はオスカーを探すため、リアンは視線をきょろきょろさせていた。

 スタンレーとヴェラは何人かと軽く話した後、昔馴染みらしい人物と端で落ち着いた。それよりも遥かに上品な言葉を話す人物が側を通る度、リアンはこの間の約束が本当のことだったのか不安になってきた。オスカー・ジャーヴィスが、リアン・ハーツホーンに、あんな風に気さくに話しかけてくれていたなんて……。

「……リアン、いたわ、オスカー様よ。ほら、声をかけてらっしゃい?」

「あ……。は、はい」

 ヴェラに言われて、慌てて落ちかけていた視線を再び上げる。この前とは違う燕尾服の彼は、別世界の人のように輝いて見えた。明るい茶色に透ける髪は若さを引き立てるが、立ち姿は立派で落ち着いている。

「オスカー!」

 気後れするほどだが、それでもヴェラに言われたのだから、話しかけないと……とそう思った直後彼の名を呼んだのは、リアンよりも随分高く可愛らしくて小慣れた声だった。視界の端で輝くモカブラウンのふわふわの髪が揺れて、クラリッサがリアンを追い抜かしていく。チッと鳴ったヴェラの舌打ちは、陽気な誰かの笑い声に掻き消された。

 ああ、声をかけ損ねたのに、バクバクと心臓が鳴ったままだ。そのままぼうっとオスカーを見ていると、クラリッサに向いていた視線が一瞬、リアンとばちっと合う。痛そうな引っ掻き傷のなくなったオスカーはクラリッサにか、それともリアンにか、一つ瞬きをした後少しだけ目尻を緩めたように見えた——それだけで、期待に胸が高鳴ってしまう。絵を見せる約束を覚えていてくれているだろうか? もっと、リアンに心のありのままを話してくれるだろうか。

「…………」

 さりげない移動をしつつ、リアンはじっとオスカーを見続けていた。すると再び彼と目が合って——今度は確実に——その口がぱくぱくと動く。

 ま・た・あ・と・で。

「!」

 覚えていてくれたのか。嬉しくて、今すぐ駆け寄りたい衝動をぐっと堪えた。これは二人だけのサイン、オスカーがそうした意味を考えなければ……いいや、ハーツホーン家のことを考えれば、彼が関係を隠そうとしているのは悪い傾向で、ここで仲が良いと周りに知らしめた方がいいのでは? と、そんなことも思ったが結局、リアンは関係性が長く続きそうな方をとって、スタンレーとヴェラの間に入った。オスカーはすっかり背しか見えなくなって、クラリッサと談笑している。

 あの日の出会いと約束は本当だった。喜びが込み上げてきて、リアンは天井から会場を彩るシャンデリアに気付いた。こんな気持ちは初めてで、いつもは早く帰りたいパーティがぱあっと明るく見えた。

 そうこうしているうちに、外では陽が傾き、空間にはピアノの旋律が響き始める。何やら高名なピアニストらしくて、話し声は密やかなものになっていった。時間の流れが緩やかになって、卓布に落ちる影が周囲と溶ける。その時、後ろから何かがカサリと手に触れた。驚いて握って見ると、手の中には折り畳んだ紙が握らされている。

「……あ、」

 そこに『North、扉を出て奥に』と走り書きで綺麗な字が書いてあるのが見えて、リアンは息を呑んだ。「あの」とヴェラに声をかけて、機嫌の悪い八つ目に睨まれつつ、負けじと紙を大事に握って言う。

「オスカー様に会ってきます、お母様。約束の……」

 どくどくと心臓が跳ねている。ヴェラは二人がなぜ仲良くなれたのかいまいち納得しておらず、やはり怪訝そうにしたが、リアンの確信を得た表情を見て「そう。行きなさい、しくじらないで頂戴ね?」と許可を下ろした。瞬間、リアンは走り出しそうになるのを堪えてゆっくりと、しかし角度の鋭い日差しを左手にして、真っ直ぐに指定された扉の方へ歩いた。今は、周りの視線だって気にならない。

 外に出ると、少し肌寒い風が吹いていた。間違っても服を汚さないように気をつけつつ、慎重に歩を進める。パーティでは庭も開放されていて、どこも人目につかないとは限らない。一体オスカーはどこにいるのかと迷っていると、「——堂々としすぎ」と、不意に呆れた声がかけられて立ち止まった。

「何でわざわざ外に呼んだか分からなかった? 他の女の子と話してると、クラリッサがうるさいんだよ……。でも、君とはまた話したかったから」

「ご、ごめんなさい、どこにいらっしゃるか分からなくて。……それと、ありがとう……、私もずっと楽しみにしてました。絵は……」

「持ってきてるよ。こっちに来て、ここなら二階からも見えないんだ」

 そう言ってオスカーが手招きしたのは、バルコニーの真下の部分だった。植木の向こうのそこは何だか秘密基地みたいでどきどきする。しかし、絵は一体どこにあるのだろう? 不思議に思って待っていると、オスカーはごそごそと懐を弄った。

「えーと。あった、これだよ。……ちょっと恥ずかしいけど……」

「?」

 彼が取り出したのは一見ただの紙で、しかも少しボロボロだった。怪訝に思いつつも渡されたのでそうっと広げてみると、そこには、極めて一般的と見えるペンの一色のインクが激情をそのまま落としたような鋭い筆致で走っており、リアンはそこに嫋やかな少女を見た。少女の髪はふわふわと風と遊ぶようで、整った睫毛に飾られた瞳は純朴、小さい鼻はなめらかで、薄く開いた唇からは今にも甘やかな声が聞こえてきそう……。しかし、彼はそのどれも直接的に描いたわけではなかった。

 それは、リアンが見たことのあるどの人物画とも違った。無数の線の中に見出される少女。筆舌に尽くし難い、その少女の体に秘めたきらめきのみを、彼はただの一色で浮かび上がらせ、可視化したのだ。

「これは……」

「クラリッサを描いたんだ。……こんなの人に見せられないから、カンバスには描けないけどさ……」

 クラリッサ。オスカーは愛おしそうに名前を呼んで、恥じらいに頬を染めた。

「あなたには、彼女がこう見えるの?」

「こう見える……っていうか。んだ」

「……綺麗」

「まあ、クラリッサは世界でいちばん可愛いからね」

「えっと、そうじゃなくて……あ、あなたの絵が。——あなたの心が、絵を通して見えるみたい」

「え」

 リアンはその眩しい白から目が逸らせなかった。クラリッサよりも彼に気に入られないと、なんていう思考をするのは忘れていた。

「……そんなことを言ってくれたのは、君が初めてだよ」

「私、この絵が好き。見せてくれてありがとう」

「————」

 オスカーは目を見開いて、すると、徐々にその顔に染み付いた爛れが溶け出し、治っていく。繊細な肌や細筆でも描ききれないような毛の一本一本、これから青年になっていく少年の骨格、あどけなさの残る顔——は絵に切り取られた少女よりももっと美しいように感じて、リアンは驚いた。

 少年は少しだけ、何かを堪えるように眉根を寄せてから、ふわっと笑みを溢れさせ、リアンはその喜びを一身に浴びた。

「嬉しい。——君のおかげで、新しく何か描けそうだ。好きなようにばっかり描いてたら、また怒られるかもしれないけど……本当はやめたくなんてなくてさ」

「そうなの? よかった……あっ、ごめんなさい、敬語……」

「いいよ、それで。——君が思ったままを言ってくれたから、俺はこんなに嬉しいんだ。そうだよね、リアン?」

 そう言ったオスカーに、リアンは自分の立場なんて忘れて「うん」と力強く頷いた。けれどもそれが間違っているとは思わない。リアンは今オスカーという画家への憧れを、体現して彼自身へ伝えんとしているのだ。

「今日はありがとう——そろそろ戻らないと。でも、今度は手紙を出すよ」

「手紙……! 本当?」

「もちろん。じゃあ、また次。楽しみにしてる」

「私も」

 リアンはクラリッサの絵を返しつつ、オスカーとまっすぐ交わる視線に陶酔した。この時、リアンは虹彩に写る像ではなくて、目の前にいる少年を見ていた。

 本当はずっと彼と話していたかったけれど、遅くなれば何と言われるか分からない。「先に帰りなよ。君のところの両親、厳しそうだったし」と言われたので、リアンは名残惜しかったが、オスカーと緩く手を振り合ってバルコニーの下を離れた。一度振り返ると、オスカーは満足げに表情を綻ばせて手元の絵を眺めている。その姿が微笑ましくて、リアンはますます嬉しくなって——入る隙のない二人の関係にはっと青褪めた。

 スタンレーとヴェラが欲しているのは、ジャーヴィスという貴族の名前なのだ。そのためにはきっと、彼の絵にしてしまうほどのクラリッサへの想いを否定するべきだった。……しかし、もう、リアンはこの憧れを殺してそんなことなどできやしないだろう。幸いスタンレーとヴェラはオスカーの心の内までは知らない。リアンはぐっと拳を握って、固唾を飲んだ。

 知りたいことがあって、この胸がドキドキしている。この時、それに勝る感情はなかった。

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