Ep.1 Jarvis

 二の腕の痣が消えなかったのなら、袖のあるドレスを着なければならない。母ヴェラは苛立ちが収まらないのか、馬車の揺れに負けじと膝を揺らしていた。横に細長い四対の、がぎょろりと代わる代わるに睨めつけてくる度、袖口の白いレースのほんの僅かな黄ばみがとんでもなく汚らしく見え、そして身を縮こまらせて俯く度、ヴェラの好きな鮮やかな色とはかけ離れた紺色が目に入った。少し暑くなってきた日和には不釣り合いなそのドレスは白い肌を覆い隠し、禁欲的かあるいは人形のような印象を与えている。

 リアンは静かに浅い呼吸をしながら、視線を逸らしているのがヴェラにばれないくらいまで俯いた。するとハーツホーン家自慢のつややかな漆黒の髪が華奢な肩を滑って、露出された輪郭や首筋を秘めるように囲う。視覚を閉ざして焦点の定まらない瞳もまた黒く、十二の少女には似つかわしくない危うい神秘性さえあった。

 ヴェラは徐々にリアンを凝視する目を増やしていき、「うう……」と呻き声を漏らす。リアンの肩が少し跳ねて、それが契機だった。ヴェラはリアンにすっと手を伸ばし——そして、パシっ、とその腕をはたく。まだ治っていない鬱血痕が衝撃を敏感に察知し、僅かでもぞっとする鈍痛を首の後ろの辺りまで伝える。

「あぁっ、苛々する。あんな醜い痣ひとつのために、あのドレスを無駄にするなんて……なんてことなの!」

 リアンはヴェラを見た。ヴェラは肩で息をしていて、八つの瞳孔はまた忙しなくあちこちを見、充血した白目が見え隠れする。

「……ごめんなさい、お母様」

「——それもこれも、あなたがお父様の言うことを聞かないから悪いのよ、リアン! この出来損ない……!」

「っ」

 腕に食い込みそうな長く鋭い獣のような爪が今度は振り上げられて、リアンは反射的にぎゅっと目を瞑って息を詰めた。しかし、ヴェラは「ううううっ……‼︎」と威嚇するような声を上げ座面に爪を立てるだけだった。恐る恐る目を開けると、ヴェラの瞳はばらばらに瞬きを繰り返している。そのうち、全ての視線がリアンから外れると、ヴェラは肩を窄めて啜り泣き始めた。彼女は祈るように震える手を伸ばして、探り当てたリアンの手首を掴んだが、今度のそれは壊れ物を扱うようなものだった。

「リアン……おまえしかいないの……分かっているでしょう。あのドレスがなくても、おまえがすることは変わらない。分かっているのでしょうね、リアン、私たちの一人娘!」

「はい、お母様」

「美しくなるの……そして、おまえの使命を果たすのよ。お願いよリアン……」

「分かっています」

 はい。分かっています。その返事を繰り返しているうちに、馬車はカラカラと減速して止まる。降りなければ。

「……お母様、そんなに緊張しないで」

 リアンは、母に落ち着いて欲しくて言った。すると、ヴェラは一斉に八つの視線をリアンに釘付けにした後、急激に顔を染み付いた皺の通りに歪めてリアンを見下す。

「何よ、……私は緊張なんてしていないわ? するべきはおまえの方よ」

「わ、私は、ちゃんとできます」

「なんですって? 私があなたより劣るって言いたいの? ああっ……、私が誰のために心配しているか分かっているのかしら! なんて生意気な子っ。あんまり外でまで私の神経を逆撫でないで頂戴?」

 ヴェラが薄っぺらく広がった口をぱっくりと開けてリアンを叱るのを、今まで沈黙していた父、スタンレーが睨んで制止する。スタンレーの目は、、おおきな虹彩は真っ黒に塗りつぶされているようだった。鼻筋は崩れてなだらかになっており、雪崩れたようなそれらに追いやられて口は見当たらない。おかげでリアンには、父の表情の機微がよく分からず、いつも怒っているように見えて恐ろしかった。

 スタンレーは次にリアンに視線を移して、リアンの脳を内側から鷲掴むように囁いた。

「——お前は、私たちの装飾品であり、作品だ……。常に美しく振る舞い、私たちの邪魔をするな。その卑しい素顔は隠し通せ」

「はい、お父様」

 リアンは返事をして、すると、リアンの表情は微笑へと変化した。背筋を正し裾を持ち上げ、年相応のあどけなさも残した動作で立ち上がる。背景に組み込まれ、教えられた通りに体が動く。

 すると、馬車の外から一番大好きな手が差し伸べられた。トレイシー——ハーツホーン家に使える三人の使用人の一人。の顔の青年。リアンはその手を取って、ふわりと外へ降りた。トレイシーは優しく、リアンを包み込むようにエスコートをし、そっと「お美しいです、お嬢様」とで耳打ちする。トレイシーの声はいつもはっきりと聞こえないが、彼が今心を痛めていることは分かった。リアンは笑みを深めて、「そういう問題じゃないでしょ……」と返した。

 今日リアンに期待されているのは、この会場の中で、貴族の子息に見初められることだった。スタンレーとヴェラの仕事の話は難しくてよく分からないが、リアンは、その使命を言い聞かされてここに来た。自分の役目は分かっている。

「いいなリアン、お前にできる数少ない仕事だ。粗相をしたら……分かっているな」

「はい」

「行きましょ」

 スタンレーとヴェラはそう言って歩き出す。リアンはそれに続こうとしたが、トレイシーが少し引き留めてまた耳打ちをする。

「……お嬢様、奥様はああ仰いますが、無理に迫る必要はないですよ。特に、旦那様が望んでいるのは主催者のジャーヴィス家の嫡男でしょうが、彼は非常に気難しい方と聞きます……。私は、お嬢様には不必要に傷付かず、心から惹かれるお相手と幸せになって頂きたいと思っています」

「心から、……。——トレイシーは好きだよ」

「私も、お嬢様が好きですよ。ですから申し上げています」

「……口先ばっかり——」

 リアンの口を衝いた悪態に、トレイシーはハッとした気配があった。表情は見えないけれど、何か言い訳をしようとしている。そうリアンが察したように、トレイシーもまたリアンが言い訳を必要としていないことを悟ったのだろう。彼は「……すみません」といつもより掠れた声で言って、それきり黙った。形容し難い、苦々しい空気が流れる。リアンはこれに慣れているつもりだったが、トレイシーといる時は耐えられない。

「馬車を預けて来ます。お嬢様、はぐれないようにしてくださいね。私もすぐに行きます」

「うん。待ってる、……」

 トレイシーはそっとリアンの背を撫でて、リアンはその温度に背中を押されて二人を追った。会場となる建物の建築はとても立派で、リアンはその雰囲気を形容する言葉を知らなかった。本当に踏み入っていいのか迷う荘厳な門の前で、スタンレーは半透明で背景に溶けた男に何かを差し出す。落ち着かないリアンは、その手続きが何かすら理解していたとは言い難い。

 中に通されると、まずこれまで見たどれよりも整った鮮やかな庭園があり、スタンレーとヴェラはその真ん中をすたすたと歩いた。空はまさにスカイブルーの色で、春という季節を爽やかにしている。ここでは影すらも華やかな、明るさを強調する一要素でしかなかった。

 床には綺麗なタイルが敷き詰められていて、自分がそこを踏んで美しさを損なわないだろうかと心配になったが、はぐれないように二人の後ろをついて行った。スタンレーとヴェラがどこに先に行くかを相談している間、リアンはめいいっぱい見上げるほど大きな、宗教的な人物の彫像の凛々しい顔立ちに目を奪われていた。上品で柔らかそうな唇、曲線を描く鼻、透き通った瞳。

「リアン」

 スタンレーが呼んでいる。真っ黒な二つの虹彩がじっとこちらを見つめている。その闇に写った像と目が合った気がして、リアンはさっと目を伏せてスタンレーのもとへ早足で駆け寄った。

 周囲の人々に目を向けると、馬車にいるときはすごく着飾っていると思っていた自分や両親の格好が、ここでは最低限のものなのだということを知った。派手なジャケットを着た肥った男が、その毛むくじゃらな熊の大きな顔を険しくし、丸々とした手で作品や商品を指差し何ごとかを連れにつらつらと述べながら通り過ぎた。

「ジャーヴィス家の嫡男のオスカー様は、若くして絵画の才能に恵まれているのよ」

 ヴェラが話し始めて、リアンの意識は再びそちらに割かれた。

「絵画は向こうのフロアに展示されているみたいね。オスカー様の絵は、今回の目玉の一つだそうだわ。美しい、湖の風景画だそうよ」

 ジャーヴィス家の嫡男オスカー。トレイシーも言っていた、リアンからすれば雲の上の人だ。リアンは気が重くなりながら、穏やかな人の流れに従うスタンレーとヴェラの機嫌を損ねないよう、視線を上げて、一歩一歩丁寧に歩いた。

 その辺りから、混雑の程度が酷くなってきた。「このホールだわ」と頭上でヴェラが言う。

 リアンの視界では何も見えず、その時——リアンの目は、ある一枚の絵に奪われた。ホールの中ではなく、廊下の端になおざりに置かれた、アメジストのように色濃い空の中に、クリーム色の光が——一番星が瞬く絵。

 その心の動きがほんのきっかけになって、リアンは人混みに流されてしまった。よろけて、こけないように廊下の横に出てなんとか体勢を立て直し、我に返ったリアンが顔を上げた時、スタンレーとヴェラの姿は見えず——どっと、体じゅうから汗が噴き出すような心地がした。萎びた花の頭をした男の夥しい筒状花が、殻を被った女の不気味な顎脚が蠢き、その無数の視線の全てがこの身に突き刺さるような……そんな、悍ましい感覚が……。

「っ……う……、ゃ、」

 リアンは目を回して、あまりの恐怖に耐えかね考えるよりも先に走り出した。デザインされた壁は統一された風景を作り出しており、それが今はかえって閉塞感を強めて恐ろしかった。息が上がる。

 おおよそ客人が来るべきではなさそうなエリアに入り込み、別の空間に出られそうな扉を見つけて、リアンは迷わずそれを押した。知らない場所に行くより、人に囲まれる方が怖かった。

 一人で吸う空気は美味しくて、リアンはようやく一息をつく。そこは裏庭のようで、見た限り他の人の気配はなかった。落ち着けば、それはそれでスタンレーとヴェラのことを考えてサーっと血の気が引いたが、膝が震えてまだとても戻れそうにない。

 もう少しだけ、と胸中で言い訳をして、リアンは裏庭を見てみることにした。選ばれた植物しか、ここには存在しないのだろう。作られた自然は奇妙ではあったが、それは美しさを損ねるわけではない。

 何周かの円を描く花壇を一つずつ内側に抜けると、そこでようやくリアンは、中心のベンチに少年が座っていることに気が付いて驚いた。少年は、ベンチの座面に踵を上げて、拗ねたように丸まっていた。

「……笑いにきたのか」

 彼は、今にも泣き出しそうなのを我慢したような声で言った。リアンに心当たりは全くなかった。

「俺は最初から、もうやめるって言ってたじゃないか! 描けって言ったのはクラリッサ、君だろ……!」

 クラリッサ——子爵令嬢クラリッサ・ブッシュネル? それに、という言葉。「——……?」と、リアンは息を呑んで呟いた。

 茶がかかった髪を綺麗に整えられた彼は、「えっ」と勢いよく振り返る。泣き腫らした顔は、いくつも深い引っ掻き傷のようなものがあってグロテスクだったが、——オスカー・ジャーヴィス。まさかこんなタイミングで、二人きりで会うとは思わなかった。

「お前、誰……?」

「……し、失礼しました。リアン・ハーツホーンと申します」

「……そう」

 ぎこちなくカーテシーをしたリアンに、オスカーは興味なさげに適当な返事をした。それから気まずそうに「君も、俺の作品を見たのか……?」と訊くので、リアンは反射的に頷く。本当は全く見ていないけれど、ここで否定したらせっかくの会話を続けられなくなってしまう気がした。

「もうやめる、というのは……」

「見たなら分かったろ。俺が描きたいのは、あんな絵じゃない……。こんな気持ちで続けてても意味なんてない、だからもう絵なんてやめる。やめてやる」

「描きたい、絵」

「現実を写し取っただけの絵なんて誰にでも描ける! あんなのただ綺麗なだけだ、俺の絵じゃないっ、なのにみんななんて言ったと思う? 『お上手になられましたね』だって……クラリッサも!」

 悲痛にクラリッサの名を呼んだ途端、オスカーの顔が歪んで、瞳孔が収縮し、顕になった牙が暴力的に尖る。どきりとして少し後ずさったが、彼の感情の矛先はリアンではなかった。クラリッサ・ブッシュネル……オスカー・ジャーヴィスに最も近い少女。

「クラリッサが褒めてくれたらいいなって、ずっと思ってたさ。だけど、あいつは何も分かってない。結局みんな、自分が理解できるものと、規格に嵌まったものしか褒めようとしないんだ。理解しようとする努力もせずに、敷衍するのは描き手の仕事だって思ってる! そう言ったら、あいつは何て言ったと思う、『無理して描かなくてもいい』だってさ……!」

 オスカーは憤りに顔を赤く染めて、八つ当たりのようにリアンを睨み上げた。お前もどうせ同じことを言いに来たんだろう、とばかりに。

「……ねえ、誰の絵が印象的だった? 言ってみてよ」

 リアンはたじろいだ——リアンは、オスカー・ジャーヴィスに気に入られなければならない。だからこの場は彼が自分で納得していないとしても「あなたの絵が好き」だと持ち上げるべきなのだろう。しかし、あの一番星が頭にちらついて離れない。

「——、……」

「正直に言って」

 爛れた唇で言われて、リアンは遂に逆らえなかった。

「……だ、誰の作品かは分からないんですけど。あの、廊下の隅にあった、……アメジストの空の……」

「——『アリリスの夕景』? ニック・ゴールドバーグの?」

 だが、ばっと顔を上げた彼の反応は、彼以外の絵を選んだことへの嫌味を言われるものと思っていたリアンの予想とは全く違っているように見えた。彼は幾分か爛れの引いた顔で、まるで期待するようにリアンを見ていた。そしてリアンの当惑などお構いなしに捲し立てる。

「——俺も! 俺も、あの人の絵、好きだ。うわあっ……、初めて分かってる子と話せる……!」

「え、え……?」

 立ち上がって手を取られて、リアンはその手と彼の顔とに交互に視線を向けた。

「芸術っていうのはああいうことだよ。自分の感情を表現してこそだ。絵の上手さは技術、作品じゃない。大体あいつらのために描いてるんじゃないし。勝手に注文つけて、評価して、本当嫌になるよ」

 オスカーは満足げに語って、リアンはその爛れ越しでも分かる笑顔に驚いた。彼は本当に絵を描くのが好きなんだ、と分かる。——『綺麗』な湖の絵、とヴェラは言っていた。でも、彼が描きたかった絵は、もっと別にあって。

 しばらく考え込んだ後、リアンは恐る恐る、しかし迷いはなく口を開いた。

「……表現……」

「うん?」

「表現って、どういうもの? もっと知りたい。私……、あなたの描く絵を、もっと見てみたい」

「……、!」

 オスカーは目を丸くして、ぽかんと手を握ったままのリアンを見つめた。……きっと容姿も性格も、クラリッサに敵うところは何一つない。それでも今、少年の瞳孔に写っているのは熱に浮かされたリアン・ハーツホーンという少女一人だけだった。視線が合って目を逸らしてしまったが、確かな手応えがあった——もしかすると、スタンレーとヴェラも喜んでくれるかもしれない。それを思うと、リアンの顔にも自然と笑みが浮かんだ。

「——お嬢様‼︎」

「あ、」

 不意に知ったくぐもった声が聞こえて、リアンは夢から覚めるようにぴくりと反応をした。同時に、青年でも大人でもない少年の手の感触が離れていく。

「トレイシー……」

 トレイシーは馬車置き場から戻ってくる道中にリアンを見かけて直進してきたらしく、どこかを無理矢理通ってきたのかいくつか小さな葉っぱを服につけて、珍しく息を上げていた。近づいて、リアンが無事なことを確認するとようやく襟を正す。彼は同時に、リアンの服の歪んだリボンも直した。

「はぐれてしまったんですか? ご無事で良かったです。……この方は?」

 リアンは若干の答えにくさを感じながらも、「オスカー・ジャーヴィス様。ここに偶然いらして……」と説明した。トレイシーの表情は読めないが、驚いたに違いない。

「! これは失礼致しました。私はリアンお嬢様の付き人のトレイシー・コルディエと申します。ところで、御付きの方が見当たりませんが……」

「……逃げてきたんだ、いるわけないよ」

「逃げて、ですか。……しかし、お一人でいらっしゃるのを放っておくことはできかねます。よろしければ、お嬢様とご一緒に戻られませんか?」

「……。そう、させてもらおうかな」

 オスカーは決まり悪そうにしたが、トレイシーは寛容に「では、私の前をお二人で」とあっさり二人のエスコートに入った。オスカーがそわそわ、ちらちらとリアンを見るので、リアンは居心地悪いことこの上ない。トレイシーは困惑しているだろう、リアンにはまともに友人すらいないということを彼はよく知っている。どこかの子息といきなり親しくなるのは困難なことだと、誰よりも慎重に考えていた。あとでどう説明すればいいだろうか……。

 トレイシーはオスカーの許可を得て、リアンが出てきたのとは違う扉を開けた。すると遠目に最初の庭と彫刻の背面が見えて、リアンはようやくほっとすることができた。やっぱり、トレイシーは頼りになる。

「あっ」

 オスカーが思わずといった感じで声を上げたので視線を追うと、そこにいるのは、ふわふわのモカブラウンの髪の、噎せ返る香水みたいなひどい厚化粧の少女だった。彼女がオスカーに気付くと、肌色を塗り潰した化粧はさらに鬼のような憤怒の形相を作り出す。ぞっとしたリアンに、オスカーは「あのさ、」と小声で話しかけた。

「今度、見せるから……。俺の絵」

「……! ほ、本当? 嬉しい」

「もちろん。……あ……ありがとう、リアン。君が話を聞いてくれてよかった。また会おう」

 彼は足を踏み出しながら首だけ振り返ってそう言って、クラリッサの方へと駆けて行った。意気消沈していたのが嘘みたいに、何か刺々しい声を上げたクラリッサに反論している様子が見える。

 少し沈黙があった後、トレイシーが「私達も行きましょう」と手を引いてくれる。——なんだかすごい約束をしてしまったかもしれない……と、リアンは心臓をバクバクさせた。いつも以上にぎこちないリアンに、トレイシーが気遣って「よく頑張りましたね」とそっと頭を撫でてくれる。そう。リアンは使命を果たしたのだ。

 ヴェラとスタンレーは、あのホールの前にいた。はぐれたことで怒られることを恐れて固まってしまったリアンの代わりにトレイシーが説明してくれて、ヴェラは「まあ」と口元に手をやる。スタンレーの視線もいつものように心臓を突き刺してくることはなく、もしかしたら——と、リアンの胸は小さな期待に高鳴る。

「スタートラインに立ったか……」

 だが、スタンレーの言葉は呆れだった。リアンは一瞬歩き方が分からなくなって立ち竦んで、救いを求めるようにヴェラに視線を移した。ヴェラは頷いて、「一つの失敗も許されないわ」と釘を刺す。……途端に、ふわふわとしていた脳みそが重たく無機質になった。

「……はい、お父様、お母様」

「続きを見ましょう。リアン、オスカー・ジャーヴィスと話すにあたって必要な知識を取りこぼさないで頂戴ね」

「はい」

 ……そうだった。どんなドレスを着ていても、どんな振る舞いをしようとも結局、リアンのやることは変わらず決められているのだ。それをこなすことは当たり前で、褒められるようなことではない。

 ——表現という言葉に、リアンの人生は最も程遠いのかもしれない。そう思うと、空っぽだった胸に虚ろが満たされていった。ああ、次のことを考えないと……。

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