Lian / うつろいの少女

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Prol.

「隣、いいかな……ああいう暴力的なの、僕は苦手でさ」

 苦笑しながらそう声をかけてきたのは、艶やかな黒髪で色香のある青年だった。言葉に違わず非力そうな彼の表情に下心は感じられなかった——暖かい色の照明だったが、彼の肌の白いのがよく目についた。

「構いませんよ。丁度、マスターが向こうに行ってしまって、話し相手がいなくなったところでしたし」

 しかし、普段の私ならそうやって好意的な発言を付け加えはしなかっただろう。酔いが回っている。マスターと話題を絶え間なく転がしていた時は気にならなかった投げやりな心持ちが、再び私を内向的な迷宮に引き摺り込ろうとしていた。店の反対側から聞こえ続ける物騒な罵倒のサウンドもそれを助長している。

「そう。でも、僕はあんまり……世間のことには詳しくなくてね。雑談が下手だってよく言われる。ご期待に応えられるかな」

「いや、……私は討論がしたいわけじゃないですから、詳しい世間話は好みじゃないんです。そういうのは、仕事だけでお腹いっぱいで」

「ふうん、仕事で。キミは随分インテリみたいだ」

 不必要に情報を開示してしまった、と気付きはしたが、理性はふやけていた。口を滑らせるのが致命的な情報をこの頭の中に持っているのなら、今頃私はこんなところにはいない、とも思った。

「いえ、そんな、大したものでは。……現に今も、既に七年もを投じたことが果たして意味のあることだったのか、分からなくて、不安なんです。いや、きっと私が信じたかっただけで、意味なんてないんでしょう」

「七年? それはすごい」

「そうかもしれません。でも、努力が全て報われるわけではないですから、正しい努力をするべきだったんです……」

「何をやっていたんだい?」

「——リアン・ハーツホーン……」

 その名を口に出すと、彼の目つきが変わったような気がした。よくあることだ。

「私は記者で、初犯当時十三歳だった連続殺人鬼の足取りを追っています。信じる人が少なくなって、注目度は下がりましたが、彼女の犯行は未だに続いています。貴方はどこまでご存じですか?」

「……いいや。せっかくだから、一旦全てキミの口から説明してみてくれ給えよ。十年探究した考えなんて、なかなか聞けるものじゃあないでしょう」

「聴き上手ですね。……ええ、では、お言葉に甘えて」

 七年前、殺人事件の真実を暴こうと意気込んでいた若い自分が、心の中で失望した顔をしてこちらを見ている。

 ——その少女は、中産階級の商家の一人娘だった。

 彼女の他に屋敷に住んでいたのは父スタンレー、母ヴェラ、そして使用人が三人。当時のハーツホーン家の経済状況からすると、使用人を三人も雇っているのは違和感のある話だ。彼らはかなり薄給で働いていたようで、そこにも何かあるのかもしれなかったが、今や死人に口なし。ともかく、ハーツホーン家が歪な場所だったことは間違いない。親子が揃っているところを見たことがあるという人は、大抵「リアン嬢は大人しく従順で、スタンレー氏と夫人の言うことを神経質にこなす娘だった」と語る。その抑圧が、やがて彼女を凶行に走らせたのだろう。

 スタンレーとヴェラは、リアンをジャーヴィス公爵家の嫡男オスカーに嫁がせたかったと思われる。身分の差は大きいが、実際にリアンがオスカーと親密な文通を交わしていた証拠が残っており、若くして画家であるオスカーに話を合わせるためか、リアンの部屋には美術に関係する本が少なからずあった。

 だが、彼女はある日突然、そのオスカー・ジャーヴィス及び屋敷に住む五人を殺害し、行方を眩ませた。最初にオスカーを殺したことがきっかけになったのだろう。そしてそれ以降、全く関連性のない殺人事件をいくつも起こしている。彼女の殺し方に猟奇的と言えるほどの特徴はあまりなく、強いて言えばその場にある道具を使うことが多く即興的。それでも後に続くあらゆる地方での事件を彼女の犯行ではないかと推定できるのは、オスカー殺害以後の彼女がわざわざ、死体を極めて安らかに見える状況に組み込んでその場を去るからだった。普通の殺人犯はそんなことはしないし、そこにあるこだわりと絶妙な情緒、そして無邪気な非道さは、報道された内容しか知らない模倣犯には難解過ぎる。彼女の現場を一度でも見たことがあるなら、その違いを感じ取ることができる。私もまたその一人だ。

 彼女の殺す対象は老若男女を問わない。立場や美醜も。私たち——と言っても、まだ彼女の足取りを追おうとまでしているのはもしかするともう随分前から私だけなのかもしれないが——は、彼女を未だに理解できずにいる。彼女は、彼女を抑圧する屋敷の外に出て尚、一体何を考えて、何のために人を殺すのか——?

「毎度の現場の様子も調べるのかい?」

「もちろん。殺害方法から、全て。こんなところでする話ではないですけど」

「……ふうん。それで、キミは彼女の動向を予測して、ここに来たわけだ」

「…………」

 私は頷くこともできなかった。模倣犯との違いを感じ取ることができる、とまで先程は自信を持って言ったが、もはやその根拠はもうなかった。くだらない話をしたな、と自省しつつ(七年かけたことをくだらない、と思うのは本当に虚しい)隣に座った青年の顔をもう一度見ると、彼は微笑んでいた。一瞬、物騒な話をしていたのを忘れそうになる。

 よく見ると、彼の細身の体格と若い肌は中性的で、色香のある風貌の中にもどこか愛嬌のある顔つきをしている。年下だからそう見えるのだろうか。大人びた喋りだが二十代前半に見える。

 彼は、黒々とした瞳を愉快そうにさせて、視線の微妙に合わないまま、私の何かを透かし見たような態度で言い放った。

「キミの七年は無駄ではなかったね」

「? それは、どういう」

「着いてきてくれ給え。キミが知りたいことを教えてあげよう」

「え? ま、待って。私の知りたいことって」

「リアン・ハーツホーン。——に訊くのが一番いいだろう?」

 彼は私の分を含めたお代を払えるであろう金額をカウンターの奥に置くと、私に耳打ちをした。私は突然のことに、判断力を奪われていた。

 そうして私は彼と店を出た。

 私の腕を引く彼は少し性急で、乱暴だった。私は若干彼に恐怖したが、すぐにその理由が分からなくなった。だって、さっきまで私は、この問題に進展がないことこそを何より恐怖していたのだから。それに、彼が歩いて行く方向は、店や宿のある通りの方角ではなかった。

「キミ、今の件が片付いたとしたら、今度は何をしたい? 記者を続ける?」

「……いいえ、もう人間社会にはうんざり」

「あははっ。それはいい! ——誰もいないところへ行こう」

 彼の言葉通り、歩いているうちに辺りには人気がなくなって、私と彼は街をすっかり出た川辺で立ち止まった。

 彼の襟足まで伸びた髪や瞳は、日暮れの空の色に染まらず黒々としている。私は、そのような人物を知っているような気がした。

 彼は私の方へ振り返り、「じゃあ、改めて」と仕切り直す。外気に触れて脳を空っぽにし、夢心地だった私はようやく、彼が嘯いた当初の目的を思い出した。

「自己紹介を。——。こんなに熱烈なファンに会ったのは初めてだよ、ありがとう」

「……え?」

「手配書のは、僕が最初に殺した相手さ」

 そう堂々と語る彼は心から嬉しそうで、恍惚としてさえいた。私は少し呆然としてから、タチの悪い冗談を咎めようと思ったが、しかし、犯人がそもそも女性でなかったのなら……これまで全くと言っていいほど目撃情報が上がらなかったのも頷ける。いや、それじゃあこれまでの推論はどうなる。騙されてはいけない。

「普段は、あまり雑念が入らないようにこのことは明かさないのだけれど……キミは僕のファンだから特別だ」

「……ナンセンスな嘘ね。私の話を聞いてた? せっかく話したのに……馬鹿みたい」

「信じて、記事を書いてもらおうとは思わないさ。——僕はただ、キミに理解して欲しいだけだからね」

「! あっ、」

「そして、僕もキミを理解したい」

 彼は、言いながら、私の腕をぐいと引っ張って体勢を崩すと優しくエスコートするように腰に片手を回し、ばしゃん! と音を立てて私を押し倒し、上半身を川に突っ込ませた——背筋が凍る。私の頭部は低い位置にあって、波の欠片が頬を叩く。

「が、っ! ——‼︎」

 それから、首を手で覆って顔を水中に沈められるまでは一瞬だった。驚いて息を吸い込んでしまい、すぐに咽せるが、それはもっと水を取り込んでしまう結果にしかならない。覆い被さった彼に抵抗しようと思うのに、その目先の苦しみにもがき、無計画な暴れ方になってしまう。何より、彼は私よりは力のある男だったし、手慣れていた。一瞬鼻先が水面に出たと思っても、自然の波は不規則で絶え間なく、容赦なくまた私の上を通った。彼は、 場違いなほど穏やかに笑っていた。骨張った手が、そうっと優しく私の頬を撫でる。

「しばらくここにいよう。話したいことがたくさんあるからね」

 彼の口が動くのが見えたが、意味は判らない。何か思考できていたのはそこまでだった。

 ……意識が手から離れる間際、私はただ、彼が紛れもなく「殺人鬼リアン・ハーツホーン」なのだということだけを、直感していた。

 連続殺人の犯人に、私はついに辿り着いたのだ……。

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