閑話/回想 どん底のように澄んだ空
雨期の始まりを告げるように降りしきる雨が、開け放したままの窓から吹き込んでいた。
「……ぅ」
フルエットが目を覚まして最初に感じたのは、節々の痛みだった。
ベッドへ顔を埋めて泣いて、そのまま眠ってしまったらしい。少なくともまる一晩そんな恰好のままだったものだから、体のあちこちがぎこちなく固まっている。目元がべたべたするのは、涙がこびりついたせいだろう。
こんな格好じゃ、ゼフィラに叱られる。
起き上がろうとするフルエット。けれど床にこびりついた赤黒い染みを目にした途端、少女の細腕からはすとんと力が抜けた。涙を吸ってごわごわになったシーツへ、べたべたの顔が埋まる。
もう忘れてしまったのか。ゼフィラはもう、ここには居ない。
思い出すのは、世闇の中でなお鮮明な血の赤と、顔の左側を真っ赤な血に染めた従者の姿。血のにじむ包帯を身に着けて、それでも笑う彼女の痛々しい姿。
フルエット・スピエルドルフという存在が彼女につけてしまった、消えない傷。
「う、うぅ……!」
かきむしるようにシーツをつかむ。食いしばった歯からは、言葉にならない呻きが漏れた。
この身体は、母と従者の血に塗れている。
この孤独は、自分への罰なのだ。
あるいは罰と思うことすら、おこがましいのかもしれない。きっと生まれてしまったその時から、フルエット・スピエルドルフはそうあるべきだったのだ。
まだどこに残っていたのかと思うほど、涙があふれる。
顔を上げて、両手で覆った。涙を流すことさえも、自分には相応しくないと思ったから。フルエットがもう少し大きかったなら、涙が流れないように瞳を抉り出そうとしていたかもしれなかった。
そうしたところで、この身体に意味などないのだけれど。
「……っ、ぅ」
どのくらい、時間が経っただろうか。外は相変わらず雨が降り続いていて、灰色の空からは時間の経過がほとんどわからない。せいぜい、まだ夜にはなっていないということしかわからない。
ようやく涙が引いた頃、フルエットは痛いほどの空腹を感じた。喉もひりついている。
そういえばゼフィラを実家へ返してから、水の一杯すら口にしていない。
だらん、と両腕が垂れる。
糸が切れたように、フルエットは再びベッドに顔を埋めた。
食事をしたいとは思わなかったし、その必要も感じなかった。このまま餓えて朽ちていくなら、別にそれで構わない。骨と皮だけの身体になっても、異類は自分を喰いに現れるのだろうか。
餓えても、喰われても、どちらもで良かった。それでフルエット・スピエルドルフという存在が終わってくれるのなら、どうでもよかった。
「母様、ゼフィ……ごめんね」
フルエットは目を閉じた。このまま、もう二度と目覚めることなどなければいいと願って。
フルエットが目を覚ましたのは、月も星もない雨夜の中だった。
自分の身体も見えないほどの真っ暗な闇の中で唯一見えるのは、開け放したままの窓から覗き込む二つの目。
異類だと思った時には、それはもう眼前に迫っていた。
刹那、牙か爪かもわからないものが首筋に食い込む鋭い激痛が走る。ただでさえひりつき渇ききった喉からは、悲鳴の代わりにひゅーひゅーというかすれた音と血しかこぼれなかった。ぼたぼたとあふれるモノをすするような音がしたから、たぶん牙で噛みつかれたのだろう。
身体が浮遊感に包まれる。
獣が獲物をそうするように、異類にくわえたまま持ち上げられていた。
力の入らない脚が床を引きずる音がする。泥まみれの足跡と滴る血を残して、フルエットは窓から自宅の外に引きずり出される。
雨音に混ざって、別の足音が聞こえた。
失血で朧になった闇の中に、フルエットはうごめくもうひとつの影を見た気がした。
次の瞬間、影はフルエットをくわえた異類に飛びかかっていた。はっきりとはわからないが、虫の顎のようなものが見えたと思う。おそらくは、血の娘を嗅ぎ付けた虫の異類だったのだろう。
不意打ちを受けた最初の異類が、フルエットを取り落とす。より正確に言えば、襲撃に身構えた拍子に顎へ力が入り、くわえていたフルエットの喉を食い千切ってしまっていた。
とうに悲鳴などあげられなくなっていたフルエットの身体が、ぬかるんだ地面にゴミのように落ちた。ほとんど肉の抉り取られてしまった首から上、わずかに繋がっただけの頭だけが奇怪な方向に転がる。
喉が激しく脈打つような痛みを訴えるのを、血が流れていくほど頭が軽くなっていくの感じながら、フルエットは不思議なほどに穏やかな心地でいた。喉がこうでなければ、笑い声すらあげていたかもしれない。
かすれた、それでも闇に慣れた目が、自分の血肉を巡って争う二体の異類を捉える。
どっちが勝つにしても、これなら自分は死ぬだろう。こんな酷い傷を負ったのは初めてだから、きっと死ぬ。そうすれば、全部終わってくれる。
……母様に、会えたらいいな。
薄れていく意識の中で、ありそうもないことを思う。母様はきっと、浄火の園に居る。けれどこんな身体の自分は、きっとそっちには行けないだろうから。
血と雨と泥の混ざった澱みに沈みながら、フルエットは微笑むように目を閉じた。
目覚めさせたのは、無遠慮に肌を焼く陽の光だった。
「……っ」
身体を起こそうとして、力が入らず倒れ込む。どす黒く乾いた地面へ頬をしたたかに打ち付け、フルエットは声もなく呻いた。
そして、今さらのように気づく。
生きている。
喉元に触れる。ほとんど千切れていたはずの首は何事もなかったかのように繋がっていて、ただブラウスだけが血と雨と泥でひどく汚れていた。
振りかえれば、開けっ放しのままの窓が見えた。つまりここは死後の世界などではなく、まぎれもなくイルーニュの外れの自宅のそばで、現実だった。
異類の姿はない。激しく争ったような血と体液の痕だけが残されている。フルエットの血肉を奪い合った結果、共倒れになったのだろうか。
けれど、そんなことはどうでもよかった。重要なのは、自分がまだ生きているということ。
「わ、た……私は」
死ぬことすらできなかった。
この血に宿った生命の精髄は、フルエットに死ぬことすら許してはくれなかった。
「……っう」
なんで。
渇いた嗚咽が、忌まわしくも昨夜より瑞々しさを取り戻した喉から漏れる。
「う……ぁ、うぅ……うああああああああああっ!」
どうして私は、死ねないの。母様を死なせて、ゼフィを傷つけて。なのに、どうして。
繋がってしまった首を引き裂こうとするように掻き毟りながら、フルエットは涙ひとつ流すことなく叫び続けた。
雨期の合間の晴れ空は、逃場のないどん底のように澄んでいる。
死ぬことすらできないならば、生きていくしかないのだと告げるように。
血の娘と吸血蛾 氷雨@風雅宿 @Fuga_yadori
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