第二十一話

 目を覚ましたユリオの視界にまず飛び込んできたのは、涙をいっぱいに溜めたフルエットの顔だった。

 名前を呼ぼうとした瞬間、ほとんど飛びつくような勢いで抱き着かれた。椅子が倒れる音が、一拍遅れてユリオの耳に届く。

「やっとかい、この馬鹿!」

 そしてフルエットが抱き着いたまま泣き出したものだから、ユリオは困惑に硬直してしまった。というか、フルエットの体温や柔らかさがいっぺんに伝わってきて、ユリオはそれだけでいっぱいいっぱいだった。この間はあんな自然に頭を撫でられたのに、今は「ぅ」とか「ぁ」とか、情けない声を漏らすので精一杯だった。

 結局、そのままフルエットが泣き止むに任せてしまった。

 しばらく経ってようやく落ち着いたのか、フルエットが身体を離す。涙の名残をハンカチでふき取りながら、彼女は冗談めかした軽口を叩く。

「誰かさんのせいで、すっかり涙もろくなってしまった気がするよ」

「う゛」

 心当たりしかなくて呻いた。冗談なのはわかっているが、覚えているだけで3回くらい泣かせていることだし。

 そのままユリオが小さくなっていると、フルエットは不意に「ごめん」と漏らした。ファルと戦ってボロボロになったことについてなら、そんなことは言ってほしくなかった。そう思って続きを制しそうになったが、そうではなかった。

 フルエットがコンフォーターをぎゅっと掴む。

「君を危険から遠ざけたかったからと言って、酷いことを言ってしまった。……本当に、ごめん」

 うつむきがちなフルエットの謝罪に、ユリオはゆるゆると首を横に振った。

「いいんだ。お前が本気で言ったわけじゃないっていうのは、ぼくにもわかってたから」

 これでこの話はおしまいでいい。話題を変えたくなって、ユリオはそういえば気になっていたことを口に出した。

「ぼく、どのくらい寝てた?」

 窓の外には、薄曇りの昼空が広がっている。ファルと戦ったのは夕暮れ時だったから、少なくとも一晩経っているのは間違いない。

 フルエットの方を見ると、彼女はやれやれと肩をすくめてみせた。

「君は丸三日寝てたんだ。傷は治っているのにそれだから、私もさすがに心配したよ」

「三日!?」

 変な声が出た。どうりで異様に身体が軽いし、頭もやけにすっきりするわけだ。その間まったく目を覚まさなかったというのなら、さっきのフルエットの反応だって理解できる。ユリオが眠っている間、彼女の心境はいかばかりだったろうか。

「このまま目を覚まさなかったら……どうしようかと思ったよ」

 ふと弱気な声を漏らしたフルエットの目元には、よく見るとクマが色濃く浮かんでいた。謝らなければいけないのは、ユリオも同じのようだ。

「……ごめん。結局、お前には心配かけちゃったな」

「本当だよ」

 ため息混じりに、ぴっと指を立てるフルエット。目を伏せた彼女はいかにも大儀そうな顔をしていて、ユリオは思わず肩をすぼめて縮こまった。

「血を飲ませたのに三日も起きないし」

「……うん」

「人狼に単身挑んで、撃退したはいいけどぼろぼろになるし」

「……うん」

「仇のはずの狩人すら助けに飛び出すし」

「うん。……うん?」

「人が従者と話している最中に、異類の姿を晒して話をややこしくするし」

「ちょっと待って、なんか話が」

 抗議を遮るように、フルエットは人差し指をユリオの目の前に突き出した。なおずっと指は立てたままなので、指差しているわけではない。失礼はなかった。

 フルエットはそのままコンフォーターの上に頬杖ついて、ユリオのことをじっと睨んできた。

「え、えっと……」

 たじろいだユリオは、胸の前で両手の指先をぐちゃぐちゃさせる。心配かけたのは事実なのだが、何故か別の話が混ざってきているせいで、ものすごく反応がしづらい。

 困り果てて窓の外へ視線を逃がすと、途端にフルエットが「まったく」と繰り返した。ただし今度は、静かで穏やかな声。

 戸惑いがちに視線を戻すと、フルエットは頬杖をついたまま優しい笑みをユリオへ向けた。

「こんな向こう見ずで危なっかしい君なんだ、独り立ちなんかさせてあげられないね」

 口を半開きにして、ユリオはぽかんとフルエットを見つめた。そういえばホットチョコを初めて一緒に飲んだあの夜、独り立ちがどうとか言っていたような気がする。それから街で突き放された時も、このまま街で暮らせばいいと言われたか。

 そのことに気が付くと、ユリオはぷっと吹き出していた。

「そっか、ダメか」

「ああ、駄目だ。……それに」

 レースに包まれた指先が、ちょんとユリオの額をつつく。

「これも誰かさんのせいで、一人暮らしがまた寂しくなってしまったからね」

 淡い色をした唇が、ふっと柔らかな笑みを描いた。ユリオは胸がぼうっと穏やかな熱を持つの感じて、

「間もなく昼食の準備が整いますが、いかがなさいますか」

 エプロン姿のゼフィラのものすごくわざとらしい咳払いが聞こえた瞬間、なんかもう色々全部吹っ飛んでしまった。いつから居たんだお前。

 びくっとベッドの上で身体が跳ねたユリオを見て、フルエットはくすくすと笑っていた。「先に向かっているよ」と、彼女はそのままダイニングへ行ってしまう。

 フルエットの足音を聞きながら、ユリオは口をぱくぱくさせていたのを呑み込んで、やっとのことで言葉を発した。

「ゼフィラ、お前なんで……!?」

「生活費の金子を渡しに来た、という話はしていたでしょう?」

「そうだけど、街は閉鎖されてたんじゃ……」

 何を今さら、とゼフィラが腕を組んでふんと息を吐く。

「三日三晩経っても新たな犠牲者は出ませんでしたし、肝心の異類も見つからなかったそうです。で、既に街には居ないのだろうと判断され、今朝封鎖が解かれたのですよ。どこかの誰かが、異類を追い払ったのかもしれませんね。皆目見当はつきませんが」

 わざとらしくそんなことを言って、「お前も早く着替えて来なさい」と立ち去ろうとするゼフィラ。

 そんな彼女をユリオは呼び止めた。怪訝な顔で立ち止まったゼフィラに、彼はとある相談を持ち掛ける。


 翌日の夕方。

 ユリオの手伝いが終わる頃を見計って、フルエットはルイリの店を訪れた。

 奥の机のそばで今日の仕事ぶりについてルイリから聞きながら、残りの仕事を済ませるユリオを眺めている。

 ふと視線を感じてルイリの方を見ると、彼女はにまぁとした顔でフルエットを見つめていた。

「私の顔に何かついてるかい?」

「んーん。どっちかって言ったら……これからつく感じ?」

「え、何だい。君の故郷の占いか何か?」

 にやにやしながらおかしなことを口走るルイリは、結局その意味を教えてくれなかった。もやもやした気持ちに唇を尖らせていると、ユリオの仕事がようやく終わった。

 古くて重たいドアをくぐって外へ出ると、空には灰色の雲がチラつき始めていた。この時期はこれだから困る。

「ユリオくん、急ごう。うかうかしてると降り出してきそうだ」

 呼びかけるが、返事はない。後を追ってくる気配もない。

「ユリオくん?」

 怪訝に思って振り返ると、ユリオは二、三歩引いたところに突っ立っていた。落ちつかなさげに空を見上げる彼は、何故だか手を後ろに回している。

「……どうかしたのかい?」

 バイクに腰を下ろしかけていたのをやめて、ユリオの方へを歩み寄る。のぞきこむようにして見上げてみると、ユリオの頬はほんのりと赤くなっていた。

「風邪かい?」

 ユリオはもごもごと口元を動かすばかりで、ろくに返事もしてくれない。

 そういえばさっきルイリが、にやにやしながら妙なことを口走っていたっけ。それと関わりのあることだろうか。

 だとしたら、フルエットからあれこれ話しかけても意味はないのだろう。そう思って、靴を鳴らしてユリオに背を向ける。

 そのまま、バイクへ向けて歩みを進めたその時だった。

「フ……ルエット!」

 ずっと黙っていたユリオが、急に声を張り上げた。「いったいなんだい」とため息混じりに振り返ると、さっきまでが嘘のように、ユリオがずずいと距離を詰めてくる。その勢いに若干気圧され、後ろのめりになるフルエット。

「これ。……あげるよ」

 華やかな香りが、ふわりと目の前に広がる。

 ユリオが差し出したのは、紫色の花束だった。花の種類は薔薇で、本数は――……。

 きょとんとした顔で、フルエットは花束とユリオを交互に見つめた。ルイリのことがあったとは言えまったくの予想外な事態に、頭の中が真っ白になって他に何も反応できないでいる。

「……嫌だったかな」

 それを聞いて、フルエットはようやく我に返って首を振った。感情に身体が追い付き始めたのか、鼓動が少しだけ速くなるのを感じていた。

 安堵した様子を見せるユリオに、どうして急にと問うてみる。彼は照れくさそうに鼻の頭をかきながら答えた。

「ファルのことが済んで……一区切りついたのかな、って気がしてさ」

 そしたら、フルエットにお礼がしたくなったのだと言う。

「前にも相談したことあったから、ルイリにお願いして……って、その話はいっか。……えっと、服とか本とかのお金を先に返した方がいいっていうのは、わかってるんだけどさ」

 頬を赤くしてそっぽを向くユリオの様子が、今はひどく愛おしく思えた。胸の中に心地よい温かさを感じる。

「嬉しいよ」

 花束を抱きしめて、フルエットは顔をほころばせた。それから、薔薇で口元を隠すようにして、からかうような調子で問いかける。

「だけど君、この花束の意味はちゃんとわかっているんだろうね?」

「大丈夫、ゼフィラに教えてもらったから。……えっ、と。この本数だと――」

「わかってるならいいさ」

 指先でユリオの唇を塞ぐ。顔を真っ赤にしたユリオに、フルエットはつとめて涼しい顔のフリをして言った。

「せっかく花に気持ちを託してくれたんだ、口にするのは野暮ってものさ。そうだろう?」

「……うん。そうだよな」

「でも、これだけは私からも言わせてもらってもいいかい?」

 ちょっと身体を強張らせた彼の唇から指先を離し、花束を両手でかき抱いた。花の種類は薔薇で、色は紫。そして本数は5本。

 ユリオがちゃんと意味をわかっているなら、フルエットが口にするのはこの一言で十分だった。

「私も同じ気持ちだよ」

 大輪の笑みが咲く。

 二人のこの先は、さほど光に満ちたものにはならないだろう。かたや血の娘の追い出されたお嬢様、かたや虫の異類に改造された少年という訳アリの二人組だ。今日の空模様のように、灰色の雲が広がることの方が多いかもしれない。

 それでも構わない。どうせ一人で居ても空に雲はかかるのだ。だったら二人で居た方が、同じ曇り空の下でも気分は晴れる。

 それにどれほど続く曇り空の下も、二人なら雲が晴れるまで歩いていける。そんな気がするのだ。

 そうして歩き続けていけば、いつか光の下で笑い合える日だって、きっとやって来るだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る