あたしのエルジェーベト

あたしのエルジェーベト

 あの頃のあたしは、桐子きりこの思う“美しさ”について情けなくなるほど無知だった。初めての夜、彼女はカッターナイフであたしの肌を傷つけた。乳房から流れる血を舐めとり、身動き一つ取れないあたしに呟く。


「美しいものしか見たくないの」


 大学のサークルで知り合った桐子は、誰もが振り返るほどの美人だった。バトミントン部など名ばかりの飲みサーには勿体無いほどの存在は、いつも煙たげな表情で活動をしている。何故こんな下らないサークルに?

 理由は単純だった。いつもの飲み会で珍しく酔い潰れたあたしを介抱し、桐子は知らない部屋にあたしを誘い込む。広いベッド。シンプルな中に個性のあるインテリア。部屋の隅に飾られたモンステラ。一見すると小洒落ていて、まるで誰かを誘うことを目的としているようだ。言われて初めて、桐子の住む一人暮らしのワンルームだと気付く。

 そう、「女漁り」だ。桐子がこのサークルにいる理由は間違いなくそれで、あたしは誘われた一人。同性どころか異性との行為すら未経験なあたしにとって、その罠は容易にかかってしまうほど巧妙だった。


 酔った勢いで服を剥がされ、快楽と痛みを同時に教えられる。欲望の水底から伸びる手があたしの肌を撫ぜ、引きずり込まれる。堕ちて、溺れていく。


「そのままで居てね、葉月はづき


 初めての夜。あたし達は桐子の部屋のベランダで並んで煙草を吸いながら、揃って息を吐く。遠くに見える集合住宅の灯りは淀んでいるのに、夜風は妙に澄んでいた。蛍火は微かに明滅し、ふわりと巻き上がった紫煙は夜に消えていく。


「無理だって。不変なものなんて無いし、今だって細胞は入れ替わってる」

「人間の細胞は2年半で入れ替わるらしいけど、入れ替わった後に誰かに抱かれたらヴァージンなの?」

「そんなわけないでしょ! 現に、桐子がこうやって……」

「そう、私が言いたいのはもっと本質的なこと。葉月はそのまま、無垢で居てね」


 灰皿代わりのコーヒー缶に吸い殻を落とす。あたしの身体を無垢でなくしたのは桐子なのに。散々身体を弄んでおいて? それとも、『男の身体を知らないで』とでも言いたいのか。

 堂々巡りの思考に、桐子は答えを出してくれない。血を吸ったばかりの唇の赤が、煙草の白とよく映えていた。悔しいが、似合っている。無数の吸い殻で灰色の珊瑚礁のようになった空き缶さえも、彼女のどこか退廃的な雰囲気を演出していた。


「ねぇ桐子、バートリ・エルジェーベトって知ってる?」

「何それ、海外女優?」

「……知らないならいいや。似てるよ、アンタとその人」


 これが誰かの犠牲によって生まれる美しさなら、それに殉じてもいい気がした。鈍い痛みが記憶なら、胸の傷痕は証明だ。

 これは、きっと優越感なのだろう。大学構内を並んで歩けば、すれ違う人々が桐子の顔や身体つきから目を離さない様子を間近で見ることができる。その度に、彼女に付けられた傷を見せつけてやりたい欲求が襲うのだ。


 それでも、細胞は入れ替わってしまう。傷は癒えて、痕さえ残らなくなってしまう。


「葉月、ご飯食べに行こ」

「あたしラーメンがいい! いつものとこね」

「また……?」


 桐子の家と大学のちょうど中間にある馴染みの店には、カウンター席しかない。男性客の間に空いた2席に並んで座れば、桐子に視線が注がれるのは当然だ。あたしは内心でほくそ笑み、桐子と肩を寄せ合った。


 今日も揃って塩ラーメンだ。お決まりのメニューを二人で待ちながら、店の隅で流れているテレビを漠然と眺める。夕方のワイドショーの最後のコーナーは、その日産まれた赤子を紹介する企画だ。産婦人科の病室でインタビューを受ける母親の映像を、あたしは特に感慨もなく見続けている。

 視界の端で、桐子の首がぴくりと動いた。彼女は微かに溜め息を吐きながら、チラチラとテレビを一瞥する。その様子を茶化そうとして、やめた。その眼に妙な熱がこもっていたからだ。


「人間って、産まれた時は自分と他人を区別できないらしいよ。名前を付けられて、触って、舐めて、自分じゃない誰かの存在を感じる。そうすることで、初めて他人の存在を認識するんだって」

「へぇ……」


 あたしはスマホの中の羊に餌をやりながら、桐子の話を流し聞きする。その頃のあたしは母親になることなんて想像すらしていなかったし、桐子も同じだと思っていたのだ。お腹に手を当ててみても、空腹しか感じない。


「わたしが葉月にやっているのも、そういうこと。私はまだ、自分と他人の区別がついていないんだよね……」

「赤ちゃんかよ」

「そうかも。だって、誰も教えてくれなかったから」


 塩ラーメンが届いた。透き通ったスープに弾力のある麺、噛みごたえのある分厚いチャーシューが美味しい。シャキシャキしたモヤシと香りのいい海苔がアクセントになり、絶品だ。何の新規性も意外性もない、シンプルで落ち着く味。それこそが、この店の魅力なのかもしれない。

 桐子の存在さえも忘れて夢中で麺を啜り、一息つく。さっさと食べ終わってしまう私に対して、桐子はラーメンを食べるのが遅い。麺を啜るのが下手なのだ。

 桐子は髪を耳に掛け、黙々とラーメンに向き合っている。レンゲの中で小さなラーメンを作り、ゆっくりと麺を口に運んでいる。口の中に入っていく瞬間、彼女は何かを求めるように必死で唇を動かしていた。その様子が愛おしくて、あたしは桐子に気付かれないように笑った。

 子どもみたいだ、と思う。煙草を吸うのはあんなにサマになってるのに。


 店を出る瞬間、桐子はあたしの指を掴む。求められている時のサインだ。


「……葉月、今夜も泊まる?」

「そろそろ帰るわ。もう三日帰ってないもん。親が『帰ってこい』ってうるさくて!」

「そっか。いいご両親だね」


 桐子があたしと別れる時は、いつも駅まで送ってくれる。いつも通り改札前でハグをして、いつもと同じ速度で手を振る。それが、あたしが見た最後の姿だ。

 桐子が大学に来なくなった。連絡が途絶え、サークルの飲み会さえも参加しなくなった。大学内では『事件に巻き込まれたのではないか』という噂が立ち、数ヶ月すれば自然に立ち消えていった。ずっと気が気ではなかったのは、あたしだけなのかもしれない。

 桐子の家に押しかける。インターホンを押しても、何の反応もない。毎日行っても無駄だった。窓際で埃を被っていたモンステラは枯れ、やがてその部屋には別の人が住むようになった。

 途方に暮れたあたしは、それでも自分の未来を優先してしまう。始まった就活と卒論の忙しさは、次第に彼女の存在をあたしの心から薄めていく。


 それから、あたしは新卒で入社した会社の先輩と結婚し、新しい命を授かった。女の子だ。あたしの乳首に吸いつく我が子を見て、桐子の言葉を思い出す。


『人間って、産まれた時は自分と他人を区別できないらしいよ』


 この子は、まだあたしのことを母親と認識していない。この子はどう育つのか、それはあたし次第か、それとも。

 桐子が吸うのが穢れなき処女の血なら、既にあたしは対象から外れている。彼女が本当に望んでいたものが何だったのか、今のあたしに確かめる術はない。


 ただ、ひとつだけ言えることがある。あの日あたしの乳房から血を舐めた彼女の表情は、必死にあたしの乳首を吸う我が子によく似ていた。


「……桐子、知ってる? 母乳って、血液からできるらしいよ」


 呟く言葉に返す声はない。細胞は入れ替わって、あの痛みさえもう思い出せない。

 またひとつ、歳を重ねていく。

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あたしのエルジェーベト @fox_0829

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