ママ、なんか私、胸がキュンキュン苦しい!

仲瀬 充

ママ、なんか私、胸がキュンキュン苦しい!

●9月4日(金) スナック『カンナ』

「ママ、ボトル切れてたはずだからいつもの焼酎1本入れて。あ、どうも佐仲社長さん、こんばんは」

峯は先客の佐仲に挨拶して同じカウンター席に座った。

「久しぶりだな、峯くん」

「ほんと、峯ちゃん、2か月ぶりくらい? 真弓ちゃん、これお願い」

ママから麦焼酎のボトルを渡された真弓は水割りを作って峯のコースターに置いた。

「峯さん、すごい日焼け。夏休みはここには顔を見せないでハワイでゴルフとか?」

「おいおい、真弓ちゃんは若い客だと声が弾むな。しゃくだからママ、歌を歌うぞ」

佐仲が言葉とは裏腹に笑顔で話に割って入り、上機嫌で昔のヒット曲『ルビーの指環ゆびわ』を歌った。

ところが歌い終えてマイクを置くと首をかしげた。

「ママ、この歌の歌詞、変だな」

「どこがです?」

「そうね誕生石ならルビーなの そんな言葉が頭に渦巻くよ あれは8月まばゆい陽の中で誓った愛の幻…ってところさ。ルビーは7月の誕生石だろう?」

「8月に男が婚約指輪をあげる時に女の誕生石のルビーの指環にしたってことなんじゃないですか?」

「何だ、それだけの話か」

峯と向かい合っていた真弓が佐仲の前に移った。

「私の誕生石はアクアマリンだからルビーより安あがりよ、社長さん」

「真弓ちゃんの誕生日はいつなんだ?」

「3月4日」

「私は1月でガーネット」

ママも話に加わると佐仲は両手のひらを耳に当てた。

「おかしいな、急に耳が遠くなった」

「まあ、憎らしい」

その後佐仲、ママ、真弓が数曲歌ったところで峯は左右の人差し指をクロスさせた。

「ママ、お勘定」

「おいおい峰くん、もう帰るのかい? 1曲も歌わずに」

「今日はちょっと疲れてるんでまた今度ということで。お先に失礼します」

ママが小さな紙片に金額を書いて峰の前に置いた。

峯はお釣りを待つ間その勘定書きに胸ポケットに指していたボールペンをささっと走らせた。

真弓がドアの外まで峰を見送ってカウンターに戻ると佐仲が手招きした。

「真弓ちゃん、以前ならともかく今の峯くんにハワイで日焼けはきついジョークだったな」

「え? どうして?」

「やっぱり知らなかったのか。峯くんが勤めてたオフィス機器のリース会社、2か月前につぶれたよ」

「ほんと?」

「ああ。専務が会社の金を持ち逃げしてそれからごたごた続きで倒産だ」

ママが眉根を寄せて佐仲を見た。

「ごぶさたはそういうことだったんですね。それで社長さん、峯ちゃんは今は?」

「さあね、この前三津田町の建設現場で旗振りしてたのを見たけどね」

「旗振り?」

「工事車両の出入り口での誘導さ」

「そうなんですか、ちっとも知らなかった。あ、いらっしゃい」

客が数人連れだって入店したのを機に佐仲も席を立ったので峯の話は立ち消えになった。

その後、閉店して片づけをしていた午前1時過ぎ、ママが小さな落とし物を見つけた。

客が帰る時に渡す勘定書きの紙片だった。

「峯ちゃんのだわ、ボールペンで何か書いてたから。でもこれ何のメモかしら?」

ママは「3/4」と走り書きされた勘定書きを真弓に見せた。

「私の誕生日よ。ひょっとしたら峯さん……、半年後が楽しみ!」


●9月10日(木) スナック『カンナ』

「宮野さん、いらっしゃい」

開店早々、町内会長の宮野が『カンナ』のドアを開けた。

「よしよし、ハゲのタコ社長はいないな」

「そんな言い方なさらないで。ほんとは仲がいいくせに」

「そうよ、佐仲社長とは幼なじみなんでしょ?」

真弓がウィスキーのボトルと水割りセットを運んで来た。

「幼稚園からのただの腐れ縁だよ。ウィスキーの前になまをくれ。ママも真弓ちゃんもどうだ?」

「いただきます」

「嬉しい! 生ビール大好き!」

「おいおい、テンション高いな。一昨日おとといおごった時はそんなに喜ばなかったじゃないか」

「あの時は他のお客さんがいたもの」

「ああ、なるほど。露骨に喜べば他の客へのあてつけになるってわけか」

ママが頷いた。

「うちはお客様にドリンクのおねだりはしません。おごってくださるのは大歓迎ですけど」

「佐仲社長さんも気前がいいよね、ママ」

「あのタコは小銭を貯めこんでるみたいだからな。真弓ちゃんに下心があるんじゃないか? 乗り乗りで相手しないほうがいいぞ」

「私、お金持ちより財布に余裕のない人に『真弓ちゃん、ビール飲まない?』って言われたら胸がキュンってなるの。このビール代はどんな思いをして稼いだお金なんだろうって思って」

「やれやれ、わしらの胸キュンは119番ものだがな。真弓ちゃんは彼氏はいないのかい?」

ひろしみたいな人がいれば私はさくらになりたいんだけど」

「タコ社長つながりで『フーテンの寅さん』の話か」

「うん。さくらと博が結婚して住んだ線路脇のぼろっちいアパート、あの生活感ましましの部屋も胸キュンものよ。あ、峯さん」

ドアを開けて入って来た峯にママが冷たいおしぼりを手渡した。

「峯ちゃんも生ビールからいく?」

「いや、焼酎を水割りで」

真弓が宮野の前から移って水割りを作った。

「はいどうぞ。峯さんのマンションさ、蚊は来る?」

「なんだい?突然」

「引っ越そうかと思って。うち、周りに緑が多いから6階なのに色んな虫が飛んで来るの」

「僕んとこは4階だったけど蚊はいなかったな」

「やっぱ街なかはそうよね。ちょっと待って、何で過去形なの?」

「2か月前に引っ越したんだ」

「どこに?」

「山元町」

「逆に峯さんが私の町に? どの辺?」

「ママ、若い二人が接近したようだからわしらもデュエットで『二輪草』といこう」

他の客もぽつぽつと入って来て小一時間ほどたったころ峯は勘定をママに頼んだ。

「峯ちゃん、今日も早いわね。ゆっくりしていけばいいのに」

「夏バテ気味で酒も弱くなってね」

「大丈夫? 9月に入ると夏の疲れがどっと出るのよね」

ママは閉店した後も真弓相手に峯の体調を気づかった。

「峯ちゃん、よっぽど調子悪いのかしら。前はビールに始まってボトルも半分くらい飲んでたのに」

「心配よね。あ、ママの誕生日って1月の2日?」

「1月は1月だけど4日よ。なんで?」

「お勘定書きに峯さんが1月2日ってメモしてたから。誕生日じゃなきゃ『ルビーの指環』は関係ないか」

「そんなことより真弓ちゃん、明日の昼買い物につきあって。車で迎えに行くから」


●9月11日(金) ママの自家用車

「真弓ちゃんのマンションいいわね、高台で見晴らしがよくて」

「昨日言ったように虫さえ出なければ文句ないんだけど。今日は何買うの?」

「お店の秋の模様替え用のグッズをいろいろね」

「ホームセンター、もうそろそろよ」

ママの運転する車は市街を抜けて三津田町に入った。

すると突然トラックの急ブレーキ音が響いた。

音は中央分離帯を隔てた反対車線から聞こえたがママは路側帯に車を停めた。

真弓は不思議そうにママに顔を向けた。

「どうしたの?」

ママは無言で道の反対側を指さしてパワーウィンドウを半分の高さまで下げた。

「ばかやろう、殺す気か! 車が来てたじゃないか!」

工事現場の出入り口でトラックの運転手が運転席から顔を出して怒鳴っている。

「しっかりしろ! 旗振りもろくにできねえのか、役立たずが!」

白と緑の縞模様の腕章をつけた青年がペコペコ頭を下げている。

「ママ、あれ、峯さんじゃない?」

「ねぇ……」

ママは力なくため息をついた。


●9月17日(木) スナック『カンナ』

「お、いたかタコ社長。70にもなって毎日額に汗して労働ご苦労さん」

「ふん、年金暮らしのごくつぶしに言われたかないね」

「ごくつぶしとは何だ、町工場まちこうばの社長ふぜいが。わしは会長だぞ」

「ほう、町内会長がそんなに偉いとは知らなかった」

「まあまあお二人とも仲良く飲んでくださいよ」

冗談交じりの掛け合いと知りながらもママがその場をとりなした。

佐仲社長と町内会長の宮野は酒が進むと今度は他の客が帰ったのをいいことにカラオケで張り合い出した。

峯が店に入って来たのはそんな歌合戦の最中だった。

二人の歌の応酬が一段落すると佐仲が真弓と話していた峯に声をかけた。

「峯くん、君も1曲どうだ」

「はあ」

「峯さん歌えば。懐メロも得意でしょ?」

「じゃ」と峯はリモコンを操作して自分で曲をかけた。

歌い終わると佐仲が手を叩いて感心した。

「若原一郎の『山陰やまかげの道』とは渋いねえ。他にはどんな曲を歌うんだい?」

「懐メロで一番好きなのは岡晴夫の『輝く出船』ですがどの店にもないんです」

「岡晴夫はわしも好きだがその曲は知らんな。どうして君はそんな古い歌を知ってるんだ?」

「僕、お爺ちゃん子で小さい時から懐メロや軍歌をさんざん聞かされたんです」

「何? 軍歌もか?」と宮野も話に乗って来た。

「結構知ってますよ。宮野さん、軍歌お好きなんですか?」

「戦争の虚しさを感じさせる軍歌はわしは反戦歌だと思っとる。イケイケドンドンの軍歌は嫌いだがな。よし勝負だ、さわりを歌うから当ててごらん」

宮野はマイクを手にしてアカペラで軍歌の一節を口ずさんだ。

「すまぬすまぬを背中に聞けば馬鹿を言うなとまた進む~」

「戦友!」と峯が答えると「ピンポーン!」と佐仲が判定をした。

「仰いだ夕焼け南の空にいまだ還らぬ1番機~」

「同期の桜!」

「ピンポーン!」

「まあ、この2曲は有名だからな。次はどうかな。どこまで続くぬかるみぞ三日一夜を食もなく~」

討匪行とうひこう!」

「ピンポーン!」

「やるなあ、最後にこれはどうだ。ああ今は亡き武士もののふの笑って散ったその心~」

「加藤はやぶさ戦闘隊!」

「ピンポーン! 峯くんの勝ちだ」

「ハハハ、わしも笑って散るよ、降参だ。ビールでも飲むかい?」

「せっかくですがもう帰ります。遠いので」

「そうか、いやあ今日は愉快だった。ママこっちもお勘定」

峯に続いて宮野と佐仲も連れだって店を出た。

「真弓ちゃんも今日はもう上がっていいわよ」

「ママ、なんか嬉しそうね」

「ふふ、峯ちゃんのお勘定書きの今日のメモ、1月4日。私の誕生日」

「それでご機嫌なんだ、じゃお先に」

真弓のマンションは歩いて帰れる距離だが深夜なのでタクシーを拾った。

真弓の乗ったタクシーが街なかを離れて公園脇の登り坂にかかると公園のベンチに峯らしき人影が見えた。

「運転手さん、ここで停めてください」

気づかれないように手前でタクシーを降りた真弓は公園のトイレの陰に入った。

公園の端のベンチに腰かけているのはやはり峯で眼下の夜の街を見下ろしている。

手に持ったウィスキーの小瓶を時々口元に運ぶのが外灯の明かりで見て取れた。

声をかけるかどうか迷っていると峯が腰を上げたので真弓はついて行くことにした。

公園を出て左に曲がればすぐ真弓のマンションだが峯はまっすぐ歩いて行く。

真弓の予想よりも峯の住まいは遠く、店から歩けば30分近くかかると思われた。

木造アパートの鉄さびた外階段を峯は音を立てまいとするかのような足取りでゆっくり上った。

そして端から二つ目のドアを開けて入り部屋の電気が点いた瞬間、真弓は胸がキュンとした。

男の人が帰宅して自分で電気を点ける姿を想像すれば寂しい。

このアパートは『フーテンの寅さん』の博とさくらが結婚当初に住んでいたアパートによく似ている。

私がさくらみたいに夕食を作って待っていれば峯さんは灯りのともる家に「ただいま」と帰って来れるのに。

そんなことを思いながら真弓は通りかかったタクシーに手を挙げた。

それにしても家賃節約のためだろうけど町はずれのあんな古びたアパートに越さなければならないなんて。

タクシーの中でも峯の困窮ぶりを思いやっていた真弓は不意に峯の勘定書きを思い出して「あ」と小さく声をあげた。


●9月18日(金) スナック『カンナ』

「ママ、私、分かっちゃった」

「何が?」

「昨日峯さんがお勘定書きに書いてたのはこうなんでしょ?」

真弓は勘定書き用の紙片を1枚取り出して「1/4」と書いた。

「そうよ」

「これたぶん日付けじゃないわ」

真弓は峯のキープボトルを棚から取り出して焼酎の入っている上端のラインをすっと指でなぞった。

「4分の1?」

「そう、キープの残りの量だと思う。最初が3/4、次が1/2、そして昨日が1/4。峯さん、計算して飲んでるのよ」

「どうしてまたそんなことを?」

「お酒が弱くなったってのも言いわけでお金に余裕がないんじゃないかな。お店に来るのも前と違って今は週1くらいよね?」

真弓の話にママが吐息をもらしたところへ当の峯が入って来た。

「昨日楽しかったんで連チャンで来ちゃった。あれ、それ僕のボトル?」

カウンターに出されているキープボトルに峯は目をやった。

「えっ? ええ、そう、今ちょうど棚の掃除してて……」

ママがしどろもどろになっていると昨日軍歌を歌った宮野が佐仲と一緒に入って来た。

「よう、峯くん。今日も昨日の続きといくか」

「いいですね」

「先に歌ってくれてていいぞ。わしらはちょっと町内会の催事で相談事が」

そう言ってボックス席に座り同じ町内会のママも呼び寄せた。

真弓は焼酎の水割りを薄めに作って渡すとまっすぐ峯の目を見た。

「峯さん、『真弓ちゃん、ビール飲まない?』って言ってほしい」

峯はグラスを持った手を一瞬止めたがすぐに笑顔になって水割りに口をつけた。

「いいよ。1本出して」

「じゃなくて、『真弓ちゃん、ビール飲まない?』って」

「真弓ちゃん、ビール飲まない? これでいい?」

「これでいいは無し」

峯はグラスを置いて背筋を伸ばした。

「真弓ちゃん、ビール飲まない?」

峯に見つめられた真弓の表情が柔らかく崩れた。

「嬉しい! いただきます!」

会長たちの話がすむと後から来店した客も入り乱れての賑やかな歌合戦になった。

それでも12時を過ぎると客が帰り始め最後は峯一人になった。

「ママさん、僕もお勘定を。ボトルが空になっちゃったからその分も一緒に」

「キープ? ありがとう。今日は遅くまでいてくれたわね」

「楽しかったしそれに明日休みだから」

「そうか、明日は土曜だったわね」

ママは勘定書きに請求金額を記入してカウンターに置いた。

峯が支払いをすませて店を出ると真弓とママは手を取り合って女学生のようにはしゃいだ。

「ママ、見た?!」

「見た見た!」

「やっぱり日付けじゃなくてゼロだったね!」

「ゼロ? あれマルよ」

「だってボトルを空けたから残量ゼロってことじゃない?」

「ううん、マルよ。お釣り用意しながら書いてるとこ見たもの。新しくキープしてくれたじゃない」

「ゼロとマルに違いがあるの?」

「真弓ちゃん知らないの? 指で書いてみなさいよ」

「そうか、マルは時計回りでゼロは反対ね」

「次に飲みに来た時にどれくらい残ってるか、それが峯ちゃんのふところにとっては一大事なのよ」

「ってことは今日のマルは……」

「手付かずのボトルが次に来た時に1本丸々あるっていうのが嬉しいのね、きっと」

「ママ、なんか私、胸がキュンキュン苦しい!」

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