あるはなし

@okurayamanoue

あるはなし

 一足の白いスニーカーが乱雑に脱ぎ捨てられている。

 左を向けばカップラーメンのゴミが積み重ねられた流しがある。全て同じ商品のゴミが十個ずつ、三列に分けて重ねられていた。

 右を向けば、水垢のない鏡と洗面台が見える。バスルームへの扉が開け放たれているのだ。

 棚には白いバスタオルが三つ、整然と畳まれている。天井からは新品同然のシャワーカーテンがかかっている。廊下を抜けると、そこには五畳の和室があった。


 窓から差し込むわずかな日光によって畳は日焼けし、煙草に燻された、黒ずみつつある壁には、住人の持つあらゆるものが寄せ集められていた。

 洗われたことのないシャツとジーンズ、五回履くごとに買い替えられる下着、中身のない長財布、黒いスーツケース、木製の裁縫箱、まだ三本入っているキャメルの箱、安物のライター、ダクトテープ、ちゃぶ台、キャットフード、布切れ、ハサミ、爪切り、ペンチ、小さな鍋、それが全てだ。


 部屋の主が五畳の中を落ち着きなく歩き回っていた。平凡な顔立ちをしている。しかし、人好きのする平凡さである。どこに居てもおかしくない顔だ。

 ひげを剃ったばかりのような口もとを痙攣させ、彼は何度も足元を見ていた。

 そこでモゾモゾと動く少女を観察している。彼がさらってきたのだ。神社の石段を一人で見つめる少女を、彼は自らが運転する軽自動車のトランクに押し込んだ。まず口を塞ぎ、手足を拘束して持参したスーツケースに入れた。そうして彼の部屋に。


 少女は近辺にある私立中学校の制服を着ていた。口には布切れが押し込まれ、ダクトテープで封をされている。少女の顔立ちは平凡ではない。平凡でないのはその美しさだ。この年にしては整いすぎている。可愛らしいのではなく美しい。どこか西洋風の目鼻で、肌は陶磁器のようである。その美しさは非凡なものだが、非凡ななりに平凡でもある。真に美しいものの中に置いてしまえば、すぐに見失ってしまう美しさだ。


 少女の目には涙が浮かんでいた。両手足もダクトテープで拘束されている。少女の腕力では容易に断ち切れない。それぞれに惜しげもなく、ぐるぐると何重にも巻かれている。

少女の長くツヤのある黒髪は散らかり、床に広がっていた。手入れの行き届いた髪である。散髪にも気が使われていることが分かる。男はそれを踏まないように注意しなければならなかった。男は少女を丁重に扱っていた。少なくともそのつもりでいた。


「声をあげてはいけません」


 男は言った。思春期の男児のような声である。彼は歩くのをやめて、自分の口を触っていた。少女は何度も大げさにうなずいている。彼女にはなにが何やら分からない。ただ、気がつけば息苦しく拘束され、見知らぬ男に話しかけられているのだ。とにかく、異常な状況であることだけは判別がついていた。


 男はペンチを拾って少女の側にかがんだ。彼は少女のまだ幼い、しかしすらりとした手を取り、右手に持ったペンチで少女の左薬指の爪を剥ぎ取った。肉に張り付いているものだから、容易にはいかない。その手際の悪さが、かえって少女に苦痛を与えていた。


 少女は絶叫した。

 口に詰められた布によってその声は彼女の中に押しとどめられ、外にはただくぐもった息が漏れるのみだ。男はその爪を裁縫箱の中に、愛おしげにしまった。裁縫箱には新品のまち針が山のように入っている。


 次は右薬指の爪を、先程よりもゆっくりと剥がした。少女が痛みから逃れる術はなく、彼女の声は涙や鼻水、汗や尿の形として体外に流れ出ていた。

 男はペンチを持ったまま、少女の口に貼られていたダクトテープを剥がした。

 中からよだれにまみれた布切れが吐き出される。口から糸が引いていた。


 少女は乾いた咳を何度かし、体をくねらせた。彼女の顔は真っ赤になっていた。布切れが喉に入らないよう、呼吸にも難儀していたのだ。少女が声をあげることはなかった。というよりも声が出ないようである。恐怖と苦痛のために、彼女の中で言葉がまとまった形を持つことができなかったのだ。


 男はペンチを置き、ハサミを手にした。少女は後ずさりし、壁にもたれかかるような形になった。男は、少女の吐き出した布切れをハサミで一口大に切り刻み、その一片を口にふくんだ。男はハサミを置いた。音を立てて布を咀嚼している。味わっているようである。

 しばらくの間、沈黙が流れた。荒々しい風が窓に吹き付けている。


「おなかがすいていますか」


 男は少女の前の床に鍋を置くと、キャットフードの袋を開け、鍋に中身を移した。茶色っぽい、ぱさぱさとした、典型的な餌である。少女は鍋と男の顔を交互に見た。


「食べないんですか」


 少女は首を横に振った。男は黄ばんだ指先でキャメルの箱をつまみあげ、一本の煙草をくわえた。ライターで火を点け、まずそうに吸い込み、鼻から煙を吐き出した。

 紫煙が部屋に充満し、少女は軽く咳き込んだ。中途まで煙草を吸うと口から離し、火を少女の肌に近づけた。少女が火の温度を感じるほどに近づけている。

 男は無表情である。煙草の燃焼する音と衣擦れの音が、煙とともに黙りこくっている。風はいつの間に止んでいた。


 鍋に顔を突っ込み、少女はキャットフードを食べ始めた。手は背中の側で拘束されているから使えない。ダクトテープの強力な粘着剤のねばつきが口の周りに残っている。生臭く、薄味なキャットフードが少女の口の中でほどけ、彼女に吐き気を覚えさせた。美味いはずもない。男は煙草の灰を鍋の中に落とした。彼女はそれも食べなければいけなかった。彼女はそう理解した。


 乾いた喉をなんとか開き、キャットフードを飲みこんだ。ふと、男は少女の首もとで煙草の火を消した。まったく何気ない動作のようだった。彼女の体は暴れ、鍋が倒れる。キャットフードが床に散らばった。

 空になった鍋に、男は水道水を波々と注ぎ、少女の前の床に置いた。キャットフードは散らかったままである。火の消えた煙草も床に放置されてあった。鍋に満たされた水には、煙草の灰とキャットフードのカスが浮かんでいた。


「飲んでください」


 少女は口をつけて飲み始めた。灰が水をざらつかせている。水は二リットル弱あるようだ。少女の前髪が鍋につかる。何度か水が鼻に入る。それでも一息で四分の一ほどは飲んだ。少女は顔をあげる。水が首筋をつたい、制服の胸元が濡れた。


 男は口をつぐみ、ただ鍋と少女の胸元を見ていた。少女は再び水を飲み始めた。身体にとって無用な異物の含まれた液体を、少女は懸命に飲んだ。また四分の一ほど飲んだが、苦しげな息継ぎをしていた。緊張と拒絶の吐息である。


 顔をあげると、少女は嘔吐した。鍋に、胃の内容物と水分の混じったものを吐き出した。嘔吐を終えて、何度かえずいた。それで彼女の顔色は幾分かよくなった。

 その代わり、鍋の中身はずいぶん酷い色になった。胃に押し込まれ、溶け始めたキャットフードが浮かんでいる。底に溜まっていた灰がかき混ぜられている。そこに吐瀉物の黄色が加わって、水はどす黒くなっていた。男はなにも言わない。ただ鍋を見ている。少女は身をこわばらせ、男の瞳を見た。そこには歓喜の色が浮かんでいるようだった。少女にはそう見えたようだ。彼女の顔色はさっと青くなり、男はにやりと笑った。


「これを飲めとはいいませんよ」


 男の口角は上がりつづけている。彼の興奮は最高潮に達していた。彼の最高潮は新記録をマークしていた。男は鍋を手にとり、床に捨てた。

 と、チャイムが鳴った。古ぼけた電子音である。男もこれにはびくりとした。男はどうしたものかと逡巡したが、その間にもう一度チャイムが鳴った。少女は口を開けるが、どうしても声が出ない。何度も口を動かすがどうしても出ない。


「田辺さんのお宅ですか」


 扉の向こうで、しゃがれた声が尋ねる。ほとんど空気だけが出ているような声であった。しかし明瞭に、扉で隔てられた室内にも通る声だ。男は立ち上がった。男の名前は、たしかに田辺であった。


「開けてくださいませんか、田辺さん。隣の部屋の者でございますが、どうぞ開けてください。部屋に入れてください」


 声はゆっくりと言った。何度かドアノブを回し、開けられないか試している。再びチャイムが鳴り、田辺の表情は強張った。


「ご要件は」


 田辺は落ち着いた声色で言った。終始この調子である。少女は床で体をねじらせ、動き、大きな音を立てようと奮闘している。

 黒髪にホコリがつき、自らの尿で服を濡らしても、膝を擦りむいても構わず暴れている。田辺は少女のみぞおちを蹴りぬいた。三度えずき、再び嘔吐して、それで少女は押し黙ってしまった。


「ご要件は!」


 扉の向こうで、田辺の言葉が繰り返された。甲高く、不快なノイズのような声だ。もう一度チャイムが鳴る。もう一度チャイムが鳴る。電子音は部屋の中に、徐々に迫ってくるようだ。もう一度チャイムが鳴る。「ご要件は!」チャイムが鳴る。扉が強く叩かれる。金属製の扉がガタガタと揺れる。「ご要件は!」扉は強く叩かれている。「ご要件は!」何度もドアノブが回される。扉は強く叩かれている。「部屋に入れてください!」「田辺さん」「ご要件は!」しゃがれ声は少しずつ変調し、聞き覚えのあるものへと移っていく。チャイムが鳴る。「開けてくださいませんか」扉は強く叩かれている。ドアノブが回されている。「ご要件は!」


 田辺はドアスコープを覗いた。赤いチェックのシャツと、黒いジーンズを履いた平凡の男がそこに立っている。おかしな様子はない。口を開いてすらいない。ただ、その平凡な男は田辺と瓜二つであった。


 田辺は腰を抜かした。「ご要件は!」その間にも男は声を上げている。扉は叩かれている。チャイムは鳴っている。田辺は少女のほうを恐る恐る見た。反吐と涙で顔を汚した少女が居る。田辺は落ち着きを取り戻した。彼は、自分の気が狂ったわけではないことを理解した。あるいは理解しようとした。よろよろと立ち上がり、ドアスコープを覗く。扉の前には何者も居なかった。ただ、やはり声は続いている。扉は叩かれている。チャイムは不安な電子音を鳴らしている。

 少女は歯をガチガチと言わせて震えていた。風が窓を揺らす。バスルームでは誰かがシャワーを浴びていた。下の階からテレビの砂嵐が聞こえてくる。隣の部屋では誰かが話している。少女の失禁した跡が、畳に染みになっていた。どこかから、人間の息遣いが聞こえるようだった。


「居ないのか」


 声は言った。全ての音が止み、煙草の臭いだけが奇妙な現実味を帯びていた。田辺は大きく息をつき、脱力した。

 少女はむしろ落胆した。状況を変えてくれる可能性があるのは、あの恐怖のみだったのだ。少女の震えはまだ収まらなかった。暴力に蹂躙されまいとしていた心が、暴力以上の恐怖によってタガを外されてしまっていた。彼女は家族と自分の部屋のことを思い出そうとしたが、上手くいかなかった。なにを考えようとしても、すぐに目の前にいる男の一挙一動に意識が引き戻されてしまう。彼女は祈っていた。どこか別の世界に行けるように。死んでしまっても良いとすら思っていた。

 田辺は、自分の手に持った鍋を見た。それが頼もしい存在であるかのようにきつく握りしめると、彼は扉を開けた。鍵はかけていなかった。彼は無用心な自分を呪った。しかし、あの存在は彼の部屋に入ることができなかったらしい。扉の前にはやはり誰も居ない。アパートの廊下が伸びているだけである。騒ぎを聞きつけた住人が扉から顔を出していることもない。田辺はほっとため息をついた。


「田辺さーん」


 階下から女性の声が聞こえた。田辺は片眉を上げる。管理人の声だ。


「今度、伺いますねー」


「はーい」


 田辺は反射的に返事をした。管理人は彼に親切な数少ない人間のうちの一人である。しかし、用も告げずに訪問してくるのは妙だ。それに、しばらくの間、部屋に来られるのは都合が悪い。彼の部屋ではれっきとした犯罪行為が行われているのだから。かと言って、今から大声を出して、来られてはまずいと言うのも勘ぐられて面倒だ、なに、事が済むまでは居留守を使えば良いのだ。彼はそう思った。


「伺いましたー」


 彼が部屋に引っ込んで、扉を閉めようとした途端に、管理人の声が廊下からした。田辺は不審がったが、とにかく今は都合が悪いと言うしかない。彼は扉から顔だけを出した。そこには誰も居なかった。

そして、その時には当の田辺すらそこには居なかった。彼は消失していた。

 少女は困惑した。すぐそこに居た人間が、目の前で消滅したのだ。彼は天井をすり抜けるようにストン、と、どこかに行ってしまった。彼女は、何者からか逃れようと、必死に手足に力を込めた。彼女の目には田辺の残像があった。彼がなにか大きな力で、天井に引っ張られていくのを、彼女は見ていた。その大きな力の正体は彼女には分からない。ただ、田辺が立っていたところに、今、なにか居ることは分かっていた。



「……と、まあ、そういうわけです」

 スーツを着た男が、蝋燭を吹き消した。部屋は蝋燭一本分暗くなった。

「それで終わり?」

 甚兵衛を着たあごひげの男が不満げに言った。

「ええ、終わりです」

「ちょっと待った。ダメだよ、ちっとも怖くないんだから」

「そうですか?」

「うん、怖くないね。まずもって何だって、その田辺とかいう男は女の子をさらったのかがわかんないし、その謎の声の正体もわかんないままで、しかも肝心な結末がないじゃないか。スランプ?」

 あごひげの男は、スーツが吹き消した蝋燭にもう一度火を点けた。骨太で、いかにも豪胆そうな男だ。

「あと五十六本ですよ、サクサク行かないと」

 スーツの男の青白い顔が照らされている。蝋燭の乏しい光線ではなお白く見える。平凡な顔立ちだ。しかし、その平凡さの中に非凡さがある。おや、と思わせる表情があるのだ。彼はまばたきをし、あごひげの男を見つめた。

「いや、納得いかないね。これじゃあ動画にしても面白くない。もういっぺん、ちゃんとオチもつけて喋りなおしてよ。一個前の話はリアリティがあってよかったのに、今回はそれもないんだから」

 あごひげは腕を組み、スーツの男の目を見た。二人は百本の蝋燭に囲まれ、向き合って座っている。そのうちの四割ほどは火が消えていた。蝋燭の輪の外には、三脚に乗ったビデオカメラが彼らの姿を撮影していた。撮影中を示す赤いランプが点灯している。

「そうは言ってもですねえ、私も知らないんですよ、オチなんて」

 スーツの男は懐からキャメルの箱を取り出し、一本くわえた。ため息混じりの言葉が漏れ出している。

「それにリアリティがないって言われましても……」

「ほらほら、やる気だしてよ。煙草はダメ。収益化できなくなっちゃうから」

 あごひげはスーツから煙草を取り上げ、床に捨てた。

「おれも一緒に考えるからさ」

「そうですか……」

「まず、なんでその田辺は女の子をさらったわけ? そういう変態ってだけなの?」

「そうですねえ……まあ、そういう部分もあったのかも知れませんね」

「他に思いつかんよ」

「こういうのはどうです。ただ少女が苦しみ、怯える顔が見たかっただけっていうのは」

「いやあ、それはそういう変態ってだけじゃない。おれが言ってるのと一緒だよ」

「それだけじゃありません。つまり復讐しようとしたわけです。男は少女になにかしら恨みがあったのかも」

「もしそうなら、その田辺ってやつは随分とイカれてんだねえ。ならそうやって描写してくれないと。ほら、人間が一番怖い系かと思いきや、それを上回る怪奇現象! みたいな」

「そうかも知れません」

「で、あの声はなんなんだろう? なんで田辺は消えちまったの?」

「さあ……皆目分かりません」

「わかんないじゃ困るよお。適当なやつを考えてみてよ。さっきまでの怪談もよくできてたっていうのに、今回だけえらく妙な話しじゃないか」

「怪談の類は調べればいくらでも出てきますから。……いいでしょう、もうこの話は。普通の怪談に、他の話に移りましょう」

「そいつが早くていいや」

 あごひげは頷き、スーツの男は各地で聞いて回って来た話を、まるで自分が体験してきたかのように語り始めた。夜はますます更けていく。


「と、まあ、これにて百物語終了でございます……」

 スーツの男が最後の蝋燭を吹き消した。部屋は真っ暗になり、二人の男の声だけが響いていた。

「電灯のスイッチは……」

「そもそもなんで手元に懐中電灯を用意しなかったんですか」

「誰にも言われなかったから仕方ない……蝋燭が全部消えたら真っ暗になるとはなあ……」

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