ヤエコ
松川さんが愛犬を連れて動物病院へ行った時のこと。
病院は松川さんの家からは少し離れているが、先生の腕も人柄も良いため先々代の犬がいた時からそこで診てもらっている。松川さんと同じように先生を慕う人は多く、いつ行っても待合室は診察待ちの人とペットで溢れている。
その日も、松川さんは膝に愛犬を乗せ、隣に座った猫連れのおばさんと世間話をしながら順番を待っていた。
しばらくすると自動ドアが開き、背の曲がったおじいさんが入ってきた。手にはスーパーの白いレジ袋が握られていた。ペットは連れていないようだった。
おじいさんは一直線に受付へ行き、「さっき電話した者ですが。ぐったりしてるんです」と言う。
「うちで診察されたことはありますかね?」
「いや……あのね、うちに来て子ども産んでから避妊手術をしたんですよ」
「そうですか。その、避妊手術はどこの病院でされましたか?」
「それでね、しばらくは元気だったんだけど、最近調子が悪くなってしまって」
受付の人との噛み合わない会話に、待合室にいた全員がおしゃべりを止めそっと耳をそばだてる。
「えっと……今日は一緒に来られてますか? 初診の方はお薬だけは出せないので、もし今日連れて来ていないなら予約していただいて……」
「ヤエコっていうんです」
そう言うとおじいさんはレジ袋をがさがさと探って中から一枚の写真を出し、受付に置いた。
「えっ?」
受付の人が目を見開いて写真を凝視している。
おじいさんはまた袋から何かを取り出そうとしたのか、手を入れる。その途端に袋が破れ、中から黒い土くれのようなものがポロポロとこぼれ落ちた。
それを拾い集めようとしておじいさんが松川さん達の方を向く。すると隣のおばさんが「あれ、橋本さん?」とつぶやいた。
おじいさんは緩慢な動きで顔を上げる。おばさんを見ると、こぼしたものをそのままに足早に病院を出て行った。
その場にいた皆で顔を見合わせる。
「近所に住んでるおじいちゃんなんだけど、一人者で、ペットなんて飼ってないはずだけどねぇ」
そうおばさんが言うと、受付から「ペットじゃないみたいです」と震える声が聞こえてきた。
「ほら……」
受付の人が持つ写真には、若い女性が写っていた。
松川さんの向かい側に座っていた男性が「子ども生んで避妊手術したって言ってました、よね?」と言う。
「いやぁ、あの人ずっと一人だけど? 家に誰かいるような感じでもないし…………あ、だいぶ前に畑で何かしてたから『精が出ますね』って声かけたのよ。そしたらおじいちゃん『植えてるんですよ』って言うの。でも小さい立て札みたいなのがあるだけで、いつまで経ってもなんにも生えてこなかったの。あれって、」
『埋めてるんですよ』って言ってたのかしら――
海を越えない怪異録 ツカサ @tsukki0922
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