エピローグ
あれから一年が過ぎて、また夏がやって来た。
俺は就職をした。理由は簡単で、生活資金が底を尽きたからだ。就職とは言ってもデスクワークではなく、現場仕事の類だった。小説を書くこと以外でパソコンを打つことが何となく許せなくて。
仕事の合間にひりひりと肌を焼かれながら、突き抜けるような青空と、白く光る入道雲を見れば嫌でも思い出す──彼女のことを。
あの夏休みは確かに夢物語だった。俺が思い描いた青春だった。青春というものに執着していた。
ワナビ友達の彼に言われたことがある。
「君は青春に親でも殺されたのかい?」
今になってみれば、まったくだと思う。異常なまでに青春に執着して、同じような話ばかりを書いていた。
それでも、彼女と出会って──良くも悪くも、俺の作風は変わった。
どうしようもない現実の痛みたちを。それらを含みながらも拾う些細な幸せを。このクソみたいな現実の中で、瑠璃や玻璃の破片のように輝く何かを。
そういうものを、書くようになっていた。
俺にとってのその幸せは、紛れもなく彼女がくれた夏休みだ。それを昇華できたからこそ、今の俺がある。
なんて。
言ったところで──俺が彼女に何もしてやれなかった事実は変わらないのだが。
一人満足して勝手に変わった気になって、穏やかに時が動き出すような。俺が今まで書いてきた小説のような。そんな終わり方──俺は、御免だ。
あの後彼女から音沙汰はなかったし、俺の家を訪ねてくることもなかった。きっと彼女に送った小説が彼女の手元に届くことはなかったのだろう。つまりそういうことなのだ。俺は彼女に何一つしてやることができなかった。
現実は非情だ。それを知った今、俺は俺が今まで書いてきた物語を──嫌いになっていた。
信じられるのは、彼女に送った──無責任で曖昧なハッピーエンドを詰め込んだ、そんな小説だけ。
そして、ひと夏だけを切り取った、あの夏休みの物語だけ。
「おい、休憩終わるぞ」
そんな考えに耽っていたら、職場の先輩に声をかけられた。
「あっはい。今行きます」
俺は慌てて駆けて行った。生活するには金が要るからだ。
仕事が終わって家に帰ればすっかり暗くなっていて、そのまま寝てしまいたい気持ちは山々だったが、それでも俺は仕事終わりに毎日欠かさず小説を書いていた。ワナビ友達の彼が言っていたこと思い出す。
「書くことをやめたら、過去を恨むしかなくなってしまうから」
彼はやはり俺よりもずっと聡明だ。何も考えずただ掻き立てられるように書く俺と違って、書き続ける理由をちゃんと理解して、持っている。
そんなことを考えてパソコンをパチパチとやっていると。
──玄関チャイムが鳴った。
誰だ? こんな時間に。隣人からの騒音の苦情か、家賃の催促か。何にしても面倒なので無視を決め込んでいると、玄関チャイムが連打される。あまりにもうるさいので両隣から苦情の壁ドンが聞こえてくる。
仕方ない。重い腰を上げてドアを開けると、そこには──。
「どうも。ちょっとだけ不幸だけど自分はヒロインだからいつか幸せになれると信じ込んでいる哀れな少女です。ひと夏の物語に逃げ込みに来ました」
──彼女が、いた。
「………………読んだのか」
開口一番、出たのはそんな言葉。
他にもっと言うことがあっただろう、家は大丈夫なのかとか、何もしてやれなくてすまないとか、なんか、こう──。
しかし彼女は気にしたふうでもなく答えた。
「ええ、読みました。無責任なハッピーエンド風味の似たような作品ばかりで辟易しましたね。それと、また『私』の話を書いたでしょう。本当、気持ち悪いですね」
口の悪さは健在だった。
「──……でも、嫌いじゃなかったです」
そう言って、彼女はにっこり笑った。
「あなたに何かして欲しかったわけじゃありません。どうせ私に何もできなかったとかで一年うだうだ悩んでいたんでしょうけど、全くもって時間の無駄です。そんなことをするくらいだったら小説を書くなり就職をするなり何なりしてください」
「就職はしたよ。金がないもんでね」
「そうでしたか。それは何よりです」
さして興味もなさげに言うと、彼女は──長い黒髪に白いワンピースがよく似合う彼女は、我が物顔で俺の部屋に上がり込んだ。
「何勝手に入ってんだ。お邪魔しますの一言くらい言え」
「嫌ですね。邪魔なんかしませんので」
「家主への口の利き方に気をつけろよ。邪魔でしかないだろ」
俺が文句をたれると、彼女はいたずらっぽく笑う。
そして彼女は、言った。
「いいえ、違います。何者でもないのに自分が不幸のヒロインだという思い込みから抜け出せない、そんな哀れな少女のところに現れてひと夏の幸せをくれる主人公──それが、あなたです」
お前は青春に親でも殺されたのか? 木染維月 @tomoneko
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