6
その夜。
俺は小説を書いていた。
存在しない夏休みに焦がれたことはあるか?
田舎の村で、青々とした山と光る入道雲に囲まれて、白いワンピースを着た黒髪の少女とひと夏の思い出を作りたいと思ったことはあるか?
自分たちより背の高いひまわり畑で、麦わら帽子の少女と駆け回りたいと思ったことは?
俺か? 俺はある。万年そんなことを考えて、いつもそんな話ばかり書いていたさ。
ヒロインと主人公が何らかの形で出会って。夏休みを謳歌して。何らかの事情でヒロインが姿を消したり死んだりして、主人公は暫く絶望に明け暮れるが、季節が巡って、少しだけ前を向いて、穏やかに時間が流れ出して終わる。
そんな話ばかり書いていた。
でも──今書くべきは、そんな話ではなくて。
ヒロインがいた。そいつは社会的に見ても不幸な──端的に言えばネグレクトみたいな環境で、育っていた。しかし彼女はそれでも幸せだった。彼女には彼女なりの幸せがあって、それを守っていた。守ることで自分は幸せだと信じた。
ヒロインがいた。そいつは社会的には恵まれた環境にいて、衣食住何一つ不自由なく育っていた。しかし彼女は不幸だった。それでも彼女はいつしか環境が変わって、幸せになれると信じていた。現状が不幸だと認めることで、未来の幸せを夢見ることができた。
ヒロインがいた。そいつは生きる意味が分からなくなって、死にたいと思っていた。しかしそいつにもいつしか救いの手が差し伸べられて、とりあえずしばらくは生きてみることにした。救いの手とされた者もまたそいつと同じような人間だったから、それは共依存だった。それでも二人は支え合って生きることを選んだ。どちらかが倒れればいとも簡単に崩壊する危ういものだったが、それでもその時二人は幸せだった。
ヒロインがいた。そいつは変わり者で異端で、社会から爪弾きにされていた。しかしそいつにもそれを受け入れてくれる環境が見つかった。そこ以外ではとてもやっていけないかもしれないが、それでも一時的な幸せを手に入れた。
ヒロインがいた。そいつは端的に言えばクズだった。しかしそれはそいつに余裕がなくて、たくさん不義理をはたらいてしまって、結果的にクズになってしまった人間だった。しかしそいつはいつしか余裕を取り戻して、新しく人間関係を築いた。過去の不義理は消えないが、それでも今は幸せだった。
ヒロインがいた。そいつは夜職に手を染めていた。社会的にはろくでもないかもしれないし、夜職で摩耗していく精神もあった。それでも彼女はそれなりに幸せだった。貯金もできた。彼女が若さを失った時、未来なんてないかもしれないが、それでも今を幸せに生きることはできていた。今が幸せだからきっと何とかなると信じることにしていた。
そういう、無責任で曖昧なハッピーエンドの話を──大量に書いた。ご都合主義の主人公なんか現れないし、完全な幸せなんか手に入らない。それでも、どこに立っていたってきっと幸せになることはできる──そういう話だった。無責任だと分かってはいた。それでも──彼女に、不幸であることも、幸せになることも、諦めて欲しくなくて。
俺にできることは、たったそれくらいのことだった。
俺は兄さんの家にその小説を郵送した。彼女の名前と住所は母親から聞いた。送り元を書けばきっと兄さんは捨ててしまうだろうから、宛名だけ書いて俺はそれを送った。
それが彼女にとって何になるのか、そもそもそれが彼女の手元に届くのかすら分からなかったが。何もしないよりは幾分マシだと思った。主人公でも何でもない俺には、それが精一杯だった。
俺たちが逃げ込んだ、夏休みという夢物語。現実はそれを容赦なく破壊していった。それでも──それでも、あの夏休みは確かに存在していて、誰にも穢すことのできない思い出だ。俺は少し考えて、あの夏休みの話を小説に同封した。きっと彼女はまた呆れたように、「また『私』の話を書いたんですか。本当に気持ち悪いですね」と言うだろう。それでも、きっと一時的な夢物語は存在すると言いたかった。どこからどんな現実が降りかかろうと、たった二人の間だけならば夢物語は成立するのだと。そう言いたかった。
小説を送ってしまうと、俺はまた暇になってしまった。彼女のことを考えながらまた小説を書く日々が続いた。作風は少し変わった気がするが、あまり気にならなかった。
俺は、あいつの知恵を借りることにした。ワナビ友達、略してワナとものあいつに。
◆
「……なるほどね」
彼は例によってコーヒーを啜りながら言った。
「主人公」が似合う彼なら、何かとびきりの解決策を持っているかもしれないと、淡い期待をしていた。
「つまり『ヒロイン』ちゃんは君の姪っ子で、家庭環境があまり良くなくて、君の元に逃げ込んできていたと」
「まぁそういうことだな」
「で、君はヒロインちゃんにしてあげられることを探していると」
「……まぁ、そうだな」
そう言うと、彼は盛大にため息をついた。
「君のお兄さんの性格と君の生活を鑑みるに、君が彼らの家庭に干渉できる余地なんかないと思うけどね。少なくとも僕には思いつかない」
「お前に思いつかないんだったらお手上げだよ。俺には思いつかなかったからお前に相談したのに」
「君は僕のことを何だと思っているんだ。別に賢くもないし、君と大して変わらない人間だよ。ヒロインちゃんに何かしてあげたいならもっと別の人間を頼ることだね。それこそ君のお母さんとか」
まったくもって正論だった。俺が兄さんの家庭に干渉する手立ては母親を通すくらいしか思いつかない。
「……お前は、容姿もいいし俺よりは幾分頭もいい。お前には『主人公』が似合うよ。だからお前を頼った。お前なら『物語』を動かして、大団円に持っていくだけの力があるんじゃないかって」
「僕を買い被りすぎだね。それと、これは君が散々言っていたことだけど、これはどうしようもない『現実』なんだよ。物語じゃない。綺麗に大団円で終わることなんかできるわけがないんだ。一瞬を切り取れば物語にすることもできるかもしれないけど、その前にも後にも人生は続くんだ。それが現実ってものだし、僕らはそれが気に食わないから小説を書いている。違うかい?」
「違わないさ。だからこの現実が気に食わなくて、躍起になってる」
「分からない奴だね、君は」
彼は盛大にため息をついた。
「ヒロインちゃんに何かしてやりたい気持ちは分かるよ。でも僕らにはその力がない。それが現実だ。どうしようもなくね」
「……まぁ、そうなるよな」
今度は俺がため息をつく番だった。
彼なら何とかしてくれるという期待があったのは確かだが、一方でそんな都合のいい話があるわけがないとも分かっていた。
「ヒロインちゃんにしてやれることなんて、思いつくとすれば僕より君の方だろう。何か思いつかなかったのかい?」
「…………申し訳程度のことは、した。ただそれがあいつにとって何の力にもならないことは分かってるんだ」
「意外だね。何をしたんだい」
俺は彼女に送った小説の話をした。曖昧で無責任なハッピーエンドの話を大量に送り付けたこと。俺たちの、俺たちだけの夏休みを物語という形にして書いたこと。しかしそれが彼女の手元に届くかどうかは分からないこと。
俺にできるのは、せいぜいそれくらいのことだった。
「いいんじゃない」
彼から返ってきたのは、そんな無責任な肯定の言葉だった。
「それは今のヒロインちゃんに必要なものかもしれないよ。分かんないけど」
「適当だな」
「僕はヒロインちゃんのことをよく知らないしね。まぁ、せいぜいそれがヒロインちゃんの手に渡ることを祈ることだよ」
「そうだな。兄さんの性格ならよく分からない郵便物を勝手に捨てるなんてやりかねない」
結局何の実にもならない会話をして、俺たちは解散した。喫茶店を出ると、ちょうど夕暮れ時だった。秋の日は釣瓶落としと言う。初秋の空気は夏の残滓を残しながらもどこか冷たくて、夏は終わってしまったのだと実感せざるを得なかった。夏の残り香に縋るようにして、俺は暮れ方の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
日が暮れてしまう前に帰らなければ。
例えば俺に経済力があって、俺の兄がそれを許せば、彼女を引き取って育てるなんて選択肢もあったのかもしれない。或いは教育虐待というものを児童相談所が取り沙汰してくれるのならそれも一手だっただろう。しかしどちらも非現実的な話だった。
──俺にこれ以上できることはないのか。
ないのだ。ないからこそ現実で、俺は主人公なんかではなく、あいつもヒロインなんかじゃなかった。それこそが現実なのだ。
俺は家に向かう路を力なく歩いた。暮れの空の色が、嫌味なほどに綺麗だった。
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