5
家に帰ると、携帯電話に母親から着信があった。姪っ子の件もあるし、さすがに無視するわけにはいかなかった。今はとてもそんな気分にはなれなかったが、俺は渋々電話に出る。
「……もしもし」
『もしもし。……あんたの姪っ子の件なんだけど』
「あぁ。何か分かったか?」
『さっき帰ってきたって。ただ、家から持ち出した荷物がなくて──着て行った白いワンピースに、バッグ一つだけ持って帰ってきたらしいの。まぁ、明日の始業式に出てくれさえすればあんたの兄さんは何でも良いみたいだけど』
「そうか。まぁ、帰ってきたなら良かった」
言いながら、俺は何か引っ掛かるものを感じていた。
白いワンピース。
彼女の象徴とも言えるそれが今この場で出てくるなんて、偶然にしては出来すぎていた。
「……なぁ、俺の姪っ子ってどんな子なんだ? なんか、容姿の特徴とか」
『何よ、急に。そうねぇ、綺麗な黒髪の女の子よ。髪は随分長かったかしら。色白で可愛らしい子だったわね。ただ、ちょっと捻くれたところのある子だけれど』
「…………そうか」
『どうしたのよ。姪っ子に会いに行く気にでもなったの? あんたの兄さんは家の敷居を跨がせてすらくれないと思うけどね。あんたみたいなろくでなしを家に上げたくないだろうから』
「違いないな。まぁ、何となく聞いてみただけだ。姪っ子が見つかって良かった。それじゃ」
言って、俺は電話を切った。
──全てが急速に繋がっていくのが分かった。
あいつはヒロインなんかじゃない。他でもない──俺の、姪だったのだ。そして、最初に俺が尋ねた通り、あいつは家出少女だったのだ。
俺には兄がいた。
何をやらせても優秀で、俺には似ても似つかない兄が。
容姿も良く文武両道で、成績は常に学年トップクラス。最善のレールの上をなぞるように、良い高校に進み、良い大学に進み、良い会社に就職した。そして綺麗な嫁さんを貰い受けて、家庭を築いていた。完璧な人生と言って差し支えないだろう。
ただ──これは母親から伝え聞いた話だが、兄には一つだけ致命的に向いていないことがあった。
人の「親」であることだ。
兄は致命的に親というものに向いていなかった。自分がなまじ優秀であるがために、自分の子供にも同じレベルを求め、強いた。行き過ぎた教育、休む間もない習い事や塾の数々。「教育虐待」なんて言葉があるが、兄の強いたそれはまさしく教育虐待そのものだった。そして過剰なまでに世間体を気にし、世間で悪とされるものは一切禁じてきた。ゲームや漫画、放課後の友達との遊び、その他子供の娯楽と言えそうなものは全て禁止していたそうだ。
つまることろ。
そんな現実に嫌気が差して家出して、「物語」の中に逃げ込んできた少女──それが、俺の姪だったわけだ。
俺の家の住所をどうやって知ったのかは分からないが、恐らくろくでなしの叔父がいることはどこかで聞いていたのだろう。常に完璧を強いられた彼女は、ろくでなしの俺に助けを求めた。
それを汲み取ってやれなかったのは、俺だったのだ。
あんなことをしてまで金を貯めていた理由は想像に難くなかった。彼女は一刻も早くあの家から出て行きたかったのだ。恐らく今の彼女は高校生、学校の用事とでも言えば少しばかりの時間は作れるはずだ。その中で一番効率よく金を稼ぐ方法があれだった。たったそれだけの理由で、彼女はその身を売っていたのだ。
俺は──俺のすべきことは、今は原稿なんかではない。それだけが分かっていることだった。
しかし今の俺に何ができる? 兄の連絡先すら知らない俺が、一体彼女に何をしてやれるというのだ。
俺は「主人公」なんかではない。彼女が「ヒロイン」でなかったように。
だから、当然のように──ここから大団円に持っていくような力などないのだ。
一人の部屋で、俺は俺自身の無力に打ちひしがれることしかできなかった。彼女は、彼女の現実に──彼女の地獄に、帰っていったというのに。
夏は終わった。紛れもない現実だけがそこにあった。
俺は、無力だ。
しかしどうして、彼女との再会の機会は早々にやってきた。
理由は簡単で、俺の部屋に置いていった荷物を取りに来たのだ。
彼女はもちろん白いワンピースなど着ておらず、始業式からそのまま来ましたとばかりに、彼女の高校の制服であろうセーラー服を着ていた。
「……どうも」
気まずそうに、彼女はそれだけ言って、俺の部屋に上がる。
「荷物だけ取ったら帰りますから。夏の間はご迷惑をおかけしてすみませんでした」
柄にもなく殊勝なことを言う彼女。きっと家に帰った彼女には、行き過ぎた叱責があったのだろう。兄の性格からしてそんなことは簡単に想像がついた。
「まぁそう言うな。茶くらい飲んで行けよ」
「あなたの家にお茶なんてないでしょう。節約だとか言って水道水しか飲まないんだから」
違いなかった。
「じゃあ水道水でも飲んでいけよ」
「それが客人に対する言葉ですか」
「仕方ないだろ。水道水しかないんだから」
こんな応酬ですら懐かしい。もうあの時間は戻らないというのに。
「夏は終わったのに夏の妖精さんが顔を出してすみませんね。夏の終わりと共に、ちゃんと私は姿を消しますから安心してください」
「妖精さんって……まだその設定貫くのか?」
「じゃあ妖精さんじゃなくてもいいです。とにかく姿を消します。そうですね、じゃあ私は不治の病でこの夏の終わりに死にます。お約束でしょう、こういうの。だからあなたはしばらく悲しみに明け暮れて、私と出会った季節がまた巡ってきた頃に少しだけ前を向いて、今までよりも少しだけ前向きに生き始めてください。なんか……就職とかしてください」
無茶苦茶なことを言い始める彼女。確かに俺はそんな話ばかり書いていた。だが──。
「じゃあ何だ、俺はお前の墓の前で桜の花を見上げて『なぁ、俺、就職したんだ』とでも言えばいいのか? ふざけんな」
「お墓はありませんよ。私、妖精さんなので」
「馬鹿も休み休み言えよ。さっき妖精さん設定は撤回しただろうが。舌の根も乾かぬうちに何言ってんだ」
「あぁ、もう、どうでもいいじゃないですか、そんなこと」
心底鬱陶しそうに言う彼女。
しかし俺が何を言ってみたところで、彼女に何をしてやれるわけでもなかった。馬鹿を言っているのは俺の方だ。
「……なぁ」
「何ですか。私に何かまだ用事ですか?」
「お前は…………俺の兄さんは……いや。何でもない」
彼女に問おうとして、やめた。
告げてしまえば、彼女が一時期でも逃げ込んできた「物語」が、台無しになってしまう気がして。
全てが「現実」になってしまう気がして。
──しかし俺が兄の名を出してしまった時点で、それは手遅れで。
「…………妖精さんだって、言ったじゃないですか」
彼女は、泣き出しそうな顔をしていた。
「……すまん。忘れてくれ」
「今更忘れられるわけないでしょう。……そうなんですね。あなたは全部知っていたんですね」
「知っていたというのは語弊があるな。今日知ったんだ」
「……そう、でしたか」
沈黙が流れた。
俺が彼女に何かしてやると言うのは違う気がした。俺がどうにかしてやるなんて無責任な言葉を吐けるほど、そしてそれを実現できるほど、俺は「主人公」ではない。彼女に無責任な希望を持たせるくらいなら、何も言わない方がいい。
「……俺の兄が、迷惑をかけてすまない」
今の俺にできるのは、せいぜいそんな無意味な謝罪くらいで。
「別に、あなたが何かしたわけではないんですから、あなたが謝る道理なんてありません」
「そうかもしれないけど」
「いいんです。別に、衣食住とか何不自由なく育ててもらってますし。高校も私立のいいところです。大学も奨学金借りずに行かせてもらえるみたいですし。私は恵まれているんです」
まるで自分に言い聞かせるように、彼女は言う。
「……『どこに立っているかぐらいで幸せか不幸せかは決まらない』」
どこかで聞いたフレーズを、何となく口にする。
「お前が恵まれた環境にいると思っても、不幸でもいいんだ。恵まれた奴でも辛いと思った時は辛くていい。逆に、不幸な環境にいると思っていても、不幸なまま幸せになる方法だってあるんだ」
彼女は黙り込んでしまった。彼女なりにこの言葉を咀嚼しているのが分かった。
「……私、不幸でもいいんでしょうか。こんなに恵まれているのに」
「いいに決まってるだろ。お前が辛いと思うなら、それは辛いことなんだ」
「……そう、ですか」
彼女はそれだけ言うと、荷物を取った。
「私、そろそろ行きます。帰りが遅くなると怒られますから。もう二度と会うことはないでしょうね」
「……そうだな」
今までありがとう、とは言えなかった。彼女がくれた夢物語は、とっくに壊れてしまっているのだから。
「それでは、さようなら」
そう言って彼女は去っていった。六畳一間の部屋に、無力な俺だけが取り残された。
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