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「なぁ、起きてくれ」


 隣でスヤスヤと眠る彼女を揺り起こす。その気持ち良さそうな眠りを妨げることに罪悪感がないでもなかったが、今はこのはやる気持ちが勝ちだった。


 書けた。ついに書けてしまったのだ。この小説こそ我が人生の最高傑作。公募に出せばたちどころに話題となり、世間はこの話で持ち切り、コミカライズや映画化ドラマ化も待ったなし、俺は一世を風靡した作家として名を残し続けるだろう。さすれば夢のように印税が振り込まれるし、このボロの六畳一間ともおさらばだ。エアコン代をケチって扇風機で夏を凌ぐのも今年が最後に違いない。もっともその扇風機すら、今は彼女に独占されてしまっているのだが。


 目を覚ました彼女は、不機嫌そうにこちらを見上げた。


「何ですか。それは本当にいたいけな少女の眠りを妨げる価値のあるものですか?」


「当たり前だ。何せ──お前がくれた最高の夏休みで書いた、小説なんだからな」


「また飽きもせず『私』の話を書いたんですか? 本ッ当、気持ち悪いですね」


 彼女の悪態は、心なしかいつもより柔らかい気がする。


 彼女と遊び回ってからというもの、俺の原稿執筆は至って順調だった。あれからずっと小説を書いている。もう何作書いたことだろうか。あとは公募に出しさえすれば俺の小説家としてのデビューは決まったようなものだ。ワナビ友達の奴には悪いがこんな生活からは一抜けさせてもらうとしよう。


 幾つか目星をつけている公募があった。立て続けに締切があるし、せっかくなら全部に出そうと考えていた。普段なら締切が迫れば「どうせまた箸にも棒にもかからないかもしれないのに」と鬱々とした気分になるものだが、今回だけはその限りではない。何せ、俺には「ヒロイン」がついている。




 来る日も来る日も小説を書いた。

 そうして、立て続いていた公募の締切も残すところ一つとなった。

 夏が終わろうとしていた。



 夏が終わる。──彼女がくれた夏休みが、終わってしまう。



 来る日も来る日も小説を書いた。

 一番最初に締切があった公募は、一次選考で落ちていた。




 「物語」に動きがない。

 何も変わらない日々、停滞した毎日。

 「自分にも可愛いヒロインさえ現れれば」「ヒロインが自分を引っ張ってくれれば」なんて思ったことはないか? ヒロインさえいてくれれば全部が良いように動いていくと思ったことはないか?


 そんなものは幻想だ。


 何事にも似合い不似合いというものがある。こと「主人公」については特にそうだ。主役を張って物語を動かすような力が、少なくとも俺にはなかった。ヒロインが現れたことで、それがはっきりと証明されてしまった。どんなにヒロインがいようが、自分が主人公でないことにはどうしようもない。


 俺は、「主人公」にはなれない。






 決定的な事が起こったのは──そう、八月三十一日のことだった。


 夏の終わりと言うに相応しい日付のその日は、夏の終わりに全く相応しくない、土砂降りの雨だった。


 そんな天気一つで、所詮俺に理想の夏も小説も生活も訪れないと、そう宣言されたような気がして──俺は、もうどうしようもない気分になっていたのだ。


 ふと携帯電話を見ると、母親からの不在着信があった。またか……と思いつつ無視を決め込んでいると、また携帯電話が震える。何度か無視を続けたが、携帯電話が鳴り止むことはなかった。


 よほど急な用事なのだろうか。俺は仕方なしに電話に出ることにした。


「……もしもし」


『あんたねぇ! 何回も電話してるのに、何回かけても出やしないんだから。まったく……』


「すまん。気付かなかったんだ。何か用事?」


『あぁそう、用事ね。そうなのよ』


 母親のため息が電話越しに聞こえる。


『あんたの姪っ子がね、行方不明なのよ。明日が始業式でしょう? さすがにまずいってことになって、今探してるんだけど。あんた何か心当たりはない?』


「俺に姪っ子なんていたのか? ……あぁ、兄さんの子供か」


『あんた本当に親戚付き合いに興味ないわね。いい加減にしなさいよ。……まぁ、そんなだし元々あんたに期待してなかったわ。他を当たってみるけど、何か心当たりがあれば教えてちょうだい』


「あぁ、分かったよ。……行方不明って、捜索願とか出してないのか?」


 尋ねると、母親は「それがねぇ」と言う。


『あんたの兄さんはあんな性格でしょう。世間体が何だとか言って、夏休みの間はいいだろう、そのうち帰ってくるだろうって。でも始業式には出てもらわないと、さすがに騒ぎになるからって』


「兄さんは相変わらずだな。あいつは世間体にしか興味がないのか」


『あんたはもう少し世間体を気にしなさい。足して二で割れればちょうどいいのにねぇ。まぁいいわ、とにかく何か分かったらすぐに連絡をちょうだい。じゃあね』


 言うだけ言って、母親は電話を切った。


 母親がたびたび電話をかけてきたのはそういう事情だったのか。姪っ子が──兄さんの子供が女の子であることも今初めて知ったが──行方不明ともなれば、しつこく電話をかけてくるのも納得できる。しかし兄さんのあの性格がそこまでとは恐れ入った。自分の娘が行方不明なのに、世間体を気にして捜索願も出さないとは。昔から世間体ばかり気にする性格ではあったが、まさかここまでとは思いもしなかった。


 まぁ何にせよ、俺の知ったことではない。自分の姪だと言われてもしっくり来ないし、全く心配ではないと言えば嘘になるが、心当たりなんてないのだからどうしようもないし。


 俺はため息を一つつくと、執筆に戻ることにした。


「あの」


 ふと、彼女が声をかけてきた。


「何だ?」


「私、ちょっと出掛けてきます。日付が変わる前までには帰りますのでご心配なく」


「おお、分かった。お前が出掛けようなんて珍しいことだな」


「ええ、まぁ、ちょっと。……ほら、私、夏の妖精さんなので。夏が終わる今日はちょっとやることがあるんです」


 言うと、彼女はスマホと鞄を持って、出て行ってしまった。──あいつ、スマホなんて持ってたのか。……まぁそりゃあ持ってるか、自称妖精さんとはいえ年頃の娘だし。




 ほんの出来心だった。

 自称夏の妖精さんが、どこに出掛けるのか。しかもこんな雨の中。

 少しの好奇心と出来心だったのだ。


 俺は──出掛けたあいつの後を、つけることにした。してしまったのだ。




 彼女は駅の方面に歩いて行った。この田舎町では駅前でも人はまばらで、隠れ蓑になりそうな人ごみなんてものはどこにもない。俺は電柱の影に隠れたりなんかしながら、さながら素人探偵の如く彼女をコソコソと追っていった。


 彼女は電車に乗る。幸いにも電車には人がそれなりに乗っており、俺は上手い具合に彼女と同じ車両に乗ることができた。


 彼女が降りた駅は、繁華街のある駅だった。年頃の娘だし、買い物でもするのだろうか? 彼女は改札を出ると、そのまま改札脇に立ってスマホを触り始めた。どうやら誰かと待ち合わせをしているらしい。友達だろうか。自称妖精さんの彼女とて友達の一人や二人いたって不思議ではない。


 ──程なくして現れたのは、中年の男性だった。


 中肉中背、特筆すべきことは何もない、至って普通の中年男性。彼女と彼は、一言二言笑顔で会話を交わした後、駅を出て行った。俺は慌てて後を追う。


 日も暮れかけて、繁華街はちょうど賑わい出す頃合だった。溢れかえる人の中で二人を見失わないよう、懸命に追いかける。


 嫌な予感がしていた。


 だって、年頃の娘と中年男性の待ち合わせだなんて、そんなの。


 しかも繁華街だ。


 二人は夜の煌めきを放つ繁華街の中を、笑顔で抜けて行った。煌々と照る数多の看板と、煩くて下品な喧騒。酔っ払った若者の笑い声が聞こえてくる。


 二人は繁華街を抜け、一本先の薄暗い路地へと入っていった。


 古びた色とりどりの看板。目立たないよう配慮された入口。「ご休憩」の文字。


 確認するまでもない。──ホテル街だ。


 そのうち一際新しそうな、小綺麗なホテル。二人はその入口へと消えていった。




 あぁ。これは、紛れもない「現実」だ──。




 いくら「ヒロイン」を自称しようと、生活するには金が要る。その方法として、彼女がやっている「それ」が手っ取り早いのは確かだ。


 一瞬でも、何の穢れもない「ヒロイン」に夢を見ていた。夢物語だと思った。


 夢物語は、現実にはならないからこそ「夢」で「物語」なのだ。


 俺は彼女が降りた駅まで引き返した。事が済めば彼女はここに戻ってくるはずだ。彼女を待ち伏せて、どうするかなんて考えてはいなかった。ただ──何も見なかったことにするなんて、俺には出来そうもなかった。




 一、二時間経っただろうか。


 見覚えのある黒髪の少女が、こちらへ歩いてくるのが見えた。


「…………どうして、ここにいるんですか」


 人通りの多いこの駅でも、彼女は真っ先に俺に気付いた。そのことが、今はなんだかとても苦しい。


「……………………、ごめん」


「私の後をつけてたんですか」


「そうだ」


「じゃあ、全部見たんですね」


「……あぁ」


 何とも言えない沈黙が流れた。気まずさとは違う何かが、俺たちの間にあった。まるで、お互いに全て諦めているような──。


 この喧騒の中で、俺たちの間にだけ静寂があった。


 ──先に口を開いたのは彼女だった。


「こんなことを知られては、『主人公』と『ヒロイン』ごっこは終わりです。夏の終わりのこの日、あなたが抱いた幻想と共に私は消えます。私は私で何者でもない暮らしに戻りますから、あなたもせいぜい何者かになりたくてもなれない、そんな暮らしを続けてください。それでは」


 言うだけ言うと、彼女は改札を通り抜けて消えていった。


 俺は、去ってゆく彼女に何も言えなかった。


 あまりに突然降り掛かってきたこの「現実」に、俺はどうしていいか分からなかった。ただ一つ分かるのは、この一夏の「物語」は終わってしまった、ということだった。それも、とびきりのバッドエンドで。


 彼女はもう俺の家には戻ってこないだろう。好都合だ。「ヒロイン」だって食事をするし、風呂にも入る。何ならトイレだって行くし、使った下着は洗濯しなければならない。


 「ヒロイン」にだって、家賃も食費も光熱費もかかる。


 好都合な──はずだった。


 俺にはただ、彼女が去った改札の前に立ち尽くすことしかできなかった。この喧騒の中で、俺だけが一人だった。


 帰ろう。たった一人の、六畳一間の俺の部屋に。




 大丈夫。何もかもが彼女が現れる前の、元の暮らしに戻るだけだ。

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