3

「君が日に焼けてるなんて、珍しいこともあったもんだね」


 数週間ぶりに会ったワナビ友達略してワナともは、そんなことを言いながらコーヒーを啜った。


「ああ……まぁ、ちょっと色々出掛けてたからな」


「それは何、『ヒロイン』ちゃんと?」


「そうだ」


 いつもの喫茶店。コーヒー一杯で何時間でも粘れる面の皮の厚さを手にした俺たちは、会えば往々にしてここで何の実にもならない話をしていた。俺にも奴にも後がないってのに、呑気なことだと我ながら思う。


「海に行った。あいつの白いワンピースと黒髪が映えて綺麗だった。山にも行った。自分たちより背の高い向日葵畑で追いかけっこをした。線香花火をやった。夏の終わりみたいな儚さと寂しさの中でずっと花火を見つめてた」


「君はそれでもワナビかい? 今のが小説だったら表現力がゼロ点だよ。一次選考落ちだ」


「うるせぇな。人の話は最後まで聞けよ」


 俺は機嫌が悪かった。……いや、機嫌が悪いというのは語弊があるかもしれない。気分が沈んでいる? 調子が上がらない? いや、それよりも何か、もっと別の、自分の中の大切なものが失われてしまったような──そんな感覚。


 それを吐き出したくて、今日こいつを呼んだのだ。


「お前は知ってると思うけど、俺はそんな小説ばっかり書いてきた。存在しないはずの、理想の夏休みだ。ヒロインが現れて、ひと夏の思い出を作って、なんかそういうやつ」


「そうだね。君の作風が嫌いだから僕は君の小説を読まないけど」


「俺だってお前の作風は嫌いだよ。商業の流行りに乗ろうとするばっかりで自我のないお前の小説を読んでるとイライラする」


「それは随分聞き捨てならないけど、まぁとりあえず続きを聞くよ。で?」


「もう小説は書けないと思ったんだ」


 俺はそう言って背もたれに体重を預けた。これ以上言うべきことが見つからなかった。俺にはもう小説は書けない。物語と現実が地続きになってしまったから。


「そりゃまた飛躍したね。どうせ『理想の夏休み』とやらを体験しちゃったから書く動機を失ったとか、そんな話でしょ?」


「違う。俺はそんな半端な気持ちで夏休みを書いてたわけじゃない」


「じゃあどうしてなのさ」


「理想の夏休みが、どうしようもなく現実だったからだ。そんで、夏休みの夢物語から醒めた後にもクソみたいな現実が地続きであるからだ」


「ふぅん? よく分からないけど」


 ワナともは興味がなさそうにコーヒーを啜る。


「確かに俺の夏休みは輝かしかった。夢でも見てるんじゃないかと思ったし、俺は『主人公』であいつは『ヒロイン』なんじゃないかって、本当に錯覚しかけたさ。この夏を、あいつを、細大漏らさず書き残せば最高の小説が書けると思った。……それでもだ。現実は物語じゃない。海ではクラゲが死んでた。靴に入った砂浜の砂が気持ち悪かった。向日葵畑にはアブラムシやら蚊やらがたくさんいたし、灰になった線香花火の後始末もしなきゃならなかった。誘蛾灯に釣られた蛾が死んでた。つまりそういうことなんだ。そういう現実がささくれ立って見えてしまった時、俺はもう書けないと思った」


「ふむ」


 ワナともは顎に手を当てると、言った。


「つまり君はこう言いたいんだね。『理想の夏休みを体験してみたけど思ったより綺麗じゃなかった』って」


「そう簡単に言ってくれるなよ。俺はもっと、こう……」


「いーや、そういうことだね」


 一刀両断されて、俺は何も言えなくなってしまう。反論したいような気もしたが、何を言えばいいか分からなかった。


「……母親から、不在着信があったんだ。知ってるだろ、俺の家。兄貴が優秀だから母親が俺にちゃんとしろってうるさいんだよ。その着信通知を見て、なんか、全部夢物語だったって思っちまったんだ」


「そんなことか。実にくだらないね」


 肩を竦めるワナとも。分かってるさ、俺だってそう思う。不在着信が一件あったくらいで現実が見えちゃった気になって、理想だったはずの夏休みを棒に振っている。奴が言う通り実にくだらないし、バカなことだと思う。


 思う、けれど。


 一度見えてしまったものは、もうどうしようもない。


「色眼鏡が足りないんだよ」


 唐突に、奴は言った。


「色眼鏡?」


「そうさ、色眼鏡。物書きなんて、自分が好きな色の分厚い色眼鏡を通して見た世界を好き勝手に書く生き物なのに。それを勝手に外して現実とか言って、僕に言わせればちゃんちゃらおかしな話だね。ワナビの風上にも置けないよ。君は色眼鏡を外してしまったんだ。君の言うところの、現実のささくれとやらを見ないようにするための色眼鏡を」


 色眼鏡、か。


 確かにあの不在着信を見た時、俺の世界は色を変えた。奴の言うことは的を得ているように思えた。


「小説ってのは、要は自分の好きなフィルターをかけて加工した風景写真だろう? 自分でフィルターも加工も外しておいて、馬鹿なことを言ってちゃいけないよ。君にはあんなに素敵な『ヒロイン』ちゃんがいるのに」


 奴の作風からそんな言葉が出てくるのは意外だった。奴は商業作家の流行りばかり追って書くタイプだ──そういう手合いの感性とは、無縁だと思っていたのだが。


「ねぇ、僕らが大学生の頃のことを覚えているかい」


「何だ、藪から棒に」


「まぁ聞きなよ。あの頃はさ、僕だって君みたいな動機で小説を書いていたよ。今でこそ、もう後がないから商業でデビューするために流行の小説を書こうとしてるだけで」


「……そういや、大学の頃のお前の作風は嫌いじゃなかった」


「僕は大学の頃から君の作風が嫌いだけどね」


「うるせぇよ」


 こいつは会うたびに俺の作風が嫌いだと宣言しなければ会話できない病気なのか?


「君は知ってると思うけど、僕はろくでもない人間だ」


「そうだな」


「ノータイムで肯定するのをやめてくれないかな。日本人としてそこは『そんなことないよ』とか言ってほしいんだけど」


「このご時世に性別やら人種やらで括ると世間様に怒られるぞ。いいから続きを話せよ」


「……まぁ、そう。ろくでもない人間だし、ろくでもない目にも遭ってきた。家庭環境も良くなかったし、学校に行けないような時期だってあったし、余裕がなくて不義理や不誠実をはたらいたことも山ほどある。ろくでなしなんだ、本当に」


「それは、そうだな。俺にも似たようなところがある。だからこそお前とつるんでるんだろうけど」


「違いないね。……つまり、何が言いたいかっていうとさ」


 彼は区切りをつけるようにコーヒーを一口啜り、言った。


「僕らはそういう過去の傷口を、文字にすることで昇華している。それが正しい清算の仕方かどうかはともかく、小説にすることが出来ると思えばこそ、僕らの傷口が無駄じゃなかったと思えるんだ。書いて、無駄じゃなかったと思うことでしか救われないんだ」


 ……俺は、何も言えない。


「大学の頃、僕はそういう書き方をしていた。今は違うけどね。君は今だってそうだろう? 過去の傷口や憧憬を文字にする書き方を、僕はもうやめてしまった。だから僕は君の小説が嫌いなんだ」


 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。俺には何も分からなかった。分からなかったが──何となく、今頃家で扇風機を占領しているであろう、あいつの顔が浮かんだ。


「ねぇ、小説を書くのをやめたら駄目だよ。書くことをやめたら、僕らは過去を恨むしかなくなってしまうから」


「……そうかもな」


 俺は短くそう答えて、コーヒーを啜った。

 しばらく、俺たちの間には沈黙があった。何かが腑に落ちないような、所在ない沈黙だった。


 耐えかねて、俺は口を開いた。


「お前の言う色眼鏡の話はよく分かったよ。風景描写なんかはそれでやればいい。でも現実に存在する人間に対してそれをやるのは非礼だ。勝手なカテゴライズでキャラクター化、偶像化するってことなんだから」


「君は馬鹿なのかい? いや、馬鹿だね。今日君は馬鹿なことしか言っていないよ。馬鹿も休み休み言いたまえってかんじだ」


「バカバカってうるせぇな。そういやあいつにも似たようなことを言われたよ」


「そりゃそれだけ君が馬鹿だってことなんだろうね」


 小馬鹿にしたように笑う友人に腹が立ったので、俺はテーブルの下で一発蹴りを入れた。


「痛いなぁ……弁慶の泣き所は勘弁しておくれよ」


「内弁慶のお前には丁度いいだろう」


「誰が内弁慶だ。……とにかくね、君は馬鹿だよ」


「もう一発蹴ってやろうか?」


「頼むから人の話は最後まで聞いておくれよ」


 何をそんなに馬鹿だと言われなければならないのか。蹴り上げかけた足を遺憾ながらも収めつつ、続きを待つ。


「いいかい、君には『ヒロイン』ちゃんがいるんだよ。自分で言ってたんだろう? 『夏休みに現れてひと夏の思い出を作り、そして消えてゆく謎の美少女です』って」


「ああ、そんなことも言っていたな」


「己からヒロインとして偶像化されるようなことを言い、そしてそれに沿って振舞ってるだろう、彼女は。彼女のことは小説にしていいんだ。むしろ、小説にしてやらないと失礼なんだ」


 それに沿って振る舞って……振る舞ってるか? 扇風機を占領したり人の作品をボロクソに言うのはヒロインとしての振る舞いなのか?


 まぁそんな些事はさておき、確かに奴の言うことにも一理ある、と思った。あいつはヒロインなのだ。ヒロインになることを望んで俺のところに来た。それなら俺があいつの話を書いてやらないでどうする? そのためだけに今まで小説を書いていたような気すらしてくる。


「分かったよ。お前の言う通りだ。俺は小説を書くよ。分厚い色眼鏡込みで、あいつのために」


「ああ、それがいい。分かったなら帰ってさっさと原稿をやることだね」


 そう言ってしっしと手を払う友人。俺は追い出されるようにして店を出た。


 外に出ると視界が眩んで、思わず目を細めた。今日は雲ひとつない快晴だった。突き抜けるような青は、やっぱりあいつに映えるだろう。

 帰ったら小説を書こう、と思った。


 ──夏はまだ終わりそうにない。

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