2

 その日も俺は、扇風機を自称ヒロインに占領されつつ、パソコンをパチパチとやって執筆に励んでいた。


 似たような物語ばかり書いている気がする。夏の頃、主人公の前に現れたヒロイン。そいつとヒロインは結ばれ、ひと夏の思い出を作る。しかしヒロインには重大な隠し事があり、訳あって主人公の前から姿を消す。取り残された主人公は絶望に打ちひしがれるが、最後には前を向いて、穏やかに主人公の人生はまた動き出す。


 こんな話は世にごまんとあり、それなら俺が書いた理想の夏の物語だって世に出回っていいはずだ。なぜ俺だけが世に出られない? なぜ俺だけが何者にもなれない? なぜ、俺だけが──「主人公」に、なれない。


 そんなことを考え、パソコンの画面に向かって思い切りため息を吹きかけてやる。どうせこの原稿だって一次選考落ちに決まっている。こんなことに何の意味があるんだ。馬鹿馬鹿しい。


 やさぐれた気持ちでパソコンの電源を落とそうとした、その時。


「何ですか、そのシケた顔は」


 自称妖精さんに苦情を言われる。


「ほっとけ。俺はもともとこういう顔だ」


「それは否定しませんが。いつにも増してシケた顔だと言っているんです」


「なぁお前、ヒロインを自称するならもっとヒロインらしい言動はできないのか?」


 こんな可愛げのないヒロイン、俺は知らないぞ。少なくとも俺の思い描く夏休みにこんなヒロインは登場しない。


 いよいよこいつを家からつまみ出すことを検討し始めると、自称ヒロインは顎に手を当てて言った。


「ふむ。ヒロインですか」


「何だ。俺のヒロイン像に文句でもあるのか?」


「ええありますね、何回『私』の話を書けば気が済むんですか。そうやってヒロインを消費して消耗させて、後には何も残りません。存在しないヒロインをコンテンツとして消耗させ続けるあなたは最低です」


「小説家なんてのは往々にしてそんなもんだろ」


「そんな台詞はまず小説家になってから言ってほしいものですね」


 ため息をつく自称ヒロイン。ため息つきたいのはこっちだってもんだ。なんでこんな奴に俺の小説をボロクソに言われなきゃならないんだ。


「しかしじゃあ、ご希望通りヒロインらしいことでも言ってみましょうか」


「何だって?」


 さして期待もせず、俺は彼女の言葉を待つ。


「どうせ箸にも棒にもかからない小説ばかり書いていたって仕方ないでしょう。全部忘れて海行きましょう、海」


 ふむ。海か。


 白いワンピースの黒髪の少女と、海。──そう、これだよ。これこそ俺が求めた夏休み。こいつが少々俺の求めるヒロイン像とズレていることにさえ目を瞑れば、それは悪い話ではなかった。


「お前たまにはいいこと言うじゃねぇか。行こう、海」


 こうして俺たちは海に出掛けることになった。白いワンピースはさぞかし青い海に映えることだろうな、と俺は思った。





「海ですよ! 海!」


 いつだって捻た態度を取る自称ヒロインの彼女は、柄にもなくはしゃいでいた。白いワンピースを靡かせてくるくると回り、黒髪が暑く湿った空気を爽やかに薙ぐ。白い砂浜、境界の消えた青い海と空、光り立ち上る入道雲。それらが眩しく俺の視界を刺す。目眩がするほど眩しい──夏。


 間違いなく、これは俺がいつだって焦がれていた夏だった。


「おう。海だな」


 俺は主人公らしく、そう頷く。


「なんですか。せっかくの海なんですから、もっとテンション上げてくださいよ」


 むくれる彼女に、俺は言う。


「悪い悪い。……あんまりにも、お前に海が似合っていたから」


「そ……んな、急に『主人公』みたいなこと言っちゃって」


「お前だって急に『ヒロイン』みたいなはしゃぎ方した癖に」


「それは……まぁ、そうかもしれませんけど」


 俯いて照れる彼女。つばの広い麦わら帽子の影に隠れてその表情は見えないが、少しはにかんでいるのが目に浮かぶ。


「せっかく海に来たんです。そんなところに立ってないで、もっと波打ち際まで行きましょう」


「お、俺はいいよ……そんな歳でもないし、貝殻でも拾ってるさ」


「いいから!」


 言って、彼女は俺の手を取った。彼女に手を引かれるまま、俺は波打ち際まで連れて行かれる。


「何すんだ。靴が濡れるだろ」


「海に来てそんなこと気にする方がどうかしてます。どうせなら全身びしょ濡れになって帰りましょう。えいっ」


 言うやいなや、彼女は俺に水をかけた。顔にかかった水がしょっぱくて、俺は思わず反撃に出る。


「何すんだ。仕返しだぞ、ほらっ」


 キャーキャー言いながら水をかけ合う。

 ひとしきりそんなことをすると、彼女は唐突に「私、砂のお城が作りたいです」と言い始めた。


「いいけど。バケツとかスコップの類は持ってきてないぞ」


「そんなものは要りません。この両手があれば十分です」


 言って、彼女は砂を山盛りにし始める。そして箇所箇所を削り、城の大枠を作っていく。……器用なもんだ。


「ほら、何をぼーっと見ているんですか。手伝ってくださいよ」


「お、おお」


 こうして俺たちは砂の城を建てた。きっと明日になれば跡形もなく崩れてしまうだろうけど──これは、確かに俺たちが作った唯一無二のお城だった。


 ──そうこうしているうちに、すっかり日は暮れようとしていた。


「これがサンセットビーチってやつですね」


「そうだな」


 大きな大きな陽の光が、橙に染まった水平線に溶けようとしている。海は凪いでいた。紫紺の帳が東の空から降りてくる。一番星が瞬きをしながら輝いている。


 俺たちの間に会話はなかった。ただひたすら、太陽が水平線に溶け切ってしまうまで、じっとそれを見つめていた。太陽が沈み切ってしまう直前、最期の輝きがあまりにも綺麗で、燈のようで──俺は、隣に座るこの子が俺にとってのそれなんじゃないか、なんて思ったりしたんだ。


 帰りましょう。どちらともなくそう言った。蒸し暑い夜の空気を吸うと、潮の匂いが肺に含まれた。夜の虫たちが哀訴のように鳴いていた。青白い月が紙切れのように光っていた。


 祭りの終わりのような、寂寥感が漂っていた。俺たちは一言も喋ることなく、電車に揺られて帰路についた。





「山に行きましょう」


 数日後。

 彼女は、唐突に言った。


「山ぁ? カブトムシでも取るのか?」


「馬鹿も休み休み言って欲しいもんですね。あなたのヒロインは山でカブトムシを取ったりしないでしょう」


「そうだけど。あと俺は休みが必要なほど馬鹿を言った覚えはない」


「馬鹿しか言っていないと思いますがね」


 相変わらず口の悪いことだ。


「別に虫取りや登山をしようってわけじゃないんですよ。正確に言うなら山に囲まれた田舎町に行きましょう」


「なるほど……? 観光か?」


「いいえ。その町には私たちより背の高い向日葵畑があります。そこに行きたいんです」


 そういうことか。


 それも確かに俺が憧れた夏休みの形の一つだ。青々と光る山々に囲まれた田舎町で、向日葵畑を駆け回る──そんな存在しない夏休みに、何度恋焦がれたことか。


 ──もしかしたらこいつは、本当に『ヒロイン』なんじゃないか? そして、そうなれば──俺は、『主人公』なのではないか?


 ふとそんな思考が頭をよぎって、慌てて掻き消す。こいつはヒロインとはかけ離れた口の悪さの持ち主だし、当然俺は主人公なんかじゃない。

 しかしその自称ヒロインが言う「山」に行きたいのは確かだ。俺は一も二もなくその提案に乗った。


「そうだな。行こう、山」





 果たして彼女が連れて行ってくれた「山」は、俺が幾度となく思い描いてきた「夏休み」の象徴のような町だった。いや、町というか集落か……? まぁ要はそれくらい田舎だってことだ。


 青々と光る山々に囲まれた小さな田舎町。ソフトクリームのような入道雲。突き抜けるような快晴の空。そして、眼前に広がる──俺たちより背の大きな、向日葵畑。


「おお……」


 思わず感動の声を上げる。


「なぁ、こんな場所どうやって見つけたんだ? 凄いな、ここ」


 彼女に話しかけると──既に彼女はいない。


「こっちですよ!」


 向日葵畑の中から彼女が呼ぶ。


「ちょっと待てって! どこ行く気だ!」


「ふふっ、私を捕まえてみてください! 言っておきますが私は結構足が速いですよ?」


 そう言うなり、彼女は向日葵畑の中へと姿を消す。俺は慌てて彼女を追いかけた。


 彼女の白いワンピースは、向日葵の隙間から差す日の光で輝いて、その姿を捕えるのは容易だった。しかしなかなかどうして、捕まえることができない。くるくると動き回る彼女の姿を、俺は必死に追いかけた。汗が滲む。年甲斐もなく息が上がって、まるで少年の頃に戻ったような気分にさえなる。


「お、お前、本当にすばしっこいな。ちょっとは手加減してくれ!」


「嫌ですよぅ。ほらほら、早く私を捕まえて、夏の向こうまで連れて行って!」


 そう言って彼女が振り撒いた笑顔は──夏の空より、眩しくて。


 俺たちは日が傾き始めるまで、ずっとそんな鬼ごっこを繰り返した。


「ハァ、ようやく捕まえた。お前、本当に足が速いのな」


「足が速いというか、私は身体が小さい分動きやすいですからね。しかしよく私を捕まえられましたね、帰ったら景品を差し上げます」


「景品?」


「そうです。期待していいですよ。きっと気に入ると思います」


 言って、彼女は笑った。


 さて、こんな田舎町だ。日に数本しかないバスを逃せば帰れなくなる。俺たちはバス停まで走って、ギリギリのところでバスに乗り込んだ。思えば今日は走ってばかりだ。


「これが最終便だったようですね。危なかったです」


「そうだな。乗れて良かった」


 バスの心地良い揺れに揺られながら、俺は窓の外を見た。すっかり日は暮れていた。窓を開けると、夏の夜の匂いがしていた。湿気を含んだ、それでいて穏やかで少し物悲しげな、夏の夜の匂い──俺はこの匂いが好きだった。長らく部屋に篭って小説ばかり書いていた俺が、すっかり忘れてしまっていたものだった。


 隣を見ると、彼女はスヤスヤと寝息を立てていた。一日中駆け回って疲れたのだろう。彼女の寝顔が何だか愛おしくて、俺は彼女を起こさないよう、そっと頭を撫でた。長い黒髪は絹のような触り心地で、一片のささくれさえない。こんなことをして、彼女が起きたら怒るだろうな──と思いながら、俺は彼女の髪を撫で続けた。


 最終便のバスは、真っ暗な田舎の道で唯一仄かに光りながら、俺たちだけを乗せて走っていた。







「なぁ、そういえばさ」


 また数日が経ち、俺はふと筆を止めて彼女に話しかけた。


「この間『景品』があるって言ったろ。あれって何だったんだ?」


「ああ、そうでしたね。忘れてました」


 忘れてました、と言う割には聞かれるのを待っていたかのような態度で、彼女は答えた。


「これです。線香花火。今夜やりましょう」


 どこからともなくそれを取り出しつつ、自慢げな彼女。


「線香花火か。風流なこった」


「お気に召しませんでしたか?」


「いいや、気に入ったさ」


 俺は笑った。




 夜になった。

 俺たちは狭いバルコニーで膝をくっつけて、線香花火に火を灯した。橙の玉が燈って、パチパチと静かな音を立てた。小さな緋の花が次々に咲いては散ってゆく。


 まるで世界に二人きりかのように、静かな時間だった。


「ねぇ、知っていますか」


「何だ?」


「線香花火は、燃え方の段階によって名前があるんです。最初は『蕾』から始まって、『牡丹』、『散り菊』、『松葉』の順で」


「そうなのか」


「線香花火は文字通り火の花です。あまりにも儚い、一瞬の煌めきを残して散ってしまう火の花」


 そう言ったきり、彼女は黙ってしまった。俺もまた、何も言わなかった。ただ線香花火の燃える様を──火の花が散ってしまうまでを、じっと見続けていた。


 花が散ってしまうと、そこには微かな夏の虫の鳴き声と、夏の終わりのような寂寥感だけが残った。


 きっと俺たちは、この夏を俺たちだけのものにしてしまえた。たった二人だけの夏休み。どんな幻想や夢物語だって、世間様には通用しなくたって二人だけの間なら成立させられるんだ。俺と彼女はこの夏、確かに『主人公』と『ヒロイン』だった。俺が恋焦がれた夢物語みたいな夏休みが、確かにそこにはあったのだ。


 俺と彼女なら、きっと。


 今までにどんな小説家も書いたことがない、夢のような夏休みを描けるに違いない──何となく、そんな確信があった。



 小説を書こう。この理想の夏休みを、細大漏らさず書き残せ。それはきっと世界で──少なくとも俺たち二人の世界では一番、素敵な夏になるだろう。


 青々と突き抜ける空。白く光る入道雲。水平線との境界すら曖昧などこまでも続く深い青の海、寄せては引く波と、宝石みたいな水飛沫の煌めき。自分たちを取り囲む山々と、太陽に向かって真っ直ぐに伸びる背の高い向日葵畑。バスの最終便。瑠璃や玻璃にも叶わない一番星の輝き。そして、儚く散った線香花火、その最期の燈さえも。

 全部、全部彼女が──俺のヒロインがくれた宝物だ。叶えてくれた理想だ。



 俺は、初めて『主人公』になれた。そしてもちろん──『主人公』が書いた小説は、世に出回らなくては。



 俺は筆を取る。この最高の夏休みを、一つ残らず書き漏らさないように。








 スマートフォンの通知に気付いたのは、それが来た数日後のことだった。


 俺には例のワナビ友達以外に交友関係がない。だから一応契約はしているものの、俺はスマートフォンを使うことが極端に少なかった。


 久々に見たスマートフォンに表示されていたのは、一件の不在着信だった。


 ……母親からだ。


 どうせ内容は分かりきっていた。さっさと就職しろだの何だの、兄のようにちゃんとしろだの、なんだかそういうことだろう。そう、俺には兄がいる。何をやらせても俺より出来の良い兄が。兄は良い大学に行って良い会社に就職し、良妻賢母といった女性を嫁に貰い受け家庭を築いていた。


 俺は兄とは当然のように疎遠だったし、もちろん家族とも疎遠だった。親戚付き合いにも顔を出さないから、どこの家庭で誰が生まれたとか死んだとか、そういう事情を何も知らない。いっそのこと勘当でもしてくれりゃ楽なのに。俺は何があったって実家を頼ったりなんかしない。だから放っておいてほしいのだが、母親としてはそうもいかないらしい。昔から体裁を気にする人間だったから、自分の息子がフリーターのワナビであることが許せないのだろう。


 俺はため息を一つつくと、その通知を左にスワイプして消した。


「またシケた顔をしていますね」


 そう言ったのは例によっての彼女だった。


「放っておけ。俺にだってたまには悩みくらいあるんだ」


「その毎日ろくでもない小説を書くしかない日常は、悩みではないんですか?」


「それは別にいい」


 だってお前がくれた夏休みを書けば、きっと俺は小説家になれるからな。とは言わないでおく。何となく気恥ずかしかったからだ。


 急に降って湧いた現実が嫌になりつつも、俺は小説を書きに戻る。まったく現実なんてのはろくでもない。俺が欲しいのは物語、それもバカみたいな夢物語だけだ。その点、俺のヒロインがくれた物語には感謝しているんだ。あれは紛れもなく現実の中に咲いた、一編の物語だったから。


 ──と、そんなことを考えていると、スマートフォンが震えた。


 また母親からだ。


 さてこんなに頻繁に電話を寄越すとはどうしたことか、遂に兄と比べて至らないばかりの俺に堪忍袋の緒が切れたか。


 俺は電話が鳴り止むのを待った。気付かなかったふりでやり過ごそう。まったくもって嫌になる。




 一度現実に引き戻されてしまうと、俺の夏休みは一気に色褪せて見えた。




 海に浮かんでいたクラゲの死骸。靴の中に入った砂の気持ち悪さ。向日葵畑の中で鬱陶しかったアブラムシ。誘蛾灯に集る虫とその死骸。灰になった線香花火の後始末。


 そういう夢物語の中で見ないふりをしてきた現実のささくれが、俺の中に刺さって抜けない。




 なんだか嫌になって外に出た。ヒロインには「どこへ行くんですか?」と聞かれたが、「そのうち帰るさ」とだけ言い残して彼女を置き去りにする。外は雨だったが、傘も持たずに俺は街を歩いた。暮れ方だった。日が沈み切ってしまうと、雨はやがて冷たいものに変わった。ムッとするような湿気が肌に纏わりついて不快だ。


 駅の方まで歩いた。俺の住む町は各駅の電車しか止まらない、寂れた町だ。帰宅ラッシュの時間帯にも関わらず人はまばらだった。


 改札脇のゴミ箱に、花束が捨てられていた。




 何が青春だ、何が夏休みだ、何が物語だ。何が「全部忘れて海でも行こう」だ。海に行こうと山に行こうとその瞬間だけ何もかも忘れようと、されど人生は続くのだ。その一瞬を切り取れば物語みたいに綺麗なものができるかもしれないが、帰ってきてしまえばこのクソみたいな現実が待っている。現実と地続きになってしまった物語なんて何の価値もない。


 夢物語はあくまで夢で物語なのだ。現実的な要素なんかどこにもない。俺はずっと夢物語を書いていた、それは紙面上だけで完結していなければいけなかったのだ。それを現実に持ち込んだら、クソみたいな人生と地続きになってしまったら──価値を失ってしまう。



 ヒロイン。俺のヒロインは、あくまで物語の中にしか存在しないから。


 確かにあいつはヒロインでも何でもなく、「何者でもないのに幾つになっても自分が主人公であるという思い込みから抜け出せない、そんな哀れな人間のところに現れる妖精さん」なのかもしれない。

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