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「で、ボロクソに言われたってわけだね。『ヒロインちゃん』に」


「ああ」


 そう返事した俺の表情は、バケツいっぱいの苦虫を噛み潰したようなものだっただろう。対して向かいに座る彼はやれやれとでも言いたげな笑みを浮かべている。彼は俺の古い友人であり、俺と同じく小説家のなり損ない──いわゆる「ワナビ」でもある。つまり俺と彼はワナビ友達、略してワナともってわけだ。


「まぁ読んでくれる人がいるだけいいじゃない。可愛い女の子が第一読者をしてくれるなんて、僕からしたら羨ましい限りだけど」


「なんだ。小説の下読みをしてくれる友達もいないのか?」


「君が読んでくれりゃ済む話なんだよ」


「御免だね。おまえだって俺の小説を読まないだろう」


 それもそうだ、と肩を竦めて彼はコーヒーを啜った。見た目だけは好青年風である彼に、この古い喫茶店と、コーヒーという飲み物は実によく似合っている。何事にも似合い不似合いというものがあるのだ。こと「主人公」については特にそうで、それが似合うのは彼のような人間だ。間違っても俺じゃない。俺みたいな人間は、端役Aとして隅の方でパソコンをパチパチとやっているのが相応しい。


 それなのに、「ヒロイン」は俺のもとに現れた。そう、あれは初夏の頃だった──彼女は突然現れて、そのまま俺の部屋に住み着いた。俺は彼女の名前を知らない。だから俺は彼女を「あれ」とか「あいつ」とか呼ぶし、友人は「ヒロインちゃん」と呼んでいた。


「それにしても『ヒロインちゃん』は手厳しいね。君の小説を褒めたことなんてないんじゃない?」


「ねぇよ。この間なんて言われたと思う? 『まともに青春を送れなかった人間の幻想を書き起こしただけ……ってかんじですね』だってよ! 自称『妖精さん』に幻想どうこう言われたくねぇっつうの」


「ははっ。妖精さん、そういえばそんなことも言ってたんだっけね」


「とことん意味の分からん奴だ。早くどこへでも行っちまえばいいのに」


 これは半分冗談、半分本心だった。


 俺はあいつのことが好きではない。ただでさえ狭い六畳一間を圧迫してきやがるし、扇風機は占領するし、小説を読んでくれるのはいいが毎回ケチをつけてきやがる。早々に追い出したいのは山々だったが、他に行く宛てもないのだと言う。それで俺は仕方なくあいつを置いているのだった。


「で? 自称『妖精さん』のヒロインちゃんは、相変わらず僕に会ってくれる気はないって?」


「ああ、そういえばお前はあいつに会いたがっていたな」


 そう、彼はやたらとあいつに会いたがっている。気持ちは分からなくはない。初夏の頃、突然現れた美少女──俺が待ち望んだはずの、小説に幾度も書いたヒロイン像。誰だって一度は夢に見たことがあるはずだ。


「ダメだってよ。あいつは自称妖精さんだから、俺以外の目には自分の姿は見えないって言い張ってやがる。そんな筈はないんだけどな」


「なるほどね。ヒロインちゃんは手厳しいなぁ」


 もちろん俺以外に姿が云々というのは嘘である。以前どうしてもと言うのでショッピングモールに連れていったことがあるのだが、俺があいつに話しかけようと何をしようと、俺は虚空に話しかける不審者の扱いを受けたりなどしなかった。せいぜい年の離れた兄妹か、親戚の子供を連れたおじさんくらいに思われたことだろう。まぁそういうことだ。


「僕は心底羨ましいよ。自分が理想とするヒロインが同じ部屋で暮らしてるんだろ? どれだけ執筆が捗ることか」


「捗ってたらこんなとこでワナビやってねぇよ。違うか?」


 それはそうだね、と彼はまたも肩を竦めた。

 ヒロインが現れたところで、小説が捗ることなんてない。なぜなら俺は、主人公になどなれはしないのだから。





 そう、先述の通り、それは初夏の頃だった。

 扇風機をつける電気代すらケチって窓を全開にし、風鈴を吊るして何となく涼しげな気分を貰い受けようと努力しつつ、行き詰まった原稿を眼前に筆を放り出し、畳の上で大の字になっていた時──そいつは突如、やって来た。


 インターホンの音が鳴る。


「はいはい、どちら様ですか、っと……」


 そんな独り言をしつつ、それがセールスか何かの類であることは分かっていた。なぜならこの家に知人の来客などある筈がないし、通販で物を買うほど俺の生活は潤っちゃいない。それ以外で来客があるとすれば、セールスか宗教勧誘か家賃の催促の三択だ。


 しかしドアを開ければ、そこにいたのはなんと。


「どうも、はじめまして。初夏に現れてひと夏の思い出を作る謎の少女です」


 白いワンピースを着て麦わら帽子を被り、大きなボストンバッグを持った、長い黒髪の少女。


 ──俺はバタンとドアを閉めた。


 よし、これはワナビ生活に嫌気が差した俺の幻覚だ。寝よう。


「ちょ、ちょちょちょちょちょっと待って! 待ってくださいよ!」


 執拗にドアを叩く音。壁の薄いボロアパートでそんなことをされたのではたまったものではない──苦情代わりの壁ドンが両隣りから聞こえてくることが、その少女が幻覚でも何でもないことを物語っている。


 俺は現実逃避をやめて、ドアを開けた。


「……どちら様ですか?」


「言ったでしょう。私は夏休みに現れてひと夏の思い出を作り、そして消えてゆく謎の美少女です」


「俺のヒロインは美少女を自称したりしない!」


 思わず素でツッコミを入れてしまう。


「ヒロイン……?」


「いや何でもありません。こっちの話」


「ああそうですか」


 涼しい顔のまま、少女は言う。


「まぁそれならちょうどいいでしょう。私は夏が似合う黒髪のヒロイン、あなたは主人公。ひと夏の思い出ってことでここは一つ。お邪魔しま──」


「いや何上がり込もうとしてるんですか」


 勘弁してくれ。確かにこいつは美少女だ。白いワンピース、長い黒髪、麦わら帽子、背の高いひまわり畑が似合いそうなその風貌、透けるように白い肌──俺がずっと夢に見ていたヒロイン像、そのままだ。


 しかし、だからといって。


 現実はそうはいかない。ヒロインなんてのは実在しないからヒロインなのであり、そしてこいつは今のところ得体の知れない赤の他人だ。家出少女か何かだろうか? だが俺を頼るような家出少女には心当たりがない。


「何をごちゃごちゃと考えているんですか。ヒロインのいる夏休みを満喫すればいいでしょう? なんかあなた、そういうの好きそうだし」


「そういうのとか言わないでください。悪いけど俺は家出少女を泊めてやるほど善人じゃない、その辺の交番まで案内するから帰ってくれませんか。あと俺はもう夏休みとかいう年齢じゃない」


「細かいことはいいじゃないですか」


 埒が明かない。

 その後も帰ってくれ、嫌だの応酬を何度も繰り返し、最終的に折れたのは俺の方だった。


「……分かりましたよ。仕方ない。他に行く宛てもないんでしょう。夏の間だけですからね」


「ありがとうございます。最初からそう言ってくれればいいのに」


「家主への口の利き方に気をつけろよ」


 やっぱこいつ泊めるのやめようかな。


「で、結局あなたは何なんです? せめて身分を明かしてくれないと。こんな年端もいかない女の子を泊めて、警察沙汰になったら困るのは俺の方なんですよ」


「ああ、その点ならご心配なく」


「ご心配なくって……実は親戚か何かだったり?」


 少女はその場でくるりと回った。長い黒髪が宙を舞った。



「いいえ、違います。何者でもないのに幾つになっても自分が主人公であるという思い込みから抜け出せない、そんな哀れな人間のところに現れる妖精さん──それが、私です」




 こうしてこいつとの共同生活は始まった。それが青春の始まりなのか地獄の幕開けなのか、その時の俺には分かっていなかったわけだが。



「あぁそうだ、敬語はよしてください。私とあなた、二人とも敬語だと紛らわしいでしょう」


「紛らわしい……誰が?」


「『読者』が」







 さて、回想ついでだ。俺の唯一とも言える友人──ワナビ友達、略してワナともの話もしておこう。



 奴とは大学の文芸サークルで出会った。いけ好かない奴だったさ──イケメンだし、何をやっても絵になるし、主人公ってのはこういう奴なんだろうと思うとムカついた。


 しかし奴と俺は仲間だった。他のサークルメンバーが小さいながらも賞を取ったり、何なら書籍化してデビューしたりする奴なんかもいる中で、俺とあいつは何を書いても箸にも棒にもかからず取り残されていた。そのうち奴と俺はつるむようになった。もっとも俺は奴の作風が嫌いだし、奴も俺の作風が嫌いだ。だから絶対にお互いの小説を読むことはしないのだが。


 俺たちには人生設計があった。まず学生のうちに出来るだけバイトに励む。貯められるだけ金を貯めて、当面の生活費を確保する。卒業したらバイトである程度の生活費を賄いつつ、学生のうちに貯めた資金で小説を書く時間を確保する。書いてさえいれば俺たちはそう遠からずデビューして、小説家としてやっていけるだろう。そんなバカみたいな人生設計のもと、俺たちは就職活動といったものを一切しなかった。そう、あの時俺たちは、愚かにも自分たちのこの人生設計が賢いとすら思っていたんだ。


 結果はご覧の通りである。俺も奴も、何の成果も残せないまま一年が過ぎ、二年が過ぎた。貯めた資金も底をつこうとしている。俺たちには後がない。そんな中で傷の舐め合いをするワナビ友達、略してワナとも──それが、俺と奴の関係だった。



 実に愚かなことだ。俺たちは何者にもなれない。今からでも就職なり何なりした方がいい。そんな現実が薄々見え始めた頃──やってきたのが、あの自称妖精さんのヒロインだ。


 もしかしたらこれは天啓かもしれない。「書き続けろ」という、小説の神様からの天啓。そんなバカらしい妄想に縋る程度には、俺には後がなかった。

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