第8話 最終話

 



 静寂に包まれる。心臓の音が聞こえてしまわないか心配になる。見上げた夏は険しい顔をしたままで、いつもの人懐っこい笑みは見られない。

 「あの夏、鞄待つよ」ずっと持ってもらっていたことに気づいて申し出ると夏は一度振り返った。すぐ前を向いてしまったけど。


「いい」

「でも、わたしの荷物だし、夏に持たせるのは悪いよ」

「……」


 無言が心をざわつかせる。そんなに嫌われてしまったのだろうか。返事もしたくなくなるほどに。でもわたしを送ると繋がれた手はそのままで、一度離そうとした手は強く握られてしまった。逃げないように、離さないと言外に伝えられているようでまた胸が締め付けられる。二人の足音だけが夜に響く。

 夏はいつもこんなに暗い道を一人歩いているのか。夏になればこの時間も明るくなるけれど、わたしは想像もしていなかった。夏にも一人の時間があって、わたしのいない日常が存在することを。練習中の夏も、怒った夏も、知っているようで知らなかった。まだまだわたしの知らない夏はいるんだろうな。それは夏も同じで、結局幼馴染だなんだと長く一緒にいても知ろうとしなければ、伝えようとしなければ、分かり得ないことはたくさんあるんだ。



 しばらく沈黙が続いて、足音がぴたりと止む。トンッと勢い余ってぶつかった夏の背に顔を上げると、街灯に照らされた夏の顔がわたしを見下ろしていた。真っ直ぐに見つめられてドキッとする。夏の形のいい唇がゆっくりと開かれた。


「今日なんで来たの」


 なんで、紡がれた言葉に拒絶されたと足が竦む。


「今まで俺が何度誘っても来てくれなかったじゃん。なのになんで今日は来たの?」

「あ、ひ、日岡くんに頼まれて」

「あいつに頼まれたら来るんだ。俺の言葉には頷かないのに」


 責めるような口調に目頭が熱くなってきた。思わず俯きそうになった顔を「目を逸らすな」と顎を掴まれて上げられる。


「俺は、別におまえがマネージャーやりたくないんだったら無理強いはしない。バレーもあんまり好きじゃないのも知ってる。それでも、俺から離れていくのだけは許さない」


 ぽろ、と瞳から涙がこぼれ落ちた。わたしからじゃない。夏の大きな瞳から、いつも光を反射したようにキラキラと輝いている夏の瞳から涙がこぼれ落ちた。ぎゅっと胸が今までの比じゃないくらいに締め付けられて、言葉を発しようとした口ははく、と動くだけで音にならない。


「頼むから、傍にいて。せめて幼馴染ではいさせてよ」


 悲痛に歪められた懇願する瞳に、わたしの視界も歪んでいく。伸ばした手は夏の涙を拭ってそのまま頬を包むように当てた。


「夏がわたしを離さないでいてくれるなら、わたしも夏を離さないよ」


 夏には大切なものがあって叶えたい夢があって、毎日宝石のように輝いていて。でもわたしには何もないから、眩しい夏の傍にいるのが辛かった。夢に向かう夏を素直に応援できないわたしは醜くて、傍にいたらいけない人間だと傷つかないように距離をとっていた。本当は夏もバレーボールも大好きだ。夏のバレーボールが大好きだった。ただわたしが弱くて臆病だっただけ、いつからかバレーボールに夏をとられたと拗ねていた子供だった。わたしの行動が夏を傷つけていたと考えもせずに、ただわたしは長い間、夏から目を逸らし続けた。


「でも、でもね、傍にいたいけど、わたしは夏の傍にいる自信がないよ」


 ずっと胸の奥底にしまっていた気持ちが溢れ出す。はらはらと堰を切ったようように止まらない涙を指で掬って夏は「なんで? ゆっくりでいいから理央の気持ち教えて?」と優しい声音で問いかける。


「わたしには何もないから、夏や奏みたいにっ、夢中になれることも、やりたいことも、なにもないっ」


 ひっくひっくと言葉を詰まらせながら、少しずつ少しずつ溜めてきたどうしようもない重たい荷物を下ろしていく。


「いつもずっと、夏に置いて行かれるかもって怖かったっ、夏の傍にいたいのに、何もないわたしじゃ傍にいられない。好きなことを夢中で追いかける夏が眩しくて、素直に応援できない自分が嫌で、そんなわたしは綺麗じゃないからっ、いつか夏は離れていくんだって、キラキラした夏の傍にはいられないんだって、怖くて」


 だから見ないように目を逸らし続けたの——ぼろぼろと涙が止まらない。涙でぼやける視界で夏がどんな表情をしているのかもわからない。呆れられてしまっただろうか。嫌われてしまっただろうか。くしゃくしゃになった顔を隠すこともできずにただただしゃくりあげるわたしを夏はそっと抱きしめた。大きな手がよしよしと子供をあやすように頭を撫でる。「なつ?」もう上手く回らない呂律に応えるように夏はゆっくりと話し始めた。


「理央がそんな風に思ってたなんて全然知らなかった。気づいてあげられなくてごめんな」


 とくんとくん、と夏の心臓の音が耳に届く。伝わる体温と心音に気持ちが落ち着いていく。


「何も知らないで拗ねてごめん」


 言葉の意味がわからずに夏の胸から小さく顔を上げる。目が合った夏はもう眉間にしわを寄せた怖い顔はしていなかった。


「何日か前、昇降口で会っただろ? 俺声かけたのにおまえ先に行ってしまって」


 ああ、覚えてる。夏に手紙を渡してほしいと呼び止められたときだ。わたしが断ったあと、彼女はあの手紙を夏に渡したんだろうか。気になってはいたけど直後の夏の態度の変化にすっかり頭から抜け落ちていた。


「あのあと、告白された。断ったんだけど、あの子、あー……名前わかんね。まぁその子がさ、理央は日岡と仲がいいとか俺のことは好きじゃないとか告白の手伝いしてもらうところだったとか、訊いてもないのにいろいろ話しだして腹が立った。それでもおまえに聞いたわけじゃないし話半分で教室行ったらおまえがちょうど日岡と話してて、日岡を真っ直ぐに見て話す姿に俺と話すときはあんま目ぇ見てくれねーのになって。一度盛大に拗ねたら戻れなくなった」


 頭を撫でる手はそのままに、夏の瞳が困ったように細められる。


「ほんとはさ、教室まで会いにきてくれて嬉しかった。いっつも俺から会いに行くからたまには理央から会いにきてくれないかなって意地張ってたから。けど、びくびくしてるおまえ見たら感情が抑えられなかった」


 紡がれる言葉に胸が苦しくなる。


「夢とか夢中になれるものとか、そんなものこれから見つけていけばいいじゃんか。そんな大事なもの見つけようとして見つけるもんじゃないだろ。心の思うままにしか見つけられねえよ」


 まだ涙の止まらないわたしに目尻を下げて「泣き虫だなぁ」と笑う夏にまた涙が溢れて止まらない。夏が笑いかけてくれる、それだけでたまらなく胸がいっぱいになって、たまらなく幸せになれる。


「俺が理央から離れるわけないだろ」


 耳に馴染む声がさも当たり前のように告げる。ぎゅっと夏の背中に手を回すと夏もまた、いっそう強くわたしを抱きしめた。


「そもそも! 俺のどこがキラキラしてんだよ。腹の中ドロドロだわ」

「へ?」

「こっちは子供の頃から理央のことが好きで片想い拗らせてんのに突然よそよそしくなるし、女子からの手紙配達してくるようになるし、それが終わったかと思えば目を合わさなくなるし!!」


 なんなんだよほんと! とぎゅうぎゅう力を込められて危うく窒息しそうになる。待って、今夏わたしのこと好きって言った?


「な、夏?」

「ん? 言っとくけど離さねーよ」

「や、あのっ」


 ぐりぐりと肩口に頭を擦り付ける夏に心臓が爆発しそうになるのを抑えながら「好き?」と言葉をもらす。肩から顔を上げてわたしを見下ろす夏の顔がじわじわと赤く染まっていく様が街灯に照らされる。


「まじか、口に出てしまった」


 わたしを見つめる瞳が不安げに揺れる。ドキドキと夏の心臓も早くなっていて、それに気づいたら爆発しそうな心臓が本当に爆発するんじゃないかってくらいに早くなって心配になった。


「さっき言っちゃったけどさ」

「うん」

「好きだよ。ずっと前から、ずっと」

「うんっ」

「好きで好きでたまんねえくらい、好き」

「——わたしも好き」


 どうしようもないくらい、大好き。


 ぼろぼろと今度は嬉し涙が溢れてくる。夏の瞳も潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。花が咲くように心底幸せそうな顔をして笑う夏に幸せだと頬が綻ぶ。吸い込まれるように引き寄せられた唇がそっと触れた。



◇◇◇



「ごめんね、今までいっぱい傷つけて」

「ん?」

「目を逸らしたりとか、手紙とか」


 ぶらぶらと繋がれた手を揺らしながら家路を歩く。お互いいつもより歩みがゆったりしているのはもう少し一緒にいたいからだと告げているようで、甘い空気が少しだけ気恥ずかしい。


「それな。それは本当にな」

「う、返す言葉もない」

「好きなやつから他の女からの手紙を受け取る俺の気持ちがわかるか?」

「ごめんなさい」

「話してても目を逸らされる俺の気持ちは?」

「うう」

「好きなやつが他の男に手を掴まれて目の前に登場したときの俺の気持ち」

「ごっ、ごめんなさい」

「……恋人にはなれなくても特別な幼馴染ではいたい、なんて思ってたけど、他の男の隣に並ぶおまえなんか想像するだけで胸が張り裂けそうだ」


 悲痛に歪められた横顔に、繋いでいた手に力を入れて歩みを止める。


「わたしが好きなのは、特別に大好きなのは、ずっと夏一人だけだよ」


 恥ずかしいなんて言ってられない。傷つけたぶん、ちゃんと伝えたい。わたしの全部を受けとめてくれた夏に、ちゃんと。


「俺も好きだよ」


 くい、と手を引かれて耳元で囁かれる。ダイレクトに聞こえた声にぶわっと顔に熱が集まって視線の定まらないわたしの頭の上からくつくつと笑い声が聞こえてくる。自分だって真っ赤なくせに余裕な夏が恨めしくて睨むけれど、愛おしそうにわたしを見つめる瞳に完敗した。好きが溢れて苦しい。


「なぁ、」

「ん?」

「ずっと傍にいろよ」

「ん」

「ずっとだからな」

「……言ったでしょ。夏がわたしを離さないでいてくれるなら、わたしも夏を離さない。……離れたくないよ」

「それならもうずっとずっとずーっと一緒だな!」


 嬉しそうに笑う姿が愛おしくて、これから先もずっと近くで見ていたい、そう思った。





 おわり





 

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空色硝子の宝箱 姫野 藍 @himenoai

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