第7話
——『なあ、理央にとって俺は幼馴染にすらなれねーの?』
どういう意味だろう。わたしにとって夏は紛れもなく幼馴染で、夏にとってもわたしは幼馴染なはずだ。幼馴染、腐れ縁、子供のときからずっと一緒にいる兄妹のような関係。それなのに、幼馴染にすらなれないとはどういうことなのか。夏の言葉を何度反芻しても答えはわからない。結局その日はおろか次の日になってもわたしたちは一切言葉を交わすことはなかった。
「いい? 今日はもう帰ってご飯食べてお風呂に入って寝なさい」
「お母さん、まだ14時すぎ」
「クマつくって何言ってるの。寝不足なんだからさっさと帰って寝る」
心配そうにわたしの顔を覗き込む奏は自分の目の下をトントンと指で叩く。
夏と最後に話してからわたしは夜眠れなくなった。それでも体力には限界があるから浅い睡眠を繰り返して気がつけば朝になっている。そんな眠れない夜を迎えて三日、ついに奏が夏に物申しに行こうとしたので全力で止めた。夏は何も悪くない。悪いのはわたしで、怒っている理由はわからないけど夏を不快にさせているのは確かだ。
ずっと夏から目を逸らしているのはわたしなのに自分がされると寂しいなんてふざけてる。今まで気づかれてないと思っていた。いや、気づく気づかない以前にそこまで考えていなかった。ずっと目を逸らし続けられた夏の気持ちを、わたしは考えていなかった。わたしが怒るのは違う、絶対に。
「心配かけてごめんね。言われた通りにするよ」
「そーして」
「ほら、奏もはやく部活行って」
そう言って笑ってみせる。後ろ髪が引かれるのか何度も振り返りながら奏は教室を出て行った。小さく手を振り見送って、わたしも鞄を肩にかけて教室を出る。そのまま昇降口に向かう途中でジャージに短パン姿の日岡くんと出会した。
「ちょうどよかった。今帰り?」
「うん。日岡くん部活は?」
「今から行く。な、ちょっと頼まれてくれない?」
「なにを?」
「今日一日でいいからさ、マネージャーしてよ」
なんの? なんて聞かなくてもわかる。日岡くんの言葉に方向転換しようとしてがしっと腕を掴まれた。いやいや無理無理やだやだ。よりにもよってバレー部のマネージャーなんて、それも今このタイミングでできるわけがない。
「ごめん無理」
「今日マネージャー風邪で休みなんだよ。頼む、今日だけ手伝って」
「……マネージャー業なんて何も知らない素人が手伝ったところで、邪魔になるだけだよ」
「仕事全部丸投げするつもりはねーよ。それに誰でも最初は素人だろ」
これからも続けていくつもりならその台詞は刺さっただろうけど、たった一日じゃ素人から毛が生えたくらいに変わるだけだ。別に求めていない。けれど一向に離す気配の感じない、掴まれたままの腕に視線を落として諦めにも似た息を吐く。
「わたしじゃなくて別の人に頼みなよ」
「言ったろ。おまえマネージャーに向いてるって。やりたいことないんだろ? 今日一日マネやってみたら、やりたいことになるかもしれねーじゃん」
「……」
ならないと断言できる。だいたいわたしには資格がないとも言ったはずだ。
「な? 俺がちゃんとフォローする」
「……」
「……」
「今日だけ、今日だけだからね」
たった一日、それも数時間のこと。マネージャーになるわけではない。困っている友人を助けるだけだ。了承の言葉を口にしたわたしに日岡くんは満足そうに頷いてそのままわたしの腕を引いて歩き出した。逃げたりしないのに。ああ、奏に怒られちゃうな。心配してくれてるのにごめんね、心の中で謝罪してわたしは大人しく日岡くんの後を着いて歩いた。
◇◇◇
「は? なっ、え?」
夏の困惑した顔が遠慮なく向けられる。沸き立つ体育館に日岡くんが説明すると、夏はこれでもかというほどに眉を顰めて出来上がる人集りから一人離れた。わかっていたことだけど夏からの全く歓迎されていない態度に視線が下がっていく。それでも一度引き受けたことだから今更逃げ出すわけにもいかない。今のわたしに出来ることを精一杯やるしかなかった。
次々と飛んでくる部員たちの質問を日岡くんに助けられながら答え、ようやく部活が始まる。まずはストレッチに走り込み、その間に教えてもらった通りにタオルやらドリンクやらの準備をする。それが終われば次はスパイク練習が始まった。慣れないボール出しに戸惑いながらポーンとボールをセッターへ高く上げる。どれくらいの高さが正解なのかわからず、向かいで同じくボール出しをしているコーチの見よう見まねであれこれと思考しながらボールを上げた。実際捌きづらさもあったと思う。それでもセッターの人が綺麗にトスを上げ部員たちは難なくスパイクを決めて、あまつさえ褒めてくれる。社交辞令だとわかっていても嬉しくてつい頬が緩んだ。
練習中の夏をこんなに近くで見たのはいつ以来だろう。真剣な表情に知らない夏を見ているようで寂しくなる。やっぱりわたしはマネージャーには向いていない。夏がバレーを頑張れば頑張るほど置いて行かれるような気がして素直に応援できない。こんなわたしが傍にいては、夏の努力に水を差すようなわたしが傍にいてはいけないのだ。
◇◇◇
「中野さんって蒼と付き合ってるの?」
休憩時間、差し出したドリンクを受け取ってそんな質問を投げかける部員の一人に驚きすぎて口が開いた。夏と付き合っているのかと訊かれたことは数え切れないほどあるけど、それ以外の男子との交際の有無を訊かれたのは初めてだ。
「てっきり夏と付き合ってると思ってた」
「いやいや、日岡くんとも夏とも付き合ってないよ」
「え、そうなの? 手繋いで来たからてっきり」
て? 手を繋いできた? は?
「! 違う。手を繋いでたんじゃなくて腕を掴まれて連行されたの間違いだよ」
慌ててそう言えば「えまじか」と目を丸くした。「なんかごめんね。あいつ強引なとこあるからさ」申し訳なさそうに謝られて
「あ、違うの。ここに来たのはちゃんと自分の意志だよ。日岡くんにはきちんとお願いされたから強引にじゃないよ」
「なんだそっか。よかったー」
手を繋いでいたわけじゃないけど、と大事なことなので再度口にしたわたしに「了解」と笑う双眸がふとわたしの向こうを見た。苦笑する彼の視線の先を追う。そこには夏の姿があって豪快にスポーツドリンクを呷っていた。
今日、夏と目が合ったのは最初に体育館に来たときだけだ。驚いた瞳がわたしを映して、それから一切夏がわたしを見ることはなかった。こんなに近くにいるのに遠い。どうしてこうなったんだろう。溜め息を吐きそうになって呑み込んだ。こんな暗い気持ち、部活に励む皆の邪魔にしかならない。夏から視線を外して何か仕事はないかと辺りを見回したとき「威嚇すんなら近くに居ればいいのにな」なんて苦笑を浮かべていた彼に言われ首を傾げた。威嚇? なんの話? 「あーそっか。付き合ってないんだったな」何故か額を押さえながらぶつぶつ呟く姿に再度首を傾ける。「なに? なんかあった?」タオルで汗を拭きながら現れた日岡くんに額を押さえていた彼が半眼を向けた。
「おまえもなんか面倒くさそうなやつ? 大丈夫? 自覚してる?」
「は? 何の話」
意味がわからないと疑問符を浮かべる日岡くんの肩に「ま、頑張れ」と手を置いて「中野さんも頑張って」と爽やかな笑顔でその場を離れる彼に日岡くんと顔を見合わせる。
「なにあれ」
「わからない。途中から会話が噛み合わなくなった」
「なんか俺、面倒くさそうとか大丈夫? って言われてなかった?」
「自覚ある? とも言われてたね。無意識に何かやらかしたんじゃない?」
「え、まじかよ。やらかした覚えねー」
結局答えはわからないままだったけど、休憩を終え再び練習が始まってからは忙しさにすっかり忘れてしまっていた。
◇◇◇
19時を過ぎ、後片付けを終えてぞろぞろと体育館を出る。すっかり日の落ちた真っ暗な空には満月まであと一歩の月が浮かんでいて、星がキラキラと瞬いている。明日も晴れるだろうか、そんなことを考えながら体育館を出ようとして呼び止められた。
「帰り送ってく。待ってて」
「え、でも日岡くん家近かったっけ? 大丈夫だよ、まだ19時だし」
「全然大丈夫じゃねーわ。いいから黙って送られてろ」
眉根を寄せた日岡くんに頷こうとして「理央」呼ばれた名前に心臓がどくんと跳ねた。
「夏……」
「理央は俺が送ってくから」
そう言ってわたしの手を引く夏に酸素が薄くなったんじゃないかと思うくらい呼吸が苦しくなる。名前を呼ばれた、夏がわたしを見てくれた。それだけのことがどうしようもなく嬉しくて、同時にものすごく胸を締め付ける。握られた手が火傷しそうなほどに熱い。何をどうしたら正解なのか、ドキドキと早鐘を打つ心臓に思考が上手くまとまらない。
夏は部室に入ると自分の鞄と、そこに預けられていたわたしの鞄を持ってジャージ姿のまま出てきた。その少しの間だけ離された手が再び繋がれる。あまりにも自然で当たり前だと言わんばかりの行動に何も言えずに大人しく手を繋いだまま真っ暗な空の下を歩く。依然心臓は早いままだし手も熱い。なんなら顔も熱い。ずっと必要以上に触れることを避けてきた。幼馴染の適切な距離なんてわからないけど、物理的な距離だけはいつも意識していた。そんなわたしの一種の線引きも夏は簡単に飛び越えてきていたけど。
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