エピローグ

 かつての経歴を捨て去り、苦難の年月を経て、彼はすっかり様相を変えた。

 無精ひげをはやし、ヒーローのサイドキック、その後は市民を守る盾となっていた男とは思えぬほど、身体が弛緩していた。

 それが幸いして、ここまでやってこれたのだ。まわりみちも悪くはない。


 遠い、打ち捨てられた漁村の小さな小屋に、目当ての人物はいた。

 尋ねたとき留守かと思ったが、違った。裏手から伸びる桟橋に、その男は座っていた。


 なんのことはない、枯れた小柄な老人である。

 もっとも、ただのじいさんではない。第一声をいかにするかを思案していると、向こうから声。

「……始祖だなんだと言って。連中は何にも与えてくれんかったよ」

 その調子が思いのほか軽剽だったため、安心した。

 歩み寄って、隣に座った。

「さすがだ。その念波は、どこまで届くんです?」

「……なぁに。アジの一匹も釣れん。お前さんに分けてやってもいいがな」

 老人は釣竿をぶらぶらと足元の海面へ垂らしていた。

 釣り自体が目的には見えなかった。ただ、そうしているだけ、のようだった。

 これじゃ――ヒーローというよりは、仙人だな。そう思った。


「それで。どうもお前さんは連中と違う。たたずまいが違う。小突けばすぐに飛んでいきそうだ。そんな奴が、何の用だね」

「そんなだから、役に立てるってこともあるんす……聞きたいことが、あってね」

「ほう。面白いといいがな」

「……ヒーローってのは。どうやって生まれたんです」

 もったいぶる必要も、この爺さんには必要なさそうだった。

 相手はもごもご口を動かして思案し、答える。

「実験……とかなんとか、言われとったが。ありゃあ嘘だ」

 あっさりと。通説が覆った。

 一瞬、くらっとする。

「じゃあ、なんだってんです。あのひ……連中の、そしてあんたの力の根源は」

「そりゃあ、お前さん――奇跡だよ。ミラクル。ギフトだ」

 こちらを見て、笑った。歯が何本か差し歯になっている。無邪気な笑み。

 つい力が抜けてしまいそうになるが、いや、待て待て。こんなに簡単に聞けてしまうとは思ってもみなかった。

 そんな気持ちを知っては知らずか、爺さんは続けた。

「ある日な。ちいこい、こんぐらいの子が、ボール追っかけてた。それで車にはねられそうなのを見てな、危ない、と思ったら……その子は、宙に浮いとった。で、どうもそれは、儂自身の力というわけだった」

「じゃあ……人為的だどうのっていう、はなしは、ぜんぶ……」

「嘘じゃい、そんなもん。人間舐めるなと言ってやれ、若いの」

 目が回る。吐き気もしてきた気がする。

 おくれて、感情がどっと襲ってきた。

「……ああ、ああああ……」

 落涙。みっともないと分かっていても止められなかった。手のひらの狭間から、ぼとぼとと、鼻水と一緒に海に落ちていった。

「おい、おいおい、ハンカチ……いや、ちょっと勿体ないな。待っとれティッシュ、いやそのあいだお前さん、この竿頼めるか……」

「いいんす、いいんすよもう、ぜんぶ、ぜんぶもう、よくなったすから…………」

「……おおう、そうかい」

 嬉しいのか、後悔なのか分からない。いまは名前をつけたくなくて、流れるままにしておきたかった。


「……あのひとは。最初から……ヒーローだったんだ……」

「……」


 爺さんは肩をポンと叩いて、遠くの青い空を眺めながらつぶやく。

「なくなっても、なかったことにはならんよ。そして、そうであれば……まだ、先がある。未完結の未来が……」

 もう、頷くことしかできなかった。


 ヒーローも悪役も、あの街には必要ない。

 覚えておくべきだ、なんてこともない。そんなものがなくたって生きていけるなら、きっとそのほうがいい。

 けれど、彼らが去っていった軌跡が、何も残さなかったということも、決してない。


 そう信じたいと、彼は思った。

 そのあとは、とても晴れやかで、すっきりとした気持ちだった。


 雨は、とうぶん降らないらしい。

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去り行くものたち 緑茶 @wangd1

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