第13話 ノー・カントリー・フォー・オールドメン
腕は、その無数の腕は、街に届かなかった。
旧市街の境界線にそびえたつ壁に沿って崩れていく。べったりと、毒素の手形をつけながら。
脱力し、弛緩しながら――ヒーローのもとへと戻っていった。
「……っ、それでいい」
彼は、座り込んだ。
さいごの怪人は――その姿を見て、自分の中のほとんどを占めていた、煮えたぎる思いが、急速に冷やされて、ひとつの意味ある形へとかわっていくのを感じていた。
「お前の、言うとおりだ。だけどそれは、お前もだ。俺とお前は、同じだったということか」
「そうとも……だからこそ、混ざり合って灰色になった」
「思い出すよ。お前はかつて、ヒーローになった起源を俺に言った」
相対する男が、熱情に燃える少年だった時の話。全能感と、焦燥感に満ちていた。
何者かにならねばという焦り。
自分は違うと思っていた。優越と傲慢。しかしそれが、同質の焦燥の裏返しでないと、誰が言えようか。
あの時から、同じであることを宿命づけられていたのだ。
「……そうだ。おれは、離れていく両親を救えなかった。だから、その代理として、人びとを救いたいと願った」
「――生まれに不自由しなかったものはヒーローにも悪党にもならない。腐っていくだけだ。お前はヒーローを、俺は怪人をやることで、自分を救済したかったんだな」
「よく、分かってるじゃあないか」
死にかけの男が笑い、反対側の男も笑った。
タバコがほしい、と思った。人間であったとき、人間性を繋ぎとめるためによく吸っていた。
けれどそれも結局、名前だった。こだわりを見せていた時点で、人間ではなくなっていたのだろう。
「だけど、もうそんなお前を、あの時のお前を誰も救ってはくれない。どれだけ世界がよくなろうと、お前の過去は戻ってこないからだ」
「お前もな」
「…………ふふ」
「ははは」
乾いた笑いが、交互に響いた。
どれだけの、長い時間が経過したのだろう。
怪人は、背後の亡霊たちが騒ぎ立てるのを感じた。もう、それに急き立てられることはなかった。
「……お前たちも苦しいんだな。今、楽にしてやるぞ」
ヒーローも立ち上がった。
赤い装束を誇示するように胸を張り、あの頃の――全盛期の、滑稽にも見える、舞いのような姿勢をとった。
少年たち、少女たちが憧れた姿。
いまはもう、誰も見ない。
ならば、と。
怪人も構えをとった。おそろしいバケモノとして、肩をいからせて、牙を剥き出しにして。
これはショウだ。そう自覚するようになって初めて、自分自身の姿勢を、好きになれるような気がした。
ヒーローが口を開いた。
「――なぁ、〇〇よ」
「……聞いているよ」
「これは。路地裏で、人が人を殺す、残酷で、あってはならない話だ。だから俺とお前は、ここで、終わる」
「……分かってるさ」
命の灯が、ひときわ大きく噴き上がった。
二人は同時に駆け出した。
肉体が崩れ、激痛が走り、声とも叫びとも分からずに――両雄は、激突した。
◇
テレビ画面では式典のフィナーレ。合唱団の子供たちが壇上に並んで、声をそろえて歌う。平和への祈りを。調和がとれていて、すこしの乱れもない。
皆が聞き入っていた。外は雨だというのに、誰もそれを見ていなかった。画面のなかのもう一つの世界に夢中だった。
「っ……!」
それではいけないと思っていたのは彼女だけだった。何故そう思ったのかも分からない。ただ、理由付けをするよりも先に身体が動いていた。
車いすの持ち手を離れて、ベランダに続く、大きなガラス戸を開けようとしていたのだ。
「ちょっと――」
同僚がすぐに止めに入る。
後から知ったことだが、泣き叫んでいたらしい。知らない人間の名前をふたりぶん叫びながら、雨をフロアに引き入れようと必死だったらしい。
意味が分からない。今後も分かることはないだろう。とにかく、そうしなければならないと思った、そうしないと――永遠に失うと思ったから。
何を? わからない。だけど、ひとつだけ覚えていることがある。自分は、こんなことを言っていた。
「駄目――みんな、みんな忘れちゃう! なにもかも、忘れちゃうんだ、それは、絶対に、駄目――っ!!」
その後しばらく、彼女はボランティアの停止を命じられた。
ただ、泣いていた。悲しくて悲しくて、制止されたあとも、しばらく涙を流し続けていて、とまらなかった――。
◇
『毒素、薄まってます』
『じゃあ、行けるな。出動だ』
『了解』
雨が上がり、処理部隊が、旧市街に降り立って、しばらくのち。
彼らはその至るところで、崩れたビルの残骸などを見つけた。いずれも激しく損壊しており、人為的な要素が感じられた。
戦闘があった。そう理解するしかなかった。
『誰と戦って……――まさか』
やがて、ひとりの隊員が、とある路地裏で呆然と立ちすくんでいた。
駆け付けた同僚たちも、同じものを見た。
人間らしきものの遺骸が、折り重なるように倒れている。
損傷が激しく、誰であるかは判別がつかなかった。
奇妙なのは、遺骸を持ち帰って解剖に回そうとしたところで、なぜか上層部からのストップが入ったことだった。
隊員たちはいぶかしみ、ある『噂』を共有した。
だが、結局真相を知ろうにも、どうしようもなかったので、やがて忘れ去った。
すべては闇のなかだった。
その後、旧市街を覆っていた毒素は完全に消失し、街を隔てていた壁も破壊され、人びとの新たな暮らしの場へと変化していった。
もう、あの式典で起きた、謎の『震動』については、誰も覚えていなかった。
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