氷髪の処女
龍田乃々介
氷髪の処女
「
◇
昔あるところに、若く美しく気立てのよい女を娶った男がいた。
男は妻を愛し、妻も男を愛していたが、湖で釣りをして生計を立てていた男は貧乏で、いつも食べるものに困っていた。朝早くに出かけては湖の氷を割り、釣り竿を垂らして一日中待ち、日が暮れるころに二、三匹の魚といくらかの山菜を持ち帰る。男と妻が食べるのは魚を一匹ずつ。他を売ってなんとか暮らす。そんな日々だった。
しかしある日のこと、興奮した男が昼日中に帰ってきて妻に言った。
「見てくれ、この魚を!まるで氷細工のような透き通った鱗だ!」
男の網籠には陽光を透かして煌めく美しい魚が一匹入っていた。
「この魚を売れば大金が手に入る!お前にもっと楽な生活をさせてやれる、子供をこさえる余裕だって!俺は魚が死んでしまう前に、南の大きな街へ売りに行く!無事を祈って待っていてくれ!」
そう急き立てると男は出ていき、女は一人ぼろの家に残された。
それから一日が過ぎ、二日が過ぎて、四日、八日、半月、ひと月。時は流れに流れ、三カ月が経ったが、男は帰ってこない。
村の者たちはみな、大きな街で珍しい魚を売り、そのまま街の女と懇ろになったに違いないと噂し、残された妻を憐れんだ。しかし妻は夫を信じ、来る日も来る日も夫の帰りを待った。
朝起きて、湖を眺め、山菜を採り、粗末な農地を世話して、夫の分の陰膳をこさえた。来る日も来る日も、また来る日も、そうして待ち……。
ついにおかしくなってしまった。
女は朝から凍てついた湖に浸かるようになった。
止めようとする村人に女はこう言う。湖の神からご神託を賜った。一年間、欠かすことなくこの氷の湖で水垢離をし、火を用いずに生き延びたなら、男は必ず帰るだろう、と。
女は託宣を信じて疑わず、毎朝冷たい湖の水に浸かる。
その時間は朝の少しの間から、やがて昼を過ぎるまで、果ては陽が沈むころまで続くようになり、浅いところで膝をつくだけだったのが、湖の底へ潜るようにまでなった。
上がってくる女の髪は白く染まり始め、まとわりついた氷は目にも痛々しい。
その氷の髪を女は手櫛で溶かす。火を使って温まることは決してしなかった。
飯炊きをすることもやめて山菜を生のまま齧り、たまに捕えてきた魚も生きたまま食らった。女の信心深さはもはや、村人の制止を聞く範疇にはなかった。
女がそんな生活を続けて、ついに。
三年が経つ。
男が帰ってきた。
「大きな街で売れば大金になる。もっと大きな街で売ればもっと多くの大金になる。そうやって南へ下るうち、魚が死んでしまった。うろこはくすみ、大した金にはならなかった。それが悔しくて、恥ずかしくて、帰るに帰れなかったのだ。お前には、本当に迷惑をかけた」
夫の情けない意地を、妻は許した。
真っ白に染まった氷髪を揺らして、雪解けをもたらす春の陽のような笑顔で夫を迎えた。
「ずっと、待っていました」と──
◇
「お兄ちゃん、あたしが何年
やや訛りのある標準語で、宿屋の娘は抗議する。対面に座す逗留中の男は話を終えると、鞄からタブレット端末を取り出した。
「カヤちゃんは僕が何の職業の人か、女将さんから聞いた?」
「んーん。まだ当てっこの最中。学者さん?」
「違うよ。僕はライター。雑誌で記事を書いてるんだ。ジャンルは趣味の歴史系と、ガジェット……最新技術のオモチャとかロボットとかが多いかな」
「えー!?もー言わんでよ!」
「ここにはね、これを見に来たんだ」
「聞いてねし!」
男の手にあるタブレットには、水中のものと思しき濁った青の画像が映し出されていた。しかしその画質はクリアで、被写体が何なのかをすぐに判別することができる。
「…………岩?文字が書いてある」
「水中用ドローンで撮影したんだ」
男は画面をスライドさせて次の画像を見せる。
「僕は歴史上のいろんな逸話を知って、その細かなところを妄想するのが好きでさ。あの偉人はこのときこんな目配せをしたんじゃないか、あの出来事の裏ではこんな人たちがいたんじゃないか、みたいな、本当に妄想としかいえないような細部を」
次の画像へスライドする。次の画像、また次の画像。それらはどんどん岩へと近づいていた。どんどん、近くへ。
「これも、妄想だったらよかった」
文字が読めるほど、近くへ来ている。
「……これ、なに?」
「…………名前だよ」
[弥彦、七兵衛、小太郎、勇次郎、善弥、辰郎、藤衛門、六郎、山太、寅彦、太蔵、八兵衛、良元……]
岩の表面に、びっしりと。埋め尽くすように男の名前が刻まれていた。
「……なんなの、これ」
「カヤちゃんはさ、「
「…………」
「ごめん、女の子にする話じゃないことはわかってる。けど、聞いてほしいんだ。君ならきっと、いや、君しか聞いてくれないと思うから」
「……言って」
「…………これは、僕の妄想の話だ」
◇
男がいなくなって初めのころ、村の者たちは女を哀れんだ。他所で女を作ったから帰ってこないんだ、あんなに愛し合っていたのにかわいそうに、と。そしてそのうち、こう言いだす。
「あんな男は忘れて、他の男と一緒になればいいだろう」
「お前は美人だし器量よしだ。お前と結婚したい男はいくらでもいる」
「帰るともしれない男をいつまで待つ?いつまで他の者に頼って生きる気だ?」
女一人ではあの時代の寒村を生きることはできない。最初は憐みで食べ物を分けてくれていた村人たちも、次第に食糧をくれなくなったり、代償を要求するようになる。
たとえば、体を明け渡せ、とか。
氷髪の処女がそう呼ばれるのは、きっとその要求を撥ねつけて清貧にあまんじたからだろう。貞操を固く守り、貧しく苦しい暮らしの中で男を待った。
……しかし。伝説によれば、彼女はその日々の中である日突然、狂ってしまう。
湖の神の託宣。氷露村の凍てつく湖で身を清めれば、男が帰ってくる。
それを狂信して無理な水垢離と、火を使わない生活という異常な行動に出る。
なぜか。
どうして突然水垢離なのか、それまで信心深い様子もなかった彼女がどうして神の声を聞いたのか、火を使わないことの意味は?
……もしかすると、本当に神の声が聞こえて、そうしろと言ったのかもしれない。
でもここには、別の理由を当てることができる。
子種を堕ろすためだ。
体を洗い流すことでそれを落とし、体を冷たく保つことで中に入り込んだものを死なせ、狂ったようにそれを行うことでそれ以上の穢れを拒む。
彼女はそのために、聞いてもいない神の託宣を全うしようとしたのではないか。
◇
「……この説は、少し違った方向から支持されることになった」
「違った方向?」
「伝説では彼女はいずれ湖の底まで潜るようになったという。潜って何をしていたのか。僕はそれを知りたくて、半月前この宿場町に来た。そしてこの画像を撮影して、思った。これはきっと、加害者の男たちの名前」
女はずっと、呪っていたのだ。
湖の底に、何度も何度も泳いで通いつめ、かじかむ手に石を握りしめ、何度も、何度も打ち付け刻み込み、この大岩に名前を彫った。
自分を犯し、穢した、死んでほしい男たちの名前を。
誰にも知られないように、ずっと、ずっと……。
「…………ふーん。これ、どうするの?お兄ちゃん」
「……僕は、これを、公表しようと思う」
「……そうなんだ」
「だから、君に先に打ち明けたんだ!」
「なんで?」
「……カヤちゃん、僕のこと好きだろ」
「……、……………………………………」
「たまに古いおもちゃで一緒に遊んだり、湖を案内してもらったりして……そうなってくの、気づいてた」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………だったらなに?」
「一緒に来てほしい。この画像と僕の仮説を記事にしたら、きっとここは騒がしくなる。ネットのもの好きや他の記者、学者や、もしかしたらテレビの取材なんかも来るかもしれない。それもみんな、悪意にも似た好奇心を持って。君をそんな中に置いていくのが……嫌なんだ」
「……………………」
「…………僕も、君が好きだから」
「……………………」
「…………カヤちゃん?」
「わかった。いーよ。ついてってあげる。でもあたし、未成年だよ?ほーりつが許してくれるかな」
「そ、それを言われると弱い……。けど、なんとかするよ。……愛してるから」
「……ん。よし。それじゃ、あたし準備してくるね」
「すぐ戻るから、そこで待ってて」
氷髪の処女 龍田乃々介 @Nonosuke_Tatsuta
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