序-2

 最初は墓に手でも合わせているのかと思ったのだが、数分経ってもピクリとも動かないので次第に心配になってきた。今日は少し気温が高いので脱水にでもなっているのか、それとも心筋梗塞か何かを起こしたのか。いろいろな可能性が頭の中を駆け巡る。自分が門をくぐった時点で既にあの体勢になっていたのだとすると、既に10分くらいうずくまっている可能性もある…。ただの気ままな散歩のつもりが、意図せずのっぴきならない事態に巻き込まれてしまった。

 人に話し掛けるのはあまり得意ではない。特にこういう場面ではなおさら。自分から他人に助けを求めるのならばいざ知らず、助けを求めているかどうかもわからない人間に向かって助けが欲しいか、と聞くのは本来なら俺の手に余ることだ。しかし、いくらこうして逡巡していたところで、春の陽光の柔らかに降り注ぎ、ただ一か所の異常点のほかは呑気な日常の気配に満たされたこの昼前の小さな寺院の墓地に、そんな過酷な任を引き受けてくれそうな人は現れそうもない。

 散々迷った末、人命に関わる場合を考慮し、一応声だけは掛けてみることにする。

 こちらが近づく音を聞いて、振り返るなりしてくれればそれが一番穏便に済むのだ。ああ無事だ、良かったと安堵して何事もなかったかのように歩き去ればよいのだから。頼む、振り向いてくれと祈るような気持ちで心持ち大きめの足音を立ててみたが、何の反応もない。不安が加速度的に大きくなる。緊張も合わさって、少し心拍数が上がる。こころもち早足にもなる。「大丈夫ですか?」という声はかなり上ずったみっともないものになってしまったが、それも致し方ないだろう。


 だが、結論から言えば俺の懸念は全くの杞憂であり、覚悟を決めて話し掛けた俺の英雄的所業は全くの無駄骨であった。声を掛けた瞬間、その人はびくりと肩を震わせ、こちらを振り返ったからだ。

 

 うずくまっていたのは俺と同年代の女性だった。

 青みがかった澄んだ瞳が、最初に目に飛び込んできた。それから鼻と眉が、そして唇と髪と頬が。とても綺麗な人だ、と思った。抜けるように白い肌、栗色をしたかろやかな髪、すらりと鼻筋の通った高い鼻と大きな目、彫りの深い卵型の顔がどことなく日本人離れした印象すら与えてくるのだが、顔全体を見ればそこまで日本人離れした風でもない。細い眉と薄く小さな唇からは上品で理知的な印象を受けるが、決して冷たい印象は受けない。えもいわれぬ調和のとれた、不思議な感じのする顔だった。


 見惚れていた時間はほんの0.5秒ほどだったはずだが、実際どうだっただろう?


 いっときは最悪の可能性さえ考えていただけに安堵も深かったが、冷静さを取り戻した頭で今の自分が置かれた状況をよくよく分析すると、客観的に見れば不審者に間違えられても仕方がないということに気付く。もう無事なのは確認したのだから長居は無用。あとは「特に何事もなさそうですね、お邪魔しました」とだけ言ってさっさとずらかるに限る、と思ったのだが、それを実行に移すより先に目の前の女性が立ち上がり、「すみません!」と頭を下げてきた。

 ……何故自分は初対面の人に頭を下げられているのか。事態がよく飲み込めず、一瞬思考が止まる。端からみれば俺はかなり呆けた顔をしていたはずなのだが、彼女はそれすらも気づかなかったのか、「お寺の方ですよね! 私は永島家の者でして、墓参りにお邪魔しておりまして、その、決して怪しいものではございません!」と続けざまに畳みかけてきた。これが俗に言う「テンパる」というやつか。そんな考えが脳裏をよぎる。

 女性のあまりの焦りように一瞬面食らったが、情報をまとめて提示してくれたおかげでようやく状況が理解できた。どうやら俺は、長時間墓石の前に座り込んでいる不審人物を咎めにきた寺の関係者とでも勘違いされているらしい。俺が着ているのは袈裟でも作務衣でもないただの高校の制服なのだが、おおかた住職の息子にでも見えるのだろうと思えば得心がいった。パッと見た印象ではあまり動揺を表に出しそうなタイプにも見えないのだが、自分が同じ立場だったらやっぱり同じように動揺してしまうのだろう、と思うとそこまで不思議でもなくなる。

 このまま誤解されたままでも別に構いはしなかったのだが、なんだか女性が気の毒になったので一応仔細を説明しておくことにする。自分はなんとなく寺の敷地に入ってきただけで、寺の関係者という訳ではないということ、しばらく見ていてもうずくまったまま一向に動かなかったので心配になって思わず声を掛けてしまったということを説明しているうちに、女性の顔は少しだけ赤みを帯びて、気恥ずかしそうな表情になった。「ご心配をおかけしてすみませんでした」と再び頭を下げられたのだが、早とちりして声を掛けてしまったのはこちらなので、そう何度も頭を下げられると段々申し訳なくなってくる。

 

 うずくまっていたせいで、後ろから見ていたときにはどんな人なのか分からなかったのだが、よく見るとその女性は近くの女子校の制服を着ていた。秋島では知名度が高いカトリック系のミッション校で、同じカトリック系の秋島学院とも多少の交流があるところだ。修道女の服を彷彿とさせる古風で細身なデザインの制服が、彼女の楚々とした雰囲気によく似合っている。紺色のセーターを着ているが、首元に覗くブラウスの色が水色ではなく白色なあたり、まだ中学生なのだろうか。かなり大人びた雰囲気の人なので、てっきり高校生なのかと思っていた。

 視界の隅を何かが通り過ぎていった気がして視線を動かすと、墓地の奥の方に向かって野良猫が一匹駆けていくのが見える。そのまま視線を戻すと、女性の手元に大判の本が握られているのが目に入った。あまりに頭を下げられてばかりいたものだから気にも留めていなかったのだが、先ほどからこのかた鞄に手を触れる様子はなかったので、しゃがみこんでいた時からずっと手に持っていたということになる。なんでこの人は墓参りに大判の本なんか持って来てるのだろうかと思って表紙に目を凝らすと、「新詳高等地図」と書いてあるのが見えた。

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墓石と民草 富嶽 @fugaku_hiro

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