凶兆と宿命

紫鳥コウ

凶兆と宿命

 野瀬はVincent van Goghの絵の複製を、友人の書斎の壁に見つけた。それはどの『ひまわり』でもなかった。タイトルをパッと思いだせない絵だった。


「きみは、この絵が好きだっただろう?」

 彼は友人の無礼を発見した。

「それは、ぼくのことじゃない。だってぼくは……」


 そのとき、彼はこの絵のタイトルを思いだした。そして、友人に無礼を見出した自分を恥じた。と同時に……彼は彼の知らない不吉を発見した。彼が好きだったというこの絵は、記憶が正しければ、ゴッホが最期に描いたものだった。


 そして彼は、遺作でゴッホに言及していた大正期の作家のことまで思いだした。その作家は三十五歳の若さで服毒自殺をしていた。それは彼とあまり変わりのない年齢だった。


     ×     ×     ×


 友人の家を後にした野瀬は、××通りでタクシーに乗ると、ある商業施設のなかのカフェで彼女と落ち合った。あのとき記憶に浮かんだかの作家は、その遺作の中で、自らの過去の不義のことを赤裸々に記していた。もちろん、野瀬がいま会っている彼女も、不倫相手に違いなかった。


 しかしながら、あの作家とは違い、肉体的関係を。それは不名誉なことだ。が、その差異は――決定的な差異は、なぜか彼を如実に勇気づけた。彼は段々と生命力が快復するのを感じだした。


「最近はどうなの?」

「どうって?」

「だって、精神的にまいっているって言うじゃない」

「ああ、まとめて死んでしまったものだから……」

「家族が?」


 野瀬は、彼女に不愉快を感じた。家族が?――ほかに、誰の死があれば、ここまでまいってしまうと言うのだ?


 しかし彼は、こういうことも思いがちだった。家族が死んだ後の様々な後始末は、面倒な……野瀬はその考えを頭の隅のさらに向こう側へと押しやった。それは、なによりの不孝に違いなかった。


 が、いま彼女と会っていることそれ自体が、家にいるであろう妻への裏切りだということを閑却かんきゃくしているようだった。


「ふたりで死んでしまわないか?」

 彼はその言葉を……二重の意味での「希望」を、最後まで口にすることができなかった。


     ×     ×     ×


 翌朝、野瀬は家へ帰る前に、××通り沿いにある古書店に寄った。そこには那須野という高校時代の同級生がいる。彼はたびたび、この古書店に本を漁りにきていた。しかし意外にも(?)本を売ったことは一度もなかった。


(ゴッホの画集を買ったのもこの店だった!)


 彼はこういうことに、ミステリ作家としての感受性を刺激されがちだった。まるで点と点が線になったような……いや、これは凶兆ではないのか? 彼は自分が愛した絵画が、ゴッホの最期の作品だったということを思いだした。


「あがっていけよ」


 彼は、那須野の申し出を断りたい気持ちだった。が、自ら会いにきた以上は、このまま帰るわけにはいかなかった。勇気を得るために、必死に彼女の豊饒ほうじょうな肉体のことを思いだそうと努めた。しかし……久しく抱いていない妻のことが想起された。


「どうしても、がまんができなくてね……」

「なにが?」


 那須野は目をしばたたかせた。そしてどこかとげのある口調で、「やっぱりまいっているらしいね」と言い捨てた。


「だから、旅行だよ。この前、がまんできなくて、突発でBotswanaに行ったんだよ」

「Botswana? ああ、ボツワナか。アフリカの国だったような……」

「そう。首都はGaboroneで、カラハリ砂漠があって……もちろん、内陸国だよ」

「ハボローネと言ったの?」


 那須野はやけに発音にこだわっていた。すると、不気味に、忍び寄るように……猛烈な不安が訪れてきた。なぜ那須野は、内陸国であることを「もちろん」と言ったのだろうか?


「そう、ハボローネ」


 内陸国は英語でlandlocked countryである。Locked……鍵……秘密……不義……妻……家族……後始末。もう少しで彼は、友人の目の前で悲鳴を上げるところだった。


 彼はこうした連想ののち、用事を思いだしたと言い、そそくさと同級生の店を出ていってしまった。


     ×     ×     ×


 ××通りからタクシーに乗ろうとしたが、どれだけ手を挙げても止まってくれなかった。彼は自分が見えない存在になってしまったのではないかと思い、手足の感触をたしかめた。しかしどうやら生きているらしかった。


 向こうからタクシーがやってきたように見えた。必ず止まってくれるよう、手を挙げるだけでなく、ひらひらと振ってみせた。しかし、やってきたのは見紛うことなく霊柩車れいきゅうしゃだった


(あの作家は、何度も、タクシーから霊柩車を見たと書いていた……)


 もう、宿命に従うだけだ――と、彼はこころに決めた。



 〈了〉

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