第3話「過去と謝罪」

 あの時「ばいばい」と大人の女性は鼻音をずびずびと鳴らした。小さな自分を抱きかかえた父の顔は押し黙っている。父はそのまま、その大人の女性とその女性が右手に繋がれた自分より体格の大きい子供をじっと見つめていた。

 この場で声を出していたのはその大人の女性だけで、自分も、父も、その女性に繋がれた子供も何も言わない。


「ごめんねぇ。ごめんねぇ」


 何か良く分からないが、自分に向かってずっと謝り続けていた。顔を見上げて父を見るが何も言わない。

 父に抱きかかえられた自分は大人と同じくらいの目線の高さの位置にいて、腰を落とさずに自分の頬へ手を伸ばすその女性の手のあたたかさを感じながら、ぽろぽろと涙を流す女性と目を合わせ続けた。目を逸らしてはいけない気がしたから。

 多分十数分くらい、動きたがりな子供にとっては随分と長い時間謝られ続けたが、父の発した「おい」という一言でその女性はしゅっと怯えるように手を引いた。女性の右手に繋がれた子供は不安げに服を引っ張り、女性もまた不安げな表情を浮かべたままゆっくりとこの場から離れていく。

 女性と、女性と手を繋いだ子供は何度かこちらを振り返りながら遠く、遠い場所に離れて行った。父はずっと何も言わず口を一文字に閉じたままその遠くをじっと見つめていた。

 父と遠くを交互に見ながら何が起きているのかも分からないままでいると、父はこちらを見て変な顔をながら何も言わず頭を撫でた。

 自分を撫でる父は笑いながら泣いている不釣り合いで変なその表情でいて、更に自分をぎゅっと抱きしめた。父が包み込むあたたかさに自分は微睡み始め、結局ずっと何が起きているのかも分からないまま父の胸板にもたれかかるようにゆっくり瞼を閉じて寝た。

 微睡みの中で見た最後に憶えている空の色は一面の茜色に、薄く菫の色が走っていた。

 これが憶えている母と兄の、最後の記憶。



 ハンバーガー屋に居座り続けて昼を過ぎた頃、いい加減中に氷もないドリンクカップの中をストローで吸い続けるのに飽きた頃合いで店を出る事にした。

 思い出した数少ない母との記憶を振り返りながら、深く被った帽子の奥から街をだらだらと歩く。記憶を追想して、記憶の中で歩いた道を何とか辿りながら街の奥へ奥へ歩き続けた。

 当時は子供だったので身長が低く、見えていた十年以上前の街並と、十年以上経って街開発の進んだ街並は全然違う。コンクリートを踏みしめる足の感触も、街の空気も違うように思えた。そんなただでさえ朧げな記憶の中の街並を、如何にか手繰り寄せるのには些か限界があるらしい。

 ハンバーガー屋から西へ歩き進めて信号を二つ越えた先の交差点を右に進んで、暫くしたら川を挟んだ向こう岸見えてくる煙突工場。その煙突工場が丁度見えなくなるように被さるタワーマンションと、その下にある公園まで来た時点で完全に手詰まりなった。

 ここで遊んだのは思い出したが、これ以上何をどうやっても思い出せない。公園を見回すと小さな砂場にシーソー、ジャングルジムにブランコ。公園のすみっこにはベンチがあって、そのベンチに覆いかぶさるように格子状に鉄格子が組まれた東屋が置かれていた。その鉄格子には植物の蔓や蔦が複雑に絡まるように生い茂っていて日陰をなす藤棚のようだった。

 自分は誰に促される訳でも無く、母に背中を押されて遊んでいた筈のブランコに座ってみた。自分の足で地面を蹴って勝手に揺れてみると、母に押された背中の感触をほんの少し思い出す。


「ここまでは憶えてるんだけどなぁ……」


 ぽつりと洩らした言葉は誰も答えないまま空中に霧散し、これ以上進展しない掴み様が無い記憶を暇と共に持て余した。

 しかしそれからブランコを揺れていると思いの他楽しくなってきて、座るのに飽きてブランコの椅子に立ち上がり、昔は出来ないでいた大きい揺れを純粋に楽しんでみた。ブランコを揺らしたり漕ぐだけで結構夢中になれて、随分童心に帰れる。


「お前こんな所ではしゃいで、何しとん」


 だからだろうか、人の声かけに気が付かなかったのは。



「同い年やし、ワイが高校生だったらお前もそうやん。お互い高校生やん」

「……」

「まぁ、ブランコとか偶に乗ってみたらワイもめっちゃ楽しかった事あるし、その気持ちも分かるんやけどな」

「……」

「公園に遊びにきた他の親子とか、めっちゃお前見とったで。「え、なにこの人」みたいな目線やけどな」

「恥ずかしいからこれ以上言わないでくれ……」


 連れられて入った喫茶店のテーブル席に対面する形で座り、自分は関西弁を使う男に軽い説教のようなものを受けていた。


「それにして久し振りやんなぁ。何年振りやろ? 二年か、三年か?」

「多分三年弱振りじゃないかな。確かてっちゃんが転校したのが中学卒業する直前くらいだし、そんなものじゃないかな」

「あー、せやっけ? それにしてもえらい懐かしいわぁ。中学校で出来たジブンの唯一の友達であるワイが、ほんま偶然街をブラついて偶然立ち寄った公園で三年弱ぶりに出会った友人が一生懸命ブランコ漕いでるんやもん。そんな事してる不審者いたらガン見するし、そんだけガン見したら気づくわな」

「勘弁してくれ。不審者だったかもしれないけど、一応感傷に浸ってたんだ」


 感傷に浸っていたというのは、口に出して今更正直苦しい言い訳だと思った。何せ記憶をあれ以上思い出せなくて暇を持て余してブランコを全力で楽しみながら漕いでいたんだから。感傷に浸ってる顔つきじゃなかった筈だ


「その割にはめっちゃ活き活きとした顔つきやったけどな。辛気臭い顔つきしてた独りぼっちよか幾分マシやと思うし、ええんちゃう? 昔の事を考えてたりもしてたみたいだし、しゃーないやろ」

「どこまでお見通しなんだよ」

「お、ビンゴやったか。そりゃ当たり前やで? サトリのてっちゃんやもん」

「相変わらず胡散臭いなぁ」


 目の前の男、てっちゃんは中学時代唯一の友人だった。

 てっちゃんはいつも校則違反の長髪に、制服改造をしてよく授業をサボっては図書室や保健室に入り浸っていた。授業中に珍しくまじめに受けているてっちゃんがいて、それは基本的には長髪と袖に通したイヤホンコードで音楽を聴いていた。授業の空き時間も窓の外をじっと見るようにしてずっと音楽を聴いていた。

 てっちゃんはいつも自身と他人の間に物言わせぬ壁を作っていた。それは不良学生というタグだったり、音楽を聴いていて人の話に興味が無いとか、そんな風に「人が関わりたがる要素」を次々と削ぎ落していた。

 自分は自分で中学に上がったぐらいに自身の家庭環境の理解して、人間不信に陥っていたのでてっちゃんとも似通っていた。てっちゃんとは違う方向性で他人と壁を作り、授業と授業の空き時間はそそくさと教室から出ていき、放課後とは皆と外れた時間で帰るように図書館に入り浸って時間を調整した。授業中の発言も最低限にしていた。

 だから最初から仲が良かったとか、そんな訳ではない。互いに他者との接点を断つような生活を送っていたのだから、当然も当然の筈だ。元々互いに仲良くなる因果は無かったはずだった。

 そのきっかけが、本当に偶然だっただけだ。


 その日の放課後、担任の藤岡に来週の学年集会で配るプリント類の整理を頼まれた。そのプリント類をコピー機で刷ったのは良いが、肝心の綴じ作業を頼む筈のクラス委員長の米沢さんが風邪で寝込んでいて頼むアテが無かったから頼んできたらしい。要は都合の良い暇人が欲しかっただけだ。

 担任からはどさっと一人で綴じるには量の多い山のようなプリントの数。思っていた以上の量に茫然としている自分に、担任は笑顔で「大丈夫だ。他にもアテがあるから。そいつは図書室に居るし、どうせだから図書室で作業しててくれ。先生にはこちらで都合をつけておこう」と謎のフォローをされた。

 その瞬間、自分は一つ嫌な予感を頭に浮かべていた。それはクラス一浮いた不良の姿が頭をよぎったからだ。

 立ち聞きした噂曰く、その不良はよく図書室や保健室に入り浸っているらしい。人と関わりたくない自分が殊更に関わりたくない人種であるソレとの邂逅を予感してしまい、陰鬱なまま図書室に向かった。そしてその想像は的中する。

 山のようなプリントを抱えて校舎を一つ跨いで四階にある図書室に入れば、奥の方で放課後過ぎの夕焼けを黄昏るように眺めてそいつは居座っている。改造を施した制服を纏って、校則違反の長さの髪の下からは青色のコード伸びて机の上に置かれたウォークマンと繋がっていた。余程音楽に熱中しているのか、図書室に自分が入ってきた事に気が付かないまま外をを眺めている。よく見れば足元は聴いている音楽のリズムに合わせているかのように小刻みに足で地面を叩いていた。

 耳を澄ませてみれば、心なしか鼻歌をしているようでもあった。とっつきにくさの塊のようだと思っていた彼の人間味のある様を見つけると、心なしか微笑ましくなった。だがそれはそれとしてしなければいけない仕事があるので、山の様に抱えたプリントを持って彼のもとまで歩いてゆき、わざと大きな音を立ててドサッとプリントを机の上に置いた。

 人が来ていた事に初めて気が付き、山のような量のプリントを目の前に置かれた事に状況を呑み込めていないのか、目を丸くした。目を丸くしたままの彼の対面になるように座った自分は無言でホチキスを突きつけてウォークマンの隣に置く。

 そして自分はもう一個のホチキスでプリントを留め始める。


「……?」

「早くやりなよ。遅くなるだけ帰るの遅くなると思う」


 突き放すような言葉をかけると、彼は渋々納得したと言った雰囲気でホチキスを手に取り自分と同じように作業を始めた。

 ただ黙々と、互いに何も言わず作業を進めた。

 静謐な空間ではただ図書室の壁にかかった時計の刻む音と、ホチキスがプリントを閉じる音だけが続いていた。放課後に聞こえる部活動の掛け声は随分遠い向こう側だった。

 窓の外を作業中の横眼に見てみると、夕暮れの空は綺麗に見えた。この図書室は四階にあるだけあって、グラウンドを見渡せる教室のように視界を遮られず空を眺めるのだ。ここで黄昏て音楽聴きながらぼうっとしているのも確かに悪くないだろうなと思えた。


「あのさ」


 黙々と進めた作業が大体三十分くらい経った頃に、目の前の彼は口を開いた。この沈黙に耐え兼ねたのだろうかと思っていると妙な事を口走った。


「多分、違うと思うんやけど」


 何が? 何が違うんだろうか。そりゃこの仕事は本来担任や教師側で終わらせるべき仕事なんだろうけれど。


「これ手伝ってくれる奴、もう帰ってると思う」

「……今手伝ってくれているじゃないか」

「藤岡センセが呼び出した奴、ジブンがここに来る大分前に帰ったで」

「……は?」

「藤岡センセが今日の朝のホームルーム後に副委員長の鈴川さんに話し掛けとったもん。「放課後にちょっと手伝ってくれ」って」


 副委員長の鈴川さん? 朝のホームルーム後に藤岡が話し掛けていた?


「という事はつまり」

「何も頼まれとらんもん。ここで音楽聴いてただけやで。手伝わせる奴間違っとるよ」


 酷い勘違いだった。いや、勘違いするなと言った方が難しいだろう。それを正直に話すと彼は見たことも無い顔で大きく声を挙げてゲラゲラと笑い出した。いつも仏頂面の不真面目な格好をした彼はこんな顔を彼はするのか。


「ほんまかいな!? こんな事ほんまにあるんやなぁ! こんな綺麗な間違われ方テレビの漫才とかでしか見た事無いで。アカン、笑いが止まらん……ってだれが仏頂面やねん」

「いや四六時中むすっとした顔をして他人に関わらない不良がそんな風に笑ってたらおかしいって言うか……え?」


 自分は一言でも仏頂面って、言ったか?


「お、やっぱ変に思たか。ワイはサトリなんやで? 人呼んでサトリのてっちゃんや」

「サトリの……てっちゃん?」

 サトリ? 確かサトリと言えば、あの人の心を読む妖怪だかなんだかの名前だったような。

「ああ、せやで。そのサトリや」

「!?」


 心を本当に読んでいるのか、目の前の彼は。いや、まさかそんな。


「そんな驚かんでもええやん。今の心情が顔丸出しやで」


 ズバズバと言い当てられるので驚いた。それと同時に、何か心の向こう側を見透かされているのような気分になり妙に気恥ずかしきなって頬が紅潮した。

 辛うじて遠くに聞こえていた部活動の掛け声が聞こえなくなり、何故か緊張してドキドキしている。


「あー面白。からかいがいあるってレベルじゃないでホンマ」

「?」

「そりゃジブン、目の前の知らんヤツが「サトリのてっちゃんです」とか言ってたら、フツー「サトリって何だっけ。ああ、あれか」って考えるやろ」


 言われてみれば確かにそうだ。だが……


「い、いや、サトリの事を考えるんじゃなくて「サトリってなんだ?」って考えてたかもしれないんじゃ」

「サトリ知らんほど頭悪くないやろ。毎度毎度、成績上位者やん? せやったら「サトリって何だっけ。ああ、あれか」って考えると思ったんやけど……ビンゴ過ぎたんやな」

「なんだよそれ。全然悟ってないじゃん」

「相手の心が読めればサトリやサトリ。どーや、これがサトリのてっちゃんの実力やで?」


 これがきっかけで、良く放課後に彼と……てっちゃんと駄弁るようになった。

 好きなバンドは何とか、クラスで気になる子じゃなくて一番えっちな目で見れる奴は誰とか。そんなくだらない事を、バカみたいな男子中学生らしい事を初めて話せる相手が出来た。

 嫌いなものは何かとかも話した。自分は兄が嫌いだと言って、てっちゃんは「あたたかくもなく、その癖つめたくも無い中途半端に生温いうどんがキライやな」と言った。

 暫くしてから、家の事情も抵抗なく赤裸々に話せれるようになっていた。今までの学校生活では考えられなかった位誰かと仲良くなって、その誰かが評判の不良学生とはとても思いつかなかった。


「ほぇー、大変やんなぁ。親御さん随分昔に離婚してたって。けどそれとお兄さんが嫌いってのがイマイチ良く分からんなぁ。何でなん?」

「嫌いな兄の事について語れと言われても、その、困るな」


 嫌いだけどそれ以上に語る事が無いから。


「十数年前は確かに一緒に暮らしていたし、保育園の悪ガキに小突かれたら泣きついたりもした。両親の空気が険悪な時も兄と寄り添って寝たりもしていた。兄に頼っていたし、兄を慕っていたと思う。朧げな記憶を辿ってみても、兄弟あるあるの「おやつを強奪された」とかのような記憶もないし、喧嘩して兄に泣かされたとかもなかったよ」

「案外憶えているやん。ジブン、案外お兄さんの事嫌いじゃないんやないの?」

「そんな訳無いだろ。大嫌いだ。あと全然語れていない」


 案外憶えているという事は、「そこからは憶えていない」という事だし、「そこからは知らない」という事だ。そこからは当然何一つ語れない。赤の他人をどう語れと言うんだ。

 それに案外兄の事は好きなんじゃないか、だって? 馬鹿馬鹿しい。そもそも自分が物心付く前に家の中で充満していた険悪な環境の原因は誰だ? 兄だろ。母が不貞を働いた揺ぎ無き証拠で、父は十年以上、他人の息子を育てていたんだ。


「浮気が発覚して離婚。なんてのは残酷ながらよく耳にするけど、他人の息子を知らずの内に育てていたと言う話はなかなか聞かないだろ」

「へぇ……確かにそんなの聞いた事無いし、驚いたわ。まるで現代社会の托卵やんかそれ」

「托卵?」

「この間テレビで見て知った。自然界にな、他の鳥の巣に自分の卵産みつけて育てて貰おうっていう事する鳥がおるんやって。親鳥は雛鳥達に懸命にご飯あげるんやけど、その中にはまったく知らない赤の他人が混じってるんやって。それが托卵らしいんや」

「托卵……ねぇ。確かにそれっぽい」

「な? そう思うやろ」


 てっちゃんが親の転勤で転校するまで、出会ってから長いようで短い間だったけど放課後は毎日図書室で駄弁っていたのが懐かしい。

 昔を思い出していると、店員さんが二人分の珈琲を持って来た所ではっと我に返った。


「胡散臭いってなぁ……酷ない?」


 薄目に関西弁、それに加えてすらっと背が高い痩身の彼は「サトリのてっちゃんや」という台詞を加えると制服改造や校則違反の頭髪抜きに実に胡散臭いのだ。


「仕方ないだろ。そう思えるんだから。あ…………そういえばさ、何で「昔の事を考えてた」って気が付いたんだ?」

「そりゃまあ、あそこでブランコ漕いでたら分かるやん」

「てっちゃん、普通はそれだけじゃ分かんないんだよ」


 運ばれた湯気のたつ珈琲を二人揃ってずずずと飲む。あまりに苦くてしかめっ面をすると、てっちゃんも同じようにしかめっ面をしていて、二人でニシシと笑いながら机の横に添えられたシュガーポッドから角砂糖を放り込む。


「そんなもんかなぁ……まぁ、大の高校生が全然馴染の無い場所でブランコ漕いでたらそりゃ怪しいやん? なのにやたら楽しそうで無邪気な顔してるんやけど、時々影のあるような表情もしとった。多分気が付いてなかったと思うけどな」


 そんな表情をしていたのか自分は。相変わらずてっちゃんの察しの良さに驚いていると彼は更に言葉を続けた。


「ジブンがそんな顔するとしたらお袋さん関係やろ。最初は親父さん関係かとも思ったけど、ここに住んでなくて縁も所縁も薄い街のそんな公園で母親関係について普通考えるか? けどあるとすればここで縁の深い何かあったんやろなって思てな。あとよくある話やろ、母親との昔の思い出とか。だから、「昔の事を考えてるんかなぁ」って」

「そんな単純に推測出来るものなのか?」

「そんなものやで。昔から別に魔法なんて使っとらんし、なんかへんな理論捏ね繰り回した怪しい装置で頭ン中覗き見してる訳やない。ちょい考えてみてるだけや」

「……」

「ほんの一歩だけ踏み込むのもええんちゃうんかな。ワイはそれが怖かったからいつも一歩下がってた。ほら、いつもイヤホン付けて音楽聴いてたやん? あれって他人を遠ざける為だけじゃなくて、ワイを他人から遠ざける為だったんやで。話したことないっけ?」

「無いな」

「せやったか。ほら、ワイは昔から察しが妙に良くてなぁ。気が付かんでいい事を分かっちゃうねん。けど元々誰かと一緒に話すんの、めっちゃ好きなんよ」

「だから初めて話した時もあんな滑らかに喋れたのか」 


 図書室であの日彼が腹を抱えてゲラゲラと笑っていた姿が脳裏に浮かんだ。あの時、あの余りの笑い様に実は釣られて笑いそうになったんだっけ。


「せや。けどな、あの子は今朝母親と喧嘩したなぁとか。あの子は浮気してんなぁとか。そういう人の本来底に溜まって見えない澱とか、人が隠したがるみたいなモンが見えてまうのが厭で仕方ないんや。だから遠ざけるしかなかったんや。人が好きなのに、好きなもんが嫌いになってしまうのも厭やった」


 三年振りの事実に驚いた。自分が「人が厭だから人を遠ざけていたのに対して、「人が好きだから人を遠ざけていた」のだ。三年越しに分かった相違点はストンと納得できた。


「お前も嫌いやない。ワイの大切な友人や。だからジブンに言っておきたかったねん」


 てっちゃんは自身の珈琲を一気に煽って飲み干した。立ち上る湯気と一緒に楽し気だった空気まで飲み干してしまったみたいだった。


「ジブン、お袋さんへの感情とお兄さんへの感情を混同しちゃアカンと思うねん。あん時言った托卵って言葉は間違ってたわ。悪いのはお前のお袋さんであって、そのお兄さんは悪くない」


 耳を塞ぎたくなった。蹲って、顔を伏せて、外界の全てを遮断したくなった。けど目の前に座る彼はそれを許さなかった。


「何が厭でお兄さんを嫌いなったか。はき違えた答えは自分自身への毒や」

「黙れ! いいから黙れ! ベラベラと知ったような口聞くんじゃねぇ! 何も知らない癖に!」

「何言うんてんねん。全部お前が教えてくれた事やないか。よう知っとるわ」

「母さんはどこぞの馬の骨と子供こさえて、父さんに育てさせた! お前が昔言った托卵そのものじゃないか!」

「そうだけど違うねん」

「どこが違うんだよ!! 父さんは十年以上も他人の息子を育てさせられたんだぞ!? そのせいで離婚したんだぞ!? 母さんが兄さんを托卵したからああなったんだぞ!? ふざけるな!」


 耳障りな言葉を聞きたくなくて、一刻も早く自分はこの場から離れたくて、手元にあったお冷をぶっかけて席を立つ。目の前にはぶっかけられたお冷でぐっしょり濡れた男が神妙な顔つきで此方を見ている


「お代はええで。手切れ金みたいなモンと思って払っとくわ」

「何が手切れ金だ」


 そう吐き捨てて足早に席を去り、去り際に困惑している店員をどけて喫茶店を出て街へ駆け出した。



 アイツが怒る事も、お冷をぶっかけられる事も想定内だった。間違った考えも毒だが、言われたくない正論もその本人にとっての毒だ。それは十分分かっていた


「あの、お客様……大丈夫でしょうか……?」

「あ、いやかまへんかまへん。大丈夫やし、なんなら寧ろ店に迷惑かけてすんません。お代もきっちり払います。店長さんお騒がせしてすいませんでした」


 心配する店員さんに謝罪を返し、店長さんにも頭を下げ、きっちりアイツの分のお代も払って店を後にした。

 店を出た直後、店を出てすぐの道脇に置かれたアルミ製の長方形型のゴミ箱が下部の形を歪ませて倒れて、中身が散乱しているのを見つけた。アイツがむしゃくしゃして蹴り飛ばしたんだろう。

 溜息を漏らしながら中身を入れなおして、ゴミ箱を元の位置まで戻した所でまた溜息が漏れた。


「はぁ……余計なお世話やったかなぁ。友達失くしたやないか」


 深い溜息だけがずっと漏れていく。


「でも中坊の浅い考えで托卵、なんて言ったんが一番の間違いやったなぁ。……本当、なにやってんやろ。」


 ただぼろぼろと涙があふれるのを留められないまま、地面に蹲って泣くしか出来なかった。



 喫茶店を飛び出して、街を駆け出しながら、肺の空気を懸命に吸ったり吐いたりして、手を大きく振ってばたばたと足音を鳴らして走った。そして、あの公園までたどり着いた。思い出したくも無い記憶がアイツのせいで蘇ってきていた。肩で息をして、両手を膝にかけるようにして立ち止まって深呼吸を始めるとさらに深く、その記憶は蘇ってくる。

 そうだ、ここだ。ここだった。ここから思い出せないんじゃない。

 

ここから先は思い出し様が無かったんだ。

 

 だってここが、この公園を見下ろすタワーマンションの一室が「家族で住んでいた場所」だったから。ここから先にどこに行くんだ。ここが帰る場所だった筈だ。

 勘違いしていた。あの時遠く離れて行ったのは母と兄じゃなかった。

 あの時遠く離れて行ったのは『自分と父』だ。

 自分が父に抱かれながらここを去ったのだ。

 離婚したから。浮気した母のせいで離婚して、父はこの家を出た。


 あの日帰る場所を失くしたのだ。

 兄を、母が産んだから。

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カインの残火 豆大福 @O-bean524

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