第2話「思い出のハンバーガー」

 ひとまず古着屋に向かう事にした。これは学校をよくサボって東京の都心に遊びに行っているクラスメイトが自慢げに教室内で喋っていた事を参考にしたからだ。

警察は案外町中で目を光らせているが、その目線は平日の昼間にブラつく制服を着た青年や、ゲーセンにたむろする青年達に向けている。その目線から外れるには、昼間に町中をブラついている人間に扮する事や、そういった目が光る所へそもそも出向かない事らしい。昼間の街中をブラついている人間に扮する簡単な方法は、制服を脱いで目立たないラフな格好でいる事だけで良いらしく、そうしているだけで大丈夫らしい。基本は鞄に私服を忍ばせておいて公衆トイレ等の個室で着替えるらしいが、古着屋で適当な上着を買うだけでも十分効果的だとも言っていたのでそれに倣ってみる事にした。

 古着屋に入る直前、町中の通りに面した店のショーウィンドウに映った自分は大分身なりが悪く、古着屋に入る時に店員に引かれてしまったり、最悪警察に通報されないかと内心ヒヤヒヤしていた。


「いらっしゃいませ。どういった服をお探しですか?」

「あ、え、はい。どうも……あまり目立たない色のラフな上着を探してて。パーカーとか」


 実際にはそうでもなかった。想像よりも普通な接客対応をされてこちらが寧ろぎょっとし身じろいだ。


「でしたら、こちらのコーナーになります」


 笑顔に接客対応をする店員さんの顔から僅かに視線を外して会話をしつつ、古着屋の奥へ案内されると店員さんの言う通り十数着程度の少々形のよれて褪せた色をしたパーカーが並んでいる。手身近に一番近くにあったパーカーの値札を手にかけて見て見ると、消費税込みで一二〇〇円と書かれていた。特別値を張る訳ではないが、手持ちの残高を想い返すとこれ一着で大体財布の中身がからっぽになる筈であった。ついむっと渋い顔をして顔を上げると、店員はいつの間にか側を離れて他の作業に戻っている。

 思っていたよりも普通な接客対応は今にして思えば、面倒事と関わるのが嫌だから関わらない精神だったんじゃないだろうか。見るからに未成年が平日の昼間から店内に入り、その未成年は見た目も最悪と来ている。警察に通報すれば電話一本で補導一発だろうが、そも店に警察が来る事自体を面倒事だと思う事だってある筈だ。

 だから案内するだけしてさっさと持ち場に戻ったんだろう。

 そんな推測を頭の中で巡らせながら改めて財布の中を覗けば、千円札と百円玉、それと五十円玉が一枚。十円玉は四枚に五円玉が三枚、一円玉が二枚。合計千円と二〇七円。このパーカー一着買えば手持ちは七円とは考えたくもない。

 深い溜息をつき、仕方なく奥の手を使う事にした。


「一二〇〇円が一点、七〇〇円が一点、九八〇円が一点。合計三点で税込み二八八〇円です」

「カードで」


 店員さんから上着のパーカーと帽子、そして靴を受け取って店を出た。普段は使うまいと思っていたクレジットカードを、完璧に私用で使ったのは良い気分とは言い難かった。


 父が高校生に上がる頃に、まるで普段から世話を出来ていない代わりだと言わんばかりに渡されたクレジットカード。

 限度額は確か五万円程度。世間一般の限度額から見れば大分低いが、中学生から卒業したての歳の子供にはとんでもない大金だったと思う。ただ、父からこのクレジットカードを渡される頃の自分は、普段家を離れて仕事をする父に構って貰いたいと溢れる感情ようやく落ち着きを取り戻した頃で、小学校の低学年よりも前から父は働き詰めで家にいる時間は短く、昔は親との触れ合い飢えていた。父方の祖父母によくお世話になっていたが、父と触れ合えなかった事が昔はとても辛くて駄々を捏ねてよく祖父を困らせていた。

 そして、祖母は決まってこう言った。


「あの子はあんたの為に働いてんの」


 実際そうなのだろう。男手一つで、息子の自分が不自由のない生活が送れていた。ただ自分は親の愛に飢えていた訳では無く、親との触れ合いに飢えていたのだ。年を重ねる毎にその想いは積み重なったが、それにそっと蓋をしていた。きっとそれが父なりの不器用な愛の示し方なんだと思って。

そう思っていた時期、ようやく諦めと理解に差し掛かった頃に父から渡されたクレジットカードは絶縁状の様に見えた。


「これでお前一人でも大丈夫だな」

「……うん」


 高校生にもなれば一人で留守番どころか家事だって十分に出来る。掃除洗濯、炊事。家事全般はみっちり祖父母に教え込まれたから、実際買い出しの為のお金を事前に父に用意してもらうよりも遥かに楽になる。合理的だ。とても合理的なのだ。

そう思った瞬間、父の不器用な愛のように思っていたそれらが歪な音を立てて形を変えた。不器用な愛は、合理性の塊だけで構成された子供の養育形態に見えてしまった。

 実際の所、その事実は分からない。父と過ごした時間よりも家に独りでいた時間の方が遥かに長かったし、父と話した時間は祖父母と話した時間よりも短いだろう。肉親のようで肉親よりも遠い距離を持った父との、親子の絆めいた熱い繋がりを見出せない。父が何を想っているのかが分からない。本当に不器用な愛過ぎてつい合理的手段を取ったのか、それとも最初から合理性の塊だけで構成された子供の養育形態の進化系なのか。

 親が分からなくなって、見えなくなった。

 見えなくなった父への不信感は爆発し、不器用な愛だと思っていたものが実は愛とは違う別物としか思えなくなってしまった。

 クレジットカードは今までの自分を父がより合理的に切り離し、管理し、成育させる便利道具。自分が持っていた一方的な親子の情を断つ絶縁状に見えてしまい、その便利さに感謝こそすれ多用も私用も殆どしなかった。

だが使ってしまった。

 生理的嫌悪感と小さな罪悪感が胸をずくずくと蝕む。


「もういっそ、開き直るか」


 そう口に出しながら改めて路地裏で上に羽織ったパーカーと、帽子を深めに被る。学校指定の遠目からでも目立つ真っ白な靴を脱ぎ捨てて、緑のアクセントカラーの入ったベージュ色のバッシュに履き替えた。新しい装いを纏った事で平日の昼に紛れて好き放題歩ける事実に少し興奮すると、目に映る景色がとても美しいものに変化した。今、浮足立っている。自分は軽くスキップするように目についたバーガーショップに駆け出し、チーズバーガーとフライドポテト、コーラのLサイズが一緒になったセットを注文し、店の角にある通りに面した窓がある日当りのよい席を陣取った。

 窓からどこか見覚えのあるような風景をした街の通りを尻目に、出来立てのフライドポテトを頬張る。

塩気効いたその味は、寝て起きてからの初めての食事にしては少々重たい気がしなくも無かったが空いた腹は重かろうと軽かろうと嬉しそうに迎え入れた。また二、三口フライドポテトを口にしてチーズバーガーを口にしながら街の通りの景色を見たら、自分が窓に反射して映っている。

 ぽろぽろといつの間にか涙を流していた。


「あ」


 随分懐かしかった。このハンバーガー屋に来たの、どれくらい前なんだろう。微笑みながら母が口元についたハンバーガーのケチャップを拭ってくれたのは何年前だっただろう。物心もついていたか怪しい頃の自分が、、誰にも囃し立てられる訳でも無いのに大急ぎでハンバガーを貪って、口元をべっちょりと汚していたのを嫌な顔一つせずハンカチで拭っていた筈だ。


「もう、そんなに慌てなくても誰も食べないわよ」


 でもその頃は既に父と母は『ヒステリックな口論をしていた日々』だった。家の中で二人揃って鬼のような形相で叫び合って、夜は寝たふりをして布団の中で小さく丸くなって震えていた。

 『思い出』の優しかった母はどこに行ったんだろう。ここの記憶はどうして『思い出』にするしか無かったんだろう。

 どうして『思い出』が『あの日々』として続かなかったんだろう。

 思い出はいつも気まぐれに人を慰めるだけで、あの日々は自分をずっと苛んでいる。今も夜に布団の中で小さく丸くなって寝る癖は抜けないままだ。

 ずっと、ずっと。考えたくなかった言葉が熱を帯びてしっかりとした輪郭を持って形になるのを、小さく丸めた身体で塞ぐようにしていた。この言葉がどうか子供の戯言でありますように。いつもそう願っていた。今も出来るならそう願いたい。


──教えてくれ、母さん。

──何で兄さんなんか産んだんだ。

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