カインの残火

豆大福

第1話「熱を持った指輪」

 チェーンを通して首に掛けた指輪が熱を持っている。

 そう勘違いする事が煩わしい。

 だってもし仮にこの指輪が熱を持っているなら、それは焚火を灯し続けた野宿とか、深夜の公園で温かい缶珈琲を飲み終わった時だったりとか、そういった肌寒さや物寂しさと相反する形で胸の中に残った熱いものがある時とよく似ている事になる。

 くだらないただの「遺品」に熱なんてあるのなら、どうでもいい温度差で身体も精神もおかしくなってしまう。

 これは兄が死んでから大体一年経った日の夜に、しみじみ思った事だ。


 ◆

 東京都西部、奥多摩の山岳部に程近い赤鳥羽町(せきとばちょう)は東京都の田舎の一つである。赤鳥羽町は人口約一万人前後で、程よく広い敷地面積に対して、都心へ繋がる様に通る鉄道は一本、そして駅は二つだけ。赤鳥羽町が保有する鉄道一本の線路に乗った二つの駅の上赤鳥羽駅と下赤鳥羽駅はどちらも町の端部付近に位置し、赤鳥羽町中央部に丁度良く位置するような駅は無く、その駅へ辿り着く為の町バスも運行本数が少ないという様に何かにつけて公共交通手段が絶望的である。一家に一台車が無ければ満足に遠出は出来ない。

 人口一万を割に割った総計千人以下の本物の田舎には失礼だが、東京二十三区の中にある町の一つとして誇れるような煌びやかさや華やかさは無い。東京都内新宿区のように天を衝くような摩天楼は無く、精々二階建てのアパートと少し立地条件の良い所に数棟の十数階建てのマンションが建っており、他は一戸建ての家々が並ぶ町並みだ。町中には十分な緑もあり、県外の人間に町の風景を伝えると鎌倉や田園調布のような高級住宅街を想像する者もいるが、単純に都市開発に中途半端に歯止めがかった故の町並みの風景である。それらと同じ様であれば土地の資産価値が伸びて町の活気も潤うだろうが、この赤鳥羽町は幾分潤いに掛けて皺の入った町だ。無駄に老人も多いし、この町を見限った若者は東京都心の方へどんどん移住している。……ただ、町の煌びやかさの度合いでは赤鳥羽町に限った話ではなく、奥多摩の山岳部付近の町々に言える話である。

 その赤鳥羽町の公立高校、赤鳥羽高等学校は私立高校の受験戦争に落ちぶれた中学生の受け皿として機能するだけでなく、町の抱える交通の不便性の都合で入学する中学生の受け皿として一役買っている。

 そう、何分交通手段が絶望的である為、車無しの学生が遠出するのには東京都内であるにも関わらず非常に手間がかかるのだ。向上心のある親子が赤鳥羽高校以上の一定ラインを超えた偏差値を持つ高校に狙いを定めて通学をしようものなら、毎朝赤鳥羽町の両極端なまでに端部位置する二つの駅へバスを乗り継いで向かい、片道一時間半以上の電車に揺らされる必要がある。通学時間は二時間以上にも及ぶ。

 故に大概の親は妥協、あるいは断念をして我が子を赤鳥羽高校に突っ込む。幸い赤鳥羽高校の偏差値は可もなく不可もなくといった所で、交通手段にあぶれた家庭の子供を入学させるだけには困らない高校である。赤鳥羽高校の入試にあぶれた者がどこに行っているかは知らないが、大枚はたいて向上心ある親子のように都心の入学できる私立高校へ通わせているのだろうか。

 赤鳥羽高校は赤鳥羽町の少々南西部に位置しており、その反対に位置する北東部に住んでいる在学生は毎日苦しい思いをして遠い距離を自転車で漕ぐ必要がある。風紀委員会が保有している遅刻常習犯のマル秘リストはもっぱら北東部の人間で埋め尽くされているとの噂だ。

 そして多分自分もそのリストに入っているのだろう。遅刻ギリギリのラインの時刻の中、全速力で自転車を漕ぐと首元で跳ねるものが非常にうっとおしかった。 

 汗だくになりながら校門に辿り着けば結局遅刻していて指導教員に短時間でみっちり絞られた後、倦怠感に溢れた身体と精神で授業を受ける形となった。その一限目の現代文の授業は先生の授業内容も教科書の小説も何もかも退屈で気に入らず、集中出来ずに寝落ちした。

 自転車を大急ぎで漕いで来たせいで蒸れたシャツ。それにブレザーとネクタイを強要されて煩わしかったのが気に入らなかった。間延びした声の先生の解説が気に入らなかった。集中のしの字も浮かばず、見限って机に伏せて寝た。

 いつもなら別にブレザー着用の高校で強要されるネクタイの煩わしさも、間延びした解説のつまらない授業も、気に入らない訳ではない。普段はそんな事に意識を回すことは無かったし、眼中に無かった。


「おい。聞いているのか。弛んどるぞ」

「……はい。すいません、寺田先生」


 自分は放課後の職員室で担任の寺田先生に説教をされていた。


「生返事はやめろ。現国の立花先生がどれだけ怒っていたと思っているんだ。今日はお前、現国の課題があったんだろう? 何でお前は何の誤魔化しもせず「めんどくさいんでやっていないです」と言ったんだ。せめて何か一言弁解ぐらい言えば良かったものを、お前は……」

 

 寧ろ何もかもが気に入らなくなれていれば、こんな面倒目に合わなかったんだろうな。学校自体サボってしまえば良かった。

 頭の中の片隅で先生に気取られない様に小さく呟いたそれを大声で叫びたかった。


「ああ、そうか」


 そうか?


「……もう一年経ったか、お前の兄さんが亡くなって」


 なんだ。それか。


「ええ、はい」

「今日はもう良い。帰れ。ゆっくり寝てろ」


 何がどう今日はもう良いんだろうか。うっかり口に出しそうになったその言葉を飲み込んだ。寺田先生の机の上に置かれた時計が示した時刻は、最終下校時刻を大きく上回った十九時過ぎだった。

 日が暮れた自転車置き場には転がった自分の自転車があった。朝急いで来て、他の生徒が並べた自転車の列の中へ無理やり乱雑に突っ込んでいた自転車はスタンドも立てず、鍵だけ抜いていたのを思い出した。溜息雑じりに吐き出した白い息が校舎の間に吹き抜ける風と一緒に消えていく様を尻目に、自転車を立て直して暗がりの中で見え辛い鍵穴にどうにかして鍵を挿した。自転車を手で押しながら校門まで行くと既に閉められていたので、閉められた校門を人一人分薄く開けて学校を出た。無性に泣きたくなったのはぶっきらぼうな夜風が顔を殴りつけてきたからの筈だ。


 ◆


 家に帰った途端に兄らしい兄が家にいて、「おかえり」と言ってくれないものか。薄っぺらいあまりに馬鹿らしくて夢にもならない妄想を抱えたままでいると、今の現実が自分を殺しに来ているような気持ちになって、家からわざと遠ざかるように自転車を走らせていた。

 自分の知識外の街並みに差し掛かり、警邏の警察官を避けるようにしながら暫く自転車を漕いでいると丁度良さそうな公園があった。公園に逃げ込むように入り、茂みの中に自転車を突っ込んで隠して、財布から取り出した百円でホットのコーンポタージュ缶を公園の中にあった自販機から買った。かじかんだ両手の中でコーンポタージュ缶を転がしつつ、公園に雨曝しに放置されて薄汚れたドーム型の遊具の中に入り込んだ。

 酷暑の夏から、木枯らしが吹くような季節に移り替わった時期の風は身体を蝕んでいたらしい。飲んだコーンポタージュのぬくもりが、じわじわと身体の内からそのぬくもりを広げていった。

 ふと今何時なのだろうかと思って開いた携帯電話は夜二十一時三十七分。多分今から家に帰る頃には零時なんてとっくに過ぎるだろう。親と喧嘩して何も考えず家を飛び出した中学生や、クラスメイトの女子が援助交際ついでにするプチ家出みたいだ。今の自分の考え無さ加減に呆れながらも、少し気分が高揚した。キャンプで焚火の前に座っている時みたいだったから。チェーンに通されて首に掛かった指輪は昨日の夜のように煩わしい熱を持ち始め、それを強く握り締めた。こんなものなんて必要ないのに。


「お前さ、家帰らねぇの」


 ぽそっとそんなことを呟き、「まだ嫌だ」と自分の呟きに答えた。何処かの映画か小説、あとは漫画で観た覚えがあった。何か精神に異常をきたした人間が、まるでそこにもう一人の自分や誰かがいるように振る舞う仕草をすると。

 一年前確かに兄は死んだ。けど、言ってしまえばそれだけだった。そもそも一年前の自分は、兄の訃報を聞くまで十年以上その顔を見た事が無かったからだ。その理由もまた単純で、自分が物心をつく前に両親は離婚をして、兄弟それぞれの親権が別れたのだ。普通は兄弟姉妹が離れ離れになるように親権が別れる事も無かったのだろうが、離婚の原因である母の不倫が思っていたよりも昔からだったから。

 母の昔からの不倫が発覚した事により、兄は他人の息子で、自分は一応父の息子だった事も発覚した。異父兄弟だった。

 その時の父の正確な胸中を推し量る事は出来ない。十年以上自分の息子だと思い込んで他人の息子を育てた男の気持ちを推し量れというのは無理な話だろう。ただ、実際の現実だけで判断を下すのなら当時の裁判の結果母に兄の親権が移り、自分が父に親権が移ったらしいというのはそういう事なのだろう。とどのつまり、兄をまともに「自分の家族」と認識する事が両親の離婚以降十年以上出来なかったので兄を兄と思えず、その訃報に対する感情の起伏が薄い。朝のニュースに流れる通り魔殺人事件の被害者の名前を聞いた様な気分なのが多分一番近い。兄の訃報に対して自我が徹底的に壊れる、なんてフィクションばりの精神異常は起きていないのだ。

 要するに、今さっきのは自問自答だ。


「親が心配するぜ」

「普通の家庭よりも心配される度合いは二分の一だから、平気だ」

「お前あたまおかしいんじゃねぇの?」

「うるさいな」

「こんなことして恥ずかしいと思えよ。キモいぜ」

「誰も聞いてないし、見てないから大丈夫だよ」


 こうして自問自答を口に出すと頭の中でぐちゃぐちゃになった何かが、言語化されて吐き出されるようだった。一年以上頭の中で掻き毟り回るものがゆっくりと落ち着きを取り戻して、寒さと一緒に頭が冴えてくる。

変な言葉に首をかしげる人間はいない。気持ち悪い行動をしていても引く人間もいない。悩みに同意をしないで妙に正論を返す人間だっていない。人目を気にせず、言いたい事を言って、自分が望むだけの甘い言葉を返すこの会話は病みつきになっていった。

 他愛のない会話を暫く続けた所で、いい加減冴えた頭が自分の馬鹿らしさを窘めて寒さが身体の芯まで犯し始めた所で会話を打ち切った。今夜の寝床の当てを探さなければならない事に気が付いたのだ。

 実は逃げ込んだ公園のドーム型の遊具は思っていたよりも断熱効果は薄く、出入り口から風が吹き込む度に自分がいる中を蹂躙するように風は掻き回すので、ここで夜を明ける頃には男子高校生の凍死体が出来上がっても可笑しくはない。今は少しでも早く寝床の当てを探す為、ドーム型の遊具から這い出た所で顔に強烈な光をぶつけられた。

 余りの眩しさに目が眩んで、ぎゅっと固く目を瞑った代わりに、耳にはささやかな怒気を込めた声が届いた。それが深夜の街中を巡回する警察官だと瞬時に理解すると、咄嗟に目を瞑ったまま両手を思いっきり前に突き出した。大柄な人間を押し倒す感覚を手のひらに受けて、跳ねるようにその場から駆け出した。遠くから投げられる怒声を背に受けながら息を荒げて茂みの中に突っ込んだ自転車を引っ張り出し、大慌てで自転車に跨り公園を後にした。直後、大人の呼びかける声を聞いた。

 その時の気分は逃走犯のそれで、昔友人と冗談交じりに「警察なんてザルだから簡単に逃げられる」なんて放った言葉が頭の中で馬鹿みたいに繰り返されて周囲の音はほとんど聞こえなかった。そのまま暫く自転車を全速力で漕いで、肺中の酸素を懸命に搔き集めた。息絶え絶えながらも道の人を驚くような速さ街を自転車で走り抜けながら進んだ。酸欠で視界がチカチカと明滅する。

 そんな中でふと小学生時代を想い返した。鬼ごっこは相手の視界から見えなくなると鬼は逃げる人を見失ってしまう。そのあと隠れてしまえば勝ち、だった。子供じみたものが警察に通用するかの判別もつかないまま、そんな事を頼りする事を決め、道の交差点をくねくねと右左と曲がりながら自転車を走らせた。

 数度、いや十数度道を右へ左へと曲がり、息も切れ切れになりながらどこだか分からないビルとビルの隙間の路地裏へ続く細道に自転車を突っ込んでみると、これ以上は自転車を進ませないとばかりにゴミ袋や室外機が散乱していた。しかし、自分は躊躇いもなく身体を自転車から放り投げるようしてその細道に逃げ込んだ。

 ゴミ袋を踏みつけて室外機を飛び越える。普段はこまめにクリーニングに出していた制服の裾や袖が汚れることを気にせず、高校の入学祝に買ってもらったスポーツタイプの前後多段変速機の付いた高い自転車なんて忘れて無我夢中に細道の奥へ走った。自転車を漕いでいた時よりも肺中の酸素を搔き集めて足を動かした。

 路地裏の方に走り込んで数十秒後にはついに体力が途切れ、酸欠よ疲労でぼやけた視界は普通なら気が付く程の大きさの空き缶を見逃してしまい、それを最悪の角度とタイミングで踏んだ。空き缶に足を取られた自分は嘘みたいに綺麗な弧を描いて足を振り上げ、振り上げられた足に重心を持っていかれた上半身は後ろへと勢いよく受け身を取る暇も無いまま倒れ込んだ。倒れ込んだ先は幸いにもコンクリートの地肌ではなく、生ごみやらがみっちりと詰まったゴミ袋が纏めて山のように放置してある場所だったので、受け身の取れなかった上半身はさして痛みも感じる事も無かった。

 だが、ごみ袋の山に埋もれた中で安堵するよりも先にごみ袋の中に詰まった生ごみの言い難い臭いが鼻腔を蹂躙し、反射的に鼻を摘まんだ。そして体力が限界近くまで削れていた事もあってその刺激にはとうとう耐え切れず、胃の中がひっくり返った。すこし前に飲んだコーンポタージュはとっくの昔に胃を通り過ぎていたのか、内容物のない胃液をコンクリートの上にぶちまけた。口内は強烈な酸味とえぐみに耐えられず、唾液もだらだらと零れ落ちた。喉が灼けるように熱く、自分の全身血の気が引いてもいるのが分かった。

 数度にわたって自分の吐いた吐瀉物の正視に堪えず嘔吐を繰り返し、落ち着いた頃には冷たいコンクリートの上に寝転がって、荒れた息をようやく整え始める。そうすると火照った身体は路地裏に吹き抜ける夜風が冷ましてゆき、頭も息が落ち着くと共に少しずつ冷静になった。よく耳をすませば、表通りの方から聞こえる喧噪の中にパトカーのサイレンの音なんてもの聞こえないし、誰かが自分を血眼になって探すような声も気配もしない。


「疲れた……」


 汗でしっとりと湿った髪を両手で搔き上げるようにしながら、ようやく安堵に着けた事を全身の疲労感を証としながらしみじみと実感した。

路地裏はひっそりとしていて表通りの喧噪は遠く、耳に届く程よい雑音が何故だか心地良い。疲労感とは別に全身を倦怠感が支配し始め瞼が重たくなる。うつらうつらとした視界は次第に光を映さなくなり、疲労感と倦怠感に抱かれながらコンクリートの地肌に吸い込まれるようにして眠りに落ちた。

 そして次に目が覚めたのは顔に冷たい雨の水が落ちる感覚を受けてから。

 夜の寒さはその前ぶれだったのかぽつぽつと雨が降り始めていた。今は控えめだが徐々にその雨の勢いは強くなっていくように思えたのでここを去るべく身体を持ち上げて周囲を見渡した。持ち上げた身体は夜風とコンクリートの地肌ですっかりと冷え切ってガチガチに凝ってしまっていた。

 夜中の視界と違い昼の視界で見る路地裏はあの独特の不気味さを排斥して、そこにはただ純粋な薄汚さだけが残されている様だった。散乱するゴミや無機質に汚れた雑居ビルの外壁、雨風に晒されて薄汚れた室外機とその地面。

 自分の近くには吐き出された胃液が渇いたシミが残る地面。それに無様にすっころんで倒れ込んだごみ袋の山には、倒れ込んだ拍子に投げっぱなしになった通学鞄とその中身が散乱している。

 通学鞄を目にしたとき、その中に財布や自宅の鍵等の貴重品を入れていたのを思い出して大慌てで駆け寄ってその付近を捜索した。幸い財布や自宅の鍵は見つかったものの、通学鞄の中から飛び出して野晒しに散乱した教科書や参考書達は夜露に濡れて酷い有様だった。更に不運な事に、夜露で湿気たそれらはごみ袋の山に散乱していた事もあって汚れと埃と生臭さをたっぷり吸い取ってしまっていた。とても素手で触りたくなかった。

 教科書と参考書の有様を目の当たりにすると、不思議と周囲から生臭さが鼻につくようになった。一刻も早くここを立ち去りたい。

 そう思い、鞄と財布と鍵だけを手に取ってその場を去る事にした。

 姿見が路上に有る訳が無いので、ぼさぼさになった髪の毛と制服は歩きながら何となく整える。汚水の染みや制服の皺は仕方がないが、せめて付着したゴミや埃だけは手で掃う。全身のファッションを整えるというよりも全身を掃除するような感覚で歩き始めて直ぐ、埃を掃う手が首元にぶら下がった指輪を引っ掛ける。

 衝動的に首元からそれをチョエーンごと引き千切って足元へ投げつけたくなった。

 自分はそう思うや否や、衝動に身を任せて首にぶら下がった指輪をチェーンごと引き千切り、地面に叩き付けた。コンッと小さな金属音を立ててて跳ねるが、何故か奇跡的にどこかへ失う事もなく目の付く範囲の所にあった。

 不意に失くした訳でもなければ故意に捨てた訳でもない。仕方なく拾い上げる。

 だが、安物のような成りをしたそれは存外に頑丈だったらしい。コンクリートの地面に思いっ切り投げつけた指輪は歪む事はなく、傷一つ見あたらない頑丈さで憎たらしいくらいピンピンしている。


「何で素直に歪んでくれないのかなこれは」


 兄の物だったものにぶつけたって、兄を地面にぶつける訳じゃない。虚しいだけだ。この指輪を通して兄の死を想う事が出来たらどれほど幸せだろうか。目の前にあるこれは兄の遺物であるという事実を示すだけでしかない。

 仕方なく観念してその指輪を首にかけようとした時、衝動に任せて指輪をチェーンごと引き千切った事を思い出した。どうにか肌身離さずの方法を考えた所、指輪を指に通すくらいしか方法は無い事実を知った。

 自分はぎりぎりと歯軋りをしながら、仕方なく指に指輪を通したらまるで最初から寸法が測ってあったかのように指にぴったりと嵌り、余計歯軋りをした。

 捨てるに捨てられない。そんな事実だけが自分の精神を蝕む。

 携帯電話で確認した現在時刻は朝のホームルームの時間が始まる直前の頃合いで、現在地が不明な以上学校には間に合わないだろう。今日の授業の予習はしていないし、通学鞄は捨てていて、身嗜みはぐちゃぐちゃなので学校に行く資格がまず無い。

 第一今は学校に行く気分じゃない。故に今日は一日学校をサボって町中を放浪する事にした。

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