第2話 歴史と時系列
そんな歴史を、
「結果から見るのか?」
あるいは、
「時系列から見るのか?」
ということを考えると、実に興味深いといってもいい。
というのは、歴史を結果から判断するということは、ある意味、結果から原因を探るということである。
それは、
「事件というもの、そのものに焦点を当てる」
ということになる。
しかし、
「時系列から見る」
というのは、歴史というものを、
「わかっている最初から見ていく」
というもので、今の歴史の授業の在り方だといってもいいだろう。
これには、一長一短があある。
そもそも、歴史というのは、
「出来事や事件が重なり合うことで、大きな歴史を表している」
と言える。
だから、歴史上の出来事などは、
「いきなり突発的に起こった」
ということは、基本的にありえない。
少なくとも、その事件として挙げられている一連の流れの前に、その前兆のような、一見事件とは関係のないようなことが潜んでいる。
といってもいいだろう。
例えば、誰かと誰かが、一騎打ちをしたとして、その直接の原因になったことはあるだろう。
例えば、
「歴史上の一番の謎」
と言われている、
「本能寺の変」
でも、そうである、
あまり歴史に詳しくない人であれば、
「本能寺の変といえば、明智光秀が、信長を暗殺した事件。その原因は、信長が光秀を苛めたから」
ということくらいしか知らないだろう。
歴史に詳しい人からしてみれば、
「あくまでも、それは、表面上だけのことであって、戦国時代の歴史、そして、そこから見えてくる信長、あるいは光秀の考え方が問題になってくる」
ということになる。
特に信長など、
「一般に言われているような、残虐な性格ではない」
ということである。
それはあくまでも、
「延暦寺焼き討ち」
であったり、
「城を総攻撃をしたことによって、皆殺しにした」
ということからの、勝手なウワサであり、特に、その性格を決定づけたといってもいい、あの狂歌、ホトトギスの歌がいい例であろう。
「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」
という句からの連想が大きいのだろう。
信長という男は、そんな理不尽な性格ではない。
「延暦寺焼き討ち」
「城の総攻撃」
の場合も、必ず、その前に、降伏勧告をしているのだ。
特に延暦寺などは、坊主が、
「酒を食らったり、女を抱いたり」
という酒池肉林をし、自分たちの仕事を忘れ、堕落し。しかも、そんな状態で、政治に口を出したり、敵対勢力に加勢をしたりと、いう体たらくを見ると、
「延暦寺は寺ではない。あれは城だ。城を攻めて何が悪い」
ということになるのだろう。
特に信長は、一向宗にも苦しめられている。
そんなことを考えれば、敵対勢力であれば、宗教団体であっても、
「敵は敵」
焼き討ちしたくなる気持ちも分からなくもない。
しかも、ちゃんと警告もしているのだが、騙し討ちではない。
「警告に従わなかったくせに、何の防備もしていなかったというのは、延暦寺側からすれば、これほど、世の中を舐めているといっても過言ではない」
と言えるだろう。
「いくら下克上と言っても、まさか、御仏のいる寺を襲うことはない」
という思い上がりが引き起こしたことだとは言えないだろうか?
さらに、皆殺しという考えも
「武士であるなら」
あるいは、
「歴史を知っている」
というのであれば、当たり前のことである。
というのも、
「源頼朝と、平清盛」
との間の因縁を知っていれば、誰だって、皆殺しを考えるであろう。
平治の乱で、平清盛方が、源義朝方を打ち破り、源義朝の子供たちが捉えられた。
頼朝が清盛の前に差し出された時、母親の命乞いがあったことから、頼朝の命だけは助けるということで、伊豆に流すということをしてしまった。
さらに、義経も、鞍馬寺に預けるなどということで、少なくとも、この二人が生きていたことで、清盛亡き後の平家は、この二人に滅ぼされることになったのだ。
そんな歴史を知っていれば、
「禍根を未来に残さない」
ということは常識となり、
「皆殺しもやむなし」
ということになったのだろう。
それを考えると、信長の所業も、無理もないことだったといえるだろう。
そういう意味で、
「武家の世界というのは、それだけ、残酷であるといえるだろう」
何といっても、平治の乱の前の保元の乱で、敗れた側の、武士は皆処刑されたが、公家の命は助けられたというではないか?
その頃は、武士と公家で、決定的な上下関係があったので仕方がないだろうが、あまりにも極端だといってもいいだろう。
そもそも、武家というのは、公家にとって、
「ただの召使であり、自分たちを守るだけの兵だ」
ということなだけであった。
完全に甘く見ていたのだが、それまでの平安時代では、
「藤原摂関家」
あるいは、
「院政」
というものの力によって、ある程度抑えられてきたが、公家の権力争いであったり、天皇家の、
「後継者争い」
という勝手な事情で、武士が、
「使われた」
ということで、武士の力が、朝廷や貴族からすれば、
「思わぬ方向」
に向いていったといってもいいだろう。
これも歴史の大きなうねりであり、時系列から見ないと分からないことであっただろう。
前述の。
「本能寺の変」
というのも、いろいろな謂れというものが存在する。
歴史上では、
「光秀の単独犯」
ということになっている。
自分の領地、丹波から出撃し、途中の街道で、分かれ道があり。
「右に行けば、備中、左に行けば、京都本能寺」
ということで、運命の分かれ道だった。
そもそも、光秀はその日、備中で戦をしている、
「羽柴秀吉の援軍」
ということで、信長の命令で、備中に向かう予定だった。
しかし、その前に、
「本領である、丹波を召し上げ、今だ敵陣である、出雲や石見を切り取り次第に与える」
ということを言われていたのだ。
正直、この戦に負ければ、部下たちが路頭に迷うということになる、それだけは、容認できないことであった。
それを考えた光秀は、
「敵は本能寺にあり」
ということで、そこから本能寺に向かったということで、
「最初から決めていたわけではない」
と言われているが、これには諸説ある。
一つとしては、その数日前に詠んだとされる、光秀の和歌に、
「時は今、雨がした知る、さつきかな」
という句が読まれたという。
本能寺の変が。6月2日、その少し前ということで、5月は、皐月というではないか。
しかも、
「時」
と読んでいるのだが、これは、
「土岐氏」
というものを表しているということである。
光秀というのは、
「土岐氏」
からの末裔だと言われているので、
これは、
「土岐氏が、天下(天の下)を取る皐月」
ということで、天下取りを表明した歌だ。
ということを言われているのだ。
しかし、これも勝手な言い分で、どこまでが本当なのか分からない。これも一種の、歴史にはあるあるである、
「諸説あり」
ということになるのであろう。
その諸説というのも、
「かなりのこじつけ」
ということであるということも大いにありである。
そういう意味で、光秀の、
「思いつき説」
というのも、怪しいということになってきた。
すると、その次に言われるようになったのが、
「黒幕説」
と呼ばれるものだ。
つまりは、
「光秀の単独説ではなく、誰か、信長を亡き者にしようという人間、あるいは組織が暗躍していて、そこからの謀殺説というものである」
しかし、この説には、
「信長暗殺」
というものが、本当の目的だったのか?
ということを考えると、別の見方も出てくる。
つまりは、
「天下に一番近かった信長を葬ることで、次は自分が天下を握ろう」
という考えである。
かなり、
「したたかな考えだ」
ともいえるが、それよりも、もしそれが本当だとすると、結局最後まで、その黒幕が出てこなかったのは、ある意味、天下取りという目的が達成されたかどうか分からないが、
「自分が黒幕だということがバレなかった」
というのは、成功といってもいいだろう。
少なくとも、
「信長暗殺」
ということには、成功しているからである。
信長が死んでしまえば、
「得をする」
と思っている人がたくさんいるだろう。
それらをしらみつぶしに当たっていると、それこそ、本当に、
「歴史上最大の謎」
と言われるのも当たり前のことである。
「有力候補」
と呼ばれるだけでも、5、6個あるといえるだろう。
有力説として、二つの勢力がある。
まず一つは、
「天皇を中心とした公家勢力」
である。
信長が、
「天皇を利用しようとしている」
ということを分かっていたことが前提であるが、元々、歴史的にも、
「天皇家からすれば、武家政権は、邪魔でしかない」
ということからの発想でもあるだろう。
もう一つの勢力とすれば、一番信憑性があるのは、
「足利幕府の勢力」
である。
足利義昭は、
「信長のおかげで、京に入り、将軍職に就かせてくれたという恩人であるが、自分を差し置いて、天下を掌握している信長に、早い段階から嫌悪を感じていて、それによって、諸大名に、信長討伐の手紙を書いているのだから、信長が起こって、義昭を追放するというのも、無理もないことだろう」
と言われている。
しかも、
「将軍黒幕説」
として、最有力と考えられるのが、
「実行犯である、明智光秀が、そもそも、将軍家に仕えていた」
ということからである。
将軍家と通じていても、当たり前といってもいいだろう。
そして、時期的にこの時期になったのは、今まで、
「信長包囲網の中心」
ともくされていた武田信玄が死んだからだというのは、強引であろうか。
信長を打つという目的で、一度は京を目指した信玄の部隊が、急に甲斐に引き返したのだ。
これには、将軍もビックリしたことだろう。
そして、信玄を中心とした信長討伐軍の編成が、
「もう不可能だ」
と感じた時、失望はしただろうが、そこで考えたのが、
「光秀による、暗殺計画」
だったのだろう。
当然、
「成功すれば、それなりの報酬」
というのもあっただろう。
明智光秀は、
「足利幕府の再興」
というものを、ずっと考えていたのかも知れない。
「信長の下にいるのがいいか、幕府体制の下がいいか?」
ということを考えたとすれば、
「足利幕府黒幕説」
というものが、一番の信憑性があるといってもいいのではないだろうか?
ということであった。
さて、組織としては、その二つであろうが、それ以外に、
「個人的な黒幕説」
というのもないわけではない。
そのうちの一つに、
「長曾我部節」
というのがある。
そもそも、光秀の説得によって、四国平定を信長が行った時、
「四国は。長曾我部」
ということで、話ができていたということだ。
光秀を通して、長曾我部に伝えられたことから、長曾我部は光秀を贔屓に感じていたことだろう。
しかし、そのうちに、信長が、四国の話を、
「白紙に戻す」
と言い始めた。
それにより、長曾我部に確約した光秀の立場は微妙になり、長曾我部からも、文句を言われ、
「信用できない」
とも思われたことだろう。
それを考えると、光秀は、
「完全に、信長と長曾我部元親に挟まれることになってしまう」
ということであった。
それが、光秀の、
「元親に対しての負い目と、信長に対しての不信感につながった」
として、それを元親が感じているのだとすると、元親から、
「信長暗殺」
をほのめかされると、
「光秀が動く」
ということもありえることであろう。
もっといえば、
「光秀殿が兵を起こせば、我々も一気に京に攻めこみます」
という手筈であったとすれば、
「光秀、元親連合軍であれば、織田家臣団と連合しても勝てる」
と思ったのかも知れない。
もちろん、今まで自分の味方であった、
「摂津、大和の大名が味方をしてくれれば」
というのが前提であろう。
しかし、実際には、長曾我部軍が動いた形跡もなく、さらには、
「山崎の合戦」
では、摂津、大和の大名である、
「中川清秀」
「高山右近」
「筒井順啓」
などが味方をしてくれないどころか、
何と、娘婿である、
「細川忠興」
までもが、味方をしないということになれば、兵力の上でも、勝ち目がなかったといえるだろう。
さて、最有力と言われた長曾我部であるが、近年でよく言われているのは、まったく別の発想からである。
しかも、これは、
「どうして誰も今までそのことを言わなかったんだ?」
というほど、信憑性としてはあるものであり、
「歴史の盲点」
だったのか、それとも、
「口にしてはいけない」
という
おとぎ話や神話などでよく言われる。
「見るなのタブー」
と言われるものではないだろうか?
ということであった。
そう、ミステリーであったり、殺人事件などを題材にした話で、
「謎解き」
という場合に、最初にまず何を考えるかということである。
そして、その中にある
「動機」
という重要なことになるのだが、
「動機」
という意味での鉄則というと、
「一体、この事件を引き起こしたことで、誰が得をするか?」
ということではないだろうか?
「本能寺の変」
というのも、
「謎が多すぎる」
ということで、
「歴史最大のミステリー」
といってもいいだろう。
だったら、ミステリーとして、
「誰が一番得をするか?」
ということを、
「なぜ、誰も考えないのか?」
ということである。
ただ、実際には、誰もが考えることなのだろうが、
「それを許さなかったのも、歴史だ」
と言えるのではないだろうか?
なぜなら、
「歴史というものは、その、時の権力者によって、都合よく改ざんされるものだからである」
徳川政権になると、豊臣政権のものは、すべて取り壊されたり、豊臣の武勇伝なども、若干、歪められて伝えられたりしているだろう。
そして、その徳川政権も、明治新政府によって滅ぼされた時。それまでの体制なども、ほとんど変えてしまったではないか。
しかも、それまでは、武家社会。
つまりは、
「封建制度」
の時代だったのだ。
しかし、明治維新によって、今度は、
「立憲君主」
という国に代わってしまった。
それにより、
「天皇神格化」
などという教育方針で国が成り立っていったことで、それまでの武家政治や、さらには、かつての歴史による、
「天皇と敵対した勢力」
というものは、あまりよくは描かれないようになった。
明治維新は、歴史を変えるには、あまりにも急激すぎたのか、
「優秀な人材が、次々に暗殺される」
という、混沌とした時代だったのだ。
「坂本龍馬」
「大久保利通」
などが、そのいい例だったのではないだろうか?
信長暗殺の、ある意味一番の黒幕とされているのは、今では、きっと、この人物であろう。
そう、
「信長暗殺で一番得をした男」
それは誰かというと、
「羽柴秀吉」
この人の他にいるであろうか?
この発想は、考えてみれば、一番考えられる発想である。
「犯罪が起これば、その動機で一番感がられるのは、誰が得をするか?」
ということである。
ということを考えればおのずと分かってくる。
しかし、この事件の場合、
「なぜ、その発想がすぐに出てこなかったのか?」
というと、いろいろ理由は考えられる。
一番とすれば、
「明智光秀が、京へ向かうか、それとも、備中に向かうかということを迷った」
ということから、
「衝動的な犯行」
というのが、一番だからだ。
それともう一つは、光秀側が毛利に行こうとした密使を偶然に捉えたということは、
「それまでは、秀吉は知らなかった」
ということになる。
と考えるからだ。
だが、それらのことも、
「すべてが偶然だ」
ということになってしまうと、
「だだの偶然」
といってしまうと、都合がよすぎるともいえる。
光秀が読んだと言われる担架だって、ただのこじつけなのかも知れない。
あれを、
「最初から計画していた」
ということであるという大前提があるから、そもそも、
「黒幕説」
などという考えが出てくるからだ。
あれが衝動的であれば、もし企んだ人間がいるとして、こうもあっさりと、光秀がやられてしまうというのもおかしい。
本当に、最初から計画しているのであれば、光秀ほどの秀才であれば、
「せめて、摂津や大和の武将くらいは、自分の味方についてくれるという確約があってこその、クーデターでなければいけないはずだ」
ということである。
これは、少数派なのかも知れないが、あくまでも、比較にならないかも知れないが、
「石田三成」
との比較を見る人がいるからではないだろうか?
三成は、確かに、内政的なことには、長けていただろう。
「奉行」
としては、確かに優秀だったかも知れない。
しかし、実際に、
「戦をする、武将の大将としては、どうだったのか?」
ということになると、難しいといってもいいだろう。
確かに、言われていることは、
「武闘派の武将たちから、信用されていない」
ということで、自分への襲撃事件の責任を取って。佐和山に蟄居させられたということもあった。
しかし、実際には、関ヶ原の合戦で、8万もの大軍を集められたのは、
「豊臣家の名前」
というだけでは、難しかったかも知れない。
ただ、そのうち、ほとんどの兵は動いていない。総大将だったはずの、毛利の軍は、吉川、小早川を含めて、ほとんど、本戦では、戦をしていないといってもいい。
それどころか。小早川軍の1万は、こともあろうに、裏切ったではないか。しかも、敵陣から、1万が攻めてきたわけではなく、自陣から、1万が相手に着いたとすれば。一気に劣勢に回るのは当たり前のこと、いくら相手が、
「関東を束ねる大大名」
といっても、ここまで、
「始まる前から決まっていた」
という戦も珍しいといってもいいだろう。
それを考えると、三成は、敵ではなかったのだろう。
それでも、最初は確かに推していた。
それは、自分のまわりの参謀クラスの戦上手がいたからだ。
「大谷刑部」
「島左近」
という、歴戦の将がいたことで、戦となったといってもいい。
ただ、三成という男、どこか、戦に関して甘いというか、戦のやり方を知らないというのか、島左近が考えた、奇襲作戦のそのすべてに反対している。中には、
「家康暗殺計画」
もあったらしいが、頑固として、三成は反対したという。
そういう意味では、島左近は、
「まるで、天皇に作戦を一蹴され、自殺行為とも言われ、戦に望んだ楠木正成の生まれ変わりのようだ」
と言われたとしても、無理もないことだろう。
さて、そんな関ヶ原とは、比較にはならないかも知れないが、光秀という武将は、
「戦に関しては、織田家の武将軍団の中でも、引けを取らないほどの、戦巧者であった」
実際に、本能寺の変が起こった時、謀反の報を聞いた信長が、部下から、
「殿、我々が、相手を引きつけている間、お逃げください」
と言ったのを、信長は、
「たわけ、相手は光秀じゃ、ネズミ一匹。ここから出られると思っているのか?」
と言ったほどで、その瞬間から、
「死を覚悟」
していたことであろう。
光秀も、ちゃんとその後のことも、本能寺と一緒にどこを攻めるかということもある程度計算していたという。
本能寺の他に、当時の織田家の家督を継いでいた長男の信忠を筆頭に、信長の居城、安土にまで勢力を伸ばしていた。
もっとも、これくらいのことであれば、
「光秀くらいであれば、衝動的な犯行であっても、思いついてしかるべきだ」
といってもいいだろう。
結局、光秀は、第一次攻撃で、謀反に成功していた。
そして、そこから始めて、
「味方作りと始めた」
ということになるのだろう。
光秀は、ただ、その時同時に、毛利に対して、信長を打ったということを知らせる密使が走ったということであるが、実際に、同時期くらいに、織田家家臣団の連中も、そして、堺に滞在していたという家康にも、
「光秀謀反、信長討ち死に」
ということは知らされていたのだ。
しかし、では、それは、光秀の密使によるものか?
と考えると、そこに怪しいものが感じられる。
なぜなら、その時家康は、堺から、危険を犯してまで、どうして、伊賀越えなどということをしなければいけなかったのか?
しかも、近くには、信孝の軍勢がいたのである。助けを求めずに、立ち去っている。これは実に不思議な行動ではないか?
ともあれ、秀吉は、毛利に向かう密使を捉え、毛利とすぐに和議を結び、中国大返しを成功させ、最終的に天下を取ることになるのだが、これも。
「一つでも失敗していれば、光秀討伐はうまく行っていないのではないか?」
とも思える。
そうなると、やはり、
「事前に知っていて、最初から大返しを計画していた」
ということでなければ不可能ではあないか?
そう考えれば、光秀に味方がいないのも分かるというものだ。
最初から秀吉が、彼らに、
「信長を光秀に討たせるということは言っていなかったとしても、何かあった時は、自分の味方になってくれるというような根回しをしていたとすれば、実に計画性があったといってもいい」
というものだ。
もっとも、主君、信長が討たれ、光秀に、
「協力依頼」
をいきなり言われたとして、果たして、そんなに簡単に、応じられるわけもない。
秀吉はそこまで計算していたのかも知れない。
しかも、秀吉の計画として、光秀に、
「事は水面下で行わないと、絶対に成功しない」
と言い含めていたとすれば、誰もが、光秀の衝動的な犯行だと思うことだろう。
光秀はひょっとすると、
「秀吉が、自分を討とうと戻ってくるはずはない」
というくらいに、タカをくくっていたのかも知れない。
実際に、自分を討とうとする秀吉が、本当に戻ってきた、中国大返しにビックリしたのではなく、秀吉自身が戻ってくるということは、まるで、契約違反だというくらいに考えていたのかも知れない。
そんなことを考えると。明智光秀は、最初から、
「秀吉に操られていた」
といっても過言ではないだろう。
実際に、信長は光秀に討たれ、さらに、その光秀を討った瞬間に、
「織田家臣団」
の中で、筆頭に踊り出たのだ。
それまでは、あくまでも、
「信長あっての、秀吉だった」
わけである。
「秀吉黒幕説」
というものの中に、この考えが実際にあったのかも知れない。
というのは、
「今のままでは、秀吉は、それこそ、信長あっての秀吉でしかない。もし、信長が何かの理由で死んでしまったとすれば、秀吉はどうなるというのだ?」
ということである。
「おそらく、家臣団から、つまはじきにされ、当時の家臣団の下っ端の地位からも落とされ、誰か家臣団の配下となって生きのこるしか手はない」
ということになるだろう。
それを、秀吉の性格から、許せるわけがない。
「せっかく、ここまで、命を懸けて登ってきたのだ」
ということになる。
しかも、秀吉には、優秀な参謀役がたくさんいた。
「黒田官兵衛」
「蜂須賀正勝」
弟の、
「羽柴秀長」
さらに、死んでしまうことになるが、
「竹中半兵衛」
などである。
彼らが、秀吉を支えていることを考えると、秀吉としても、彼らからいろいろな案が出てきても、無理もないこと、それも、
「黒田官兵衛」
あたりから、出てくる作戦が、功を奏するといってもいいだろう。
だから、本能寺の変というものを、本当に画策したのは、秀吉ではないかも知れない。 秀吉も、配下の者から、作戦を聞いて、
「よし、やってみよう」
と決断したことから生まれた作戦だと考えるのが、一番理に適っているといってもいいだろう。
この作戦が、うまく行っての
「本能寺の変」
から、
「山崎の合戦」
さらに、
「清須会議を経ての賤ケ岳の合戦」
ということで、これこそ、まるで、
「天下人への階段」
というものを、秀吉は自らで作り上げ、それを、
「地の利を生かして、突き進んでいった」
というのが、秀吉の天下取りなのかも知れない。
その原点が、
「本能寺の変」
であったのだろう。
これが、いわゆる、
「秀吉黒幕説」
であり、一番信憑性もあるが、これであれば、完全な確信犯である。
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