第4話 夢と時系列

 夢を最近見ていなかったことに気付いた、ゆずはだったが、昨日、久しぶりに夢を見た気がした。

「最近、歴史について考えるようになったからだろうか?」

 と思うのだが、ちょうど今朝見た夢というのは、珍しく、

「覚えている」

 という夢だった。

 夢で覚えているのは、ほとんどない。

 特に、長い夢と感じるものは、

「夢を見たという意識はあるのだが、気が付けば忘れてしまっているというような夢であり、目が覚めるにしたがって忘れていく」

 ということを自覚できるものであった。

「夢というのは、目が覚める寸前の一瞬に見るものだ」

 というではないか。

 確かにその通りだと、自分で思う。だから、

「目が覚めるにしたがって忘れていく」

 と思うのであり、では、

「忘れずに覚えている」

 というのは、

「それだけ印象的な夢だった」

 ということなのか。

「忘れることができないほどに、覚えていることができるというメカニズムにしたがった夢だ」

 ということになるのだろう。

 そういう意味でインパクトの強い、印象的な夢というのは、

「それだけ、怖い夢」

 ということになるような気がする。

 そして、怖い夢ほど、

「信じられない」

 ということで、自分の中で、

「夢であってほしい」

 という印象から、

「忘れることができないというメカニズムとなっている」

 ということではないかと思うのだった。

 夢の中には、

「子供の頃の遠い昔の夢」

 であったり、

「そんな昔から、時系列で、今に至るまでの数十年という期間を、一気に見たような記憶の中で、ただ、夢の中では何らおかしな感覚がなく、目が覚めるにしたがって、これは夢でなければ信じられないことだと思えてくるのだろう」

 というような理屈っぽい夢を見たこともあったりした。

 普通、

「数十年などという期間を夢に見ると、一気に、その時々の印象が薄くなってしまい、覚えていることなどできるはずもないのだが、それを、都合よく、覚えているインパクトの強いところを捉えてさえいれば、そこだけ見たと思えるのだろう」

 それが、自分の中にある、

「記憶」

 というものであるのだが、その記憶というのは、無限にあるものだろう。

 何しろ、数十年間、意識として持ったものを、ほとんど漏れなく格納しているのだから、それこそ、どこかのアニメにあったような、

「異次元のポケット」

 というものを、人間は、記憶という形で持っているのかも知れない。

 そう考えると、

「あのアニメも、油断できないもの」

 ということで、考えるべきものではないだろうか?

 と言えるのだった。

 夢を見ている中で、一つ共通性のようなものを感じた。

「覚えている夢というのは、怖い夢が多い気がするな」

 というものであった。

 それも、その怖さというのも、

「恐ろしい」

 というだけではなく、自分の中で、

「どうしても、理屈を考えてしまう」

 という意味で、その話が、

「オカルト」

 であったり、

「ホラー」

 というものだと限定できないという気がしたのだ。

「だったら、ジャンルというものは関係ないのか?」

 と考えていると、実際にはそうではなく、ただ。

「理屈として理解できないから、怖いと感じ、それを夢に見てしまうのではないか?」

 ということを考えているということであった。

 つまりは、その中で、

「他のジャンル」

 というものが、

「解決できることにつながるのではないか?」

 と考えると、思いついたのが、

「ミステリー」

 と、

「SF」

 というジャンルであった。

 ミステリーというのは、謎があり、それを解決するためのものだと考えられるが、現代の小説界でいうミステリーというのは、昔からの、

「探偵小説」

 あるいは、

「推理小説」

 と呼ばれるものである。

 ただ、戦前から存在している探偵小説というものから、現在の、

「ホラー」

 であったり、

「SF」

 というものに繋がっているというのも、その一つの考え方だといえるであろう。

 探偵小説というものは、2種類に分かれると言われていた。

 一つは、

「トリックや、謎解き、そして、天才的な探偵の活躍などによるもの」

 というものを主題とした、

「本格派探偵小説」

 と呼ばれるもの。

 さらに、

「それ以外」

 ということで命名されたのが、

「変格派探偵小説」

 と呼ばれるものであった。

 変格派というものには、

「猟奇殺人」

 であったり、

「耽美主義的な犯罪」

 ということで、犯罪を、芸術の一環として見る、その実、変質者による犯罪だったりするという、一種の究極な探偵小説というものを、

「変格派探偵小説」

 という、

「狭義の意味」

 での作品と捉えることもできる。

 夢というのを、そういう意味で捉えるということも考えられるのだ。

 また、それ以外としては、

「SF的な考え方もできるだろう」

「SF的な発想」

 というと、まずは、

「時間の感覚だ」

 と言ってもいいだろう。

 時間の感覚といわれて、最初に考えるのは、

「タイムマシン」

 という発想ではないだろうか?

 タイムマシンというのは、今まで、いろいろ考えられてきたが、SFやアニメの世界では実現しても、実際にはありえない。

 その理由となるものが、

「タイムパラドックス」

 という発想である。

 そのタイムパラドックスというのは、タイムマシンというものを使って、

「過去に行く」

 という発想からであった。

 というのは、過去に行くということは、今までの歴史をさかのぼることになる。

 つまりは、

「一度確定した歴史を変えてしまう」

 ということになるのだ。

 過去の戻って、何にも触れずに何にも関わらないということであれば、何ら問題はないのだろうが、そんなことができるわけはない。透明人間で、相手に触れることができないということであれば、問題ないのだが、そうでなければ、

「歴史を変えてしまう」

 ということになるのだ。

「この世は時系列によって流れている。だから、今は、次の瞬間には、過去になるのだ。そして、次の瞬間が現在となる。そうやって、時系列は進んでいくのだ」

 というのが当たり前のこととして考えられるわけである。

 しかも、今Kら以降、過去となってしまったことは、事実として確定している。その過去を変えてしまうと、

「未来が変わってしまう」

 という発想である。

 しかし、未来はまだ確定していない。今という瞬間が、次の瞬間として広がっている無数の可能性から、何かの力によって、決定し、そこから先、未来をつぐんでいくということになる。

 これが、時間という考え方であるが、この考え方には、かなりの矛盾があるような気がする。

「そもそも、現代」

 というのは、誰が決めたというのだ?

 ということである。

 あくまでも、

「今」

 と見ている瞬間は、一瞬でしかない。

 となると、一瞬前にいる自分というものを、

「今」

 として捉える瞬間が存在し、そこにも、自分がいるということになるのだ。

 もっといえば、この瞬間に一緒にいる人は、ひとつ前の時間を、同じように進んでいることになる。

 ということは、

「どんなに可能性というのが無限に存在しようとも、今ここで、そのことを考えている自分と関わっている人は、過去からずっと一つの流れをつないでいて、次の瞬間もその流れで進んでいくことになる。それは、あくまでも、自分が関わっているから、その人は、今の世界にいるというわけではない」

 ということになると、もし、自分が過去にいって、その人の、

「次の瞬間」

 を変えてしまうと、本当は関わっていないはずの人と関わることになるのだから、その人の人生に何らかの影響を与えないとも限らない。

 問題は、それが、

「未来のすべてを変えてしまうだけの影響があるかどうか?」

 である。

 普通であれば、そんなことはないのだが、一つでも変化があると、何が起こるか分からない。

 世の中が狂ったまま、元に戻らず、どんどんと違う世界が生まれてくるという発想が、「タイムパラドックス」

 というものである。

 これは、きっと、

「これまでになかった発想が、新たにどんどん生まれてきて、そこから、生まれたことが、恐怖を煽ることで、最悪の発想の元、一つの矛盾が、すべての矛盾を生む」

 ということになるのだ。

 確かに、

「次の瞬間という歯車が一つでも狂ったら、世の中すべてが変わってしまうという発想は、結構大きいのかも知れない」

 と言えるだろう、

 しかし、だからと言って、

「必ずそうなるとは限らない」

 ということも言えるわけで、そこで考えられるのが、

「夢」

 という発想であった。

「かつて、どこかで見たことがあるような気がする」

 という現象を、

「デジャブ現象」

 というであろう。

 この現象は、今までに、何度も感じた人が結構いるだろう。

「初めてきたはずなのに、以前にも、どこかで見たことがある」

 というような感情である。

「ひょっとすると、どこかに飾ってあった絵を見ただけなのかも知れない」

 しかし、それがハッキリと思い出せないのだ。

 そんな時、

「夢に出てきたのかも知れないな」

 と感じることもあるだろう。

 夢というのは、

「意識して見ることができるものでもない」

 また、

「夢を見たとしても、目が覚めるにしたがって、忘れていくものだ」

 と感じたり、あるいは、

「夢を見るというのは、本当に覚えている夢しか、本当は見ていないのかも知れない」

 ともいえるだろう。

 忘れる夢というのも、

「本当は毎回夢を見ているものなのか、それとも、夢を見るというのは、毎回ではないのだが、その中でも覚えている夢と、そうでない夢とがある」

 という考えである。

 これは、ハッキリと分かっていることなのかどうなのか、詳しくは分からないが、ゆずはとしては、

「毎日、夢を見ている」

 と思っている。

 その証拠が、

「目が覚める時、毎回、あれだけ、目が覚めるまでに、スッキリとしない時間を過ごすのだ。それが、1分で目が覚めることもあれば、5分以上かかることもある。それは見た夢によってその、夢の深さというものがあって、それが、目を覚ますまでの時間に影響している」

 という考えであった。

 だから、

「夢は毎回見ていて、夢の中の世界から、現実に引き戻される時が、あのハッキリとしない意識なのか、無意識なのかのあの時間は、夢に落ちる時も、きっと、その世界が、夢ではないという意識をさせるために、睡眠という、人間には必ず必要な時間を与えているのではないだろうか?」

 というのは、

「基本的に、人間は毎日寝るものだ」

 と考えられるのは、

「寝るということは、夢を見るためのものだ」

 と言えるのではないだろうか?

 そんな夢を見る中で、

「覚えている夢」

 と、

「覚えていない」

 つまり、

「忘れてしまう夢」

 とがあるというのはどういうことなのだろうか?

 忘れてしまう夢というのを考えた時、それは、毎日見ているので、

「覚えている必要はない」

 ともいえるのかも知れない。

 だから、毎日見ていることで、同じような夢でも、毎回同じとは限らない。本当は同じ夢なのに、違う夢だと思うことで、

「似て非なる夢」

 というのを見ているのかも知れない。

 だから、

「前にも同じような夢を見た」

 というデジャブという意識を持つのかも知れない。

 そう考えるのは、おかしなことなのだろうか?

 同じ夢を見ていても、

「まったく同じ夢というわけではない」

 と考えると、その中に、時々、

「同じ夢ではない」

 と感じさせるものがあり、それが、たまに、

「覚えている夢」

 ということで、意識させるのかも知れない。

 あるいは、もう一つの考えとして。

「夢というものが、時系列の沿って見ているものなのかも知れない」

 という考えだ。

 この時系列というのは、実は同じ夢を見ているのだが、その夢というのは、

「前回の続きを見ているという考え方」

 であって、本来であれば、

「同じ夢の続きを見ることはできない」

 という夢の中の大前提と思えるようなことを感じていると考えると、

「続きを見てしまったことで、自分が感じている夢のタブーを犯してしまった」

 と考えることで、目が覚めるにしたがって、自分の中で、

「ありえない夢を見てしまった」

 として、夢を信じられなくなるのではないだろうか?

 そう思うと、

「夢というのは、かなりの縛りというものがあるのではないか?」

 と考えられる。

 しかし、この縛りというのは、

「皆同じものなのだろうか?」

 と考えてしまう。

 たくさん、縛りがある中で、中には、皆と同じものがあるのだろうが、

「実際にどれだけの縛りがあって、どれだけのものを他の人が感じているか?」

 と考えるだろう。

「そもそも、他の人は縛りなどというものを感じているのだろうか? 自分だって、こうやって考えるから、感じているように思うのであって、本当に、縛りがあるかどうかなど、分かりっこないのだ」

 と思うのだった。

 その証拠に、

「人と、夢について語り合うなどということはないではないか」

 そもそも、人と何かについて語り合うなどというのは、そんなになかった。

 だが、ゆずはの場合は、高校時代の親友で、1年生の頃など、時々、それぞれの家に遊びに行って、普段から考えているいろいろなことを、時には徹夜で語り合ったものだ。

 その時に、

「夢の話」

 というのもしたことがあったかのような気がした。

 正直、ハッキリと覚えてはいないのだが、本当に覚えているかどうかということは、自分でもよくわかっていない。

 そんな中で、自分が今までに感じていた、

「夢というものに対しての感覚」

 というのは、覚えている夢というのは、

「怖い夢ばかりだ」

 ということであった。

 このことに関しては、高校時代の親友とも、話をした記憶がある、そして、夢の話をしたということとして、本当に覚えているということは、この、

「怖い夢」

 という話に関してだったのだ。

「怖い夢」

 というのが、どういう怖さだというものなのかに関して、すり合わせてみたが、どうも、お互いに、

「怖い」

 という感覚に違いがあるようだった。

「何をもって怖いというのか?」

 ということであるが、それが、小説のジャンルのようなものに例えるしかないので、その感覚で話をしていたような気がした。

 ゆずはは、そうやって話しているうちに、

「人それぞれで、感覚って違うんだ」

 ということに、いまさらながらに気付いた気がしたのだった。

「怖い話っていうと、ホラーだったり、オカルトだったりがあるじゃない」

 と友達がいうので、

「ええ、そうね。何か、怖いと感じるもの。例えば、幽霊であったり、妖怪であったりなどね」

 とゆずはがいうと、

「じゃあ、妖怪と幽霊の違いって何なのかしら?」

 と友達がいうので、

「妖怪というのは、何かの動物が、不思議な力を持っていたり、動物が何か憑依したものなんじゃないかしら? それて、幽霊というのは、人間が化けて出たものじゃないかって私は思うんだけど?」

 と、ゆずはは言った。

 それを聞いた友達は、

「ええ、そうよね。私もその通りだと思うわ」

 と友達も、そういって同意してくれたが、ゆずはとしては、正直、自信があるわけではあなかったが、相手が同意してくれたことで、その曖昧な感覚は、

「確信に近いものだ」

 ということに変わってきた。

 そのことは、後で調べると、ほとんど同じことだった。もっとも、考えられることが他にたくさんあるわけではなかったので、感じたことが、そのまま正解だというのも、この話だけではなく、結構あった。

 ということは、こうやって友達と話をしていることは、自分にとっての、

「確認」

 ということであり、毎回、同じことを感じているわけではないということでもあったのだ。

「確かに。妖怪も幽霊も怖いけど、それ以外で、怖いものって何かあるかしら?」

 と友達に言われて、

「そんなサイコパスのようなものが出てこない方が、私は怖いと思うわ。例えば、五分前に、もう一人の自分がいて、その自分を追いかけているんだけど、追いつかないというような夢だったりね」

 というと、

「そうなのね。私はそんな夢を見たことはないわ」

 と友達がいうので、

「じゃあ、これは?」

 と、思い出していると、友達は、その様子を見ながら、どうやら、何を言い出すのか、それが怖いというような様子だった。

「一日が終わりかけていて、次の瞬間に、次の日になるという時、その瞬間、同じ日を繰り返していると感じる時」

 というと、

「そんなことを夢で見るのね。私は、その感覚って、起きている時に、考えることなの。だから、夢に見ないわ」

 と友達がいった。

「えっ、じゃああなたは、夢に見ることであれば、現実では考えることはなくて、逆に、現実で考えることは、夢には見ないと思っているの?」

 と聞いた。

 この感覚は、

「夢と現実を、まったく別のものとして考えている」

 ということを証明しているようで、その考えが、

「それは、自分と友達の夢に対する考えが、まったく違う」

 ということを示しているかのようだった。

 それを思うと、

「私たち、夢に対しての考え方が、交わることのない平行線を描いているように思えてならないわね」

 というと、

「そうね。私たちのように、いつも意見が合ってきた二人でもそうなんだから、余計に他の人の場合は違うわよね」

 と友達はいった。

「そうそう、そうなのよ、人それぞれで夢に対して違っていることが正反対なんじゃないかって思えてきた。だとすると、夢というものが、無限なものに感じられるのよ」

 とゆずははいった。

「確かにその通りね」

 と友達も感じているようだった。

「反対の反対が存在するということになるのかしら?」

 というと、

「そうなのよ。そして、反対の反対を考えた時、かならずしも、元に戻ってくるわけではなく、それが、人それぞれでまったく違う結果を呼ぶ。一人として、同じ答えが出てくるわけではない。それは、似て非なるものであり、そのことが、夢によって証明されるものなのかも知れないわ」

 と言えるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「結局、夢というのは無限ということなのかも知れないわね」

 と友達が、ボソッと言ったが、それを聞いて、

「夢というのが、無限だというのか、または、無限だから夢というのか? というのは、同じことを言っているように思えるけど、そうじゃないような気がする」

 というと、

「そうなのよ、それこそが、反対の反対という考え方になるんじゃないのかしら?」

 と友達がいった。

 この友達の言葉に対しては、

「明らかにその通り」

 と思い、まったく反対という意識はなかった。

 そのことを、口に出そうかと思ったが、

「彼女ならきっと分かっている」

 と思い、口に出さなかった。

 この時に口に出していなかったことで、

「彼女と、夢についての話をした」

 ということを忘れてしまっていたのだ。

「いや、忘れてしまったというわけではなく、それこそ、夢の中での出来事だ」

 というような感覚になったのかも知れない。

 この頃から、いや、もっと前からであるが、それが確信となったのが、この時だったのかも知れない。

 というのも、夢というものを考えた時、

「現実と正反対の世界」

 と今でも思っている。

 いや、今だけというわけではなく、果てしなく、その通りだと思っていくのであるが、結果、

「反対の反対」

 というものを、どう考えていくのか? というのが、夢に対して向き合っていく考えだと思うのだった。

 そんな、

「反対の反対」

 というものを考えた時、

「これは夢の世界だけではなく、他の発想にも生かされるのではないか?」

 と考えるようになったのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る