第5話 バタフライ効果

 友達と、夢の話をしたことがないというのを、ずっと信じていたが、実際にはそうではないということを思い出したのは、何かのきっかけだからだろう。

「反対の反対」

 という発想を抱いていたということまで思い出したというのは、奇跡のような気がしたが、逆に考えてみれば、それを思い出さなかったという方が、却って別の意味での奇跡のような気がするのであった。

「夢というものがどういうものなのか?」

 今でも分からない。

「いや、永遠に分からないものなのかも知れない」

 と感じているが、

「ほとんど、ゴール近くまで見えているのかも知れない」

 とも思うのだ。

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 という言葉があるが、これは、

「逆も真なり」

 ではないかとも思うのだ。

 つまり、

「まだまだ道半ばだと思っていることでも、気が付けば寸前まで来ていたということであり、こちらの方が可能性は高い気がする」

 というのは、

「可能性が高いからこそ、そんな分かり切ったことを、いちいち確認することはないのではないか?」

 ということであり、

「そんなによくあることではないだけに、確認の必要がある」

 ということで、ことわざとして、戒める必要があるのではないかともいえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「夢というものだけが、反対の反対だ」

 という発想になるのは、少し矛盾があるような気がする。

 もし、そうだとするならば、

「世の中にある矛盾すると考えられるものを、すべて、夢のせいだということで片付けてしまおう」

 ということになるのではないか?

 そんな理屈を考えようとするから、

「夢というのは、覚えていないものが、大半なんだ」

 と思えてならないのだろう。

 では、

「夢以外で、反対の反対を考えられるだろうか?」

 ということを考えると、そこに出てきたのが、

「合わせ鏡」

 と、

「マトリョシカ人形」

 というものだった。

「合わせ鏡というのは、自分の前と後ろ、または、左右にそれぞれ鏡を置いた時に見える現象。あるいは、感覚だ」

 ということである。

 合わせ鏡をすることによって、前の鏡に写った姿が、後ろの鏡に写っているかのように、また前の鏡に見えている。

 つまりは、見えている自分がどんどん小さく成っていくのだが、それは、

「決して消えることのない無限なのだ」

 ということであった。

 また、

「マトリョシカ人形というのは、ロシアの民芸品で、人形が蓋のついた上下で別れるようになっていて、その二つを外すと、その中に、また別の人形が入っている。そして、その人形も、同じ構造になっているので、同じように分離すると、また中に、人形が入っている」

 という仕掛けになっている。

 これも、永遠に小さく成っていくとも考えられるが、さすがに人形なので、限りはあろうだろう、

 しかし、理屈は合わせ鏡と同じなのだ。

 つまりは、どんどん小さくなってはいくが、

「消えてなくなる、つまりゼロになる」

 ということは絶対にありえないのだ。

 それは、

「限りなくゼロに近い」

 ということになるのであって、果てしなさは、

「ゼロになることはない」

 ということの同意語のように思えるのだった。

 そのことを考えると、

「世の中において、ゼロという感覚が、摩訶不思議なものであり、まるで、夢の世界のことのようにも感じられる」

 ということでもあった。

 そんな中において、

「夢の話」

 あるいは、

「時系列」

 というものが、

「反対の反対」

 という発想で考えた時。

「まったく正反対ではないとすれば、この世に、まったくの正反対などありえるわけはない」

 と考えてしまうのではないだろうか?

 ゆずはは。そんな夢のようなものを研究したいと思い、文系ではなく、理系の方に進むことにした。

 大学では、理工学部に所属して、いろいろ研究に没頭することになるのだが、大学の一年生の頃は、一般教養ということで、専門的なことは、

「2年生になってから」

 ということであった。

 一般教養なので、文系の授業も普通にあったのだが、そんな中で、心理学の講義もあったのだ。

 心理学というものに、さほど興味があったわけではない。

 どちらかというと、

「科学的なことであるのに、どうして、文系なんだろうか?」

 という不思議な感覚に見舞われた感覚だったのだ。

 大学の講義だったので、それほど、

「好きでも嫌いでもない」

 ということで、正直、

「単位として取得しなければいけないもの」

 というだけの意識で、講義も真面目に聞くという意識はなかった。

 実際に、その講義は、

「私の講義は、あまり面白くないので、興味のない人は、ただ黙って、後ろの方にいなさい」

 と教授はいうだけだった。

 しかし、出席を取る講義で、その出席率が、テストなんかよりも、結構大きなものだったので、毎回教室は満員の盛況だったのだ。

 それを思うと。

「この教授もあざとい人だ」

 としか思えない。

「言っていることと、やっていることが正反対だ」

 と、苛立ちを覚えるが、

「実は、それも教授の計算か?」

 と考えると、

「見事にやられた」

 という感が否めないのだった。

「意外と心理学って面白い」

 と感じさせられたからだった。

 だが実際に聞いてみると、講義は結構面白い。特にドラマやアニメなどの話をテーマにするから、分かりやすい。

「マンガやドラマというのは、結構テーマというのは、心理学が絡んでいることが多いからね」

 と言って、先生は笑っている。

 心理学というと、どうしても敬遠しがちだったのは、

「心理学というものが、哲学に絡んでくる」

 と考えたからだ。

 その哲学というのが、今度は宗教に絡んでいると思うと、

「宗教は、とても、扱いきれない」

 と感じ、宗教の歴史を考えると、勉強する気にはなれなかったのだ。

「宗教の歴史」

 というと、

「戦争の歴史だ」

 と思えてくるのだった。

 古代から、宗教が絡んでいる戦争がどれほどあったか?

 最たる例が、

「十字軍」

 と呼ばれるものではなかったか。

 しょせんは、宗教戦争でしかないものを、まるで、

「聖戦」

 であるかのようにしてあおる。

 それぞれの宗教が派遣を争っての戦争に、

「何が、聖戦と言えるというのか?」

 ということである。

 宗教戦争がもたらしたものは、その隣りあわせには、

「死」

 というものが付きまとう。

 考えてみれば、ここ数十年の戦争は、そのほとんどに、宗教が絡んでいるではないか?

 そもそも、中東における、

「パレスチナとイスラエルの戦争」

 というのは、

「ユダヤ教とイスラム教」

 という意味で、

「現代の十字軍だ」

 といってもいいだろう。

 その戦争では、テロ戦争が多い。まるで、東南アジアにおける、独立戦争のようだ。

 ベトナム戦争がそのいい例だが、アフガンにおいても、

「自分たちの土地を荒らすものは、何であっても、敵でしかない」

 ということになる。

 そもそも。パレスチナと、イスラエルの戦争というのは、ヨーロッパのイギリスによる、

「世界大戦での、アラブ、ユダヤの協力を得るために行った、二枚舌外交が、その引き金だった」

 というのも、第一次大戦においては。

「ロレンス」

 という男が、アラブの開放を謳い、自分たちhwの、

「軍事協力」

 を促したのだ。

 しかし、戦争に勝利すると、その約束を完全に反故にしてしまい、裏切った。

 さらに、第二次大戦では。今度は、ナチスに迫害されているユダヤの協力を得るため、

「ユダヤの国の建設」

 を約束した。

 今度も、イギリスは勝利したのだが、アラブには、アラブの開放を、さらにユダヤには、国家建設を約束していたので、ますユダヤの国を建国するように、イスラエルの地に、その国家建設を行った。

 しかし、そこには、アラブの民族が住んでいる。強引に国家建設をしてしまったことで、アラブ側は、イスラエルと攻撃したが、結果、戦争に敗れ、パレスチナの地に追われた。

 イスラエルは、

「ユダヤ教」

 アラブは、

「イスラム教」

 ということで、ここから、領土と、それぞれの宗教の

「聖地」

 をめぐっての、果てしない戦争が、繰り広げられることになるのだ。

 アラブ以外でも、かの世界大戦の後は、各地で戦争が起こっている。

 それは、

「大東亜共栄圏の建設」

 というものを目指していた日本が、敗戦したということから見れば、日本にとっては皮肉なものであった。

 というのが、

「大東亜共栄圏というのものの目的」

 として、

「アジアを、欧米列強から解放して、アジアで新たな新秩序を建設する」

 というものだったのだ。

 だから、日本は、これを、閣議において、

「大東亜戦争」

 と命名し、その大義名分を、

「大東亜共栄圏の建設」

 ということにしたのだ。

 戦争が終了して、占領ということになる、

「大東亜戦争」

 という名前を使ってはいけないということになり、

「太平洋戦争」

 と言わなければいけないのは、日本が、

「サンフランシスコ平和条約」

 で、占領状態が終わるまで続いた。

 今でも、

「太平洋戦争」

 と言っているが、本当は、

「大東亜戦争」

 なのである。

 しかし、その道は果たされずに、

「日本の敗戦」

 という形で、東南アジアの国は、開放されることになった。

 だが、すぐに、元々の宗主国である、欧米列強が入ってくる。そうなると、元々の日本が唱えていた、

「独立国としての立場」

 を鮮明にして、

「独立戦争」

 というものを起こすことになるのである。

 特に、東南アジアの国は、結構早かった。

 ただ、インドシナだけは、フランスが途中で、侵攻できず、敗戦を重ねたことで、結局、事態の収拾を、

「国際連合」

 に丸投げしたため、おかしくなった。さらに、せっかく独立していく東南アジア諸国が、ソ連によって社会主義化されることで、アメリカを中心に、

「社会主義化のドミノ現象」

 というものが起こり、

「東南アジアが、すべて、社会主義国家にされてしまう」

 ということを懸念したのだ。

 それによって、アメリカが、南ベトナムに加担して、社会主義国家となっていた北ベトナムを攻撃するようになる。

 そうなると、朝鮮戦争のような、

「社会主義国と民主主義国との間での、代理戦争」

 という様相を呈してきたのだ。

 こちらは、宗教戦争ではないが、それぞれの社会体制による、

「国取り物語」

 と言ってもいいだろう。

 それぞれの、兵器は最新型で、以後、国際法で、

「使用不可」

 となる兵器が、どんどん使われた。

 それらの写真が、雑誌に乗ったりすると、その残虐性に、アメリカなどの国民が衝撃を受けたりする。

 さらに、大東亜戦争の時でも行ったことだが、

「国際法に則って、爆撃地域を、兵器工場であったりに限定するというピンポイント爆撃をしていると、出撃のわりに、成果がまったく出ないで、被害だけが大きくなる」

 ということを、国民が気づいてしまったことで、

「無差別爆撃への移行」

 ということになったのだ。

 その結果が、悲惨な写真の掲載により、

「反戦運動」

 となったのだ。

 アメリカという国は、戦争を始めるには、大統領の一存ではできない。

「議会の承認」

 というものが必要なのだ。

 それを考えると、

「大統領としては、撤兵を考えなければいけない」

 ということになるのだった。

 結果、アメリカは、徐々に、撤兵していき、最終的に、南ベトナムの首都である、

「サイゴン」

 を捨てて、完全撤兵してしまった。

 北ベトナム軍は一気呵成に、サイゴンを陥落させて、ベトナムは。

「社会主義の統一国家」

 として生まれ変わり、その体制は現在に至っているのだった。

 実はこれがアメリカの正体であり、

「中国でも、アフガンでも、イラクでも、すべて中途半端なことをしてしまったことで、いまだに内紛などが続いている」

 ということになっているのだ。

 アメリカが、宗教団体の本当の恐ろしさを知ったのは、

「アメリカ同時多発テロ」

 と呼ばれた事件であろう。

「旅客機をジャックした実行犯が、旅客機もろとも、高層ビルに突っ込んだり、ペンタゴンに突っ込もうとしたり」

 という、それまで行われていた、

「自爆テロ」

 の最悪な形になったのだ。

 それまでも、旅客機をジャックして、そのまま、自爆するということはあったが。ここまでのことはなかった。

 そういう意味で、どこの国でも、

「宗教に対する警戒」

 というのが強くなった。

 本来なら、日本もそうである。

 こちらの場合は、宗教というよりも、

「宗教というものに名を借りた、反政府組織」

 による、毒ガス散布事件であった。

 これは、宗教団体のテロというわけではなく、言われていることとすれば、

「宗教団体が、近く警察に家宅捜査をされる」

 という情報があったので、

「宗教団体の方が、先回りをして、その目先を狂わそうとして、あのような残虐な事件が発生した」

 という話だった。

 つまりは、

「宗教団体」

 というものに名を借りた、ただのテロ組織で、果たして、どこまで考えていたのか分からないが、最終的には、

「国家転覆」

 というところまで考えていたのだろうか?

 と、思えてくるのであった。

 それなのに、どうも、日本という国は、それでも、警備が甘かったりする。

 それから二十年くらい経ってから、選挙活動中の遊説中に、応援に現れた、

「元ソーリ」

 が暗殺されるということがあった。

 暗殺されたことが、いい悪いの問題ではなく、いかに、

「警備が手薄だったのか?」

 ということだ。

 さらに、それから半年ほど後に、この時は未遂で終わったが、

「現役のソーリが襲撃される」

 ということも起こった。

 こちらも、死のうがどうしようが関係なく、警備の問題が大きかったのだ。

 そもそも、

「平和ボケ」

 と言ってもいいだろう。

 ただ、

「元ソーリ」

 が暗殺されたおかげで、ある宗教団体と、政治家の、

「汚い繋がり」

 というものが露呈したという意味では、

「殺されても、一つだけいいことをした」

 ということになるのだろうが、それも結局、あやむやとなって、社会的に、どうなるものでもない状態になったといえるだろう。

 その宗教団体は、

「毒ガスを撒いた」

 というあの宗教団体と、甲乙つけがたいほどの団体である。

「霊感商法」

 などを使って、どれだけの平和な家庭をぶっ潰せばいいというのか。

 自分たちの金儲けのために、信者は、洗脳された頭で、借金を繰り返し、何の罪もない家族がその犠牲になっている。

 そもそも、

「元ソーリ襲撃事件」

 の犯人は、その宗教団体の被害者だったのだ。

 その宗教団体と、

「元ソーリ」

 が結びついているということで、襲撃をしたのだろうが、実際には、ほとんどの政治家、特に与党である政府の要人が、金を貰ったり、選挙の時の票を貰ったりしていたということなのだ。

 そんな宗教団体は、日本、いや、他の国にもたくさん存在している。実際に、

「元ソーリ暗殺事件」

 の犯人が、恨んでいる宗教団体は、世界に展開していて、各国の要人と繋がっている。下手をすれば、

「あいつらが、世界を動かしている」

 と言ってもいいかも知れない。

 世界は、今は、もうそんな時代になっていたのだ。

 そんな宗教団体を、

「いかに扱っていくか?」

 というのが問題なのだろうが、果たして。どうすればいいのだろうか?

 実は、そんなゆずはは、今小説を趣味で書いていて、これらのかつての事件を模写する形での、ファンタジーを書いていた。

 架空の国に起こる、

「宗教戦争」

 さらには、

「汚職や賄賂に塗れた世界」

 というものを描いている。

 その話を書くために、高校時代に、友達と夢の話などをしたりしていたのだ。

 最近では、その話の中で、

「バタフライ効果」

 という言葉に興味を持って、研究していたのだ。

「バタフライ効果」

 というのは、

「バタフライ・エフェクト」

 とも呼ばれ、最近では、某国営放送において、過去の映像から、ドキュメンタリー番組を作っているのだが、そのサブタイトルに、

「バタフライ効果」

 というのがついていたのだ。

 バタフライ効果」

 というものは、

「目の前で起こった、まったく何にも影響しないかのように見えることでも、遠くの方での自然現象に大きな影響を与える」

 というものである。

 例えば、

「一匹の蝶々(バタフライ)が、羽根を羽ばたかせたことで、外国の遠く離れたところで、異常気象が起こる」

 というような話である。

 詳しいことは分からないが、大学の心理学の講義の中で、この、

「バタフライ効果」

 という話が出た時、

「これは、小説に使えるかも知れない」

 と、ゆずはは感じたのだ。

「SF」

 であったり、

「ホラー」

 であったり、

「ミステリー」

 であったり、それぞれに、影響してきて、その影響が、実際にどのようなメカニズムになっているのかということを、

「バタフライ効果」

 というものが、証明しているということなのだろう?」

 ということであった。

「バタフライ効果」

 というものが、友達と話した、

「夢の世界」

 のようなものだと考えると、本来なら、

「夢の世界のことが、現実に起こるはずなどない」

 と言えるのだろうが、これが、

「バタフライ効果」

 によって、

「限りなくゼロに近い」

 というものであっても、存在している以上、大きな問題になるのかも知れない。

 と言えるであろう。

 合わせ鏡などのように、限りなくゼロに近いものが大きな影響を与えるという、

「バタフライ効果」

 であるが、そこに、今度は別の考えが浮かんでくるのだった。

 それは、

「マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる」

 という考え方で

 さらに、

「プラスにプラスを掛けると、プラスになる」

 というのは当たり前のことだ。

「マイナスになるには、必ず、どちらか違っているものしかありえない」

 ということになり、

「合わせ鏡などでは、決してマイナスになることはない」

 ということは、

「マイナスというのは、概念でしかない」

 ということになる。

 そうなると、マイナスという概念は、答えとしては存在しないことになる。

 だとすれば、

「マイナスは、はじまり以外ではありえない」

 ということになり、それの証明が、

「バタフライ効果」

 にしかないといえよう。

 それだけ、

「限りなくゼロに近いもの」

 というものの存在が絶対的であり、バタフライ効果をもたらすだけの力を持っているということになるのだろう。

 そんなバタフライ効果の中で一つ考えるのが、

「自然の摂理」

 という考え方だった。

 三すくみという考え方の中で、

「三すくみとは、三つ巴とは違うのだ」

 ともいい、三人が同じ成績であれば、

「三つ巴の、巴戦」

 というのをやることになる。

 相撲などの、

「優勝決定戦」

 では、なかなか行われることはないが、ありえることである。

 この場合には、どういうことになるかというと、まず、最初に当たって、勝った方が、残った一人で戦って、

「勝てば、優勝」

 ということになり。負ければ、残りの二人で再度決戦をやる。

 その時、自分に勝った人間が、もう一度勝てば、その人が優勝ということになる。もし、負ければ、三人とも、

「一勝一敗」

 ということになり、再度、巴戦のやり直しということになるのだ。

 つまりは、

「2勝した方が優勝ということになる」

 それが巴戦である。

 しかし、自然の摂理ということになると、これが、三すくみともなると、このような形にはならない。

 なぜなら、三すくみというのは、

「先に手を出した方が負ける」

 からである。

 巴戦のように、

「1対1」

 で行うものではないからだ。

 三すくみというのは、巴戦と違い、

「お互いの力は歴然としているが、

「自分が強い相手は、自分が弱い相手に強い」

 というややこしい関係になっている。

 つまり、三つが存在することで、

「バランスが保てている」

 ということである。

「自分が、強い相手に襲い掛かれば、今度は、それを見て、自分に対して強い相手が襲い掛かってくる。そして自分が襲い掛かった相手は。そのまま、自分が強い相手に襲い掛かろうとするだろう」

 しかし、ここで問題なのは、自分が先に、自分が強い相手を殺したとすれば、どうなるだろう? 自分に襲い掛かってこようとしている相手は、自分の天敵がいなくなることで、心おきなく、こちらに襲い掛かってきても、自分を襲ってくるやつを、こっちがやってけたことで、相手は、

「一人勝ち」

 というものだ。

 ということは、

「自分が先に攻撃するとやられるのは分かった。となると、自分を襲ってくる相手を目の前の動物が殺してくれることを待っているしかない」

 ただし、これは、忍耐の問題であり、理屈で分かっていたとしても、分かっているだけに、攻撃できないことが、もどかしくなることだろう。

 それを考えると、

「自然の摂理」

 というのは、実に残酷なものである。お互いに、けん制し合い、一番最初に、動いた方が負けなのだ。

 動物は、決して自分から動こうとしない。それだけ、本能というものが、しっかりとしているということであろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る