第3話 戦を終わらせたい
しかも、秀吉犯行説ともなると、
「後から、歴史を改ざんした」
という可能性が一番高い。
何と言っても、一度は、
「天下を握った男」
だからである。
信長も、天下を握る一歩手前くらいまでは言っていたであろう。そもそもの考え方として言われている、
「畿内統一というのが、本来の天下統一という意味だ」
ということであれば、信長は畿内を統一していたので、ある意味、
「天下人だった」
と言ってもいいだろう。
秀吉のように、諸大名をすべて統一できたのは、ある意味、秀吉だからだと言ってもいいかも知れない。
信長が、どこまでの統一を望んでいたのかは分からないが、ひょっとすると、家康のように、
「自分の勢力範囲内だけを収める」
ということを考えていたのかも知れない。
何しろ、一向一揆にしても、そうであるが、畿内に敵が多すぎたので、畿内を統一しておけば、後はゆっくりと考えていたとしても不思議はない。
別に全国統一まで目指していたという感じはしない。
それよりも、信長の場合は、領地を増やしていっても、それぞれに、
「方面軍」
というものを置いていることから、
「それぞれの領地を、その家臣団に任せる」
というやり方が多いような気がしている。
例えば、
「関東を滝川一益」
「東海を、徳川家康」
「北陸を、柴田勝家」
「丹波、摂津などを、明智光秀」
「中国を、羽柴秀吉」
などと言った感じであろうか?
それに、最初はであるが、
「四国を長曾我部に任せる」
ということだったように、支配下に入れ込んだ武将に任せるというやり方もしていたのだ。
秀吉もそういう感じであったが、そこまで大きな発想でもない。秀吉というと、結構、
「独裁的」
ともいえるが、結構自分の恩顧の大名というものがいて、彼らに任せているということも多かった。
しかも、内政的なところで、
「石田三成」
という人がいたというのも、心強いところであろう。
そういう意味では、弟の秀長を失ったのは、大きかっただろう。
だからこそ、それ以降は、
「どこか秀吉がおかしくなってきた」
と言われるようになり、それが、
「豊臣政権を危うくする」
という原因にもなってきたといえるだろう。
少し、残虐性も見せてきて、領民を縛ったりするところも、領主としては仕方のないことであろうが、やはり、
「戦国時代を終わらせた」
という意味では、大きなことだったに違いない。
「誰か一人で国がまとまる」
というのは、いろいろあったとしても、あるべき姿なのかも知れない。
そんな中、もう一つ、
「本能寺の黒幕説」
というものがある。
普通であれば、これは、それほど騒がれるものではない。あまり誰も気にする人がいないからだ。
「まさか、あの人が?」
というのが、実は残っていた。
「こじつけだ」
と言われるかも知れないがありえないことではないといえるだろう。
そう、黒幕として浮かんできたのは、
「家康説」
であった。
家康は、信長にちょうとその時、堺見物をすることになっていた。
しかも、その時の元々の接待役だったのが、光秀だったのだが、それが急遽別人に変わり、光秀に、
「秀吉の軍の加勢に行き、秀吉の配下に入る」
という、屈辱的な立場に追いやられた。
さらに、領地の問題、過去の信長とのいきさつなどから、総合的に考えて、光秀は、
「信長を討つ」
ということになったのだ。
しかも、これだけたくさんある動機で、そのほとんどは、
「私恨」
によるものはほとんどだった。
もっとも、そのどれも、一つだけでも、謀反を起こしたくなるくらいのもので、普通なら容認できるものではないので、謀反を起こす気持ちも分からなくもないが、いきなり、謀反を起こす武将であれば、
「ここまで、我慢はしない」
ともいえるだろう。
しかし、逆に、
「結界が傷れた」
ということもある。
我慢を徹底的にする人は、その、
「我慢の結界」
というものが破れたとすれば、
「そこから先は、もう、どうにも抑えの利くものではない」
ということになるだろう。
そんな時、この計画を一番実行したい人間が、秀吉だったとして、光秀のような人間が、果たして、
「秀吉のような男のいうことに、簡単に引っかかるだろうか?」
ということである。
秀吉といえば、今まで地道に築いてきた今の地位をおぼやかす男で、しかも、自分とはやり方がまったく違う。それに、元農民というのも、光秀の中で、
「プライドが許さない」
というものだったに違いない。
そんな相手のいうことを、そう簡単に聞くとは思えない。
だが、そんな秀吉の、
「配下になって、戦わなければいけない」
ということで、
「それに我慢ができないから、本能寺に向かった」
ということであるが、普通に考えれば、確かに、
「そんな秀吉の言葉に簡単に引っかかるというのは、おかしい」
ともいえる。
だが、これすら、
「秀吉の計算だったとすれば?」
ということだ。
そもそも、秀吉は、毛利攻略を一人でできたのだ。それをわざわざ信長に援軍を乞うというのは、
「主君を立てる」
ということで、筋を通すのが目的であるかのように言われているが、もしこれが、
「本能寺への布石だ」
とすればどうだろう?
秀吉としては、最初から、
「光秀を信長なら援軍に来させるだろう」
ということを見越して、光秀を怒らせて、本能寺を起こさせようとしたとも考えられなくもない。
つまりは、
「そそのかした」
のではなく、相手がそうするしかないように、
「演出して、追い詰める」
というやり方である。
しかも、もし、そうなった場合、秀吉が疑われることはまったくない。
さらに、
「信長を討ち取った光秀を討ち取れば、天下は、勝手に転がり込んでくる」
と言えるだろう。
これが、秀吉の考えだとすれば、おそるべし、疑われることもなく、そそのかしたわけでもないから、
「黒幕」
として、一番怪しいはずなのに、疑われる可能性は一番低い。
「さすがに、本人の考えなのか、官兵衛を中心とした家臣団が優秀だからだろうか?」
どちらにしても、やはり、
「一番怪しいのは、秀吉説だ」
ともいえるだろう。
そんな中で、浮上してきた、
「家康説」
さすがにこれは、一番考えにくいことであるが、家康にも、
「信長を討つ」
ということは考えられなくもないのだ。
というのは、堺にいた時、本当であれば、近くに信孝がいたのだから、信孝と合流するという手もあったはずなのに、なぜ、伊賀越えに向かったというのか、それを考えると、
「家康の行動も怪しい」
と言えなくもない。
動機という点を取っても、一つには、
「築山事件の時の怨恨が本当になかったのか?」
ということである。
いくら、同盟を組んでいて、信長と一蓮托生だったとはいえ、自分の正室と、長男の二人を、
「葬れ」
という命令に対して、いかに、
「どうして?」
と考えさせられ、結果、信長との同盟を選んだことになる。
ただ、このあたりも難しいところであり、家康が信長と同盟を結んでいて、一番のメリットといえば、
「甲斐に対する抑え」
として、信長を利用するということだっただろう。
しかし、信玄が死んでしまい、武田家も滅ぼした今となっては、
「武田の脅威」
というのは、ないに等しい。
ということになる。
そうなると次に脅威に感じられるのは、
「信長ではないか?」
ということになる。
「同盟をいつまで結んでいれば得なのか?」
ということを考えたであろうが、完全にライバルで脅威となるところが、今はそこまでないということを考えれば、家康としても、信長の存在が、微妙なところだったと言えなくもないだろう。
さらに、家康は、光秀と結んでいたというふしもなくもない。
だから、信長が急に、光秀を接待役から外し、さらに、
「秀吉の軍に加われ」
などと言ったとすれば、それも理屈に合う気がする。
それは、
「信長が、光秀と家康の接近に気付いて、二人の直接的な接近を警戒したこと」
そして、
「その光秀への、無言の警告として、下手なことを考えれば、こんな屈辱的な目に遭うんだ」
ということを思い知らせるという意味で、わざと、
「秀吉の軍に加わる」
ということで、戒めとしたのではないだろうか?
そう考えれば、
「光秀への処遇も、一応の説明がつく」
ということだ。
だとすれば、光秀と、家康は、ただ、
「仲が良かった」
というだけでなく、
「何か一つの目的に対して、二人だけで相談し合っていて、それが直接信長に影響することだった」
ということを、信長が察知しているとすれば、
「実際に、そうだった」
と言えなくもないだろう。
この、
「一つの目的」
というのが、
「信長暗殺」
という、本能寺への計画だったと考えれば、ある程度の辻褄は合う。
家康が、信孝と合流して、
「光秀を討つ」
ということをしなかったというのも、最初からの、
「光秀との密約:
があったからなのかも知れない。
さらに、伊賀越えも、
「いかにも困難だった」
ということを、記録はしているが、それも、
「徳川の書物に書かれていることであり、実際には分からない」
つまりは、いくらでも捏造できるということだ。
家康にとって、
「死を覚悟した逃避行」
ということにしてしまえば、
「本能寺の変に自分はまったく関わっていない」
ということへの証明であり、その証拠が、その徳川方の書物」
ということになる。
そもそも、伊賀というと、服部半蔵の土地ではないか、
「半蔵の導きがあれば、普通に抜けられるはずだ」
と思えるはずで、ただ今の歴史研究は、あくまでも、
「伊賀越えというのは、家康、一世一代の逃避行だ」
という今までの発想を大前提に研究されているので、こういう発想になるのだろう。
だから、いつまで経っても、
「本能寺黒幕説」
というものに辿り着かない。
しかし、動機という点であっても、実際の行動から紐解いても、家康が、十分に、
「本能寺黒幕説」
として、最有力候補だといえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「天皇、公家黒幕説」
「徳川幕府陰謀説」
などの、組織による黒幕説。
さらに、
「長曾我部黒幕説」
「秀吉黒幕説」
「家康黒幕説」
という個人による計画。
それぞれにあり得ないことではなく、そのほとんどが、信憑性は十分にある。あとは、それを裏付ける証拠なのだろうが、
「歴史というのは、その時の権力者であったり、その後の歴史の権力者によって、故意にゆがめられている場合がある」
というものである。
それを考えると、
「どれもあり得るように思え、一長一短から考えても、考えられないわけではない」
ということから
「研究だけで、決められるものではない」
と言えなくもないだろう。
一つ言えることとして、個人黒幕説として、
「長曾我部黒幕説」
というのは別にすると、
「秀吉」
と
「家康」
というと、どちらも、のちの天下人である。
これをただの偶然と言えるだろうか。
もちろん、黒幕説というもの自体が、勝手な妄想に近いともいえるのだが、
この権力者二人は、天下取りに対して、どのようなものを感じていたのだろうか?
信長であれば、言われていることとして、
「天下布武」
という名の下、
「武力を持って、天下を取る」
ということであるが、畿内だけで、あれだけの勢力、
「将軍による、信長包囲網」
としての、
「有力戦国大名」
えあったり、
「本願寺」
であったり、
「延暦寺」
などの寺社の力を将軍はあてにした。
ということで、それに反発した信長が、見せしめもあったのだろうが、延暦寺を焼き討ちにした。
かなり残酷なイメージだが、前述のとおり、
「ちゃんと筋を通したという意味での攻撃だった」
ということを考えると、
「信長は、言われているほどの、極悪人ではない」
と言えるだろう。
そうなると、本能寺の変というのも、光秀単独であれば、
「私恨によるものが動機としては大きい」
ということになるが、
「黒幕説がある」
とすれば、
「誰が悪い」
ということに決まるわけではないだろう。
むしろ、
「光秀が、歴史の渦に巻き込まれ、本能寺の変というのも、起こるべくして起こったクーデターなのだ」
ということにもなりかねないだろう。
問題は、その結果である。
「結果として、どうなったのか?」
ということになると、
「秀吉の行動の素早さと、その機転により、光秀は三日天下と呼ばれるほどの短い天下であり、あれよあれよと、秀吉は、織田家臣団を自分の下に集めたのだ」
ということである。
しかも、そのおかげで、
その織田家臣団を使って、家康との、
「地区説対決という、小牧長久手の戦いでは、池田恒興などの優秀な家臣を失いはしたが、大きな戦をすることもなく、何とか、和議を結び、それによって、その後の、全国統一に向けての足掛かりができたのだ」
と言えるだろう。
家康が、臣下としての礼を摂ることで、家臣団に加わった大名の誰もが、逆らうことができない状況にしておいて、
「四国平定」
「九州制定」
と、順調に進み、最後に残った、
「北条攻め」
において、東北地方の大名も一緒に軍門に下ったことで、秀吉は、全国統一を果たせたのだ。
となると、どうしても、
「家康黒幕説」
が薄くなってしまう。
ひょっとすると、家康も、秀吉の行動の巧みさというのを分かっていなかったことで、ある意味、
「秀吉を甘く見ていた」
のかも知れない。
もっとも、家康だけでなく、秀吉がここまでやるとは、誰も思っていなかっただろう。
「秀吉の山崎の合戦までのシナリオは、すでに本能寺の前から出来上がっていたのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
そんな時代において、秀吉も、家康も、時系列の上で、同じ目的、つまりは、
「天下統一」
というのを成し遂げた。
と言ってもいいだろう。
ただ、家康の場合は、秀吉が築いてきたものを、そのまま受け継いだといってもいいのかも知れないが、それでも、
「歴史が、家康を選んだ」
と言ってもいい。
それだけ、豊臣政権下で、
「いつになるかは分からないが、その時が来るまでじっと待っていて、秀吉のやり方を見ていて、秀吉の死後も、その情勢を気にしながら、その時を待っていた家康」
なるほど、ホトトギスの句では、
「鳴くまで待とう」
となるわけだ。
ただ、だからと言って、家康が、
「我慢強い男だ」
というわけではない。
逆に、彼は短気な性格で、怖がりなところがあったとも伝えられている。こちらも家臣団がよかったというもの、その理由の一つだろう。
家康にしても、秀吉にしても、ひいては、信長にしても、
「やり方も違えば、性格も違う」
しかし、それぞれに、一つの多くな目的があったといえるのではないだろうか?
それは、現代人にもつながることで、今なら、
「そんなのは当たり前の考え方ではないか?」
と言われるであろうが、時代は、
「群雄割拠で、下克上が蔓延っている戦国時代」
ではないか、
「いや、こんな時代からこそ」
と言えるのではないだろうか?
その考えというのは、他でもない、
「この乱世を終わらせること」
ということである。
「武力によって天下を皆欲しがっているから、戦をするんだ」
という思いが強すぎるから、平和な時代に対して、
「戦国時代には、そんな普通の考えは通用しないんだ」
と考えていると思われても仕方がないということであろう。
「歴史上のミステリー」
と呼ばれる事件の一番大きいものとすれば、この、
「本能寺の変」
と言われるものであろう。
後もいくつかあるのだが、まず、古代史のミステリーとして挙げられるのが、
「乙巳の変」
ではないだろうか?
これは、
「中大兄皇子と中臣鎌足の二人が画策し、当時の一大勢力であった蘇我氏を滅ぼした、軍事クーデターである」
というもので、いわゆる、
「大化の改新」
につながるものなので、一緒にされて、このクーデターまでもが、
「大化の改新」
と呼ばれるようになっているのだ。
ただ、前述の事実にも、変わりはなく、本能寺の変のような、
「黒幕説」
というものは存在しない。
しかし、
「事実として表に出てきたものが果たして真実なのか?」
ということなのである。
要するに、
「実際に、歴史の授業などで教えられてきたことが、本当のことなのだろうか?」
ということが問題なのだ。
つまりは、
「動機の問題」
というものが一番大きかった。
一般的に言われているのは、
「精力を持ってきた蘇我氏が、いずれは、皇室をも上回り、天下を握ろうと画策をしていた」
ということが理由だとされてきた。
しかし、その後は、そんな証拠が見つかったわけでもなく、クーデターは成功し、蘇我氏は滅亡してしまったことで、曖昧になってしまった。
だが、最近の研究では、
「蘇我氏は、皇室の転覆を狙っていたわけではなく、日本を仏教国家にし、朝鮮半島との貿易も、
「対等外交」
を考えていた。
しかし、それに反発したのが、中臣鎌足だった。
確かに蘇我氏は、
「皇位継承問題」
に対して口を出したり、
「聖徳太子の一族を攻め滅ぼしたり」
と、いろいろな目立つことをしていたので、そのように写ったのかもしれないが、それを、
「今度狙われるのは、自分だ」
という警戒心を強くしていた中大兄皇子だったのを、中臣鎌足が狙ったのかも知れない。
それを裏付けることとして、
「実際のクーデターの計画では、雇い入れた刺客二人が、先に飛び出すことになっていたのだが、怖気づいて飛び出さない」
というアクシデントが起こった。
そこで痺れを切らせた中大兄皇子が飛び出して、初めて、クーデターが始まったのだ。
それだけ、中大兄皇子が、危機感を持っていたのかということで、
「殺さなければ、殺される」
と思い込んでいた証拠だろう。
その性格を中臣鎌足がうまく利用したといえるかも知れない。
ということは、この事件は、
「力を持ちすぎた蘇我氏を滅ぼして、自分たちの政権を築こうとした、中臣鎌足による、嫉妬と、野心が、このような形になった」
ということである。
実際に、
「大化の改新」
となると、それまでの蘇我氏の政策とはまったく正反対のことを始め、特に、朝鮮半島に対して、ちょうど、百済が、
「新羅、高句麗の連合軍」
の侵略を受け、日本に助けを求めてきたのだ。
それを二人は、
「助けよう」
ということで、朝鮮半島に軍勢を送ったが、大敗を喫してしまったことで、
「朝鮮半島から攻めてこられるかも知れない」
という危機を招いたのだ。
実際に攻めてくることはなかったが、それでも危機を招いたことに変わりはなく、九州にずっと兵を貼り付けておかなければいけないということになり、諸事情もあるのか、遷都を繰り返し、さらには、自分たちのいうことを聞かない天皇は排除し、自分たちの都合のいい帝を立てるようになった。
これは、それこそ、
「蘇我氏がやっていたことではないか」
要するに、
「大化の改新」
と言っても、結局、やっている悪いことは、蘇我氏と同じではないだろうか?
それを考えると、
「乙巳の変」
というクーデター自体が、そもそも何だったのか?
ということで、だからこそ、
「歴史上のミステリー」
と言われるのだった。
これが、動機が、本当に、
「嫉妬と野心」
からだったら、何が、
「改新」
と言えるのだろう。
昔は、蘇我氏は、天皇家を操ろうとした悪党だということであったが、そもそも、これは、
「その時の権力者によっての、歴史の改ざん」
ということと、結びついているのかも知れない。
さて、今の基本的な教育理論を組みたてたのが、明治政府によるものであった。当時の大日本帝国というものの、政治体制というのは、
「立憲君主国」
であった。
「君主」
というのが誰だ?
ということになると、それは言わずと知れた、天皇である。
つまり、このクーデターは、
「天皇家への転覆を狙った悪である蘇我氏を滅ぼした」
ということで、
「正義の物語」
として、教育を受け、その悪をすべて、蘇我氏に擦り付けたということになるのだ。
だから、蘇我氏というものは、
「悪でなければいけない」
ということで、教育を受け、
「日本というのは、神の国」
ということになるのであった。
本来なら、敗戦とともに、教育も変わっていくべきであったのかも知れないが、占領国が、
「天皇制」
というものを、
「天皇は国の象徴である」
ということで残したので、教育方針も、変わることはなかった。
ただ、最近の発掘や研究から、今まで受けてきた教育が違っていたということが、動かぬ証拠として出てきたりして、昭和の頃までに言われてきた、
「歴史の定説」
と言われるものが、かなり変わってきたと言ってもいいだろう。
そんなことを考えていると、
「時代のいろいろ変わってきた」
今では、蘇我氏に対しての、汚名返上も行われていて、
「蘇我氏は決して、悪ではない」
と叫ばれることで、いよいよ、中臣鎌足による、
「嫉妬と野心」
から来ている。
という風に言われるようになってきた。
そもそも、中臣鎌足というのは、平安時代に栄華をほしいままにして、さらに目立たん遭いまでも、その後も子孫は、天皇の側近として天皇家を支えてきたと言われる、
「藤原摂関家」
の祖であるのだ。
そういう意味で、天皇制が続いてきた中で、衰えたとはいえ、まだまだ力があった、
「藤原摂関家」
である、
鎌足を悪くいうことは、この藤原氏を批判することになる、ひいては、日本における天皇制の根幹を揺るがすことになるので、さすがに、中臣鎌足を悪者にすることはできないのだった。
だから、歴史としては、
「中臣鎌足は、天皇制尊属に力を尽くした英雄」
ということで、祀り上げられたのだろう。
ただ、これも、
「歴史の真実」
としては、薄い部分であったが、少なくとも、
「悪くいうことはできない」
ということで、明治政府は、大化の改新を正当化するしかなかったのだ。
「歴史の真実」
というのがどこにあるか?
ということは正直、理解するのは難しい。
だから一番の手段としては、
「その前後の歴史を正しく把握すること」
である、
ということは、もっといえば、
「歴史を点ではなく、線で見る」
ということになる、
そうなると、
「歴史を結果から見るのか?」
それとも、
「歴史は時系列で見る」
ということになるのか?
である。
しかし、結果から見るということは、その事件にかかわることに範囲が限られるので、どうしても、全体的に勉強しようとすると、
「時系列で見る」
ということしかないのである。
時系列で見るということは、視野がどうしても狭くなる。同じ時代にまったく別のところで、まったく関係のない事件があっても、どうしても、大きな事件であったり、その後の歴史に、大きな何かをもたらしたところだけがクローズアップされる。実際に、もう一つの事件も、本当は、歴史に大いなる影響を与えていたのかも知れないが、それを気づかないままに歴史が動いてしまっていることもあるだろう。
そう、本来であれば、
「結論から、その事件を見直してみる」
つまり、歴史をさかのぼって見さえすれば、それが、歴史上重要な事件であるということが分かるのだが、なかなか、そういう研究をする人がいなかった。
今では、そういう研究をする人も増えてきたので、実際には、そういう研究もされていると、理解するのだった。
「時代をさかのぼる」
それとも、
「時系列で見る」
歴史にとって、その二つは、切っても切り離せない関係なのではないだろうか?
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