誰が一番得をするか?

森本 晃次

第1話 歴史というもの

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年6月時点のものです。今回の話は、国防などの考えが含まれますが、あくまでも、話の内容は、フィクションであり、パラレルワールドの世界ですので、作者の意見とは必ずしも一致していないとお考えください。歴史の話などの引用は、あくまでも、言われていることを元に描いているので、諸説ありも考えられることを、ご了承ください。


 浅倉ゆずはが、学校の教科の中で、歴史が好きになったのは、いつからだったのだろうか?

 小学生の頃は、算数が好きだったような気がする。

 といっても、最初の頃、つまり、小学生の低学年の頃は、ハッキリ言って、まったくダメだった。

 というのが、

「一足す一は二」

 という理屈が分からなかったのだ。

 確かに、理解しろという方が正直無理なことであった。

 というのも、

「素直に考えれば分かるだろう」

 と人はいう。

 しかも、それを先生がいうのだから、正直、子供心に

「訳が分からない」

 と感じるのだ。

しかし、子供からすれば、

「素直に考えるから分からないんだ」

 と言いたい。

 だとすると、

「大人のいう素直」

 というのと、

「子供が感じる素直」

 というものでは、まったく違うものだということになる。

 違うというだけではない。正反対だといってもいいだろう。

 それを思うと、

「正反対のことも、実は、同じこと」

 という理屈も成り立つのではないだろうか?

 これは、高校生の頃だったか。中学だったか。

「三段論法」

 というのを習った。

「A=X」

「B=X」

 ゆえに、

「A=B」

 という理屈である。

 当たり前のことだと思うのだが、それだけで済まされることなのか? これも、ある意味、

「一足す一は二」

 という理屈に似たところがあるのだろう。

 そういう意味では、

「学問で、最初に教わることが、実は一番難しい」

 と言えるのではないだろうか?

「学問というものは、古代から考えられてきたもので、古代人という先人たちが、素直な気持ちで考えて、見つけてきたものが、数学であったり、心理学、物理学のような学問である」

 と言える。

 その学問が次第に、時代とともに、新しい世界を築き上げてきて、今というものを形成している。

 だから、

「学問というのは、その時代の軌跡でもある」

 ということで、

「歴史という学問」

 も生まれてくるということになる。

 そうやって考えると、その時々に節目があり、まるで木の年輪のように、時代というものを刻んでいくことになるのではないか?」

 と感じるのだった。

 確かに、歴史というものは、学校教育の中では、特に、受験勉強ともなると、

「暗記物」

 ということになってしまう。

 年号を覚えたり、人物を覚えたり、時代を覚えたり、事件や戦争などのイベントを覚えたりするのだ。

 しかも、最近の歴史というのは、

「毎年のように、新しいことが発見され、その都度、歴史が、それまでの通説と変わってしまって、前の年に覚えたことと、翌年とでは、まったく違っているという時代だってあっても不思議はない」

 と言えるだろう。

 一つのことを覚えたとしても、その中の一つが違っていれば、内容が、詳細で、いくつか変わってしまっている。

 つまり、時系列でそのまま覚えていたとすれば、その順番が違えば、歴史的背景も変わるのではないかということであった。

「戦争があり、先に仕掛けた方が、これまでの定説と逆だった」

 ということになれば、本来なら、

「正義の戦いだ」

 というものが、一歩間違えれば、

「本当は、正義感に溢れた美談となるはずの戦が、本来なら英雄が、実は、大悪党で、謀反を企てた張本人だ」

 ということになると、戦争など、何が正しいのか分からない」

 ということになるのだ。

 戦というのは、確かに、

「大義名分」

 というものが必要で、それに基づいてやらないと、まわりがいざという時には助けてくれない。

「助けなどいらない」

 という気概を持った人もいるだろうが、兵士のほとんどは、

「誰が好き好んで、戦などするものか」

 と皆が思っていることだろう。

「大義名分」

 があったとしても、それは、戦争を起こした人に対してのものであって、それに巻き込まれて、死んでいった兵士であったり、一般市民は、関係ないことだ。

 一般市民や一般兵士というものは、

「主君が死んで来い」

 と言えば、死なければいけないということになってしまう。

 中世などは

「封建制度」

 と言われる時代であり、封建制度というのは、

「主君と、配下の武士との間で結ばれた、土地契約というものが、大きな影響を持っているのだった」

 と言えるだろう。

 というのは、

「領主は、配下の土地を保証することで、ご恩を、配下の者に与え、恩恵を受けた配下のものは、戦があれば、自分たちが兵士となって、戦場に赴き、百姓は、米を作って、領主に年貢として納める」

 というものだ。

 今の民主主義の日本にも言えることで、

「日本国憲法の三大義務」

 の中にもあるではないか?

「勤労」

 と呼ばれるもの。これが、戦国時代などでは、

「戦の兵士」

 ということになり、

「納税」

 と言われるものが、昔の、

「年貢」

 ということになる。

 その主従関係を、

「封建制度」

 と呼ぶのだった。

 要するに、言葉あとしては、

「ご恩と奉公」

 ということになるのだ。

 つまり、ここでいう奉公というものが、

「勤労」

 であり、

「納税」

 ということである。

 つまりは、奉公というのは、

「国民の義務」

 と同意語だという、

 今の世の中では、それが、命に係わることではないので、そこまで大きなことではないが、戦国時代などでは、

「命の奪い合いだ」

 ということになり、

「国民の義務というのは、民主主義でありながら、根底では、封建制度と重なっている」

 といっても過言ではない。

 それが、戦争と、背中合わせの時代であり、いくら、戦争放棄と言われていても、最初にそれを定めた連合国も数十年経ってから、世界がここまで変わっているなど、思ってもいなかったことだろう。

 一つ、冷静になって考えてみよう。戦争や紛争、その他で、戦争の理由となっているものにどんなものが多いと考えるであろう。

 もちろん、

「侵略」

 という考えが一番であろう。

 ただ、これも一言で侵略といっても、封建制度の時代ではどうであろう?

 たとえば、戦争を行って、勝利したとしよう。そうなると何が始まるかということである。

 一つは、

「論功行賞」

 というものがあるだろう。

 つまり、手柄を挙げた配下の者に対して、

「恩賞を与える」

 というものである。

 恩賞というと、何かといえば、言わずと知れた、

「土地」

 である。

 この土地というのは何かというと、戦をした相手国の領地である。そこを、部下たちに恩賞として与えるのだ。

 そうなると、どういうことになるか? 普通、これまで領主様ということで、尊敬してきた領主を打ち負かした、本来であれば、

「憎き敵」

 を、領主として、今度は仰がなければいけないのだ。

 当然、土地の人間の中には反乱を起こしたり、素直に従わない人もいるだろう。

 そんな連中に、

「前の領主は負けたのだ」

 といって、

「今度は俺たちに従え」

 というのは、あまりにも人心を掌握できていない証拠である。

 つまり、これまで敵であった領地を貰ったとしても、そこに、住んでいるのは、今まで敵だと思っていた相手なのだ。その連中を従わせるようにするのが、領主となった人間に責任であり、手腕ということになる。だから、

「何も、論功行賞というのは、褒美だけだというわけではないのだ」

 そういう意味で、戦国大名などは、自分だけがしっかりしているだけではダメで、配下の武士団たちも、しかしとした人が不可欠なのだ。

「これから、どんどん占領を増やしていって、天下を狙おう」

 と思っている連中にとっては、

 配下の武将の教育も必要だ。

 しかも、時代が時代なので、

「今は自分に従っているが、そのうちに、隙あらばということで、下克上を狙っている連中がいるかも知れない」

 ということになるのだ。

 何と言っても、

「親を追放した、武田信玄」

「親だと思っていたのが、そうじゃないと勘違いされて、子供に謀反を起こされ、殺されてしまった斎藤道三」

「母親に殺されそうになった伊達政宗」

「さらには、息子と、正妻を殺した徳川家康」

 など、実際には、

「何でもありの世の中だ」

 といってもいいだろう。

 それが、

「群雄割拠の戦国時代」

 というもので、配下の者に、謀反を起こされるなどというのは、当たり前のことだった。

 家族を政略結婚させたり、同盟を結んだ相手に、息子を送り込んで、

「人質」

 として差し出したり、当たり前にある。

 有名な真田信繁(幸村)も、ほとんどが人質生活か、幽閉生活であり、最後の華を、

「真田丸」

 で咲かせたということになるのだ。

 そんな時代というのは、基本的に、

「過去の歴史の教訓」

 であったり、

「時代の流れによる、必然に起こってくる」

 と言われることであったりするだろう。

 それが歴史というものであり、勉強していると面白いところである。

 特に、10年くらい前から、

「歴女」

 なるものが叫ばれるようになり、

「女性も歴史が好きな人が増えてきた」

 というものだった。

「歴史というと、どうしても、女性は敬遠する」

 と言われる。

「暗記モノだ」

 と言われるゆえんがあるからだろうか。

 それでも、ゆずはの父親は、歴史が好きではなかったようだ。だが、父親は、現在の歴史や経済に関しては興味があるようで、中学、高校時代の娘に対して、

「新聞やニュースを見なさい」

 と言い続けていたのだ、

 見ていると、人世代違う、まるで、

「昭和の親父そのもの」

 だといえるだろう。

 昭和の時代というと、テレビは国営放送、番組はニュース。そして、新聞は、朝刊、夕刊を読むのは当たり前、

「今世の中で何が起こっているかということを知るのは当たり前、新聞くらい読んでいないと、まわりの会話から取り残される」

 というのが、当たり前というようであった。

 そして、もう一つは、

「新聞などには、生き方というものが分かるように書かれている」

 とずっと言ってきていた。

 最初は、

「そうなんだ」

 と感じたが、それを読み取ることがどうしてもできなかった。

 それを、

「まだ、私が高校生で、まだまだ子供だから、分からないんだろうな」

 と思っていた。

 しかし、高校時代から、大学生、社会人になっても、新聞を見て、

「そこに、人生を生きるためのノウハウのようなものが書かれているとは、どうしても感じることができない」

 ということであった。

 ここまでくるとさすがに、

「あの父親が言っていることにムリがあるんじゃないだろうか?」

 と考えていた。

 考えてみれば、そうではないか?

 新聞に、生き方が書いているのであれば、もっと、皆新聞を真剣に見るだろう。実際に見ているのは、

「営業の仕事で、今何が起こっているのか知らないと、仕事にならないから、仕方ないけど見ている」

 という人だけだったのだ。

 実際に、営業に出ても、最近は、新聞を見ていなければいけないような話題に入ることはない。逆にそんな話題を出そうものなら、

「そんな堅苦しいこと言われてもな」

 ということで、煙たがられるのがオチだったりする。

 下手をすれば、

「営業を変えてくれ」

 と言われないとも限らないだろう。

 それを思うと、

「下手に新聞など見てもしょうがない」

 と思うのだ。

 正直、知っておかなければいけないニュースであれば、テレビなどを見れば一目瞭然、朝の慌ただしい時間でも、着替えや、食事をしながらでも見ることができるテレビニュースの方が、

「需要がある」

 というものであろう。

「何かをしながら見ることができるニュース番組があるのに、いまさら、新聞に眼を通さなければいけない」

 と思うのだった。

 しかも、新聞というのは、かさばるのだ。毎日届くわけで、それだけ、読んだ後は、

「ただの紙屑でしかないのだ」

 ということである。

 父親は束ねて、どこかに車で持って行って処分をしているようだが、今の時代になると、「新聞なんて、必要ない」

 ということになる。

 何せ、新聞というのは、正直必要がない。なぜなら、

「ネット」

 というものの、サービス会社のトップページは、その日の話題ニュース、それこそ、一面となるものがあり、さらに、ページ形式で、ジャンルごとにも別れている。

「政治や経済から、スポーツ、エンタメまで」

 ちゃんと別れていて、新聞のように、読むことができる。

 もちろん、新聞社による、

「ネット配信版」

 ということで、途中までは無料で見れるが、途中からは有料というような記事もあったりする。

 そして、紙媒体のように、かさばることもなく、ゴミになることもない。

 しかも、以前は、パソコンでしか見れなかったのだが、今では、スマホの普及で、スマホで見るようになる。

 しかも、紙媒体の新聞だったら、ルーペなどでも使わないと、文字の大きさを代えることができない。

 だが、スマホであれば、それが可能となり、新聞の文字を拡大して見れることで、

「実に見やすくなった」

 ということになる。

 ただ、一番大きいのは、

「新聞を読むということは、まわりからの押し付けである」

 と言えるだろう。

「親からだったり、大人による無言の圧のようなものがあり、それが、いかに対応すればいいか?」

 ということになり、結局、反発から見なくなる。

 もっとも、本当に必要なものなら、何が大切なのか、分かりそうなものだと考える。

「親に分かるのであれば、私にだって」

 と思うことであろうが、実際に読んでみると、きついばかりで、しかも、それだけのために時間を奪われる。

 これは、結果的に、

「時間の無駄だ」

 としてしか思えないのだった。

 だが、これがスマホによる、

「電子新聞」

 のようなものであればどうだろう?

 一番大きいのは、

「見たい時に見ることができ、しかも、かさばったり、人の邪魔になることはない」

 というものだ。

 特に、昔の通勤ラッシュなど、ドラマで見ていると、本当に、ぎゅうぎゅう詰めの状態でもなければ、スーツを身にまとったサラリーマンなどが、新聞を四つ折りくらいにして、器用に、片手にそれをもって、もう片方の手は、つり革を持っている。

 実に、朝の風景としては、いかにも、

「働きバチ」

 という雰囲気が漂っていたことだろう。

 しかし、今の時代は、新聞を見ている人など、まずいない。

 ほとんどの人が、スマホ片手に、上手にスマホの画面を操作している。器用に、指で文字をタップしているのだが、今から思えば、本当はあまり気持ちのいい景色でもない。

 しいていえば、昔のように、新聞が邪魔になっているということではないのがマシだったのだろう。

 それでも、昔を知っている人は、

「そんなに皆がひしめき合っているように見えるけど、自分たちはそんな感覚はなかったかな?」

 という。

「どういうことですか?」

 と聞くと、

「あれが当たり前の時代で、朝のよく見られる光景だったので、別に嫌だとは思わなかったかな?」

 というのだ。

 さらに、

「これは、感覚がマヒしていたからなんだろうけど、感覚がマヒするくらいでなければ、毎朝の通勤電車には乗れないよ。だから、あれも、時代の流れの一つの風物詩。そう思えばいいんじゃないかな?」

 ということであった。

「大人って、変なところで妥協するんだな」

 と、ゆずはは感じていた。

「本当は、その時は、子供心だったのだろうが、嫌だったはずなのにな」

 と思った。

 そういえば、

「大人って、すぐに棚に上げるな」

 と感じることが多かった。

 特に、大人になってからというもの、子供ができて、その子がまず思うことは、

「親にだって、子供の頃はあったはずなのに、その時のことを忘れてしまったかのように、そうして、あんなに子供に説教ができるんだろう?」

 と思った。

 親が子供に説教するというのは、今も昔も変わらないだろう。

 しかも、

「その理屈は同じではないか?」

 と思うのだが、その内容までは分からない。

「親だって、子供の頃には理不尽だったはずだ。だから、皆、自分は大人になったら、自分の親のようにはならないぞ」

 と思うはずではないか。

 それなのに、あのヒステリックな怒り方は何なんだ? あんな怒られ方をするというのは、

「子供としても理不尽だ」

 と感じるのだ。

 大人が子供を叱るというのは、自分のストレスを子供にぶつけているだけのことではないか?

 と思うのは当たり前のことなのだが、自分が子供であるがゆえに、その本心であったり、怒りの原点は分からない。

 これは、

「大人だから」

 というわけではなく、

「親子だから」

 と思ってしまうからだろう。

 だが、そう考えた時、

「親子の絆は深い」

 などと言われることが多いが、そもそも、

「その親子の絆って何なのだろう?」

 と考えさせられる。

「親子だから、何だというのだ? 確かに、親は子供産んだのだから、育てなければいけないということになるのだろうが、親子だからといって、子供は親の分身ではないのだ。あくまでも、子供は子供、親は親ということである」

 と言えるのではないだろうか?

 親子だって、皆が皆同じ考え方を持ってるわけではない。

 持って生まれたものだってあるだろうし、逆に親の遺伝子を受け継いだかのように思う子供であっても、教育の中で、説教じみた話になった時、毛嫌いする気持ちから、逆に、気持ちが反発してしまうことだってあるだろう。

 それを思うと、

「子供が大きくなるにつれて、考え方が違ってくるのは当たり前だ。それを反発心だというのだろう」

 ということである。

 ゆずはは、

「大人が嫌いなのか? それとも親が嫌いなのか?」

 ということを分からないでいた。

「果たして、どっちなのだろう?」

 と考えていたが、それはどうやら、片方だけというよりも、

「どっちも嫌いだ」

 ということに間違いはないようだが、ただ、その、

「違い」

 ということに、ランクというか、レベルという意味での違いと、そもそもの、

「質の違い」

 というものが、それぞれ存在しているといってもいいような気がしてくるのだった。

 大人というものを考えた時、

「少しでも理不尽さがあれば、そこが違いだと思い、その理不尽さに、吐き気すら感じることになる」

 しかし、それは、感情的なものではない。だから、辻褄が合ってくれば、そこを嫌に感じる理由がないとなると、容認できてくるのだった。

 しかし、親というものに対しては、まずは、

「感情的な思いが先にくる」

 ということになる。

 理屈は二の次なのだ。

 それが、

「自分の子供の時のことを棚に上げて」

 と、

「親だからこそ、自分と同じ考えだったに違いない」

 という思いを抱くのだ、

 これはつまり、親が思っていることと同じで、そう考えると、

「親は自分が子供の頃のことを忘れてしまったわけではなく、覚えているからこそ、今の子供が、どんなことを考えているかということが分かっていて、わざと反発させるように思っているとすれば、どうだろう?」

 と考えるのだ。

 そう考えると、

「大人に対しての考えと、親に対しての考えというのは、感情が入るか入らないかということの違いだろう」

 と思った。

 ここでいう感情というのは、あくまでも、

「親だから分かる」

 あるいは、

「子供だから分かる」

 ということに違いない。

 それを考えると、

「大人と子供」

「親と自分の子」

 というものには、それぞれに結界のようなものがあり、そこで問題になる第一点というものが、

「感情というものである」

 と言えるのではないだろうか?

 親というもの、そして、子供というものは、相手のことを分かるから余計に反発し合っているくせに、当の本人には分かっているはずのことなのだが、実際にはよくわからないものだといっても過言ではないだろう。

 子供の頃に、

「誰もが訪れる」

 つまりは、

「避けて通ることができない」

 と言われる、

「思春期」

 というものがあるが、その時代に平行しただったと思うが、もちろん、そこに個人差はあるとして、存在するのが、

」反抗期」

 というものだ。

 人によっては、

「自分には、反抗期はなかった」

 という人もいるだろうが、それは、目立たなかっただけで、自覚に近いものはあったはずだ。

 それだけ、世の中を見る角度が違ってきたという意味で、

「大人の階段」

 というものを昇るには、反抗期というものは、必ず必要だといっても過言ではないだろう。

 基本的に、反抗期というのは、

「親に対してのものだ」

 というのが、子供としての感覚であるが、客観的に見ると

「大人全般」

 に対してだと思えることだろう。

 特に、そのターゲットである、親の方が、

「子供の反発は、大人全般に対してだろう」

 と、特に自分の子供に対して思うのだった。

 それは、親にとって、

「自分だけに反発されていると思いたくない」

 という思いがある。

 もちろん、子供を教育しないといけない立場で、自分だけに反抗しているのであれば、本末転倒になってしまって、

「子供を教育する」

 などということは、土台無理なことなのだ。

 ということになるのだろう。

 だから、親としては、

「子供の怒りの矛先は、自分ではなく、大人全体に向けられるものだ」

 と考えた方が、気が楽だし。

「思い切ったことができる」

 と感じるのだろう。

 それを思うと、

「大人というのは、子供に対しては、理不尽と世間一般では考えるようなことでもやってしまう」

 と言えるのではないだろうか。

 それは、自分が親だということへの自信であったり、理屈にしてしまいたいということだったりになるに違いない。

 そういう意味では、

「親は、大人になり切れていない」

 と思うのだ。

 だからこそ、

「なるほど、親は大人になり切れていないので、自分に自信がないんだろうな」

 ということである。

 自分でも、

「本当に大人になれたのだろうか?」

 と感じるからこそ、

「そりゃあ、子供の頃に、大人になったら」

 という思いを抱いていたとすれば、覚えていたとしても、

「それはいまではない」

 と思うのだろう。

「じゃあ、親は子供のくせに親になってしまったのか?」

 ということであるが、それもありえることだろう。

 何しろ、これだけ、

「できちゃった婚」

 と呼ばれるものが蔓延っているのだから、それも当たり前のことである、

 下手をすれば、

「子供なんか欲しかったわけはないのに、相手が、結婚しようと言ったことで、女も、じゃあ結婚となるのだろうが、そんな時の親って、仕方なく、責任があるからという理由で、結婚した」

 ということなのだ。

「この場合の責任って、一体何なのだ?」

 ということであろう。


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