私の記憶はばかだから
冷田かるぼ
私の記憶力は本当に悪いんです。昨日の晩ごはんどころじゃなくて今朝の朝ご飯も思い出せないし、さっき友達としてた話が何だったかも分からなくなっちゃうし、なんなら目の前の友達の名前も分からなくなっちゃうことがあります。自分の名前だってそうです。
そんなおかしな私にも小学生の頃からの親友がいます。親友は私の性質を理解してくれているので、いつも私を助けてくれます。そんな彼女の名前だけは、頑張れば思い出せます。でも普段はあんまり考えたことも呼んだこともあんまりないです。彼女のことを私はいつも親友と呼ぶだけだからです。
親友はいつも誰かに囲まれていて、みんなの人気者です。誰にだって優しいけれど、私は幼馴染なので少なくとも少しは特別扱いしてくれてるといいなって思います。
「ごめん、今日一緒に帰れない! 大丈夫?」
私は本当に記憶力が悪いので基本的に誰かと一緒じゃないとまともに行動すらできなかったりするので、ほとんどいつも彼女と一緒に行動しています。時々彼女の友人もそこに居ます。でも今日はどうやら忙しくて無理みたいです。授業の再テストとか友達の悩み相談を聞くのだそうです。
親友は私と違ってたくさん友達がいるので、常に一緒とはいきません。ほんのちょっと嫉妬したりします。私だけの親友でいてほしい、と思うけど、こんな記憶力の私と仲良くしてくれてるだけでもありがたいから我慢します。
仕方がないので了解してリュックを背負って手を振りました。教室を出てすぐ、体育服を教室に忘れたことに気が付きました。私にしては早い気付きです。学校を出た後とか電車に乗った後とかじゃなかった分まだマシです。じゃないと体育服がじめじめした教室に取り残されて腐っちゃいます。よかった、って思いながらロッカーからバッグを取ってまた靴箱に向かいました。
……あれ? 階段ってどう降りるんでしたっけ? 足、どう出せばいいんでしたっけ。しばらく階段の前で立ち止まったけど、なんだかよく分からなくなってしまいました。このままでは埒が明きません。手すりにしがみつきながらなんとかして足を出して一段目に着地しました。
やっぱり変です、私。こんなの、普通じゃありません。でも時々こうなっちゃうんです。仕方がないんです。治そうと思ったことはあると思うんですがたぶん昔のことすぎて忘れてしまいました。
頑張って手すりに縋って、一歩一歩踏み出していたら、やっとなんとなく掴めてきました。ようやくいつも通り歩けます。でも手すりから手を離したらとたんに分かんなくなっちゃいそうなのでそのままです。そうしてようやく一階に着いて、あれ、何階分降りたんでしょう? まあ今日のところはそれはいいです。もう降りたんですから。
問題はここからなのです。私の靴がどれなのかわかりません、クラスがどこだったかもあんまり思い出せません。たぶん、後ろの方だった気がするんですけど。そうだ、こういう時のために定期券入れの中に入れてあるメモにぜんぶ書いてあるんでした。
これを思い出せただけで勝ったも同然です。首から下げたそれを見たらちゃんと書いてありました。二年七組の十八番でした。靴箱に入ったローファーを取って、床に置いて、上履きを脱いでローファーを履いて、靴箱に上履きを入れます。ちゃんとできました、えらい。時々これすらもできなくなってしまうことがあります。順序が分からなくなってしまってしばらくは立ったままぼーっとしてます。さすがに一人でそうしていると不審者すぎるので今日はそうならなくてよかったなと思いました。
よし、それでは駅に向かいましょう。さすがに駅はわかります。たどり着けます。たぶん大丈夫です。今日はたしか調子がいい日なはずなのできっといけます。困ったらスマホのマップを見て案内してもらいます。日差しがものすごく眩しい夏手前、日傘を持ってくればよかったかななんて思います。……五月末はほとんど夏ですよね、今日が何日かすら分かりませんが。
学校から出た道はやっぱり一人で歩くのには慣れない道で、活発なハチがぶんぶん飛び回っているのとか、芋虫が道のど真ん中でうにょーんって伸びて縮んで這っているのとか、普段はあんまり見ないやつです。よく見るとちょっとかわいいかもしれません。
でも木の上から垂れている尺取虫みたいなやつだけは大嫌いです。あいつのことは嫌すぎて忘れません。……あれ、なんで嫌いなんでしたっけ。まあいいか。あれはどうやら黄色と黒の蛾になるらしいということだけは覚えています。
なんだかんだスマホを片手にうろうろしていたら駅にたどり着けました。時間は偶然にもちょうどよくって、あと五分くらい待てば電車が来る感じでした。ぼーっとして待ちましょうか、それとも音楽でも聴きますかね……イヤホン、持ってきてないです。そんなことを考えたら一人の女の子が近づいてきました。
「久しぶり〜、元気してた?」
光の反射でうっすらとテープの見えるぱっちりとした二重に位置の高いポニーテール、右の目元にほくろがありました。
「あ、うん、久しぶりですね」
誰だか分かりませんでした。私立のかわいい制服を着ていました。チェックのプリーツスカートは膝より上で、つやつやの脚がそこから覗いていて、ああ、なんだか羨ましいなあなんて思ったりもしました。仕方がないので愛想笑いをしました。
「覚えてなさそーだね、あたしだよあたし、――――」
名前を聞いても上手に思い出せません。こう書くのかな? って漢字だけが脳内をぐるぐるしました。たぶん、中学か小学かの同級生かななんて思いましたが、頑張って頭の中の記憶の引き出しをがさごそしても彼女の名前ははっきり現れてくれませんでした。
「ああ、はい」
やっぱりいくら考えても分からないので濁しました。昔の私ならそのまま伝えちゃって怒られたりしたと思います。怒られた記憶もあんまりないけどたぶん怒られます。そういう常識はさすがに記憶がばかでも分かりました。
「てかよくそんなヘラヘラしてられるよね、あたしのことイジメてたくせに」
強い語気でそう言われて、息が、止まりました。え? 私が、あなたを、ですか? 私はなにも思い出せなかったけど必死で記憶の中をまさぐりました。引き出しの中をぐっちゃぐちゃにかき乱して、もうもとに戻せなくなりそうなくらい奥まで探して、でも見つかりませんでした。
私があなたを虐めたという記憶は、なかったんです。
消したんですか、私が。
私の記憶はばかだから。
だから私が加害者だって記憶を勝手に消しちゃったんですか。だとしたら、勝手すぎませんか。吐き気がします。最低です。私の記憶力も最悪だしそんな私も最悪です。なんだか頭に血がやってきてくれないような感じがしました。私の頭には血を回す価値もないなんて言っているような気がします。
ぴりりりりりとその場に警鐘が鳴りました。私の乗る電車でした。たぶん彼女も乗るやつでした。まもなく電車が参ります、というアナウンスと共に遠くから電車の車輪の音がします。風の予感もします。私は逃げるように電車を待つ列に並びました。彼女は舌打ちをして別の列に並びました。電車がゆっくりと近づいて、止まりました。
私は急いで列車のはしっこに行きました。座れるところは一つも空いていなかったのでほんとうに端の方に行って壁と見つめあっていました。ただそうすることしかできませんでした。
電車が動き出して、ぐらぐらと揺れて、私の中身がぜんぶスムージーみたいにじゃぶじゃぶ混ぜられるみたいです。蛹の中の蝶みたいにどろどろです。どこにも私の支えになってくれる場所がなくて時々ふらつきました。何度乗っても慣れない感覚です。
でも今の私にはちょうどいい刑だと思いました。ぜんぶ忘れてしまった悪い私には、このくらいがお似合いなのです。
彼女は私の視界のどこにも映りませんでした。私が思い出しそうにないのに苛立って、顔も見たくないから別の車両に行ったのかもしれません。それとも、私がもう彼女の顔を忘れてしまったからとかかもしれません。
思い返してみると、彼女がどんな顔をしていてどんな格好だったのか、何と言ったのかがはっきりと思い出せなくなってきつつありました。それがどうしようもなく怖くて、私は必死で復唱します。私は最低で最悪な虐めっ子だったのだと。記憶を勝手に消してのうのうと生きてしまっている、犯罪者予備軍なのだと。忘れないようにずっとずっと唱え続けました。
一駅、乗り過ごしました。
一駅分歩きました。その間に元気いっぱいな太陽はほんの少し大人しくなって雲の間を出たり入ったりしていました。私の頭はずっとぐらぐらしていました。電車から降りたのにまだ乗ったままみたいでした。最寄駅にたどり着いた時、私はこんなんでよくここに来れたなと思いました。
最寄駅から家までは自転車で帰らなきゃなのになんだかふらついて自転車にも上手く乗れなくって、バランスを崩してこけました。周りの人がたくさん私を見ていたけど、私の膝は運が良くて擦りむいただけで済みました。今までさすがにこんなことはなかったです。自転車に乗れないなんて、小学生以来です。
乗れないものは仕方がないのでなんとか押して帰りました。自転車を押していたというより自転車に引っ張ってもらって帰っていました。さっきまで日差しがさんさんで暑かったのに、それが雲の後ろに引っ込んじゃうと風がびっくりするくらい冷たくて、もうそろそろ夏のはずだよなと思ったけど、まだなんだなって思って少し切なかったです。
家に帰り着くとうちの犬がわんわん吠えて出迎えてくれました。尻尾をふりふりしていてとてもかわいいです。何かと何かのミックス犬だったのですが忘れてしまいました。家の鍵をどこに入れたか分からなかったので家のチャイムを鳴らしてお母さんに開けてもらいました。
「もう、また? ちゃんと覚えておきなさいよ」
また呆れられてしまいました。いつもそうです。私はダメなんです。はっきりとは思い出せないけど、いつもいつも怒られている気がします。私の記憶はばかだから、何をするにもうまくいかなくて怒られてしまうんです。
最低です、私は最悪な人間です。そう考えれば考えるほど呼吸がなんだかむずかしくなって、呼吸の仕方ってなんだっけってなって、胸がぎゅーっと締め付けられて、息がうまく吸えません。はす、はすと変な音が鳴ります。なんとかしてちゃんと吸おうとしたら肺のところが詰まって思い切り咳が出ました。
玄関でうずくまって、リュックも下ろさずに苦しんでいる私はやっぱり普通じゃありません。目の前がうっすらと白くなっていました。過呼吸ってやつかな、とここで初めて思いました。チョークの粉被ったみたい、とも思いました。被ったことあったでしょうか。分かりません。過去のこと何も思い出せません。そんな私が嫌いです。
「大丈夫?」
気がつけばお母さんが私に駆け寄って来て、まだ喉からひゅうひゅうと音を鳴らす私の背中をさすってくれていました。涙がぼろぼろ出ました。この人が私に優しくしてくれたのはいつぶりだろう、と直感的に思いました。優しくされた記憶も厳しくされた記憶もちゃんとは残っていないのに、私の頭の中では怒られてばかりのような気がしているのです。
本当はずっと優しくしてくれているかもしれないのに、私の記憶はばかだから何度も改ざんしているのかもしれません。そう考えるとやっぱりひどすぎてもっと涙が出てきました。ゆるんだ蛇口みたいに止まらなくなって、たくさん擦ったせいで目が真っ赤に腫れました。お母さんはずっとそばにいてくれました。
薄暗くなった戸の外に漏れだすような、オレンジ色の淡くて暖かい玄関の明かりが私を撫でるように照らしています。キッチンからは煮物か何かのにおいがして、不思議と私のおなかはすいていないことに気が付きました。
夜ごはんは作ってくれたおかずだけ少し食べて白ご飯を抜きました。それだけで異様に満足感がありました。食欲があんまりないのかもしれません、なにかあったっけ。まあ、その後お風呂に入りました。途中、シャンプーをしたかどうか分かんなくなったので一応やっておきました。若干髪がぱさついてるしお花の香りがなんだか強い気がするので二回やったかもしれません。
ほら、日常生活に支障大です。最悪です。でも正直そんなに困ってません。というか困った記憶も消えてしまいます。なんというかご都合主義的な記憶です。なんだかんだなくても人生として成立してしまっているのです。だからこそ私は私のこの記憶が嫌いです。
あれ、なんだか瞼がものすごく重いです。私、どうしてこんなに目が腫れているんでしょうか? ……考えてみて、今回は思い出せました。私が最低で最悪だからでした。こんなにもすぐおぼろげになってしまう記憶です。もう言うまでもありません。
明日にはもう完全に忘れてしまっているような気もしたので親友にはメッセージを送っておきました。でもその中身もすごく曖昧で、やっぱり私の記憶はばかだなって思いました。これだからダメなんです。
「もう寝るね」
これ以上考えるとまた頭の中が悩みでいっぱいになってしまうと思ったので寝ることにしました。纏った寝間着に今日はなんだかやけに違和感がありました。
「もう大丈夫なの?」
こくり、と頷くとお母さんは私をぎゅっと抱きしめてくれました。そして背中をとんとん、としてよしよしもしてくれました。今までこんなことされたことあったっけ、って言いたくなるくらい甘やかされました。
「昔はよくこうしておやすみのハグをしてたね」
ごめんなさいお母さん、全然思い出せません。いつのことだったんだろう。いつまでやってたんだろう。でも懐かしさとあったかさだけが私を包んでくれていました。
深呼吸をして、ようやく安心できて、そのはずなのに私の心の奥はなんだかどうしようもないくらい不安で、私は最低なんだと思えば思うほどに頭がくらくらします。でも仕方ないんです。覚えていられたためしがないんです。ずっとなんです。いつからこうなのかさえ思い出せないんです。
だけど今だけはこの甘さに浸っていたくて、しばらく抱きしめられたままでいました。お母さんは思っていたより小さいからだだったんだなと思いました。
ちゃんとおふとんに入って寝ました。ふかふかでもすもすで、ハウスダストたっぷり配合のほかほかのおふとんです。そろそろ夏仕様にしなくちゃなあとか思いました。たぶん今考えることじゃなかったですけど。
朝、いつものように最寄り駅で親友と会いました。私に向かってにこにこしながら手を振ってくれました。
「昨日は返信できなくてごめんね、忙しくてさ」
他の子の相談かな、と思ってしまうのが自分でも辛くて仕方がありません。親友も忙しいというのは分かっています。でも私が唯一心を許していられる相手なのです。私のことを特別扱いしてほしい、というのもわがままです。全部黙っておくことにしました。
「あれって、――――さんのことだよね」
そう言って親友は名前を出しました。言われても誰のことだか分かりませんでした。そんな名前だったような気もします。続けて親友は中学の時の同級生だよ、と教えてくれました。通学路を歩きながらの情報共有でした。
「あの子はむしろ虐めてた側だよ」
え? と、思わず聞き返しました。それってどういうことですか? って。
「中学生の時、――ちゃんの記憶力がよくないのを利用して散々物を取ったり悪口を言ったりしたんだよ。ほんとうに覚えてない?」
覚えてないです、と言いました。ほんとうに覚えていませんでした。そもそも彼女のことを覚えていませんでした。確かに虐められるような感じの雰囲気の子ではなかったような気もしますがよく思い出せません。
「私、こっそり先生に言ったんだよ。――ちゃんに言っても『そうですか?』とか『覚えてないから分かりません』って言うから、先生に言って解決してもらおうと思って」
全く記憶にありません。もうそれはいつものことです。でも彼女が虐めっ子だったか、なんて本当にわかりません、親友を信じたい気持ちもありますが、ああやって私に言ったあの子が嘘をついていたとも思いたくありません。なんだか親友の言葉にも違和感があるのです。どうしてなんでしょうか。
分かりません。だって私にははっきりした過去がないんです。もし覚えていられたなら、こんなに悩むこともなかったんじゃないかなと思います。でもきっと忘れちゃうんでしょうね。
「だからあんまり気にしなくていいよ、っていうかたぶんいやがらせだろうし。それにどうせ忘れちゃうんだから、ね?」
ああ、なんだか、すごく嫌な気分です。私は今まで親友にこんなことを言われたことがあったのでしょうか? 分かりません。やっぱり、いくら考えても過去のことはぼんやりどころか無なのです。
どうせ忘れちゃうんだから、って、すごく嫌なんです。なんでかうまく説明できないけど嫌なんです。だれかこれを代わりに説明してほしいくらいです。親友は私に寄り添ってくれているっていつも思っていたのに、なんというか、見下されているような気分でした。"どうせ"って言葉のせいかなと思いました。
「……そうですね」
でもその通りすぎてなにも言い返せなくて吞み込みました。昔の私なら「その言い方嫌です」とか言ったんでしょうか。昔の私の解像度があまりに低くて分かりません。なんだかすごくはっきりしていたということだけしか分かりません。今の私とは全然違います。ずるいなって思いました。過去の自分に嫉妬するのもおかしいとは思いますが。
そのまま会話を続けようがなくて黙ったまま学校に向かいました。風がいつもより強く吹いていて、膝下まである長めのスカートがばさばさしてました。靴箱に着いて、今日は珍しく場所を覚えていたけど数学の教科書を家に忘れたことに気付きました。この間も忘れたからまた怒られるかな、でも仕方ないので諦めて受け入れることにしました。
教室に着くと私はいっつも一人になります。親友はみんなに囲まれて楽しそうです。たくさん相談されて大変だ、っていうのもなんだかんだまんざらでもなさそうだし、それって信頼のあかしだし、ああ、やっぱりずるいです。
私だって親友に相談したいです。私が中学の同級生を虐めてたかもしれない、ってこともだけど、私が異常に忘れっぽいってこと、もう一回考え直したいと思いました。たぶん親友はただの性質だって受け入れてくれてるかもしれないけど、なんだかそれではやけに不安定な気がしたのです。
でもやっぱりうまく言葉にはできませんでした。私の記憶はばかだから、なにが合ってるのか分かりません。
私は彼女を傷つけたのか、傷つけられたのかも思い出せないんです。何も思い出せないんです。それなら傷つけられたってことはもうなかったのと同じですよね。ただそこには私が彼女を傷つけたかもしれない可能性だけが残っています。
結局は私は最悪なのです。無罪の証明ができないのなら、相手が有罪だと主張してきたらほぼ有罪みたいなものです。無罪推定の原則は人間関係にはちゃんと適用されてはくれません。証明できる方が勝つのです。私の記憶はいつだって役に立ちませんから。
授業は頭に入りません。テストはうまくいきません。でも、平均くらいです。だから勉強だけはできるんだね、って言われます。都合の良い記憶だねって。全く良くないのに。
むしろ都合が悪いです。勉強なんかより、生きていく方法を忘れてしまう方がよっぽど致命的です。絶望的です。それなのにその絶望さえ忘れてしまいます。のうのうと生きています。思い出せやしないままです。最悪です。
教科書をいくつかリュックに仕舞って帰る準備を始めると、あれ、どれを持って帰ればいいんだっけ? とまた分からなくなりました。というか、今日の宿題ってなにがありましたっけ。机の中を覗いてみたら筆箱が入れっぱなしで助かりました。忘れてたら宿題以前の問題になっていました。
そうだ、親友に聞こう、と声をかけようと思ったら先を越されてしまいました。他の子としばらく話して、それからようやく私に気が付いて、あー……と声が絞られて、なんだかよく分からない空気が漂ってしまいました。
「うん、……ごめん、今日も無理! 昨日大丈夫だったし、今日も……ごめんね!」
親友はそう言ってさっさと教室を出て行ってしまいました。どうやら他のクラスの友達に勉強を教えに行くらしいです。宿題のことはちっとも聞けませんでした。
なんだか最近冷たくされているような気がして、勝手に少し落ち込みます。どうしてそう考えたのかとか言われたらやっぱり思い出せなくて、根拠なんてどこにもないのにそう思ってしまいます。
前から仲良しだったのは私なのに、高校で仲良くなった子たちのことばっかりです。もしかして嫌われちゃったんでしょうか。それとも、私の記憶がばかすぎて見放されてしまったのでしょうか。
色々ぐるぐる考えて、もしかしたら親友にも、私はひどいことをしていたのかもしれないと思い至りました。だって何も覚えていないくらいだから、きっと、彼女を傷つけてしまっていたとしても私は忘れてしまっているのです。だから今回のことで、きっと私を傷つけたことも忘れちゃったんだろうねみたいな感じで、私のこと嫌いになっちゃったのかもしれません。
でも仕方ないと思います。だって、私はどうして親友と親友になったのかすら、もう、思い出せない。こんなのひどいですよね。私はきっと犯罪者予備軍どころか大罪人です。こう思ってることすらきっといつか忘れちゃうんです。儚いとか言えば聞こえはいいでしょうけど、違います。そんなんじゃありません。
散っていく記憶という花弁がみんなを傷つけていきます。毒があります。私だけはそれが分かりません。花が散っていることすら気付けないんです。せっかく咲かせた花は、意味もなく、忘れられていきます。ああ、虚しいな。せっかく人間に生まれたのにな。
次の日、一緒に学校に行けないと親友から連絡がありました。一人で行きました。
それから数日ずっと私は一人で登下校することになりました。初夏とか言われているくせにまだちょっと冷たい風が私の肌をちくちく刺激します。こんなんだったら上着を持ってくればよかったなと思いました。帰り道は喧騒の中一人で歩くのが寂しくて、基本的にはイヤホンをつけて歩くことにしました。音楽は流さずにつけるだけです。それだけでずっと楽になります。
がさがさ風で木の葉が擦れて、揺れて、たくさん笑っているみたいでした。教室の中と同じでした。時々私を笑うクラスメイトのみんなと同じでした。私が忘れちゃうとみんな笑うから、ほんのちょっと春を感じます。芽吹いています。もう夏ですけど。
駅に向かって歩いているとなんだかいつの間にかいつもと違うような通りに来てしまっていました。見たことのない気がする植物もたくさんありました。
あれ、目の前に光に透けてうっすらたくさんの糸みたいなものが見えます。ちょっと見上げると、木の枝からみょーんって芋虫が垂れていました。全身に鳥肌が立ちました。震えました。そうだ、思い出した。私はこれがほんとうに嫌いです。昔こんなふうに垂れ下がってる芋虫に気が付かなくてそのまま突っ込んでいったことがあったんです。
もちろん全身芋虫まみれになりました。そんなとき一緒に帰っていた親友が傘の先でぜんぶ払ってくれました。私は大泣きしてたけど親友は大丈夫だよ、といって私を慰めてくれました。中学生にもなってそんなに泣いて、周りの目が痛くて、すごく恥ずかしかった感覚が鮮明に蘇ってきました。
懐かしいな、と初めてはっきり感じました。今まで思い出すことの難しかった過去が急に目の前に拓けて見えました。私、思い出せたんです。今まではほんの数日前のこととか、昔のことなら親友に誘導してもらってようやくうっすら思い出せるか出せないかくらいだったのに、ちゃんと自力で思い出せたんです。
この人生に初めて光がさしたような気がしました。私の記憶はばかだけど、救いようがないわけではなかったんです。そうしてみると雲の隙間から太陽がひょっこり顔を出して私を祝ってくれているみたいでした。こんなに太陽が愛おしかった日はないと思います、思い出せないけど。
そうしてふわふわした気持ちで歩いていると、こつん、と私の頭になにか落ちてきました。木の枝でした。見上げたけど真上には木もなにもなくて、鳥が落としたのかなって思いました。
珍しいことかも、ちょっと運がいい日、嬉しいな。だけどきっと忘れてしまうんですよね。私の記憶はばかだから。でもいいんです、いつか思い出せるかもしれないって分かったんですから。
私の記憶はばかだから 冷田かるぼ @meimumei
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