【スワンプマン】の孤高
もちもち
【スワンプマン】の孤高
「それって、語れない話だよ、松島」
「語れない話」
深夜のコンビニ。今日は夕方から小雨が降っている。
守山は入口の傘立てにビニール傘を立てると、一度こちらに手を挙げ、店内をぐるりと一周してからレジの前にやってきた。珍しく物色するものでもあったか。(まっすぐレジにくるのが通常運行だ)
雨の日にも通ってくれるとは、いい客である。礼として、自分のスマホで決済を済ませたホットカフェオレを差し出した。
「ありがとう。
今日は寒いな。冬の底にいるようだ」
1月も下旬、暦の上ではどうだったろうか、確か1年で一番寒い日というのを最近ネットニュースで見た気がする。
そうならば、守山の言っていることは確かにそうであり、詩的であった。
冬という冷たくて透明なボウルの底に、このコンビニがぽつんと転がっているようなイメージが浮かんだ。
「それにしても、面白い話題を持って来たな、松島。
【スワンプマン】か。久し振りに聞いたなあ」
「有名な話なのか。哲学の話だって聞いた」
聞いたときは怖い話なのかと思ったが。俺に話してくれた奴も、ゲームか何かで仕入れた話だと言っていたのだ。
だが、軽くスマホでWeb検索してみると、どうやら哲学に類するもののように見えた。
哲学といえば、この男だ。
「哲学、まあ哲学か。元は思考実験だよ」
「思考実験ってのは、トロッコ問題とかと同じやつか」
「そうだね。お題があって、それについて考える」
「語れないてのは何なんだよ」
先ほど、守山が発した言葉が気になる。
「スワンプマンて知っているか」と聞いたら、守山はニコニコと返してきたのだ。思考実験なのに、
「まあまあ、ひとまずスワンプマンのおさらいしよう。
ある男が沼地を歩いている最中に雷に打たれ、死んでしまう。
だが、その時、偶然にも全く同じ場所で、雷のエネルギーが沼の物質と化学反応し、男と全く同じ分子構造を持つ新たな存在なる【スワンプマン】が誕生する。
【スワンプマン】は記憶も行動も、直前に死んだ男と同じであり、自分は幸運にも落雷から生き延びた男だと主張する。
ここで思考実験だ。
その【スワンプマン】は、死んだ男と同一人物たりうるか」
一見するとSFみたいな話だ。
俺が聴いたよりもずっと詳細であったが、俺は即答した。
「別人だろう、それは。【スワンプマン】なんだろ、後の奴は」
「いいねえ、松島。俺、松島のそういうバッサリしたところ好きだなあ」
守山は、カフェオレがとても美味しいような笑顔を見せる。
これが皮肉などではないことは、これまでのやり取りで理解している。
「この話は【私】は【私】なのか、個人のアイデンティティとは何か、て話になるんだ。
想像しやすいように、死んだ男は俺にしておこう。
俺の声と姿と記憶を持った【スワンプマン】が、『やあ、松島』と声を掛ける。
それは『守山』かな、松島」
「いや、【スワンプマン】だろ」
「ふふ…… 分かってて聞いた」
なんだか楽しそうな守山である。
この話題の観点がよく分かっていない俺に、守山は続けた。
「松島にとっては、俺は俺しかいないんだな。
たとえ俺の姿や記憶や思考を持っていても、発生が【スワンプマン】なら、それは【スワンプマン】なんだな」
「そういうもんじゃないのか」
「同じ姿で同じ声で同じ考え方をしていたら、それはその人だ、という話もある」
さらりと答える守山に、俺は盛大に眉を潜めてしまった。そんな話をする奴もいるのか。
さっぱり理解ができず、うんうんと唸る俺に、守山は俺とは違いうんうんと頷いている。
「もしかしたら松島、この先の話は逆に理解できるかもしれないなあ」
「この先の話?」
「語れないて話」
ああそうだ。その話題があった。【スワンプマン】の話に夢中になってしまっていたようだ。
なかなか話が盛り上がりそうだなと、俺は追加のホットドリンクに手を掛けようとしたところで、守山がスッと手を挙げる。Vサイン…… 2本てことかな。紳士だな。
守山は2本分のスマホ決済を済ませ、一本を俺に差し出す。「さっきの礼」とのこと。
「さて。本題だね」
買ったばかりのカフェオレのプルタブを起こし、守山は切り出した。さっきのはいつの間にか飲み終わっていたようだ。
俺も同じカフェオレを開け、彼の話を待つ。
「突然だけど、松島、素粒子は個性を持たないんだ」
「本当に突然だな」
哲学はどこにいったのだ。
突然の物理学(でいいのか?)の話に、俺は脊髄反射でツッコミを入れてしまった。だが、俺の反応に守山は満足らしい。にこにこ。
「個性を持たないってことは、あっちとそっちにある素粒子は、同じ素粒子だと言える」
「はい」
「で、その素粒子がたくさん集まったものが松島や俺だね。
でも素粒子はあっちにも同じものがあるので、なにかの奇跡で、松島とまったく同じ配列の素粒子が集まったものが、あっちにもできるかもしれない。
それは『松島』か?」
ふむ、と俺は腕を組んだ。先ほどの【スワンプマン】の話と同じだ。
「いや。俺じゃない」
「そうだな。松島は一貫してくれて助かる」
「そりゃどうも」
こうやって守山は、絶対他の人が褒めない箇所で俺を褒めてくれる。まさか他の存在を俺ではないと言い続けて褒められるタイミングが、ほかにあるとは思えない。
守山は変わらず楽しそうな笑顔で続けた。
「では、松島。
この店に俺が入ってきたときの松島は、松島か?」
「…… うん???」
「あるいはこう問うてもいい。
明日の松島は、松島か?」
「ちょっと待て」
途端に話に追いつけなくなってしまう俺。守山は相変わらずにこにこしている。
十数分前の俺が、なぜここで問われるのか。
もちろん、俺はこの十数分の間に死んでも無ければ、俺と同じ姿の何かが突然来訪してきたわけでもない。
俺は俺で、それは十数分前から(突然の不幸が無ければ)24時間後の俺だって俺のはずだ。
だが、今ここでこの問いを問われているのは、守山が持っている解は「NO」なのだ。
「どうして…… 違うんだ」
「察しがいいな、松島。
そう、違うんだ。十数分前の松島は松島ではないし、明日の松島は松島ではないんだ。
言い方を変えれば、十数分前の松島は山本とも丘崎とも同じだし、明日の松島は井村でも須田でも同じことだ」
誰だそいつらは。守山の友人たちだろうか。
突然話に乱入してきた連中にも混乱してしまった俺に、守山は「君以外の人間と変わらないってこと」と要約した。
「反論したい。
十数分前の俺も、明日の俺も、それは俺だ。【スワンプマン】とはわけが違う」
「残念。
少なくとも十数分前の松島は、十数分間の記憶を持ってないし、明日の松島は明日までの記憶を持っている。
この松島と別の記憶を持っているが同じ人間だということなら、それは山本でも丘崎でも井村でも須田でも同じだろ。
でもこの松島は、山本でも丘崎でもなければ、井村でも須田でもない」
ね、と守山が笑う。ちくしょう…… そういう理屈か。
さらに守山は詰めてくる。
「『あのときの俺は』と考える『あのときの俺』も、『あのときの俺は』と考える俺も、この俺ではないんだよ、松島。
俺が語る俺は、俺を語る俺も、この俺を指してない。
これが語れない話ってことだ。
守山はカフェオレ缶を呷ると、かつんと底を鳴らしてレジに置いた。
「言葉にして誰かに共有された瞬間に、
ほかの誰でもない自分なのに、誰かと共有できるなんて矛盾するだろう?」
俺は思わず「それはあまりに……」と言いかけ、微笑む守山を見て、その先の言葉を飲み込んだ。
それはあまりに─── 孤高すぎやしないか、守山。
その飲み込んだ先で、守山が、この彼が、遠い宇宙の果てを見つめ、地球と共に存在する鉱物に還ることをなんとはなしに忌避していた様子を、納得できてしまった、ような気がした。
カフェオレを啜ったのは、張り付いた喉を通すためかもしれない。
「じゃあ、俺はなんなのだろう」
ようやく捻り出せた言葉に、守山は、うーんと気楽な様子で腕を組んだ。
「ああ、語れないんだもんな」
饒舌に喋っていた彼を悩ませてしまった。さっきから守山は答えを言っているのに、改めて尋ねてしまったのだ。
誰とも理解し合えない。言葉にできない、存在。…… ちょっと、この話を切り出したことに後悔をし始めている。
しかし、守山はパッと笑うのだ。
「言えることがまったく無いわけじゃないと思う。
つまり、君は君なんだ、松島」
「はい」
どこかで聞いたフレーズを出してくる守山に、俺は生返事をしてしまった。
だが、ここからの守山の話は、俺の人生で初めて聞く───
一言で言えば、カオスだ。
「天変地異や時空の歪みなんかで世界も宇宙もめちゃくちゃになっちゃって、なんなら君の記憶や人格や認識や、その君を取り巻く一切合切が途方もなく変わってしまったって、
君はどうしようもなくこの上なく何の変りもなく、君なんだよ」
俺の背景には宇宙が広がっていたことだろう。
「さっっっぱり分からん!」
「あはは、良かった。上手く語れたみたいだ」
ぱちぱちと拍手をしながら、守山は笑った。そうか、俺に理解されてしまったら、それは
お前さっき、俺なら理解できるかもとか言ってなかったか。
いやしかし、そんな馬鹿なことがあるのか。
俺の外はまだしも、俺の中身を含めた一切合切が変わって、それでもこの俺はこの俺だと。
ああでも、その言葉の、
「ところで、松島。
俺にも教えてほしいことがあるんだけど」
目の前の狂人は、今更ながらそっと声をひそめて俺に尋ねた。
思わず俺も前のめりになってしまう。
「新鮮コーナーの大根、まだあるみたいだけど、値引きシールっていつ付ける?」
鍋でもするのか、守山よ。寒いしな。
俺はレジの下から値引きシールを取り出し、守山に向かってちょいちょいと指を動かした。
意図を察した守山は、パッと顔を輝かせて踵を返し、新鮮コーナーへと走る。
オーナーに怒られてしまったら、差額分を自分で払えばいいだろうか。
仮に鍋にするならば、山本でも丘崎でも井村でも須田でも誰でもいい、守山と鍋を囲む誰かがいたら良いと思った。
あるいはこの【スワンプマン】の解を、いつものように守山が誰かから聞いた話であってほしいと思った。
この解を孤高とは思えど、悲劇的だとか悲観的だとか言うつもりはない。
言うつもりはないが、あんな笑い方をする守山が、果たして春の日差しの中でこの解に至れたのかとは、あまり思えないのだ。
冬の底で寒さを思い知りながら、ひとり、美しい氷柱を見つめる姿が、どうにも脳裏から離れない。
(【スワンプマン】の孤高 了)
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