ep.34 ヒーローとはなんたるか

 エイディはリムンの隅で、チェトナさんから渡された資料に目を落としていた。ページをめくるたび、事件の断片が浮かび上がり、絡まり合った糸のように頭の中を占める。


 花棺事件――八年前に始まったこの連続殺人は、チェトナさんの友人の死から幕を開けた。彼女が命を落とした場所、公園の木の根元にはアスフォデルの花が並べられていた。その花が持つ意味を今も誰も解明できずにいる。


 続く犠牲者たちも、同じように花に囲まれて発見され、その手口の一致から連続殺人事件として捜査が進められている。四人目の犠牲者ヴォリック・アエルソーンの事件からおよそ九ヶ月間が過ぎた。


 先日発生した誘拐事件――犯人たちが過去に起きた別の殺人事件に関与しているという情報を、花棺事件を追う過程でチェトナさんが掴み、それが公表されることを恐れ、犯行に至ったという筋書きだった。


 そして、アスファラ・ネメシス――風の魔法使いとされる彼女も、謎の中心にいる。テウシィの前から五年前に姿を消した彼女は空の民である可能性が高いが、なぜ彼女はオーラやニウス、空の民との接触を避けているのか。単に居場所がわからないからなのだろうか。


 また、その名前に込められた『贖罪』という言葉。それは彼女の行動の裏に隠された真実を示唆しているのか、それともさらなる謎を呼ぶのか。


 警察もジャーナリストも辿り着けなかった真実。その糸が解かれることを信じて、先月十七歳を迎えたエイディは次のページに手を伸ばした。




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「エイディー! お待たせー!」

「おー! シャンティ、久しぶりだな! 元気だったか!」


 シャンティの弾けるような声にエイディが顔を上げると、彼女が満面の笑みで手を振っている。その隣には、一人の少年が不安そうに立ち尽くしていた。


「じゃじゃーん! 紹介したい人、連れてきたわ! 実はね、私のはとこなの」

「え、えと、初めまして。こんにちは! た、ただいまご紹介に預かりました、シャンティのはとこです!」

「かたすぎるわよ。はーい、リラックスしてー」


 シャンティに軽く背中を押され、意を決したように少年は一歩前に出た。


「ぼく、ぼく―― 君に初めて会った時から、その――ずっと、今日まで、会いたくて――どうしても話しかけたくて、ですね。本当はずっと前から、でも勇気が出なくて――それで今日、シャンティに紹介してもらって、ます――だから、えっと、本当に嬉しくて、嬉しくて――あの時は、本当にありがとうございました! お礼を言うのが遅くなってごめんなさい。君は――エイディは僕の人生を変えてくれました! 大恩人です!」


 エイディは完全にその情熱的な少年に呑み込まれていた。記憶を探ってみても、この少年に心当たりはないが、その熱量に圧倒され、気が付けば曖昧に頷いていた。


「えーっと、こんにちは。あ――俺は、エイディ・ガーネット。既に呼ばれてるけど、エイディで。よろしくな?」

「――そうでした! そうですね! 僕、あの時名乗ってないですよね! 僕はオリバー・ソアー! オリバーって呼んでください! よろしくお願いします!」


 エイディの記憶は、名前を聞いてもやはり微動だにしなかったが、結局再び曖昧に微笑んで、その場をやり過ごそうとした。


「――?? あれ、オリバー、これ、覚えられてないんじゃない?」


 シャンティ口から発せられた、衝撃的事実に、オリバーの全身で悲壮感で包まれる。


「あ――なんか、ごめんな?――そうだ。クッキー好きか?  ほら、食べてくれよ。落ち着くから」


 オリバーの落胆ぶりに耐えかねたエイディは、クッキーを掴み取り――パニーが作った"癒し"の祈りを込めたクッキー――オリバーに強引に渡しながら、エイディは何とかその場を凌ごうとした。


「そう、ですよね――失念してました。僕のことなんて、覚えてるわけないですよね。だって、どうせ僕は、君が助けた大勢のうちの一人に過ぎないし――認知されてるなんて、烏滸がましいにも程がありますよね――恥ずかしい――穴掘ってもらっていいですか」

「すごい烏滸がましい」

「――は? 穴?」

「気にしないで、エイディ。ほら、オリバー、言いたいことあるんでしょ?」

「――とりあえず、クッキー食べてくれないかな」




---




 エイディとの出会い――それは、オリバーの人生に鮮烈な一筋の光を差し込むような出来事だった。木の上で怯える猫のココを救おうと果敢に挑んだものの、途中で体が動かなくなり、結局は助けを必要とする自分の無力さに打ちひしがれていた。


 だが、その時、風のように現れた存在がいた。エイディ――その登場は、まるで物語から抜け出したように唐突で、鮮烈だった。迷いのない動きで木を登り、オリバーとココを難なく救い出す姿は、現実離れしていた。


 その日から、オリバーの心はエイディに囚われた。友達を巻き込み、『俊足ヒーロー』と名付けられた彼の正体を巡る議論に没頭する日々が始まった。ヒーローなのか、それとも想像を超えた存在なのか―― 妄想は無限に広がり、話題が尽きることはなかった。


 やがて耳にした噂。『俊足ヒーロー』がリムンという店にいるという話。その人物の名がエイディであること、そして間違いなくあの日のヒーローであることが分かった瞬間、オリバーの胸は期待で膨れ上がった。けれども、直接会う機会は訪れず、夢はまだ手の届かない場所にあった。




---




「では!  早速、質問させていただきます! エイディはどこで生まれましたか?! やっぱり地球外起源でしょうか? 答えられる範囲で構いませんが、もし極秘任務で地球に派遣されたのであれば、それは救うためのものですか?! ということはつまり――地球に危機が迫っている、ということでしょうか?!」

「――とりあえず、クッキー食べてくんない? ほんと、まじで旨いし、落ち着くから」

「あとですね――エイディ。君のことを勝手ながら『俊足ヒーロー』と命名させていただきましたが――」

「ほんと勝手よねー」

「――既に、公式の称号や異名がありますか?  また、足の速さは、音速以上でしょうか? 視覚や聴覚の処理能力も知りたいです!  動体視力はどのくらいでしょうか?」

「まずはクッキーを――」

「おいしいよー?  私これ好きよ」

「――エイディから頂いたこのクッキーは、後で写真に収めて友人に自慢してゆっくりいただきます――では、次の質問です! 飛べますか? 目からビームが出ますか? それとも手から何か特殊なエネルギーを放出するタイプでしょうか? 」

「今食ってくんねぇかな――」


 エイディは、オリバーの推測が微妙に的を射ているのを聞いて、心臓が不意に跳ね上がった。


「プライベートに踏み込むようで恐縮ですが、差し支えなければ――住んでいる場所はどこですか? リムンで働いている理由は何なんでしょう? まさかここが秘密基地への入り口とか? あ、そういえば、普段の姿は変装ですか?! その服、見た目は普通ですけど、特殊繊維製ですよね? 衝撃吸収や耐熱機能、他にも隠されたギミックが――」

「差し支えてんだけどな ――」

「オリバー、ほんとにそろそろ落ち着きなさいよー。全力で引かれてるよー?」

「だってだってだってだって――」

「気持ちはわかるけど、エイディを困らせたくないでしょ? ねー、エイディ?」

「あーうん、とりあえずクッキー食べてくれよ、落ち着くから、まじで」

「クッキーめっちゃ推すじゃん」

「――っつか俺、そもそもヒーローじゃねぇし」

「――?!」


 エイディの言葉は今度こそオリバーに届いたようで、オリバーは動きを完全に止め、目を大きく見開いた。しかしその静止も一瞬で消え、次の瞬間には再び熱を込めた言葉が紡がれる。


「な、るほど、なるほど――解釈違い。 君はまだ現役ヒーローじゃなくて、プレヒーローだった――そうか、だから今まで表舞台に出てこなかったんだ!」

「いや、だから――話を聞けって」

「実は今日、色紙を持ってきたんです――」


 オリバーはリュックをガサゴソと漁り、色紙とペンを取り出すと、期待に満ちた笑顔でエイディに差し出した。その純粋さに、エイディは再び大きく息を吐いた。


「――プレヒーロー時代のサイン、特別にお願いできませんか? 転売なんて絶対にしません! 家宝にします! 防弾ガラス付きの額縁に入れて、空調管理まで徹底して飾るつもりです! だって、まだ誰も知らないヒーローの存在証明――」

「オリバー、いいか、話を聞け」

「はい! なんでしょうか!」

「あー、だから、俺は――ヒーローじゃないし、もちろんプレヒーローでもない」


 数秒後、エイディの言葉がようやく意味成して届いたのか、オリバーはその場で固まり、目を大きく瞬かせた。そして、首をかしげながら慎重に言葉を探す。


「えっと、今なんとおっしゃいました? ヒーローでもプレヒーローでも――」

「ない」

「――ヒーローでも」

「プレヒーローでもでもねぇ」

「残念だったねー。オリバー、クッキー食べないなら貰っていい?」

「冗談、ですよね? だって、大いなる力を持ちながら――ヒーローにならないなんて――それってつまり、僕を助けたのは、どうして――? 君の行動はすべてカモフラージュだった?」


 ごくりとつばを飲み込み、オリバーの表情がみるみる青ざめていく。


「――もしかして、偽装工作――!? そんな! 地球の危機はもう既に――」

「――!」

「なんでだよっ!」


 オリバーの言葉に、シャンティが不意を突かれてむせた。クッキーを飲み込むタイミングを逃し咳き込む。聞き耳を立てていたウェナとオーラは、店じまいの作業を一時中断し、エイディを全力で囃し立てた。


「えーエイディ、侵略者だったの~? こわ~い!」

「――やめてよねー。 悪いことはだめだよ~」


 ウェナとオーラが掃除道具を盾に、わざとらしくエイディを避けながら身構える。その大げさなリアクションに、エイディは手にしていたクッキーを強引にオリバーの顔面へ押し付けた。


「食え! 今すぐに!」




---




「――失礼しちゃうわ! ジャーナリストの基本よ。私の口は堅いの

! オリバーが自分で気づいたの。前に見せちゃったんでしょ? その力」

「――まぁ、不本意だけどな」


 エイディは、オリバーがクッキーを咀嚼しているのを横目にシャンティと小声で話を続けていた。


「外界人はヒーロー好きしかいないのか?」

「夢を見ることができる時間なんて、限られてるのよ。大人になると立ちふさがる現実で手いっぱいで、夢を見る余裕がなくなるから、今のうちなのよ」

「――へー、シャンティもなりたてぇのか?」

「私は、ヒーローみたいなジャーナリストになるの――」


 エイディはシャンティに軽く頷き、クッキーを咀嚼するオリバーに視線を向けた。彼はどうやら少し落ち着いたらしく、残ったクッキーを写真に収めているところだった。


「あー、オリバー?――期待外れだったみたいで悪いな。そのクッキー、おごりだから気にせず食ってくれ。撮影用も用意するからさ」

「――ありがとう、ございます」


 シャンティがオリバーを促すように肘でつついた。


「ねぇ、オリバー、何か言うことあるんじゃない?」

「――でも、ヒーローじゃないって――」

「ヒーローじゃなくても、いいじゃない。エイディに頼みたかったんでしょ?」


 その一言に、オリバーは視線を下げる。頭の中で描いていたエイディと、目の前にいる現実のエイディ。その違いが、言葉を口にしていいのか迷わせていた。


「ん?」

「――あ、えっと――エイディが、君がヒーローだと思っていたから、その――僕、弟子にしてほしかったんです」

「――弟子?」


 今度はエイディが首をかしげる番だった。


「はい。僕の家――姉ちゃんがウィングスーツを作ってるんです。僕も手伝いさせてもらって――それが完成したら、僕はそのスーツを着てヒーローになりたいんです」

「――ウィングスーツ?」

「人間が空を飛ぶための翼の代わりです! まだ完成してませんけど、僕の姉ちゃん、天才だから!」

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