私は人の顔を覚えるのが極度に苦手です。
下手すれば相手の性別くらいしか覚えられないです。
そんな私が覚えやすい人の顔というのは、大体眼鏡をかけている人か、ハゲの人。
つまり、顔を構成する上での重要パーツであるとして認識され、個人特定に必要な個性という重要要素なのです。
……いや、眼鏡をハゲと同列に扱うのは少し申し訳ない気持ちがあるのですけどね。
ともかく、眼鏡というのは重要な属性であるというわけです。
キャラクターに関しても一緒で、自分は大体キャラクターを、そのキャラクターを構成している属性的要素を抽出する事で、データを楽しんでいる節があります。
そこでもやはり「眼鏡」は一種の記号と化しており、相応のポイントが割り振られて愛でられているわけです。
つまり、眼鏡を失ったら、そこに紐づいている情報が欠損するわけです。
全くナンセンスです。
コスプレ物のビデオなのに即衣装を脱いでしまうくらい無意味です。
……つまり、加点情報の積み重ねによって情緒が揺さぶられるという意味でも、眼鏡は重要なパーツというわけです。
大分話が脱線しました。
こちらのエッセイでは、眼鏡っ子という属性について実によい考察を繰り広げております。
人の顔にただ眼鏡を加算させただけのものと、ちゃんとした眼鏡っ子との差異をかみしめながら、本エッセイをお楽しみください。
人間は、健康的な視力をお持ちの二人が向かい合えば、「見る」と「見られ」ます。ニーチェの箴言「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の如くに。
視力が弱まれば選択肢の一つとして眼鏡をかけます。レーシック手術などと違い、外観を変えるため周囲の人に与える印象が変わります。そして眼鏡をつけたことがキャラと化した「眼鏡っ子」というキャラクターカテゴリも生じました。
すると当人たちは気づきます。眼鏡で意図的に印象を変えられると。
「見る」補助手段が「見られる」印象をパワーアップする手段となり、そして好印象を持った相手を眼鏡で補強した視力で「見る」のです。
目は口ほどにものを言う。そう申します。
そう。目はしゃべるのです。
お互いの目はどのような会話をしているのでしょう。ここは一つ、日本語に翻訳してみませんか。
視力による会話を日本語に翻訳した文学がここに在ります。
この方は、時々こういうお茶目な文をものにされる。
遠部右喬様といえば、ホラーの旗手である。
怖がりな私は、毎回、新作トップページにドキドキしながら行って、作品概要を読んで「これは敬遠!」と引き返すのであるが、たまに、ププッと吹きたくなるこういう作品を書かれるから、フォローをはずせない。
そうして、大抵、話がディープで、ツッコむにも困るのである。
本作によると、ネットのアンケートを紹介して、眼鏡を掛けた人への印象を、「知的」、「真面目そう」と回答がする方が多い、との事である。
私は、今は、もう一つを提起したい。
「かわいいおばあちゃん」である。
なぜ「今」なのか?
そりゃあ、あぁた! マロン・グラッセ・モンブラン夫人を思うからです。
え! 知らない?
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェのばあやであり、アンドレの祖母である。
眼鏡をかけた、かわいいおばあちゃんである!
ああ、ダメだ! 私、今、頭が『ベルサイユのばら』です(汗々)
眼鏡。そのアイテムが持つ存在感は、他とは比べ物にはならないほどのものとなっています。
身近なところで眼鏡をかけている人を思い出してみて欲しい。その人について誰かが話をしたとする。きっと十中八九、「ああ、眼鏡の人?」、「眼鏡の子ね」という風に反応が返ってくることだろう。
つまり眼鏡とは、それを装着する者のアイデンティティとすらなりかねない品物であるということ。
本作ではそんな眼鏡をかけることにより、自分という存在がどう見られるか、世間では眼鏡に対してどんなイメージがあるかが切実な想いと共に訴えられています。
古来、人は『枕』というものに人間の魂が宿ると信じていた。それと同じように、眼鏡をかけている人間の魂は、いつしか眼鏡の方に宿るものなのかもしれない。
そんなことすら考えさせられるほど、眼鏡が人生にもたらす影響は大きいのだなあ、と本エッセイを読んでしみじみと考えさせられました。
眼鏡っ子という存在は、ただの「属性」では終わらない深い意味がある。だからもっと、大事にしていかなければならないな、としみじみと感じさせられます。