リフレッシュ休暇はお遍路しよう

八無茶

完  阿波一国 23番札所薬王寺まで

   リフッシュ休暇はお遍路しよう

                  八無茶

     一、回顧


 本屋に寄った帰り道、私は旅行社の前で一枚のポスターに目が止まり立ち止まって見入っていた。

「あれから十年が過ぎ今年は十一年目か・・・忘れていたな、転職をして必死に働き続け、そうそうバブル景気がはじけた後の強烈な不景気の波が拍車となってすっかり忘れていた。また旅にでるか。後世の若人のためにも」

 私は八無茶。「やんちゃ」と呼ばないでくれ。やむちゃだ。

 どう言う意味か・・って? その内わかると思う。

八無茶の頭の中は十四年前の平成元年十一月下旬、旅立ちの一週間前にタイムスリップをしていた。

 新居への引越しが十一月三十日に決まりその準備に追われていた時期だった。

「お父さん、ほんとに行くの?」

「行くさ。休暇もとったんだぞ」

「この寒い時期に信じられない。先日の二十三日には大阪にも雪が降ったじゃない」

「堺方面もボタン雪が降っていたなあ。まあ大丈夫だよ、日頃のおこないがいいから」

 呆れた顔をしている。

「いつ出発? 計画は立てたの?」

「出発は十二月四日、三泊四日で七日の日には帰って来る予定だ。休暇は引越しの前日からとってあるから、その間に計画し宿の予約もするよ」

「ツアーにしたら? よりによって真冬に歩いてなんて・・・山越えもあるんじゃない。道に迷ったら死んでしまうかも」

「ううん・・・大丈夫だ。なんとかなるよ」

 死んでしまうかもしれないの言葉には一瞬たじろぎ身震いをしたのを思い出す。身震いしたのは決して恐怖感だけではなく寒い時期ではあったがあえて先人が歩いた道への挑戦でもあったからだ。

 車の警笛に、フッと現実に戻された。

 そのポスターは決して若人の目には入らぬ物であろう。

「お遍路の旅、ラクラク行ける霊場めぐり」のタイトルの後に

「貸切バスで行く西国三十三ヵ所霊場めぐり」

「三度の旅立ちで満願成就、四国八十八ヵ所霊場めぐり」

「三泊四日の満願紀行、小豆島八十八ヵ所霊場めぐり」

 平成元年十二月四日、四国巡礼の旅の一歩を踏み出したのである。


 家に帰るとさっそく仏壇の引出にしまってあった納経帳を取り出してめくり、また軸の紐を解き第二十三番札所薬王寺で終わっている朱印を眺めながら、当時のメモ帳と旅を終えて書き残した備忘録「空海の道」を見ては旅の軌跡をたどり始めていた。

「記録に残そう。空海が歩いた道を千百七十年後に歩いた私の記録を。地図には載っていない獣道のような寂しい道に踏み込む時のあの気持を。優しかった四国の人情を。怪我をしたら命取りになりかねないとわかっていながら怪我をして歩き続けたあの寂しさを。そして記録に残すことで次への出発、そして八十八ヵ寺満願成就へのバネにしたい」

 私の指は地図の上を振り出しの鳴門から順次歩いた道をたどり始めていた。


    二、リフレッシュ休暇が巡礼の旅?


「一週間のリフレッシュ休暇を取るとすればあなたはどのようなリフレッシュを計画しますか?」

 この社内アンケートに対し「四国八十八ヵ所巡礼の旅の初年度にしたい」と答えた。

 このアンケートは当時世間でよく耳にするようになったリフレッシュ休暇に対する社内取組みのファーストステップとしてのアンケートであった。

 しかし私にとって冗談半分で答えたこのアンケートが、旅立ちへのきっかけとなってしまったのである。

 のんびりと気ままにリフレッシュできる旅行でなによりも金のかからない旅行ってどんな旅行があるのだろうと考えた結果がお遍路の旅だった。もちろんバスツアーやタクシーでの巡礼ではなく歩け歩けの一人旅である。

 アンケート結果の大半は海外旅行でのんびりしたいと言うもので、中には世界最高峰のアルプス登山をやってみたい人もいたようだが、それに比べ私の回答は信仰心厚いお遍路さんにしてみれば、ふざけた不浄な回答に思われたことだろう。

 しかし不思議なものである。お遍路さんの姿はテレビなどで時折見ても巡礼の旅に出ようなどと考えた事もなかった私が、何時しか興味をもち始めていたのである。

 交通機関が貧弱であった昔のお遍路さんは歩きながら何を考えていたのだろう。命を失うかもしれない旅に何を求めたのだろう。そして何を得たのだろう。歩いて見なければわからない、歩いた者だけが知る何かがあったのだろうか。歩く、見る、聞く、話す事により何か得るものがあるのだろうか。

 出来る限り歩いてみて古人の偉業なのか愚行かに近づき感じてみたいと思うようになったのである。

 弘法大師が四十二歳の時歩いた道を四十三歳の私も歩いてみたい。そんな気持ちが日に日につのり始めていたのである。


    三、旅立ちの準備


 忙しい日々を送る中で、リフレッシュ休暇を捻出すること自体が困難であった。

 気候のいい春、そして秋も終わり、既に木枯らしが吹く十一月の末になっている。

 新居への引越日が決まった時点で、これ幸いと引越しにかこつけて日程を合わせリフレッシュ休暇を取ることができた。

 この寒い時期に歩いてのお遍路さんはいるだろうか。日が暮れるのも早いのに、また道に迷うことは無いだろうかと不安もあったが、一日に十五キロから二十キロを歩き、日没一時間前の四時頃には宿に入れる位の余裕を持たせた行程を考えた。

余裕を持たせた行程とは言え、地図や巡礼紹介の冊子には幹線道路を使うガイドしかなく旧お遍路道がどこにあるのかも掴めない。

確証が無い行き当たりばったりの一人旅は、さしずめオリエンテーリングを計画するような感覚であった。

そして第十二番札所焼山寺への道は想像がつかず、初年度は見送ることにした。

 引越しのかたづけが一段落し始めた十二月二日の夜、巡礼の旅のスケジュールを決定し、翌日は土曜日であったため午前中に船の予約や民宿の予約のため板野町役場、上板町役場、市場町役場へ電話をして民宿を紹介してもらい各民宿へ電話での予約をおこなった。


平成元年度 リフレッシュ休暇のスケジュール(メモ帳より)

 十一月二十九日 引越しの準備(前夜より睡眠は約三時間)

 十一月三十日 引越し日(家の中は物置の如し。寝る場所を確保)

 十二月一日 かたづけ(電話、電気屋、カーテン、外構等の工事

            継続。夜、旅の計画を立てる)

 十二月二日 午前中、船、民宿を予約(阪急汽船、板野町役場、

         上板町役場、市場町役場に電話をし状況を調査)

       午後、法事(仏壇正念抜き、移動、正念入れ)

 十二月三日 建築業者と立会検査後、正式引渡し。かたづけ継続

 十二月四日 かたづけと旅の準備。十五時晴れて巡礼の旅に出発する

      近江八幡駅→元町駅→神戸中突堤→船→鳴門公園→鳴門

       駅前で宿泊

 十二月五日 鳴門駅出発→板東駅下車→第一番~第五番、宿泊

 十二月六日 第六番~第十番、宿泊

 十二月七日 第十一番、第十三番~第十七番→府中駅→鳴門駅→

       鳴門公園→神戸中突堤→元町駅→近江八幡駅


        四、番外


 十二月四日(月曜日、晴れ)

 元町駅を下りた時はネオンがまたたき始める都会時間であった。家路に急ぐ人々、車の騒音、ベイサイドにそびえる大きなホテルの美しいイルミネーション、そして宝石をちりばめたような神戸の夜景を鳴門公園行きの船が出るまでの約四十分の間、明日から目に入る景色と対比させるためにしみじみと貪欲に眺めていた。

 十七時三十分 鳴門に向けて水中翼船がスタートした。

 神戸、鳴門公園間を一時間四十分で走る船旅だ。

 水中翼船のスマートな船体が波の上に浮き、滑るように高速で走る姿は何度か目にし、一度は乗ってみたい船であった。

 水中翼船は一気に加速し、お客は右手に広がる美しい神戸の夜景にしばし見とれている。

 突然、船は減速しノロノロ運転になった。

 百万ドルの夜景を観賞する粋な計らいかなと思ってもみたが、エンジンは止まり漂流し始めたのである。

 真っ暗闇の海上で漂流し始めた時は「さあ、いろいろな事が体験できるドラマの幕開けだ」と前途が楽しく思え、武者震いをした程だった。

 原因は海上を浮遊していたロープがスクリューに巻きついたためだったとアナンスが流れ、約二十分の漂流を体験した船は徐々にスピードを上げていった。

 船室に表示されるスピードメーターは時速六十八キロメートル前後を示している。

 しかし船の騒音と振動には閉口してしまい、海上を滑るように走るイメージはダイナマイトで吹き飛ばされてしまった。

 湖面を優雅に泳ぐ白鳥も水中を覗くと杓子のような足をバタバタしているらしい。ふとそんな事を考えていた。

 船が鳴門公園に約一時間遅れで着いた時には既に最終バスも出た後で、タクシーの手配や払い戻しについての阪急汽船の計らいには急ぐ旅でもなく事件を楽しんだ私としては恐縮であった。

 鳴門駅前のビジネスホテルに無事到着。

「今日までだぞ!明日からは何かが変わるぞ!」


     五、第一番から第五番札所まで


 十二月五日(火曜日、晴れ)

 六時四十五分起床。記念すべき日となった。

 ここは四国の鳴門だ。私は巡礼の旅の起点にいる。ここから第一番札所の霊山寺に向う。今年は第十二番を除く第十七番札所の井戸寺までを巡礼する予定だ。

「普通の旅行とは違うぞ。何処にどんな道が待っているかわからない。それに真冬だ。怪我をしないことだ。そして迷子にならないこと。そのためには気の散漫は大敵だ」

 軽い朝食を摂り、早めに宿を出た。

 第一番札所の表玄関JR高徳線板東駅へ行くには池谷駅で鳴門線から高徳線に乗り換えねばならない。

「さあ出発だ」

      いけのたに池谷駅にて


 二十分たらずで池谷駅に着いた。

 通学の高校生達で賑わっている。

 ホームに降りて周囲を見回した時、奇妙な事に気がついた。

 駅舎は降りたホームの目の前十メートル程の所にあるのに、駅舎の改札を通って電車をめざす学生達は駅敷地内の西隅の陸橋まで約三十メートルを走り陸橋を上り下りしてこのホームの電車に駆け込んでいる。

 なんと不便な駅なんだろう。駅舎は目の前にあるのに通路が無い。

 学生達を乗せた電車が出た後は、空気が凍りついたような冷たさと静けさだ。

 乗り換えの待ち時間が四十分程あるので駅舎で待つことにした。

 白い息を吐きながら私も遠回りをして陸橋を渡り駅舎に向かっていると綺麗に手入れされた庭園がある。そこの立て札を読んでやっとこの奇妙な駅の理由がわかったのである。

 この駅ができた頃、不吉な事が相次いで起こったそうな。原因はこの駅の地に住み着いていた段四郎という統領狸のたたりとの事で段四郎大明神としてお祭りしたそうな。

 幅四メートル、長さ七メートルほどの庭園の中に身の丈一メートルほどの段四郎狸が鎮座し、その座右には直径五十センチ、高さ七十センチはあろう大きな徳利が斜めに安置され池の中の大杯に酒が滴り落ちている。

 各ホームへの通路は段四郎を祭ったこの場所を避けてわざわざ遠回りするかたちに作られていたのだ。

 目の前にあるホームに行くのに、学生は息を切らして走りまわり、おばあさんは腰を曲げ、とぼとぼ歩いている。

 なんとのどかなことよ!


      板東駅にて


 巡礼の表玄関、起点駅の板東駅に下り立ったのは八時四十分だった。

「さあ!一四四〇キロメートルの長いお遍路の始まりだ」

 門前町のにぎわいを予想していたが期待に反し寂れた田舎の駅だった。

 駅前には池谷駅から親しくなったおばあちゃんと私の二人だけで他には誰もいない。

 正面右手にタクシーの待合所があり「お遍路は○○タクシーで」の看板だけが寂しく客を待っているようだ。

 昭和六十年に完成した大鳴門橋の開通によりバスや乗用車でお参りする人達が増え、駅も今は寂れてしまったとの事である。

 出発の前に買い求めた四国八十八ヵ所巡拝案内の冊子に記された概略地図はさっそく役に立たず、人に聞くか感に頼ることになった。と言うのも車での巡拝道路地図であり、私みたいに歩いて巡る人のための冊子や地図は無かったのである。

 駅を降りたら進行方向に対し右方向に進めば目安の道に出るだろう程度しか理解できない地図だ。

 おばあちゃんと話をしながら一緒に歩き出した。

 T字路で病院に向かうおばあちゃんとは方向が違うので別れなければならなかったが「頑張ってね!」と言ってくれた顔が美しかった。

 一番札所の霊山寺に向かう道すがら、池谷駅のホームから電車の中でのおばあちゃんとの会話を思い出しては顔がほころぶのを感じていた。

「旧お遍路道を? 歩いて巡る? この寒い時期に? 一人で?」

 びっくりしながらも淡々とお話をする品のいいおばあちゃんで「なぜ」の質問が出たらなんと答えようかと迷ったぐらいだ。

 今年の予定を聞いて安心されたのか

「四国巡礼の中で三大難所がこの阿波の国にあるの。十一番さんから十二番さん焼山寺への道と二十番鶴林寺さんへの道そして二十一番太龍寺さんへの道で「遍路ころがし」と言われているの」

 遍路ころがしとはユニークで響きがいい命名だ。不謹慎ではあったが思わず顔がほころんだ。私の頭の中では昆虫の「糞ころがし」がお遍路さんを転がしていたのだ。

 三十メートル程進んで振り返るとまだ手を振ってくれていた。

 生きて帰れるよう祈りながら手を振ってくれていたのかも知れない。


      第一番札所 りょうぜんじ霊山寺にて


 山門の前に立った時、ピリリッと一瞬の緊張を覚えた。

 山門の右の柱には「四国第一番霊場」、左の柱には「竺和山霊山寺」と書かれた分厚い看板が掛けてある。

「ここが一番か、さすがに立派なお寺だ」

 正面本堂までの右手の池を見ながら進むうちに緊張もほぐれ、すがすがしい気分に変わっている。

 左手には等身大の十三仏(五如来、七菩薩、一明王)が並んでいた。等身大にしては仏様の背が低かったことを思い出す。

 お参りを済ませ本堂右手にある巡礼装具の販売所に寄ってみた。

 このお寺は四国巡拝の総本部になっており、初めてのお遍路さんはここでお遍路の身支度をするのである。 

販売所の裏に着替えが出来る部屋が用意されており、ここでお遍路さんに変身するとのことだ。

私は納経帳と納経軸を買い求めたが、手甲、脚絆、白装束のおいずる笈摺、金剛杖、金剛鈴、遍路笠などを身に付ける勇気はなかった。

 何かを始める時は、まず身なりと道具をそろえる事で気が引き締まるものだが私の旅姿は非常識かも知れない。なんと言ってもリフレッシュの一人旅、スニーカーにジャンパー、バッグを右肩に提げ、左手にはしっかりと数珠を握りしめての出で立ちである。


 納経帳はお遍路の持ち物で一番大切な物だ。お参りをしたあかしに記帳をしていただき、その上に朱印をいただく。

 感動の一瞬であった。真新しい納経帳の一ページ目に筆が入る。右端にまず「・・」読めない。中央は大きな梵字の下に御本尊名、左にお寺の名前が力強い見事な筆捌きで記帳される。

 そして右上に「四国第一番」の朱印、真中に梵字が記されたお寺の紋の朱印、左下にお寺の朱印が捺印される。

軸にも同じように朱印をいただく。

 これから一つ一つ、私の足跡を示す朱印が増えていくことを思うと感無量であった。

 寒いこの時期、記帳の墨と朱肉の乾きが悪いのでヘヤードライヤーで乾かす段になって現実の世界に戻ったようだ。

 ご朱印料は納経帳とお軸で五百円であった。

 

 本堂前の庭に三鈷の松の二世が植わっている。


 大師が長安を後にし、帰国の途についた時、持っていたさんこしょ≪三鈷杵≫を日本に向けて「密教道場に適当な地があれば帰って示せ」と唱え空に向かって投げたとの事だ。その三鈷杵は高野山の松の枝に留まって光を放っており、大師はその地に金剛峰寺をお建てになった。その松の二世との事。

                       【写真 霊山寺の境内】

 いつになるのかわからないが八十八ヵ寺、けちがん≪結願≫の暁には高野山にお礼参りをするのが慣わしと聞いた。ぜひ高野山の一世松にお会いできるよう頑張りたいものだ。先を急ごう!

 

       第二番札所 極楽寺へ  


 一番札所から県道を約二キロ弱。

 朱色の鮮やかな山門をくぐると広く美しく手入れのいきとどいた庭が目に入り、心を和ませてくれる。

 本堂壁面の地獄極楽図は他のお寺でも見たことがあるがあまり気持ちのいいものではない。

 納経所に向かう途中にしめ縄が巻かれた巨木、長命杉があり、触ると長寿をさずかるとの事であるが、参拝者の中には皮膚を剥ぎ取る不届き者がいるのか可哀想に膚を剥がれた老樹であった。

 お参り、記帳の後ベンチに座りしばし休息を取る。


     第三番札所 こんせんじ≪金泉寺≫へ


 三番に向かう道すがら飼い犬と散歩中に野良犬にまとわりつかれているおばあちゃんに出くわした。

 追い払ってやったが野良犬はまだ遠巻きにこちらを伺っている。

 休息がてら、しばらくおばあちゃんと世間話をしていた。

 おばあちゃんが言った言葉が思い出される。

「一人旅は寂しいだろうから、あの野良犬を連れていったら」

 おもわず野良犬と目が合っていた。

「そうだね、あと猿とキジがいっしょなら桃太郎だね」

 しばらくおばあちゃんと歩いていると野良犬もどこかに去っていった。

 やれやれ約三キロの道程に一時間を費やしてしまった。

 右に折れ、門前の通りに入ると黄金色に輝く大きなイチョウの木が目に飛び込んだ。金泉寺だ。           【写真 銀杏がきれいな門前】

 金泉寺の名前の由来は霊水が涌き出ているのを見つけて名付けられたそうだ。

 大師堂の横に「黄金井」があり、この井戸に自分の顔が写ったら九十二歳まで長生きできると聞いてさっそく覗いて見るとくっきりと顔が写っている。

「あーあ、あと四十九年も頑張らなくっちゃ!」


     第四番札所 大日寺へ


 三番を出発したのは十一時二十五分だった。

 四番へは二通りの道標が書いてある。

 山門を出てすぐ右へ行く道もあったが、なんとなくこの道を行くと食事をするお店が無いような気がしたため、今来た道を真っ直ぐ五十メートル戻り右手に進む道を選んだ。

 おなかが減ってきたが食堂がない。

 やっと見つけてもウイークデーの火曜日だからなのか、お遍路のシーズンでもないこともあってか休業で閉まっている。

 やっと一軒、ラーメン屋を見つけホッとしたのである。

 この店で食べておいてよかった。このあと宿に着くまで食堂はおろか駄菓子屋すら無かったのである。

 腹ごしらえも済み、車が行き交う県道の右側をのんびりと歩いていると突然高さ七十センチ位で約十二センチ角の石標が道端に立っている。危うく見過ごす所であった。

 左手で右を指しその下に「へんろ道」と彫られたものである。

 私が驚いたのは指差す右は田んぼで強いて道と言えば幅五十センチ程のあぜ道しかないのである。田んぼの先は小高い山の藪で道らしきものは見えない。

「誰かのいたずらだろう。この道をまっすぐ行くようになっていたものを回して田んぼの方に向けたのだろう」と疑って見たが左手で右を指す形はどう考えても逆戻りの方向になる。

 疑い始めるとますます信じることが出来なくなるものだ。

「確か、一番から順に巡るのを順打ち、逆に巡るのを逆打ちと聞いたな。もしかして逆打ちの石標かも?」

 逆打ちにしては分かれ道が無いのに真っ直ぐ進めの石標はおかしい。

「まあいいさ、まだ日は高いし、おかしいと思ったらひき返せばいい」

 あぜ道に踏み込んだ。

 まだ半信半疑で歩いている。

 ふと左手を見ると二十メートルほど離れて田んぼの中を黒い犬が私の方を見ながら並行して歩いている。

「見慣れぬ奴だがわしの縄張りに何しに来たんだ」と睨んでいるように思える。

「すまんな、ここは遍路道に間違いないか?」

 大声で聞いてみたが返事なし。

 昔、野犬の縄張りに踏み込み数匹の野良犬に取り囲まれた事があった。私の周りをぐるぐる回りながら円陣を狭ばめたり広げたりして威嚇を続ける。しかし落ち着いてゆっくり歩き縄張りを出てしまうとスッといなくなったことを思い出す。この犬は拙攻だろう。仲間を呼ぶ様子も無いし安心だ。相変わらずこちらをチラチラ見ながら並行して歩いている。

 それよりもこのあぜ道の先がどうなっているかの方が心配であった。


 曲がりくねったあぜ道が切れて地道に出ると石標と「四国の道」と書かれた丸太の標識、そして地元の人達が作ってくれたのだろうと思われる白いプラスチックの小さな板に赤いペンキでお遍路さんの姿絵と矢印が書かれた標識があった。

 不安な気持ちで歩くお遍路さんには恵のみちしるべであり、見ず知らずの人に対する優しい心遣いに感謝の気持ちでおもわず「ありがとう」と発していた。

そして誰かがいたずらで石標を回したのではないかと疑い、不安な気持であぜ道を歩いていた自分が寂しくも思えた。

                    【写真 お遍路道の石票や道標】

 ホッと一息ついたのもつかの間、地道を横切り続くお遍路道は幅一メートル、木が生い茂る道は木々が覆いかぶさり、高さ二~三メートルのトンネルになったうす暗い山道である。

「これが昔のお遍路道だ。空海も歩いたのだろう。残っていたんだ。残してくれていたんだ」

 昨日買った使い捨てカメラで写真を撮った。

「こんな道を歩いたんだ」と言う思い出の写真を・・・・

 一瞬、行き倒れになった時どこを歩き回っていたかの記録写真になるかもしれない心配が脳裏をかすめた。

 落ち葉が深く滑りそうだ。

 真昼なのにうす暗い。前にも後ろにも誰もいない。静かだ。弘法大師が歩いた道だ。彼が四十二歳の時、私は四十三歳。同行二人。時間はゆっくりある。長い道中いろんな話しが出来そうだ。

 木々の間の木漏れ日はトンネルの道に縞模様を映している。

赤、黄、緑、茶色の落ち葉を踏みしめ風に揺らぐ陽光の中、タイムトンネルの中を歩いているようだ。

               【写真 昼間なのに薄暗い道】

 やっと明るくなり人里も見え始め、歩く速さもスピードを増してくる。

 三番奥の院の山門の大草履を右手に見ながら先を急ぐ。

 要所要所にある道標を頼りに進む旅は、まさにオリエンテーリングのようでもある。             【写真 第3番奥の院の大草履】

 背の低い石標を見逃したら最後、どこに行ってしまうかわからない。あてども無く歩き続けることになるだろう。山の中で日が暮れてしまったらもうお手上げだ。野宿しかない。なにしろ旧お遍路道の地図はないのだ。


 秋を忘れて仕事に追われてきた者が、十二月なのにまだ残っている紅葉に賞賛を送りながら、弘法大師と話をしたり歌を歌いながら歩いていると、つい石標を見逃しそうになる事がたびたびあった。

 この時も危うく見過ごす所であった。

 車も走れる真っ直ぐ続く道で分かれ道があるわけでもなく所々に残る紅葉を眺めながらのんびりと歩いていた。    【写真 見落としそうになった道標】

 たまたま道の左側を歩いていたのが幸いしたようだ。

 民家の角に右手で左を差し、その下に座仏が彫ってある石標がある。指差す方向はどう見ても民家の敷地内に入るかたちだ。

 半信半疑のまま進むと民家の裏手に出て二~三軒、民家の裏の土手を歩く。

 民家が覗ける形で土手を進んで行くとまた裏山の草木のトンネルに入った。

 突然の侵入者にびっくりして数羽の鳥が飛び立つ。

 静けさを破るその音に私の方がびっくりしていた。

 そしてまた静けさが戻った。

 ただただ歩き続ける。

 先ほど半信半疑のまま民家の裏を歩いてその後には薄暗い山道に入ってしまったが間違っていないだろうか。

 疲れが出始めると不安も増してくる。

 ふと前方を見ると木の枝に白いプラスチックの板が結び付けてある。

「お遍路道」と朱書きしてある道標だ。

 誰もいない静かで自分の吐息しか聞こえない状況の中でこの小さな道標に何度心を癒されたことだろう。

「お遍路ごくろうさまです」と書いたものもあった。

 無造作に木の枝にぶら下げられているこの小さな道標に大きな人の心を感じたものだ。


 疲れてきた。

「何だ? お墓か?」

 いや、見慣れた方向を指す右手が彫られている。竹の花筒二本、石の台座に小判型の石が立っている。字が彫られているがよく読めない。やっと読めたのは「あと十丁」であった。

 ただただ歩き続ける。

 先ほど半信半疑のまま民家の裏を歩いてその後には薄暗い山道に入ってしまったが間違っていないだろうか。

 疲れが出始めると不安も増してくる。

 ふと前方を見ると木の枝に白いプラスチックの板が結び付けてある。

「お遍路道」と朱書きしてある道標だ。

 誰もいない静かで自分の吐息しか聞こえない状況の中でこの小さな道標に何度心を癒されたことだろう。

「お遍路ごくろうさまです」と書いたものもあった。

 無造作に木の枝にぶら下げられているこの小さな道標に大きな人の心を感じたものだ。


 疲れてきた。

「何だ? お墓か?」

 いや、見慣れた方向を指す右手が彫られている。竹の花筒二本、石の台座に小判型の石が立っている。字が彫られているがよく読めない。やっと読めたのは「あと十丁」であった。 ただただ歩き続ける。

 先ほど半信半疑のまま民家の裏を歩いてその後には薄暗い山道に入ってしまったが間違っていないだろうか。

 「四番札所まであと十丁か! ところで何メートルだ」

「一ちょうは六十間だから十ちょうは一キロメートル強だ。しかし待てよ! 距離の単位のちょうは町であり、丁ではなかったぞ。

私の団地の一丁目と二丁目があの距離だからそう遠くない距離なんだろう。よしよし!」

 勝手に自分を納得させていた。

 道標を見つけた事で迷子になっていなかった事に安堵し、昔の石標を今でも守ってくれている地元の方々に感謝して先に進んだ。


 また田んぼのあぜ道に入った。

 何といい香りだ。田んぼに人糞が巻いてある。しばらくはちり紙の白いさざ波の海に落ちないよう気をつけて歩こう。

 しばらく行くと民家があり、脇の柵の中に牛が五頭放牧されている。疲れていた私は柵にもたれ休むことにした。

「おーい、元気か?」

 声をかけると一頭二頭と私に寄ってくる。

「よし、ヨォーシ、おい涎をかけるなよ」

 最後の牛が私のほうに向かった時、何とその後ろに人がいる。

 バツが悪いことこの上なし。

「こんにちは」と声をかけ、そそくさとその場をあとにした。


 十二月というのに暑い。

 ジャンバーは脱いだがそれでも汗が出る。

 どれだけ歩いただろう。人里に近づいた。

 村の中のT字路に「あと二丁」の石標を見つけた。

 右が四番への道だ。

 左を見ると黒い犬がこちらを見ている。

 見覚えのあるその犬にびっくりしてしまった。

「あの犬が? まさか! まさか見守ってついて来てくれたのか? そんな馬鹿な! 黒い犬はどこにでもいる」

 犬は振り向いて遠ざかって行ったが不思議な気持ちに襲われた瞬間だった。

「ありがとう」 思わず声を出して犬の後姿を見送っていた。


 T字路から二、三軒目の家の玄関土間でおばあちゃんと訪問客が話しをしている。

 疲れていた私は休息を取ることにした。

「すいません。縁先で休ませてください」

 縁側に座って汗を拭いていると、用を済ませたおばあちゃんが私の横にちょこんと座った。

「お遍路ですか」

「ええ」

「今どき一人で?」

「ええ・・・いつ頃がにぎやかですか?」

「三月のお釈迦様の誕生日の前後がにぎやかで、そんおりは村のもんが通行中のお遍路さんにお茶やまんじゅうの接待をするんじゃ。自分の巡れい代りに、お参りして来てくださいちゅう意味でな」

 何かを思い出しているかのようにゆっくりと話しをしてくれる。

「先週は寒かったに、ええあんばいで天気に恵まれて!」

「十一月二十三日頃でしたか、関西ではぼたん雪が降りましたよ」

 じっと私の顔を見ている。しばらくの沈黙が流れた。

「何かごうをお持ちか?」

「ええっ? いいえ」

 意味がわからなかった。「ごう」なんて物、どこにも持っていない。

「そんじゃ、奥さんかね、どっか悪いのは?」

 やっと意味がわかった。頭の中はパニックである。業を背負って苦難のお遍路と私の安上がりリフレッシュのお遍路の旅が頭の中でごっつんこをしている。

「若い内に歩いて巡ってみようと思いましてね」

「そうじゃ、今はみな、車でのお遍路じゃ。あじけなかろうに。若いのにいい心がけじゃ。頑張んなんせ。そうか、そうか」

 いたく優しかったおばあちゃんの笑顔を後に、お礼を言って別れた。(方言の記憶は確かでない)

 五十メートルほど進むと車が通れる道と合流した。

 しばらく行くと右手に猪が放し飼いされており気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。

「おーい、元気か」

 声をかけたが完全に無視されてしまった。

 気を取り直し歩いていると、前方から木々の緑をバックにした朱色の山門が目に飛び込んできた。

 感動の瞬間だった。そして握り締めた右手の拳がゆっくりゆっくりと空に伸びた。

「やった! 大日寺だ。着いたぞ」

 道標どおりに行けばいい、とわかってはいても不安だった旧お遍路道を一つやり遂げることが出来た喜びから童心に返っていた。


     第四番札所 大日寺にて


 本堂から大師堂への渡り廊下にたくさんの観音様が安置されている。

 ふと人の気配を感じて振り向くとこのお寺をお守りしているおばあちゃんであろう。

「三十三体の観音菩薩ですよ」

「なぜ三十三体もあるんですか?」

「観音経と言うお経の中に、観音様は三十三の姿に身を変えて人々を救うと言う事に由来しています。ほれ京都の三十三間堂や西国三十三ヵ所めぐりなどもこのお経にあやかっているんですよ」

「四国八十八ヵ所の八十八は?」

「厄年で男四十二、女三十三、子供十三の合計が八十八で厄落としの八十八ヵ寺巡拝の意味らしいですよ」

 観音様より本堂側に安置されていた弁天様のなまめかしかったこと。どのようであったか書くのはやめよう。観音菩薩様に対して失礼になるからだ。

 親切に案内してくれたおばあちゃんに記帳していただいた。

 その時の事だ。

 やわらかな静けさを破り雷のような爆音がした。

 そしてまた静けさを取り戻した。

 すると赤と白のレーサースーツを身にまとった若者が記帳所に入ってきて記帳を済ますと金を払って出て行った。

 そして雷は遠くへ走り去って行った。

「お参りもしなかったね。一言もしゃべらなかったね」

 記帳してくれたおばあちゃんに話しかけた。

「学生さんでアルバイトをしているんですよ。最近増えましたよ。バイクで四、五日でまわってしまうそうです」

「何のアルバイト?」

「体が悪くて自分で巡りたくてもできない人のために」

「ふーん、そんなアルバイトがあるんだ。たくさんまとめてから一気にまわれば楽で・・・楽なのにね?」

 うっかり出そうになった言葉を噛み殺していた。

「昔はそれができたけど、それを商売にする人が増えたため、今は一人でお軸と納経帳もそれぞれ一つと決められたの」

 品のいいおばあちゃんだった。

 大日寺へ着いた時はへとへとに疲れていた者が、お参りを済ませ記帳をしていただいた後には爽やかな気持ちと次ぎへの推進力が沸いてきていたのだが、雷が遠ざかった後には何とも言えないけだるさと無情感が残った。

「記帳された納経帳とお軸が金になるのか」

 商売にする人に雇われたアルバイトであろう。

 私もおばあちゃんのような清い見方ができるようにと自戒したものだ。

 初めて会えたお遍路さんは紅白の物言わぬ雷さんだった。


     第五番札所 地蔵寺へ


 四番を後にして雷さんや縁側にちょこんと座って上目づかいでいろいろ話をしてくれたおばあちゃん、犬、牛、猪の事らを思い出しては顔をほころばせながら歩いていたら嫌な予感がした。

 畑の中の十字路を三つほど無意識に通過していたのだ。

 道標が無い所は直進が原則だ。

 しかし見落としていたらとんでもない方に行ってしまい永遠に道標を見つけることが出来ず日が暮れたらお手上げだ。懐中電灯も持っていない。

 四番から五番へは遠回りの一般道路での距離でも二・六キロなので、時間的にはもう地蔵寺の屋根や人里ぐらい見えてもいい頃なのにまったくその気配が無い。

「道標を見落としてしまったかな」

 心細かったがもう三十分ほど先に進んでみる事にした。

 最悪一時間三十分のロスに抑えないと日が暮れてしまう。

 もし道標に出くわさなかったら迷子としてこの地点まで戻り、速足で今来た道を戻り道標を捜すつもりだ。

 道標を見落としていなかった事を信じて先を急げ!

 畑を抜けて地道に出たが右に行くべきか左に行くべきか道標が無く困ってしまった。

 今来た道とほぼ直線になる右手登りの方が常道であろうと考えたが不安だった。

 見回していると運良く左手下方三十メートルほど離れた所で何か工事をしている二人を見つけた。

「すいませーん、この辺りに五番札所の地蔵寺はありませんか?」

「わしら地の者でないからよくわからないが、この下の方に大きな寺があるのを見たぞ。しかしその寺が地蔵寺かどうかはわからんぞ」

 その声を聞いて間違いないと確信した。

 通りすがりにお礼の声をかけると、かたづけを始めていた二人が笑顔で見送ってくれた。

 この人達に会えなかったら私は山の方に向かっていただろう。感謝である。

 お寺の屋根が見えた時はホッと一息ついた。やはり畑の中の道で左折する道標を見逃しており、行き過ぎて遠回りしてしまったのだ。


 奥の院の羅漢堂に着いた。五百羅漢で有名である。

 先に地蔵寺をお参りし本日の宿泊所の森本旅館を捜し落ち着いてから時間があれば羅漢堂に戻ることにした。

 羅漢堂から地蔵寺までの道は地蔵寺の白壁が回り、お城の中を歩いている雰囲気だ。

 地蔵寺境内の横手に出てきた。

 境内には目を見張るほど大きないちょうの木がそびえ、真っ黄色の葉を散らしている。

 樹齢八百年、幹は直径一メートル以上あった。

 木の下のベンチに座って地元の人達だろう、境内のお世話を終えた後の談笑中だ。八百年の歴史が彼らを優しく包み込み、絶え間なく降る落葉は冬の黄昏にキラキラと黄金色に輝いていた。


 境内に面白いものを見つけた。

 たたみ二畳ほどの箱庭で立て札には「水琴窟 耳を澄ますと極楽浄土の音が聞こえます」と書いてある。

 しゃがみ込み耳をそばだて神経を周囲にとがらせる。

 聞こえる。確かに聞こえる。透きとおった空気の中を一本の糸に乗って直接脳細胞の奥に到達するような音だ。    【写真 第5番札所地蔵寺】

 イメージは青く澄み渡る天空から天女が舞い降りてくるような音だ。

「ピィーーン、クァーーン、ピィーーン、ポァーーン」

 今日一日の出来事でオーバーフローしていた脳内メモリーが今静かにクリアーされていくのを感じていた。

箱庭の山の上に竹管からチョロチョロ水が流されている。どこから聞こえてくるのだろう。何かしかけがあるのだろうがわからない。しばし聞き入っていた。

お参りを終え記帳の時にお坊さんに仕組みを聞いてみる。

「流れている水の一部が水滴となって、地中に埋めてある壷の中に落ちた時の音が反響し残響しているのです。大きさの違う壷が埋めてあり音色が違うのですよ」

「なるほど! 特許物ですね。特許は取ったのですか」

「いやいや、昔から知られている仕掛けですよ。高級料亭の庭などによくありますよ」

 ついゲスな質問をしてしまった。

 知らなかったのは私だけかなと味噌を付けてしまった。

 そしてまた箱庭の水琴窟の音を聞きに行き、しゃがみこんで壷音とは信じられない清んだ極楽浄土の音に癒されていた。


      羅漢堂にて


 民宿森本旅館は門前通りの目の前にあり、おばあちゃんとお孫さんが迎えてくれた。

 到着時間は十五時五十分で道に迷ったりした割には予定通りであった。

 お風呂に入る前に羅漢堂に戻ってみることにした。

 入口正面に金色に輝く仏様(阿弥陀如来だったと記憶する)が祭られており、その左右に分かれて色彩も鮮やかな等身大の羅漢像が並んでいる。

「今は三百体ほどしかありません。大正四年の火災で二百体ほど焼失しました」

 入口左に座っていた管理のおばあちゃんが案内をしてくれた。

「羅漢とは修行僧のことで漢には男の意味があるの。しかし長年お世話をしていて気づいたことだけど女性が三体いますよ。注意して御覧なさい」

 笑っている者、怒っている者、修行が辛いのか泣きそうな顔をしている者、喜怒哀楽、さまざまな顔をした羅漢達。

 夕暮れが迫りうす暗くなった回廊の中、通路は約一メートルほどで羅漢達は目と鼻の先に立っている。一種異様な雰囲気をかもし出しており、不気味さを感じて女性の羅漢様にお目にかかりたいどころではなかった。

 大師堂に抜けると一番から八十八番までお寺の御本尊のミニチュアが並んでいる。

 帰り支度を済ませたおばあちゃんがやってきた。

「ここで全部お参りしたら八十八ヵ寺すべてお参りした事になるのですよ」

「冗談でしょう?」

 笑っていた。

 お世話をしていての失敗談などいろいろ話を聞き、楽しい時間を過ごさせてもらった。

 失敗談はおばあちゃんの信用問題に関わるかもしれないので書くのは差し控え、仏様について教えていただいた事を記録に留めておこう。

 仏様には悟りを開いた人、悟りを求める人、仏の守護神になった人達がいる。上から悟りを開いた如来、悟りを求める菩薩や明王、仏の守護神になり人々を見守る天、そして羅漢であり、羅漢はまだ修行僧である。

 おばあちゃんが言っていた。

「会社で言えば如来は重役だね。菩薩が部長さん、明王はうるさい課長さん、天は一番社員に近く面倒みがいい係長さん、羅漢はさしずめ主任さんかな。ところであなたは?」

「不動明王ではなくバタバタの暇無し明王です」

 笑っていた。

 よく耳にする仏様を復習しておこう。

 第一番札所霊山寺の十三仏を覚えていたのが役に立った。

 如来:釈迦、大日、阿弥陀、薬師、あしゅく、五智、る遮那

 菩薩:観音、地蔵、勢至、弥勒、文殊、虚空、日光、月光、普賢

 明王:不動、降三世、金剛夜叉

 天 :弁財天、毘沙門天、帝釈天、大黒天、吉祥天、梵天

 


      民宿森本旅館にて


 お風呂からあがると食事に呼ばれた。

 私を含め五人が食卓を囲んだ。

 今は真冬、お遍路のシーズンであればこの部屋もお遍路さんでいっぱいになるのであろう。

 神戸から来たと言う一組の夫婦と仕事で来ている人と高知から車でお遍路中の人であった。

車でお遍路中の人は二回目のお遍路とのことであった。

 私の話になった。

「歩いて回っている?」「旧お遍路道を?」

 リフレッシュ休暇だと言える雰囲気ではなかった。

「若いうちに歩いて見ようと思いまして」

「一人で歩いて?」「こんな冬に?」「なぜ?」

 無軌道な無分別なお遍路さんに見えたのだろうか、あきれた顔をして聞いてはまた質問をしてくる。

 しかしご夫婦でお遍路中のご主人から再度「なぜ歩いてのお遍路をする気になったのですか、ましてや真冬に?」の質問には困ってしまった。お遍路の初心者のくせに生意気に思われるかもしれないが正直に話すことにした。

「私は信仰とは縁遠い者ですが、お遍路さんは何を考え歩いていたのかそして何を感じたのか、私も歩いて見て少しでも先人達の心を感じる事が出来ないかなと思いまして、もちろん気候のいい時期にとは思っていたのですがなかなか休暇が取れなくてこんな時期になってしまいましたよ」

 やはり場がしらけてしまった。笑って聞き流しておけばよかったと後悔したものだ。

 話が一段落した時、突然、ご夫婦の奥さんが堰を切ったようにしゃべり始めた。

「羨ましい。羨ましく思います。なんとか巡ってみようと決心して頑張ってみましたが三番さんで限界でした。諦めてそのまま車でここに来ました。明日は神戸に帰ります。頑張ってください。私達の分まで頑張ってください」

 うっすらと涙を浮かべての訴えに胸が痛んだ。話しでは足に業をお持ちの人だった。

 すさまじいまでの決意でお遍路に望む人の気迫を感じた。そして彼女はその気迫を私に譲ってくれた。

「頑張ります」

 それ以外に言葉はなかった。

 布団に入ったがしばらく考えがめぐっている。

 長い歴史の中には決死の覚悟で望んだものの途中で息絶えた人もいただろう。今の時代はタクシーや船で神戸まで帰る事ができる。よかった。よかった。

「何か業をおもちか?」のおばあちゃんの顔を思い出していた。


        六、第六番から第十番札所まで


      第六番札所 安楽寺へ


 十二月六日(水曜日、晴れ)

 七時半に宿を出発した。

 空気が冷たくピンと張りつめている。

 今日の宿泊は自然環境活用センター金清温泉の白鳥荘である。

 宿坊や民宿は一泊二食付きでほぼ四千五百円前後に対し、今夜の宿は温泉付きで四千七百円である。ちょっぴり得したような気持ちだ。なんとか早めに着いてゆっくりと温泉を楽しみたい。

 今日の行程は短く見込んでも二十キロはある。日が暮れ始める五時までには着きたい。ほとんどが平地だろうからなんとか行けるだろう。

 

 山門が見える。

 一般道路を歩いて約五キロで安楽寺に着いた。

 消失寸前の霧に木々の木漏れ日が幻想的なカーテンを演じている。二日目の始まりを祝福する仏様の後光のようにも思われおもわずカメラに納めていた。

 旅が終わり現像した写真の中に、山門に向かって右手方向から低い角度で射し込む木漏れ日がしっかり写っていた。   【写真 後光のような朝日】

 写したことすら忘れていた一枚の写真から空気も心もピンと張りつめた静かで誰もいない一人だけの二日目の旅の始まりが思い出される。

 温泉山安楽寺と銘打つこのお寺に温泉と関連ありそうなものが見当たらない。

 寺務所入口の障子一枚一枚に車輪のような模様が書かれている。

 あたかも時代劇に見る火消しの詰所のような雰囲気だ。なにか温泉と関連があるようにも思われる。   

 記帳の時、聞いてみたがわからないとのことだった。

 後で気づいたのだが仏像の後に輝く後光の種類で放射光の模様に似ていた。

 温泉山という山号については、昔は二キロほど離れた安楽寺谷という場所にあり、万病に効く温泉が湧くお寺として親しまれていたが、長曽我部軍の兵火により消失してこの地に再建されたということだ。ここでも長曽我部軍の悪行を耳にした。

 今日もお天気はよさそうだ。

 静かなそして孤独な弘法大師と同行二人のお遍路の旅が始まった。



      第七番札所 十楽寺にて


 細い田舎道を通り十楽寺に着いた。

 一・二キロほどの近い道程はハイキング気分である。

 十楽寺の山門は龍宮城を思わせる美しい朱塗りの鐘楼門だ。

 周囲を見回すと駐車場に便所と公衆電話がある。

 昨夜、家に電話連絡するのを忘れていた。

 心配している事だろう。さっそく電話をする。

「私だ。生きているよ。心配しただろう?」

 冷たい返事だった。笑っている。

「ううん、一番さんで二人見ただけで次ぎに会ったお遍路さんはレーサー服を着てバイクに乗っていたよ」

「四国に冬は無いみたいだ」

「話し相手? 犬、牛、猪、鳥、おばあちゃん」

「今日は温泉に泊まるぞ」

 女房は笑っていた。

 お寺は非常に綺麗に整備され現代風のお寺のイメージを受けた。

 宿坊の前を通る。広々として気持ちよさそうな宿坊であった。

 日が長い季節のいい時期であれば十楽寺まで行程を延ばし、ここの宿坊に泊まってみたいと思ったほどだ。


      第八番札所 くまだにじ≪熊谷寺≫へ


 七番を後にしてしばらく進むと橋にさしかかった。

 橋のたもとに道標がある。

 真っ直ぐを指す道標に右向きを示す板が打ちつけてある。

 右に進むべきか真っ直ぐ進むべきか困ってしまった。

右は小さな川の土手ぞいに山の方に向かっている。

 十四万分の一の地図を広げて見ても七番と八番さんは東西ほぼ平行にあり納得できない。

「近道だろうか? 誰かのいたずらだったら?」

 また猜疑心が頭をもたげてしまった。

 橋のたもとに一軒家がある。

「今日の行程は長いから、確かめてから動こう」

 道から下りて一軒家を訪ねてみた。

「こんにちは」返事が無い。

 玄関は開いていて中が伺える。

「誰かいませんか」留守のようである。

「のどかだなあ!」

 空き巣に入られるんじゃないかと私のほうが心配である。

 この国には無用のお節介なのかもしれない。

 しかし困ってしまった。尋ねる人がいない。

 道に戻り、車でも通るのを待ってみた。

 静かだ。もう十分以上待っているが人っ子一人通らない。

「右に折れて小川の土手を歩くか」

 私はこの道を行きたいのだが不安であった。

 諦めたその時バイクの音がした。ミニバイクが走ってくる。必死の思いで道に出て両手を広げて止め、乗っていたおじさんをびっくりさせてしまった。

 どちらの道が正しいのか尋ねると真っ直ぐだと教えてくれた。

右は小さな川の土手ぞいに山の方に向かっている。

 しかしそのおじさんも道標を見ながら不思議そうに首をひねっていた。

 歩いて見て気がついたのだが右の土手を歩く道は近道であったと推測された。

 真っ直ぐ西へ歩いていたつもりだが実は南西に向かい、そして北にのぼりそれからまた西に向かっていた。あの近道は北に上り西への道につながっていたのだろう。遠回りをしたようだ。

 アスファルトの道が延々と続く。

 平坦な道だろうと予想していたが上り坂、下り坂もあり、足の痛みは昨日の地道を歩いていた時よりもきつい。

 歩道の縁石に座って休みを取る回数が増え始めた。

 我慢、我慢、頑張れ、先を急げ!


 やっとの思いで熊谷寺に着いた。

 参道の正面に二層の堂々たる山門が見える。この山門は四国霊場の内、最大の物で高さは十三メートルもあるらしい。

 仁王門の中には赤い仁王が立っている。

 一礼をして山門をくぐると、ここも広大な敷地で綺麗に整備されている。

 右手の大きな池や周辺の木々も見事なまでに手入れされ、極楽浄土を思わせる。

 境内を通り抜けできる道のベンチで休息していると、通りすがりのおばあちゃんが私を見ていっしょに休息を取った。

 おばあちゃんはこのお寺の上の方にある療養所に行く途中だとのこと。

「綺麗な大きな池がありましたね」

「中の島には弁天様がお祭りされてますよ」

 そう言われてみると池の中央の島に祠があった。

「なぜ池の中に?」

「弁財天様は芸事、お稽古事にご利益をもたらす仏様で池の湖面で琵琶を奏でておいでだ」

 お孫さんの話しなど楽しいひと時を過ごしていた。

 そして九番さんへの道順を詳しく教えていただいてお別れをした。

 さあ本堂へ行こう。


 本堂の前に弘法大師の銅像が立っている。

 お参りを済ませた後ベンチに座ると弘法大師と向かい合わせになった。

「あなたは四十二歳の時、大きな目的を持って行動を起こした。

 末法の訪れを憂え、四国をかわきりに全国の民衆救済の旅に発った。温泉を見つけては治療に役立て、石炭石油の使用方法を教え、灌漑用水工事の指導などの偉業を残した。私はあなたが歩いた道をただ歩いている。何か得るものがあるだろうか。八十八ヵ寺結願まで何年かかるかわからないが、ただのリフレッシュの旅烏で終わってしまうのではないかと危惧している。歩く事が、先人の歩いた道を見て回る事が修行の一つになるのだろうか」

 誰もいない静かな雰囲気の中で弘法大師と私の会話は三十分ほど続いた。

「私なりの判断のもとに限られた時間と体力の限り、与えられた試練には耐えて見せる」

 弘法大師と約束をして別れた。


     第九番札所 法輪寺へ


 村を抜けると周囲一面田んぼで平坦な道ではあるが、日影が無く日差しがきつい。

「九番さんで遍路笠を買おう」

 眩しさと汗に体力の消耗も激しいようだ。肩にかけたバッグがだんだん重く感じ始め肩に食い込んでくる。

 あの三番から四番への道中、口をついて出た言葉がまた出始めた。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」

 南無とは帰依すると言う意味で一身を仏にゆだね信仰すると言う意味である。「南無阿弥陀仏」の南無だ。すなわち「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来様に帰依しますの意味である。

 そうすると確かに「弘法大師」は空海が亡くなられた時に醍醐天皇より贈られたおくり名であり「遍照金剛」は唐で密教を学び、師である恵果から奥義を伝授された時のかんじょうめい灌頂名である。つまり「南無大師遍照金剛」は「弘法大師様に身を委ねます」の意味である。


 自転車に乗った中学生くらいの女の子とすれ違った。

「ご苦労様です。頑張ってください」と声をかけてくれた。

「ありがとう」

 突然の事に私の声はうわずって天まで届く大きな声だった。

顔はよく見なかったがたぶん美人で優しい顔をした子だったろう。

 お遍路さんには労いの声を掛ける慣わしがあるとは聞いていたがお遍路さんだとよく気がついたものだ。お遍路さんらしい臭いなどどこにも感じさせない私の出で立ちである。

 誰もいない周囲一面田んぼ道を、へんなおじさんがトボトボと歩いて来る。変質者だったらどうしよう。どう見てもお遍路さんには見えない。一気に通り過ぎよう。ふと左手を見ると数珠を握り締めている。お遍路さんだ。

 ホッとした瞬間、声が出たのだろう。

 これが誰もいない山道だったら気持ちが悪いではすまない。恐怖を感じさせる羽目になっていただろう。

 やはりお遍路さんはお遍路さんらしい身なりをするべきかもしれない。せめて遍路笠ぐらいは身に付けておくべきだったと反省したものだ。


 お寺の屋根が見えた。

 しかし歩けど歩けど近づかない。相当疲れてきたようだ。

 お寺の屋根が見えてから到着までの遠かったのには閉口した。お寺が逃げて行くように思えたのだ。

 法輪寺到着は十二時三十分、我ながらハイペースで巡ってきた事を誇らしくも感じていた。

 八十八ヵ寺の中で唯一本尊が釈迦如来の涅槃像だと聞いてきた。それも弘法大師が自ら彫った仏像である。

「涅槃」とはお釈迦様が八十歳の時、沙羅双樹の下で最後の説法をされ入滅された時のお姿である。

 見せて欲しかったが五年に一度のご開帳時にしか見れないとの事で残念である。

 十二月だと言うのにあまりの日差しのきつさにお遍路笠を求めたがここには無く、十番にあるとの事で今日の最終目的の十番まで強い日差しを我慢しなければならなくなってしまった。


 右を見ても左を見ても周囲は田んぼであるこのお寺の真向かいに小さなうどん屋が一軒ある。ここで昼食を摂ることにした。

 看板が気に入った。

「手打ちうどん五百円で食べ放題」

 中に入ると客が二人いる。地元の人のようだ。店の女将さんと世間話が弾んでいる。

 わかめうどんを大盛り二杯いただいてしまった。

 私がお遍路中であることがわかってからは一段と賑やかになった。

 長曽我部一族の所業に始まりお遍路さん達から聞いた遠い国の話などを大きな声で面白おかしくお喋りをする女将さんとお客の掛け合いがとても楽しくて時間を忘れて聞いていた。

「滋賀でもたぬきはそばだよね」

 私は相槌を打った。

「関東から来たお年寄りのご一行が立ち寄った時「私はたぬきうどんにするわ」「私も」「私も」と注文をもらったのだけど面食らってね「きつねですか?」と聞きなおしたの。そしたら「たぬきうどん」と言って不機嫌な顔をするの。うどんにあげがきつねで、たぬきはそばにあげでしょう。困ってしまったの」

「そうだ。きつねうどんにたぬきそばだ。昔からきつね言うたらうどんにあぶら揚げ、そばにあぶら揚げを乗せたらたぬきと決まちょるがな」

 お客の合いの手が入る。

「ご一行の運転手さんが入って来たので小声で尋ねてびっくり。天カスだけのかけうどんの事がたぬきうどんだったの」

「ほーか。所変われば品変わるだな」

 大笑いである。私の東京での失敗の逆がここでも起こっていたのだと私も大笑いをしていた。

 立ち食いの店でたぬきを頼んだが「うどんですか、そばですか?」と聞かれた。不思議に思ったが「そば」だと言って待っているとかけそばが出てきた。間違いだと思い周囲を見るが注文待ちは私だけで狐に摘まれたような気持ちでかけそばを食べた事を思い出す。

「関東ではてんぷらうどんを頼んだら、掻き揚げの野菜天が出てきますよ」

「わしらの言うてんぷらうどんは何て言うんだ?」

「海老天うどん、海老天とはっきり言わないと野菜天ですよ」

「あら、てんぷらうどんと言われたら海老をだしてたわ」

「西の国の人だったのでしょうね」

「今度から関東風ですか、関西風ですかと聞こうかな」

 またもや大笑いである。

 一時間もの休息を楽しんでいた。


     第十番札所 切幡寺へ


 重い腰を上げて切幡寺へ向かう。

 だらだらと続くコンクリートの道はいやおう無しに疲れを誘う。

 暑い、ほんとに四国には冬が無いのではないかと思ったほどだ。

 切幡寺の八百メートル手前から門前町が広がり、その入口に着いたのは十四時半であった。

 ほぼ予定通りに満足したものだ。

「お参りを済ませたら後は温泉だぞ」

 不思議なものだ。つい先ほどまで足の痛みや肩に食い込むバッグの重さで先に進む気力が徐々に薄れて行くのを感じ、はては考える力も無く夢遊病者みたいにとぼとぼと歩いていた者が、目的物が明確になるとまた気力が徐々に蘇ってくるのを感じている。

 この辺りは仏具屋が多い。

 一軒の店に入り、遍路笠を買い求めた。

 菅笠には「同行二人」と反対側に梵字が書かれている。

 他には「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」と書いてあるが浅学非才の私には難解である。

「ホー、迷うが故に三界の城にして、悟るが故に十方空なり。本来東西無し、いずこにか南北あらん」

「ヘェーすごい。意味はなんなんですか?」

 私が聞きたかったのに逆に聞かれてしまった。

「たぶん三界は欲界、色界等で城は「自分だけの世界」の意味があるから、欲望の世界で悩んでばかりいるより、悟ってみるとすべての世界が実体の無い空しいものと気づくでしょう。「東西を失う」はなすべき方法がわからなくなる、途方にくれるの意味で「東西くれる」のことばがあり、東西に掛けた南北は自由で明るい世界を意味していると思いますよ。だから本来途方にくれるようではいけない、必ず自由で明るい世界をみつけることができるでしょう。の意味だろうな」

 若い店員さんは半分口が開いたまま尊敬か軽蔑かの眼差しをして私を見ている。

「間違っていましたか?」

 首を振って笑っていた。

 今思えばよく空言が言えたものだと恐縮している。しかしこれに近い意味である事には間違い無いであろう。

 さっそく笠を着けてみるがしっくりいかない。見かねた店員さんが要領を教えてくれて、笑顔で見送ってくれた。

 途中、ジュースで口を潤し、今日の最終、切幡寺へ進む。

 かなり急な坂道を登って行くと天にも届く石段が迎えてくれた。

 その階段の異様さに立ち竦み、階段脇の看板を読むと三百三十三段あると書いてある。

「うあー」思わず叫んでしまった。

 本日の最後にこんな難関が待っていたとは予想もしていなかった。

「上がるしかない。頑張れ。歩け、歩け、よいしょ、よいしょ」

 掛け声無しでは挫けそうになる。

 やっと中腹まで来たようで踊り場がある。

 そこには六体のお地蔵様が祭られている。

 お地蔵様が笑っていた。目を閉じて含み笑いをしている意地悪そうなお地蔵様もいる。

「やっと来たか。まだまだ先があるぞ。疲れたから引き返すか?」

 そんな問いかけをしているような顔をしている。

 羅漢堂で教えていただいた事を思い出した。

「お地蔵様はそれぞれの世界をお守りする菩薩様なの。六道つまり天界、人界、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄それぞれの世界を見守る仏様で六体、六地蔵が祭られますよ」

 六地蔵のことは「日本昔話」でもよく知られている。

「阿修羅はどんな世界ですか」

「権勢欲に満ち、争い、憎しみ、嘆きの世界だよ」

「餓鬼は?」

「常に飢えに満ちたむさぼりの世界だ」

「地獄絵にもそのような世界の様子が書かれていますね。死んだ後にそんな世界があるとは思えませんが」

「いいえ、現世の事ですよ。気持ちの、心の世界じゃないかな」

「うあー」思わず叫んでしまった。

 本日の最後にこんな難関が待っていたとは予想もしていなかった。

「上がるしかない。頑張れ。歩け、歩け、よいしょ、よいしょ」

 掛け声無しでは挫けそうになる。

 やっと中腹まで来たようで踊り場がある。

 そこには六体のお地蔵様が祭られている。

 お地蔵様が笑っていた。目を閉じて含み笑いをしている意地悪そうなお地蔵様もいる。

「やっと来たか。まだまだ先があるぞ。疲れたから引き返すか?」

 そんな問いかけをしているような顔をしている。

 羅漢堂で教えていただいた事を思い出した。

「お地蔵様はそれぞれの世界をお守りする菩薩様なの。六道つまり天界、人界、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄それぞれの世界を見守る仏様で六体、六地蔵が祭られますよ」

 六地蔵のことは「日本昔話」でもよく知られている。

「阿修羅はどんな世界ですか」

「権勢欲に満ち、争い、憎しみ、嘆きの世界だよ」

「餓鬼は?」

「常に飢えに満ちたむさぼりの世界だ」

「地獄絵にもそのような世界の様子が書かれていますね。死んだ後にそんな世界があるとは思えませんが」

「いいえ、現世の事ですよ。気持ちの、心の世界じゃないかな」

「なぜそんな怖い世界に仏様がいるのですか」

「自制し努力して上の精神世界を求める人の心の寄り所じゃないかな。自分の心情を打ち明けたり、ご加護を求め祈るための」


 石段を登りきるや否やベンチに座り込んでしまった。

 一息いれてお参りを済ませ、境内にある「はた切り観音」の前に立った。

「なんと美しいお顔だ」

 高さ約三メートル位の観音様の美しい事、しばし見とれていた。

 弘法大師がこの地に来られた時、困っていた弘法大師に惜しげも無く今まで織っていた布を鋏で切って差し出した娘さんが、やがて即身成仏されて観音菩薩の化身となったそうだ。

 鋏と布を持った観音様、寺の名前もこの「はた切り」が由来である。

 帰ろうと石段の所まで来るとお孫さんであろう娘さんに手を引かれたおばあちゃんが登って来た。

 お遍路姿ではない。しかし今日初めて出会う参拝者である。

 おばあちゃんも娘さんも着物姿で気品さえ漂っている。

 それよりも驚いた事はこの三百三十三段の石段をお孫さんに手を引かれながらも登ってきたおばあちゃんが信じられなかった。

「ご苦労様です」と思わず声をかけていた。

「ありがとう」

挨拶を返した娘さんの顔を見て二度びっくりである。

 あまりにも可愛いい美しい顔は「はた切り観音」の化身ではないかと一瞬思ったほどである。

 私は石段を二~三段下りて振り返った。

 決して美しい娘さんに後髪を引かれたわけではない。振り向いたら二人の姿が忽然と消えてしまっているのではないかとそんな気がしたからだ。

 おばあちゃんを気遣うようにすこし前かがみで手を引いているお孫さんと、一歩一歩喜びに向かって歩むおばあちゃんの美しい姿がまだそこにあった。


 三百三十三段の石段を下りきった時には、足がガクンガクンと機械仕掛けのような歩き方をしている。

 さあ宿泊先の金清温泉をめざそう。聞いた話では二~三キロの近い距離だ。

「温泉に浸かってからビールを飲んで・・・」

 頭の中はもうそれしかない。

 黙々と歩いていた。

 一台の車が止まった。運転手は女性だ。

「どこに行くの?」

 行き先を告げた。

 話では、歩いて行くとまだ一時間はかかるとの事だ。ましてや急な山道との事。

「同じ方向なら乗せてあげれたのに残念ね」

 時計を見ると十五時五十分。

「今なら後戻りしてタクシーで行った方がいいよ。仏具屋の前に公衆電話があるからタクシーを呼んでそうしなさい」

「ありがとう」

 心配してくれた親切な人だった。

 しかし道に迷っての後戻りならまだしも、タクシーを呼ぶために後戻りは気にくわない。一時間かかったとしても日暮れまでには間に合う。ばてないように怪我しないように行けば大丈夫だ。先に進もう。

 山道になった。進むにつれ傾斜がきつくなり始める。

 先ほど聞いた通りの山道だ。一気に疲れが出始めた。

 行けども行けども変化の無い山道が続く。

 休憩だ。切幡寺の三百三十三段の上り下りが堪えてきたようだ。

 休憩しては気を取り直しまた進む。

「金清温泉に向かう車が通ってくれないかなあ。一台ぐらい来るだろう。その時は乗せてもらおうか」

 三十分も歩いた頃には良からぬ考えが頭の中を過ぎりはじめた。

 あの天まで届くような石段をクリヤーすれば極楽の温泉だと思っていたのに、もう一つ最後の難関があったとは無情である。

 これも何かの試練だと何回も言い聞かせたが、この辛さは尋常ではない。ふくらはぎが硬く引っ張り、歩くのをやめさせようとしている。

「タクシーにした方がいいよ」

 先ほどの声が脳裏をかすめる。しかしもう前に進むしかない。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」


 着いた。着いたぞ。白鳥荘に着いた。やったぞ。頑張ったぞ。

 その時であった。後ろから客を乗せたタクシーが上がってきた。この嫌なタイミングには「これでもか」と追い討ちをかけられたうえに「ざまあみろ」と嫌味をされたような感覚がふつふつと湧き上がるのを感じたが、持って行き場の無い空虚さに己を誉める事と慰める事しか出来ない事を知った。

 フロントでの私の姿は哀れを誘ったのか元気づけようとの心くばりからかフロントの人が早口でいろいろ教えてくださった。

「最終の八十八番大窪寺がつい北の方にあり、八十八番を終えたらまたここを訪ねてくださる方が多いのですよ」

「一番速い人は五十五日で歩いて巡られた方がいらっしゃいました。普通は六十日ほどかかると聞いていますが」

「バスで約十二日、タクシーでも約十日と言われています」

「十一番さんまで約十五キロありますので明朝はタクシーにされた方がいいですよ。何時にお呼びしておきましょうか?」

 十五キロあるとは、私は勘違いか思い違いをしていたようだ。

 明日は十七番さんまでお参りし帰路につく予定だ。

 ここから徳島の方に向かって引き返す形のお遍路だから、安心感からつい距離のことを甘く考えていたようだ。

 明朝八時に出発する予定でタクシーの予約を依頼した。


      かねきよ≪金清温泉≫ 白鳥荘にて


 白鳥荘に着いたのは十七時で予定通りと言えば予定通りだが疲れ方は予想外であった。

 ここ金清温泉は出発前に買い求めた徳島県地図にも載っていない場所で、出発前、宿泊先を紹介していただいた市場町役場の方に教えてもらった場所である。

 まだ新しい綺麗な和風の旅館だ。

 旅館と言うよりは、周囲に大きな池を配し、運動場、緑地公園、ゲートボール場、ハイキングコースを持ち、温泉、宿泊設備、大小の会議室を持った町営の自然公園センターである。

 広いロビーは和風旅館のわりにはロッジ風の造りだ。

 お風呂に飛びこんだ。誰もいない。おもいっきり足を伸ばし、あおむけ、うつぶせ交互に背を伸ばしくつろいだ。

 なんという幸せ!

 部屋に戻り上気した体を冷すため窓を開けると八畳の和室から水面を遊び泳ぐ親子の白鳥が見える。二十羽はいただろう。

 池のほとりの紅葉をバックにして、夕日のサーチライトを受けた白鳥は純白に、黄金色に浮かび上がっていた。

 食事の後さっそく地図と冊子を広げ心配になった明日の行程を再確認した。

 明日の行程は帰りの乗船時間が律速条件であり、効率よく行動しないと帰れなくなる。

「明日は時間との競争だな」

 布団にうつ伏せで地図を見ていたが文字がかすみ始め、ふと気づくと眠っていたようだ。消灯。


     私からお遍路さんへのアドバイス


 私が買った徳島県地図には金清温泉が載っていなかったので場所の説明をする。

 切幡寺から西の方に「尾開」という地名がある。この辺りだ。

 切幡寺から二~三キロと聞いたが実質五キロ位と見た方が安心だ。白鳥荘のパンフレットには市場町の中心より北東五キロと書いてある。

 住所 徳島県阿波郡市場町大字尾開字日吉四一五番地の一

 市場町金清自然環境活用センター金清温泉白鳥荘

 電話 0883・36・5678


     七、第十一番から第十七番札所まで


 十二月七日(木曜日 晴れ)

 さあ、今日は時間との競争だ。

 鳴門公園港まで戻り、日に朝と夕方の二本しかない船便の十五時四十分発に乗って帰る予定だ。そのためには予定の十七番を終えてからJRこう府中駅発十三時二十四分の電車に乗らねば間に合わない。

 昨夜確認した今日の行程は、白鳥荘から十一番へタクシーで行き、十一番から歩いてJR鴨島駅に出て電車で府中駅まで行き、十三番から十七番までの行程で一番南に位置する十三番大日寺まではタクシーで行き、十三番から十七番までを歩き、そして府中駅に戻ってくる予定だ。

 地図で見る限りほぼ平坦で無理なコースではないがそれでも全行程で約十五キロは歩く計算になる。やはり時間との競争だ。

 天候には恵まれた。後は怪我をせず道に迷わず順調な旅を祈るばかりだ。

 今回十二番焼山寺をはずした理由は、地図を見るとよくわかるのだが一番から十七番までの内、十二番だけがかけ離れた遠くの山の頂上にあり、案内の冊子には十一番から四十一キロ、十二番から十三番へは三十キロと書いてある。日の長い夏場でも十一番から十三番まで二日はかかると予想され、この冬場は到底無理だと考えたためだ。

 焼山寺には未練が残るが、次回のお遍路の時は、いの一番に焼山寺をお参りし、阿波の国最後の二十三番薬王寺までを巡り「発心の道場」を打ち終える計画である。

 さあ八時だ。出発だ。


      第十一番札所 藤井寺にて


 木々も、落ち葉も朝露にしっとり濡れていた。

 境内にはお掃除をしているおばあちゃんが一人いるだけで静かな一日が始まった。

 三方を山に囲まれたこの藤井寺はその名の如く弘法大師お手植えの五色の藤で有名だ。

 右手の池を囲むように藤棚が見える。

 藤の花は四月下旬から五月初旬が見頃だろう。

 地面に届くかと思われるほどの砂擦りの藤が朝陽に輝き、夕にはライトアップされた明かりの中で幽玄の世界を演出していることだろう。今は真冬、残念である。

 奥に本堂がある。低い角度で射し込む朝日を浴びた本堂の中に目が行くと、天井全面に雲龍の墨絵が施されている。

「すばらしい」

 おもわず履物を脱いで本堂に踏み入り天を見上げた。

 黒い龍は恐ろしいほどの迫力で私を睨んでいる。襲いかかってきそうな迫力だ。

 お参りを済ませ本堂の数段の階段を下りると右手に看板がある。十二番へのお遍路道の入口だ。予想はしていたがやはり旧お遍路道があった。看板には「健脚で五時間、平均六時間、弱足で八時間」と書いてある。

 今回の旅では十二番をはずすと決心していたものの、お遍路道の入口でしばし茫然と立ちすくんでいた。

 それはお遍路道を目の前にしての未練もあったが、それ以上にこのお遍路道の「入口」がかもし出す異様な雰囲気であった。

「なんと寂しい入口だ」

 そこは本堂のすぐ横から後方にかけて木々が鬱蒼と茂る山になっている。その藪に人一人通れる幅と高さの道が暗闇へ向かっている。

 ここに立った人の悲哀の感、喜悦の情がひしひしと伝わってくる。

 この入口で不安と戦い躊躇し、そして決心し歩き始めた人の緊張に満ちた顔も見えてくるようだった。

「弘法大師と同行二人、歩く事これ修行なり。喜んでこの試練に耐える。息絶えて満願成就できずとも我この決意に悔いは無し」

 先人達の声が聞こえてくるようだった。

 予定を変更してこの道を歩いてみたくなってきた。

「ダメだ。不用意で軽率な行動は後悔するぞ。特に今は冬場だ」

「このまま後ろを向いて十三番に向かうのは尻尾を丸めた負け犬のようじゃないか」

「来年、頑張れ。次回がある。まだ七十七ヵ寺も残っているぞ」

 自分との葛藤が続いている。

「お遍路ですか」

 後ろから声をかけられ我に戻った。

 お世話をしていたおばあちゃんだ。お遍路道の入口でたたずむ私を不思議に思ったのだろう。「ええ」

「先月、一人お入りになられましたよ」

 お入りになる!!あまりにも的確すぎる言葉に唖然としてしまった。そして後ろから押しこまれそうな錯覚を覚えたのです。

「途中で食事のできる所がありますか」

「ひと山越えた谷の所にうどん屋がありますが、冬場はやっていないでしょう。ふた山越すので水と食べ物が必要ですよ」

「そうですね、来年チャレンジするつもりです。ありがとう」

 つい負けず嫌いの言葉が出てしまった。

 礼を言って別れたが、背中におばあちゃんの鋭い視線を感じる。

「若いもんは格好だけのお遍路だね。チャレンジする勇気も無いのかねえ」と呟きながら私の方を見ているような気がして、後ろめた い歯切れの悪い本日のスタートになってしまった。

「さあ次ぎは十三番だ。急げ」


      第十三番札所 大日寺へ


 十一番藤井寺を後にして、約三キロほど歩いてJR徳島線の鴨島駅に着いた。

 ここから府中駅までは電車で時間稼ぎだ。

 車内でM造船玉野工場を退職された方と隣り合わせになった。

 つい二ヶ月前に仕事で玉野工場を訪問していたので親近感もあり話がはずんだ。

 彼もお遍路の経験者で私が遍路笠を持っていたので懐かしく思ったのだろう。

「なぜ札所と言うのか知っていますか」

 知らなかった。

 第一番霊山寺をお参りした時「御影袋」をいただきその中に「四国第一番霊山寺」と書かれたお札と御本尊の御影が書かれたお札が入っていた。各お寺でもお参りを済ませ記帳所に行くと二枚のお札をいただいた。巡拝した記念にその御影のお札をいただけるので札所というのであろうと思っていた。

 しかしまったく反対であることを知った。

 昔はお参りした証に薄い木のお札に住所、氏名を書いてお寺の柱に打ち付けていたことから札所と言い、お参りをする事を「打つ」と言うのだそうだ。今は紙の納札を買い求め住所、氏名、日付を書いて各お寺の本堂と大師堂の納札箱にお納めするらしい。

 一ヵ寺最低二枚、百枚百円ほどで一番札所で買い求めるとの事だ。

 巡礼の回数を納札の色で区別し、白札から緑、赤へと六種類ほどあり、確か七回以上が赤札で二十回以上は銀札、五十回以上が金札と聞いた。

 知らなかった。

 順打ち、逆打ちの言葉は知っていたが、私のイメージ的理解は神社のお参りで「柏手を打つ」という様にお寺をお参りしても「打つ」と言うのだろうの程度であった。

「札打ちの始まりは、落書きされるより札を打ってもらうほうが良かったからではないでしょうかね。観光記念に名前や住所、挙句は恋人へのメッセージまで落書きする人がいますからね」

 大笑いをしながら楽しい時間を過ごす事が出来た。

 府中駅に着いて時計を見ると十時十三分だ。すこしペースを上げねばならない。

 この府中駅の近くに十七番はあるが、まずもっとも遠くにある十三番大日寺へタクシーで向かった。

 大日寺は道を隔てて向かいに一宮神社があり、別名一宮寺と呼ばれているらしい。

 珍しく仁王門や鐘楼門のような威風堂々とした山門が無いお寺だ。電車の中で山門の話を聞いたばかりであったから気がついたのであろう。

「お寺の門をなぜ山門と言うのか知っていますか」

 知らなかった。神社の入口が鳥居で寺の入口が山門と言う程度の理解であった。

 お寺のファーストネームには必ず山がついている。だから山門と言うそうだ。

 たとえば第一番の霊山寺のファーストネームは竺和山だ。天竺の霊山を和の国(日本)に移すと言う意味の名前で竺和山霊山寺だそうだ。

 ここ第十三番札所大日寺のファーストネームは大栗山、同じ大日寺でも第四番札所大日寺のファーストネームは黒巌山である。

 お参りを済ませ十四番に向かおうとした時、境内でお掃除をしている若いお坊さんを見かけた。修行中のお坊さんだろう。十四番への道を詳しく教えてくださった。

 寒い朝なのに宿坊のお掃除は既に済ませてから庭のお掃除をしていたのだろう。

 故郷を遠く離れた異郷の地での修行は辛いだろうが「頑張れ、羅漢さま」

 心の中でエールを送りながら十三番を後にした。


     第十四番札所 常楽寺へ


 大日寺を出て寺の脇から裏手に向かって細いお遍路道がある。

 羅漢さまに教わった道だ。

 川の土手ぞいに歩き、県道を渡り十四番近くの村の中を歩いていた。

 この辺りの民家の石積み塀の石が普通の石ではない事に気づいた。

 よく見ると大半は木の化石である。

 初め見た時は丸太を積んで塀の代りにしていると思ったぐらいだ。触ってみると確かに石だ。一軒二軒の話ではない。どこにこれだけの化石があったのだろう。

 そんな事を考えながら歩いているうちに常楽寺に着いた。

 常楽寺は入口から一種不気味な雰囲気をかもし出している。

 入口の階段は自然の岩床を生かしたもので、境内も帯状の岩の背が地面から顔を出しておりその光景は岩の波が押し寄せているようである。

 デコボコで歩き難い岩の波の境内だが「流水岩の庭園」とはよく言ったものだ。斬新さを感じさせる。

 本堂に近づくと岩の背は松の太い根が地面を這いまわっているようにも見え、化石か岩なのかわからない。この不思議な光景は地獄に足を踏み入れたような錯覚を与えている。

 そして村の塀として使われていた木の化石の出所が、なんとなくわかるような気がした。

     第十五番札所 国分寺にて

 

十四番から十五番へは一キロもなかった。

 山門に立つと真正面に二層入母屋造りの本堂が見える。

 堂々たる造りだ。

 その本堂周囲の境内は見渡せると表現できるほど広く、国分寺全体が大きなお寺であった。

 しかし長い歴史を耐えぬいた大寺の面影を残す国分寺からはわびしさを感じる。

 私が受けた強烈な印象を例えると、浦島太郎が思い出探しに故郷のお寺を訪ね山門に立って懐かしい本堂や広い境内を見渡した時、その荒廃ぶりに愕然と立ち竦くみ寂しさを感じているさまであった。

 庭も無い広場みたいな境内の場景が、荒涼とした大地に威風堂々たる本堂や大師堂、鐘楼が取り残されたように点在している風に見え、閑寂な風情を感じたのだろう。

 今までのお寺と一種異なる雰囲気が妙に気になり、めったに見ない「巡拝の道しるべ」の冊子をバッグから取り出し第十五番札所国分寺の説明を読んで見て、やっと納得できたのだ。

 つまり聖武天皇が天下泰平を祈願して全国六十六ヵ所に国分寺を建てた。創建当時は二町四方(約二百メートル四方)におよぶ広い境内には七重の塔や東に築山泉水庭と西に枯山水の庭園が大洞門で連なった見事な庭園を有した境内であったということだ。

 ここ山門に立ち寂しさを感じるのは私だけだろうか。

栄枯盛衰に哀れを感じながら当時の面影を追いかけている。

 

 お寺に踏み入る時、山門で一礼するがその方向はなぜか本堂がある北向きだ。つまり北に本堂、南に山門を配している。

 地形的に本堂が北向きに取れない場合でも境内の参道は北に向かう形になっている。極楽浄土を思わせる境内の美しい庭を見ながら参道を北に進む形になっているのだ。

 また大半の大師堂は日いずる東側、または本堂に向かって右側に配置されている。

 地図を頼りの巡礼で方位を確認する癖からひょんな事に気がついたのである。

 菅笠に書いてある「何処有南北」と関係が有るのだろうか。

 もともと高貴な方や崇高なものへの謁見は北向きである事を思い出す。

 中には例外もあるので巡礼の際に例外を探して見るのも楽しいのではないだろうか。

 ここ薬王山国分寺はとにかく広く感じた。

 そしてここにも誰もいなかった。

 誰にも会わず黙々と歩き続け、疲れ果ててやっとの思いでたどり着き、お参りを済ますとまた晴ればれとした気持ちに戻れる。

 記帳所を捜す。そして閉められている受付の窓の近くにある押しボタンを押して記帳してくださるお坊さん、あるいはお世話の方を呼ぶのである。

 人に会える。そんな期待感を持ってボタンを押すのである。

 ここでも、そうであった。


      第十六番札所 観音寺へ


 十二月七日というのに暑い。

 速足で歩くからであろうか汗を拭きながら、セーター姿に遍路笠をかぶり黙々と歩いている姿に犬が吠える。それほど奇妙な格好だったのだろう。

 民家や商店が多くなってきた。もう観音寺は近いようだ。

 あとわずかで観音寺に着くだろう所で、心無い人のいたずらか邪魔になって移動させたのか私にとっては唯一頼りの道標があさっての方に向けられていた。

 昔からの物ではなく地元の人が作ったお遍路さんを励ます道標で「観音寺まで二百メートル」と書かれた物で、観音寺のつい目の前まで来ていたのだが、道標に従って左折させられてしまった。

 観音寺が見当たらない。門前をにぎわす商店街から遠ざかるようだ。おかしいと気づくのがまだ早かったため往復六百メートルほどのロスですんだが、時間との競争をして焦っている時に限ってこんないたずらにひっかかった事を悔しく思った。

 観音寺を確認してから後戻りをして、後から来るお遍路さん達のためにとその道標を正しい方向に動かしセットした。

 不安で自分を信じられなくなり始めた時に目に飛びこむ道標や、「お遍路ごくろうさまです」と書かれた小さなプラスチックの板が木の枝に結んであった時のあの大きな胸に包み込まれるような見えない人の情を何度も受けた私にとって、この仕業にはなんとも切ないやるせない気持ちがこみ上げてくるのであった。

 観音寺に着いた。

 本堂は改修工事中である。

 お参りをする時、白装束姿の本格的なお遍路さん達数人が般若心経を唱えながらお参りをしている。その後ろで私もお付き合いさせてもらいお参りをさせてもらった。

 今回のお遍路の旅で初めて出会ったお遍路さん達である。

 記帳所でいつものように押しボタンを押した。

 めずらしく若いお坊さんだった。

「ご苦労さまです」と言いながら腰をおろすお坊さんをまじまじと拝顔し、これほど真摯な気持ちになって「記帳をお願いいたします」と言えたのは、お遍路を始めてから初めてのことだった。

 顔を合わせた瞬間大きな声で「ご苦労さまです」と言ってくださったお坊さんはここが初めてだったのです。

 ふと十三番大日寺の境内でお掃除をしていた修行中と思われる若いお坊さんのことを思い出した。

 あの羅漢さまの「ご苦労さまです」「頑張ってください」の言葉が思い出される。

 疲れ果ててたどり着いた者に対しお坊さんが言ってくださる労いの言葉がどれほど気持ちをなごませてくれるか。

 ボタンを押すと無表情で出てきて窓を開け、無言で納経帳と軸を受け取り記帳をしてくれる。記帳のお礼のお金を払っても無言、別れるまで一言もしゃべらず窓を閉めてしまう

お坊さんも中にはいた。

 この寒い時期に呼び出して記帳していただくのが申し訳ない思いもしたものだ。

 記帳していただく私の方にも問題があったのかもしれない。

 記帳を求めるセーター姿のおっさんを分類すれば紅白のレーサー服を着た雷様と同属に見られていたのかもしれない。また中には酒を飲みふざけた観光客もいることだろう。記帳をする方も大変なお勤めなんだな。そんな事を考えてしまった。

 しかしすべての記帳所がそうだった訳ではない。

 記帳のお世話をしているご婦人やおばあちゃん達は品が良く愛想のいい人達だった。必ず声をかけて労ってくださった事に感謝している。

 それにしても凛々しい顔だちの若いお坊さんで、強く印象に残ったのである。


      第十七番札所 井戸寺へ


 観音寺をあとにしたのは十二時二十五分だった。

 急げ、急がないと十三時二十四分発の電車に間に合わなくなる。

 十七番まで四キロは充分ある。そして十七番から府中駅まで戻ってこなければならない。その距離は一・五キロ。

 お参りと記帳していただく時間を十分に切り詰め、切符を買い電車に飛び乗るまでを二分としても五・五キロを四十七分で歩かねばならない。

「急げー諦めるな」

 こんな時に限って電車の踏み切りや交叉点でひっかかる回数が増える。走れー。

 なんで荷物がこんなに重いのだ。体も重い。

「私の背に誰か乗ってるな。十七番を打ち終えたら私は四国を離れる。ぜひとも降りてもらうよ。どおせ降りるなら頼むから今降りてくれ」

 ブツブツ独り言を言いながら走ったり、前につんのめりそうになりながら歩いている。

 急げ。

 心臓は木魚を連打しているように鳴り響いている。


 十三時ちょうど井戸寺に着いた。

 大きく鮮やかな山門が見えた。

 しかし今まで見慣れた山門とはなんとなく違う。

 なんとなくひらべったい。

 どこが違うのか観察する余裕はもう無かった。

(後日調べて納得したが、朱塗りの派手やかな山門は蜂須賀公が別邸の門を寄進したもので武家屋敷の長屋門造りだそうだ。時間があればもっと細かく見て来れば良かったと後悔している)

 落ち着け。

 広い境内を有する大きなお寺だ。

 荘厳な薬師如来座像は息を切らして舞いこんだ私を笑っているような穏やかな顔をして見降している。

 予定通り十七番まで無事に打ち終えることが出来た事への感謝と、そして帰りの電車になんとか間に合うよう節にお願いした事は言うまでもない。

 さあ帰るぞ、急げ。

「おや、来た道と違うぞ」

 お寺の周辺の細い道で迷子だ。

「そうか、十八番への道だ」

 つい慌てて次ぎの札所への道に踏み出していた。

「間違いだ。府中駅へ急げ」


      八、一路家路へ


 あの人は何をしているのだろう。息を切らして真っ赤な顔をして汗びっしょりになって・・・遍路笠をかぶった奇妙な旅行者に周囲の目が集まる。

 電車には間に合って乗れたが、予定通り打ち終えることが出来た満足感といろいろな思い出に浸り、目尻は下がり口元は緩み薄開きでほころんだ顔は、周囲の人に不気味な印象を与えたことだろう。

 我に戻りノートと三色のボールペンを取りだしていつものように記録に留めた。

 徳島駅からは北に走る高徳線に乗り換え、鳴門線に乗り継いで鳴門へ向かう予定だ。

 徳島駅で乗り換えの電車を待つ間にビールと軽食を取りその後はベンチに座り物思いにふけていた。


 旅の記録は出きるだけノートに残したつもりだったが、この場所を思い出せない。徳島駅の構内ではなかったはずだ。確か野外でビールを求め、軽食も野外で摂り休息の為ベンチに座ったはずだ。

 大きなドーム状のテントの中だったかもしれない。そして「神戸へは高速船で一時間三十分」の看板が見えたのは覚えている。しかし徳島港へは行っていない。人間の記憶は十年も経てばこんな具合だ。ノートに書かれていた記録は記憶をかき起す。もっと詳しくメモを執っていれば良かったと残念に思う。

 走り書きの読みにくい汚い文字だが次のように書いてある。

「ビール、やきそば、ベンチで休息」

「徳島→鳴門は無駄。徳島港→神戸一時間半高速船あり」

 徳島港から神戸港へは三~四時間かかるフェリーしかないと思っていたが高速船がある事を知って悔しくて記録に残したのだろう。


 次回の巡礼はこの徳島を振り出しに考えている。

 次回はたいへんだぞ。阿波の国の三大難所と言われる標高九百三十八メートル焼山寺山の標高八百メートル付近にあるあの十二番札所焼山寺をかわきりに、六百メートルクラスの山の上にある二十番と二十一番を克服しなければならない。なんとか阿波の国二十三ヵ寺「発心の道場」を打ち終えたいものだ。

 今年はまだリフレッシュの感が強かった。

 それはそれなりに有意義ではあったが、しだいに歩いて旅する事の楽しさ、生意気なようではあるが歩く事と修行との関係がわかるような気がしてきた。

 一念発起した空海が歩いた。そして後世、厄払いの為あるいは業を持った人達がおひゃくど参り的感覚で歩いた。それがどんなものか私も歩いてみよう。その程度の意識しかなかった私が、「来年この続きを必ず歩くぞ」と思うようになったのはなぜだろう。

 弘法大師の偉大さ、決死の覚悟でお遍路をした先人達の揺れ動く心や気持ちが歩く行程の中から少しずつ感じられ始めていた。

 そして使い古された表現ではあるが、自分やその周囲を冷静に客観的に見れて自分に強くなければならないと言うことを歩くことで体験し再確認できているように感じられた。

 道に迷ったが最小限の不安、苦痛、被害で済み、十二月というのに天候にも恵まれ、冷たい雨や早過ぎる日没、冷たい木枯らしにもあわず、怪我することなく打ち終えた事を誰に対するものでもないが感謝の気持ちでいっぱいである。

 

 鳴門港でお土産を買う。それ以上のたくさんのお土産を持って船に乗り込み四国を後にしたのは平成元年十二月七日十五時四十分であった。


九、再度の旅立ち


平成元年にリフレッシュ休暇として、四国八十八ヵ所巡礼の旅の一歩を踏み出し一番から十七番までを巡ったが、打ち終えてからはもうリフレッシュの域を越え、なんとか最後まで巡りたいと思う気持ちは強くなるばかりであった。

 お参りが目的のお遍路であれば、バスツアーもある。なのに何が一人で旧お遍路道を歩くことに私を駆り立てるのか。

 何かが見え始めたような何かを感じ始めた初年度の気持ちが薄れないうちに旅立ちたかった。

しかし平成二年度は仕事に追われついに旅立てず、平成三年やっと念願の阿波一国「発心の道場」を打ち終えるチャンスに恵まれ再度の旅に出たのである。

 今回の旅は阿波の国では厳しい行程であったことを思い出す。

お遍路の時に携帯したメモ帳を今紐解くとその厳しさに対する心構えがうかがわれる。

 出発前に書いた持参品チェックリストがまず目を引く。

巡礼必需品、身の回り品、天候関係、薬、その他に分別されて書かれているが、その中に「よっぽどでないかぎり持参しない」と赤で注書きしてある水筒、懐中電灯、ナイフを最終的にはバッグに詰めて旅だった事を思い出す。

「重たい。重たい」と愚痴りながら余計な荷物を持ち歩いていた事が今は笑い話である。

 薬の項に「足の薬のみ」と書いてある。

塗り薬をお守り代わりのつもりで持って行ったのだが、まさかこの薬の世話になるとは思ってもいなかった。


     いざ四国へ


 平成三年五月二十六日(日曜日)

平成三年五月二十六日(日曜日)

初年度は寒く日没も早い十二月だったが、今回は日没も遅く夕方の七時頃まで明るい時期を狙った。

 朝七時二十五分、近江八幡駅を出発し前回と同様、神戸に向かった。

元町駅九時四分着、神戸中突堤発徳島行きの高速船は十時〇分発でまだ時間はゆっくりある。

 ひとつひとつ思い出しながら歩き始めた。

「そうそう、ここで年末ジャンボ宝くじを買ったな。一万円当ったんだ。ここで使い捨てカメラを買ったよな」

 町の様子は変わっていなく、しいて前回との違いはネオンがまたたき始めた寒い夕方で今回は暖かな朝だ。


 懐かしいあの爆音を轟かせ走る水中翼船に乗り込んだ。

波は静かである。快調に走っていると突然、急ブレーキがかかった。時計を見ると出発して二十五分後である。

お遍路の旅で記録を執るようになってから何かあると時計を見て時間を確認する癖がついてしまった。

 水面に浮いていた船体も降りてその内バックしだしたのである。

「何事だ、前回の二の舞か・・・」

 二~三分の後、何事もなかったように走り出した。

 毎回心配させてくれる船旅である。

 十一時四十五分徳島港に着いた。

まずは徳島駅前までバスで行く。

 さあ本年度のお遍路の始まりだ。


  第十二番札所 焼山寺へ


 本年度のお遍路は十八番から阿波の国最後の二十三番まで巡る予定だが、その前に前回パスした十二番札所焼山寺へお参りに行くことにしている。

焼山寺まで直接バスで行き、焼山寺から歩いて下りて麓の神山温泉近くの民宿に泊まる計画だ。

 焼山寺方面はどのバスに乗ったらいいのかわからない。さっそくバス案内所を訪ねた。

「焼山寺でしたら八番ラインからですよ。次は十六時五分発です」

それを聞いてめまいがした。四時間も待たねばならない。

「焼山寺着は何時ですか」

「十七時二十二分の予定です」

「焼山寺から帰りの最終バスの時間は?」

「そのバスがそのまま引き返します。最終です」

 めまいどころか目の前が真っ暗になる思いがした。

 無理だ。お参りを済ませてから山道の下りとは言え約九キロ、そして宿まで四~五キロを歩かねばならない。ましてや民宿「久保」の住所、電話番号それに大体の地理は聞いているものの捜さねばならない。

 平均時速四キロで歩いたとしても宿に着くのは八時半か九時頃になる。

 諦めた。そして焼山寺の近くまで行くバスを聞いて、十三時五分発の川又方面行きに乗り焼山寺山の麓の「寄井中」まで行くことにした。そこでタクシーが拾えるらしい。

 そうと決まれば腹ごしらえだ。駅前の食堂に飛びこんだ。


バスは国道四三九号線を走ると思っていたがまったく違った道を走っている。どこを走っているのだろうとぼんやり外の景色を眺めていると、見た事のあるような風景に出くわした。

「思い出した」

 この川の対岸の土手を前回のお遍路の時、私は歩いていたではないか。十三番から十四番を目指して一人とぼとぼと!

 タイムスリップして私の歩いている姿が見えてくるような感動を覚え、バスに乗り合わせている人にこの気持ちを話したく思ったほどだ。

「と言う事は十三番札所大日寺がもうすぐだ」

 地図を見た。県道二十一号線を走っている。

 バスは「一宮札所前」で止まった。一宮神社の向かいが大日寺だ。

懐かしかった。修行中のお坊さんだったろう、庭を掃いていたあの二十五~六歳の若いお坊さんはまだいるだろうか。十四番への道を親切に教えてくれた事を思い出す。

 大日寺を過ぎると次第に道が険しくなってきた。バス一台がやっと通れるような狭い崖道を走っている。

たぶん十二番から十三番へのお遍路道だろうと推測した。

 寄井中についたのは十四時二十分であった。

バスが川又に向かい発車した後にはなんとも言えない寂しさが残った。

また一人ぼっちになってしまった。一年半ぶりの一人ぼっちだ。

進行方向に向かってしばらく歩くと右手に道があり大きな観光用の道標がある。

「焼山寺まで九キロメートル」とある。

焼山寺は標高九百三十八メートル焼山寺山のほぼ頂上の近くにある。空を仰いだ。お日様はまだ中天を少し過ぎた辺りだ。

「歩こうか? しかしお参りを済ませ最終のバスに間に合わなかったら真っ暗闇の山を下りなければならない。民宿の方も心配するだろう。初日から無理をするのは控えよう」

 自分に言い聞かせていた。

 お参りや記帳していただくのに最低二十分は欲しい。九キロの山道を二時間半で登ることは無理だと判断した。

 キョロキョロ周囲を見回しタクシーを呼ぶ公衆電話を捜していると、タクシーが来た。

 今思えば予約していたかのようにこちらに来たタクシーに不思議とも思わず乗り込んだが、周囲にお遍路さんの姿は見えないのに私がここへ来ることを知っていたかのようなタイミングであった。

「お遍路ですか、今日はどちらまで?」

「神山温泉の民宿久保で泊まります」

「近くですね、久保さんは知ってますよ。帰り、送りましょうか」

「ありがとう。しかし帰りは歩きますので」

 一瞬の静寂だ。

「下りでも歩いたら二時間から三時間はかかりますよ」

「まだ日は高いしのんびり歩いてそれから温泉につかりますよ」

 また三呼吸ほどの静寂だ。

運転手さんはなぜ歩くのかが理解できないようだ。

 なぜ歩くのか聞きたかったのであろうが聞こうとしなかった運転手さん。もしかして自殺しに焼山寺山に向かっているお客さんではないか? と心配していたのでは。

私の方とて質問されても明快な答えが言えない辛さもあった。

答えたところでかえって不審な人間に思われるだけだっただろう。

「久保さんの近くに保養センターがありますよ、是非行ってみてください。温泉でゆっくり出来ますよ。疲れが取れますよ」

 そして詳しく道を教えてくれた。

「入場が六時までだったと思いますよ。間に合いますかねえ」

 そう言ってスピードを上げてくれた親切な運転手さんだった。

 焼山寺の駐車場でタクシーを降りた。

「百メートルほど登った所です。頑張ってくださいね」

 九キロの山道もあっというまであった。文明の力は凄い。なのに歩くなんて。私も自分自信に半分呆れてしまいそうだった。

 自殺志願者に思われてもおかしくないなと思えた。


 山門が見えた。

 山門の手前約二十メートルの所でふと右を見ると見慣れた矢印の道標がある。「十一番藤井寺へ」と書いてあり、人一人通れるぐらいの道が下っている。

「前回お参りした十一番のあの入口を入って行ったらここに出てくるんだ」

 疲れ切ってはいるが幸せに満ちた顔をしたお遍路さんが今にも出て来そうな気がしてしばらく見入っていた。

 山門の左手前に杉の大木を背にして弘法大師の銅像がたっている。

「帰ってきましたよ。また一緒に歩きましょう。見守ってください」

 声をかけた時、ふと変な疑問がわいた。

「なぜ山門の手前に弘法大師の銅像があるのだろう。今までは皆、境内の中か本堂の手前であったのに」

 大師の目線を追うとあの遍路道の出口の方を見ているのに気がついた。

 山門が見えた。

 山門の手前約二十メートルの所でふと右を見ると見慣れた矢印の道標がある。「十一番藤井寺へ」と書いてあり、人一人通れるぐらいの道が下っている。

「前回お参りした十一番のあの入口を入って行ったらここに出てくるんだ」

 疲れ切ってはいるが幸せに満ちた顔をしたお遍路さんが今にも出て来そうな気がしてしばらく見入っていた。

 山門の左手前に杉の大木を背にして弘法大師の銅像がたっている。

「帰ってきましたよ。また一緒に歩きましょう。見守ってください」

 声をかけた時、ふと変な疑問がわいた。

「なぜ山門の手前に弘法大師の銅像があるのだろう。今までは皆、境内の中か本堂の手前であったのに」      【写真 第12番札所焼山寺】

 大師の目線を追うとあの遍路道の出口の方を見ているのに気がついた。

 疲労困憊して登ってきたお遍路さんを労っているのだろう。私の憶測に過ぎないが「遍路ころがし」と悪名がついたほど厳しい道を踏破してこの十二番札所にたどり着いた者を労う配慮をうれしく思えた。

 山門をくぐると見事な杉の大木が参道両脇に並び荘厳な雰囲気を漂わせている。

 先に記帳を済ませお参りをしていた時だった。

「もしもーし、おたくの納経帳じゃないですか?」

 振り向くとお坊さんが納経帳を振りながらこちらに歩いてくる。

 大切な物を忘れた。感謝!!である。

 最近、気が浮ついている自分が心配になっていた。

「大丈夫か? お遍路で一番大切な物を忘れそうになったのだぞ」と自分に問いかけた。

 確かに二十一年間勤めた会社をつい一ヶ月前に退職している。

転職先の目途も無いまま今日に至っている。

 もちろん勤めていながら転職先を捜す器用さは私には無かった。

 会社を辞めるなどとは考えた事も無かった。

花が咲き始めていた。大きく根付き始めていた。そして誰もがそう信じていた。

「我慢しろよ。暫しの我慢だ」と何度も自分に言い聞かせたが、時間が解決する問題ではなかった。

 三度目の単身赴任中、時期も悪かったのだろう。単身赴任先で聞く家族の状況や訴えに心を動かされてしまった。心の歯車が狂い始めると仕事では劣等意識が強い上司の一言一言もまともに相手する自分ではなかったのに、しだいに顔を会わすことすら苦痛となっていった。我慢して時が解決するのを待つか、人生大きく変わるが家庭の安らぎを取るかを悩んでいた。

 その頃の気持を、緑色で印刷されている年末調整の証憑に黒のフェルトペンで書きなぐったことを覚えている。

「こんなに苦しみ悩んでいる時、なぜ親父はいないんだ。なぜ早く死んだ。親父だったらどう考える」

 引越しの際、捨てきれずにどこかにしまった記憶がある。私の物を整理する時が来た時、私の葛藤した心の欠片を誰かが見つけるだろう。

 決心した後、自分に言い聞かせたものだ。

「この判断が正しかったのか間違いだったのかは、私が人生を終わる時初めて判る結果論でしかない。頑張れ」

 まだ再就職先のメドも無いままお遍路に旅立った私を家族は呆れた目で見ているのだろうか、再出発の苦労を応援して送り出してくれたのだろうか。

 今回のお遍路で歩きながら、つれづれなるままに、俗世間から離れた場所で自分を見つめなおしてみたいと思っている。

「今は考えまい。不安が募るばかりだ。不安は後悔を生む。もうきっぱりと捨てたじゃないか八つの欲を!」

「気を引き締めないと怪我をするぞ」と引導を渡し焼山寺を後にした。


 来る時は気がつかなかったが駐車場の所から十三番への旧お遍路道がある。

 お遍路道は近道を取るため北東の方角、鮎食川沿いの道に出ることが予想される。私は南東の方角、鮎食川の上流、神山温泉の近くの民宿に行くため、今来た道を引き返すことにした。

 民宿のおおよその場所は来る時のバスの窓からめぼしをつけていたので気は楽である。

 下りとは言え、久しぶりに歩くことで足はぎこちなくカックンカックンとまだしっくりこない。

歩き初めの頃は徳島まで見えそうな壮大な景色をまだ愛でる余裕があったが、次第に下を向きただひたすらに歩く形になってきた。

やけに今年は荷物が重い。バッグが肩に食い込む。

タオルを折りたたみ肩に当て右肩、左肩交互に掛け替えながら歩いていた。

汗を拭いては肩に掛けているうちに肩が濡れて冷たくなり始めた。

突然後ろから来たマイクロバスが止まった。

「一緒に乗っていきませんか」

 見るとお遍路さんの一行だ。

 何時すれ違って登って行ったのだろう。全く気がついていなかった。お参りを済ませ下って来た一行だ。

 今日はこの近くで泊まることを告げ礼を言って断った。

「宿は何処ですか」

「上角(うえつの)の民宿久保です」

「久保さんなら知っている。まだ遠いよ。近くを通るから乗って」

 白装束姿のおじいちゃんやおばあちゃんからの誘いを断りきれず甘えて乗せていただいた。

 乗り込むとたちまち周りの人から「これ食べて」「これも食べて」飴、おかき、みかん、饅頭、ジュースが集まり、嬉しい悲鳴をあげてしまった。

 一番から十五番までの日帰り巡礼をしている室戸二十五番札所近くの人達で、最後になった十三番のお参りを済ませたら帰路につくとのことであった。

 私の方は明日南小松島から二日掛けてJR新野(あらたの)駅まで歩き、二十九日に二十三番薬王寺をお参りして滋賀へ帰ることを話した。

「わざわざ歩かなくても、その時代にあった巡礼のやり方があろうに」

 ここでも言われてしまった。

「歩いていると楽しいですよ」

 心にも無いことを言った。

半信半疑の目でじっと見つめられることにも慣れてきたようだ。

 鮎食川に沿って北上する道(通称北岸線)と国道の分岐点で別れたが、おじいちゃんおばあちゃんの手を振る姿がいつまでも見えていた。感謝!!

 運転手さんに教えていただいたとおり、二百メートルも歩くと民宿久保に着いた。上角バス停の一軒隣である。


「こんにちは」返事がない。

 台所まで入って声をかけるが誰もいない。

 時計を見ると十七時半をまわっている。

 話に聞いていた保養センターに言ってみることにした。

 案の定、温泉だ。ロビーに入るとビールを飲み大相撲中継を見ながらくつろいでいる人がたくさんいる。

ビールを横目で見ながら楽しみは風呂上りにすることにした。

 内陸部だが塩水泉だ。背筋を伸ばし温泉を満喫した。

 相撲は終わっていたがビールを飲みながら「明日からはこう上手くはいかないぞ」と憩いのひとときを楽しんだ。


      民宿久保にて


 宿に戻ると気さくな奥さんが迎えてくれた。

 さっそく離れの部屋に通され、湯上りと聞くとロングサイズのビールをサービスしてくれた。

 私もいじ汚いものだ。サービスと聞くと先ほど飲んだばかりなのに遠慮なくいただいてしまう。しかしロングサイズのビールをいただいてやっと喉が潤い満足感を得たようだ。

 今日のことをノートにメモしていると食事に呼ばれた。

 昨日、滋賀の栗東からの一行が泊まったことや、仕事で長期滞在中の岩間さんが、私が予約を入れた日から私が来るのを楽しみに待っていたらしく、今日はお昼と四時頃の二回「もう着いたか?」と電話があった事など楽しく話をしていると、当の岩間さんが帰って来られた。

「一人でお遍路していると聞いたからお年寄りかと思っていましたよ。若いお遍路さんですな」

 この第一声から岩間さん(五十二歳)との楽しい会話が始まった。

 話が私のスケジュールになると車でのお遍路だと思っていたM建設(大阪)の岩間さんには信じられない様子で、ここでも「なぜ・・」「なぜ・・」の質問攻めにあってしまった。

 平成元年度の一番から十七番までの楽しかった話も虚しさを誘ったみたいだ。

 宿のご夫婦は今年の二十三番までのお遍路は前年度の比でないことをよく知っており、一人旅をひどく心配されていた。

「足を踏み外したり、怪我をして動けなくなっても誰も通らないよ。運がよければ歩いてのお遍路さんに会えるかもしれないけどそれも何時になるか判らないのに」

「同行二人、弘法大師と一緒です。大丈夫ですよ」

 呆れた顔をしていた。

 夜九時過ぎまで食事をしながらの会話が弾んだ。


    私からお遍路さんへのアドバイス


 十一番藤井寺から十二番焼山寺へ旧お遍路道を歩く場合五~八時間かかるので慎重に計画しなければならないでしょう。

 冬場は途中一軒しかないうどん屋が店を閉めているので水と食事のことには配慮してください。

 一日の行程として焼山寺の宿坊を予約しておく方法があります。

 翌朝、元気であれば駐車場の所から十三番への旧お遍路道があります。

 疲れがひどい場合は、焼山寺発のバスに乗り、約三十キロ(約四十分)、一宮札所前で下車すればそこが十三番札所大日寺です。

 焼山寺発徳島行きのバスは日に三便らしいので必ず事前に時刻を確認してください。

国道まで出ると徳島行きの本数は多くありますが、但し国道四三九号線ではなく県道二十一号線を走るバスに乗ってください。

   確認先: 徳島バス㈱ ℡0886・22・1811

また十二番焼山寺の宿坊に泊まらず神山温泉地区に民宿を取る方法もあります(本稿参照)

この場合十三番へは県道二十一号線を走るバスを利用してください。歩きたい場合は国道四三九号線を徳島の方へ歩き、鬼(お)籠野(ろの)から県道二十一号線に入り十三番へ向ってください。

 なお神山温泉保養センターは入浴の受付が六時までだったと記憶しています。事前に確認してください。(入浴料:平成三年度五百円)


     十、第十八番から第二十番札所まで


 五月二十七日(月曜)

 五時四十五分どしゃぶりの雨音で目がさめた。

窓を開けてみると天が抜けたようなひどい降りようだ。

今日のスケジュールはJR南小松島駅から歩き始め十八番から二十番札所の麓にある民宿金子屋まで約二十三キロを歩く予定だ。

覚悟は出来ている。

 昨夜の話では南小松島の方に行くバスは無く、徳島に向かうバスしかない事を知った。徳島駅までバスで行き、JRで南小松島まで行くことにした。

 早めに起きたのだがこのどしゃぶりでは先が思いやられる。


 六時に食事に行くと宿の奥さんも心配してくれていた。

 天気予報では徐々に回復するとのことで、食事を終え様子を見ていると雨足は弱くなっているみたいだがまだまだどしゃぶりだ。

 岩間さんは車で仕事に向かった。

私は七時六分のバスに乗る予定だったがあまりの雨足の強さに七時二十六分も見送り八時五分、宿の奥さんに見送られて徳島に向かった。

 また会えるだろうか、岩間さんや気さくな久保さんご夫婦に。


     南小松島駅へ


 徳島着九時二十分、徳島駅九時四十三分発、阿南行きの電車に乗って南小松島に向かった。

 四国には面白い車両が多い。

 一昨年乗った鳴門線では一車両の半分が四人掛けのボックス式で半分がベンチ式、つまり半ロマンスカーであった。ここの車両はもひとつ面白い。一車両の左半分が前から四人掛けの四ボックスと後ろ半分がベンチ式で右側は前からベンチ式で後ろ半分が四人掛けの四ボックスになっている。なかなか粋な配置でありまたコミュニケーションの取り易い配置だと感じた。

 昔の車両かなと思って見まわすがまだ新しい車両のようである。

 今日の行程を見直したりそうこうしているうちに十時十分南小松島駅に着いた。お天気も私の味方だ。雨は上がっていた。

 南小松島は十八番への起点駅だろうと思ったのは私の勘違いであり、お遍路とは全く関係ないよ、と言わんがばかりの駅でお遍路のかけらも匂いも感じられない駅であった。

 どっちへ行けばいいのかわからない。駅の売店の売り子さんに聞いてみると運良く知っており詳しく教えてもらってさあ出発だ。


      第十八番札所 恩山寺へ


 十八番札所へは一昨年のお遍路で最後にお参りした十七番札所井戸寺からだと地図で見ても約二十キロはあり約一日の行程だ。しかし健脚であれば次の十九番立江寺まで約五キロ足を延ばすことも可能であろう。

今回の私のお遍路は南小松島を起点にした。

 私と同じように南小松島を起点にしたいお遍路さんのために、私がたどった道をやや詳しく記録に残すことにする。

みず知らずの地でガイドがいない旅は不安なものだ。「ほんとにこの道なのだろうか」と疑うことがたびたびある。少しでも役に立てばとメモを執りながら歩き始めた。

 南小松島駅舎を出たら左側(徳島側)すぐの所にある人間専用の踏み切りを渡り進むと駅の反対側を走っている道に出る。そこを右に曲がり五十メートルほど進むと陸橋がある最初の交差点があるのでその交差点を左に折れ、右に税務署、左に学校を見ながら進むと三~四メートルほどの小さな川がある。川を渡り右に折れ、その川に沿って進むと、道はゆるくカーブしながら川から離れていき、南北に走る大きな国道に出てくる。

南(左)に向って国道の右側を歩いていると右前方に村が見え、その村に向って国道から細い道が真っ直ぐのびている。

これで正規のお遍路道に入った。一安心だ。後は道標に従って歩けばいい。

またバッグの帯が肩に食い込み始めた。

村を抜けると道標が目に入った。

右十八番恩山寺、まっすぐ十九番立江寺と書いてある。

右に曲がると次第に坂道がきつくなってきた。

三叉路にさしかかると朱色でお遍路の絵姿が書かれた小さなプラスチック板の道標が目に入った。一昨年のお遍路でもよく目にした懐かしい道標だ。

やっと一人が歩けるような山道を歩いていると木の枝に結わえてある赤いお遍路の絵姿に「お遍路ごくろうさまです」と書かれた道標に何度か助けられたものだ。

「ああ、この道でよかったのだ」と不安を取り去ってくれた心の道標だ。

しかし悩んでしまった。この道標は左方向を示す矢印が書かれている。左方向の道は牛小屋と納屋の間を抜けて下って行くようだ。

「確か恩山寺は小高い山の上と聞いたが」

 それを信じて道標とは違う右方向の道を取った。

 不安だった。坂道がますますきつくなる。

「あの左の道は一旦下がるがその後恩山寺に向って登りになるんじゃなかったのか。間違ったかな」

 不安だった。

「もう暫くこのまま進んでみよう。三十分歩いて判断しよう」

 恩山寺の駐車場を見つけた時は全身の力が抜けるようだった。

 しかしそこからまだまだ登りが続き恩山寺の弘法大師像が迎えてくれた時はもうクタクタで銅像の前にバッグをかなぐり捨て本堂に向かう階段に座り込んでしまった。

 時計を見ると十一時十分だ。

「昨日は焼山寺でお会いしましたね。ここ十八番から二十三番札所薬王寺までお参りし、阿波の国、発心の道場を打ち終えるつもりです。見守ってください」

 初年度巡礼を始めた頃は四国霊場には大師像がつきもので同行二人を具現化した程度にしか感じていなかったのに、今年はなぜか大師の銅像を親しみ深く感じる。

 十二番札所焼山寺の山門の前まで出てお遍路さんを労う弘法大師のお姿が印象に残ったからであろうか。私の心の中に小さな変化が起こり始めていることに気がついた。


 境内には剃髪所や母公堂のように他では見聞の無いものが目に付く。お寺の名前も「母養山恩山寺」と意味深である。

 剃髪所は修行を求め入場した者が髪を剃りお坊さんの仲間入りをする所くらいに思い素通りをしたが気になってバックから「巡拝の道しるべ」を取り出しそれらしきくだりを追ってみた。

 昔このお寺の名前は「大日山密厳寺」と号して女人禁制の寺であった。後に弘法大師がここに滞在し修行をしている時、大師の母君がはるばる訪ねて来たが登山する事が出来ない。そこで大師は七日間にわたって女人解禁の秘法をおさめ、祈念を成就されてから母君を寺内へ迎え入れ孝養をつくされた。それからお寺の名前を「母養山恩山寺」と改めたとの事。

 大師の母君はここで髪を剃って出家され、剃髪されたお堂が母公堂でその髪が剃髪所に納められているとの事だ。

 単なる散髪所ではなかった。

 

 お参りを済ませ記帳所に行くと、前右足と左後足のない犬が日向ぼっこをしている。

 聞くと暫くいなくなって帰って来た時は足が無かった。今は階段の登り降りも出来るらしい。

何があったのだろう。熊と戦ったのだろうか。

死ぬ思いの痛みを味わったことだろう。

足二本を失っても帰って来た気力はどんなものだったのだろう。もしかしてブラブラになって歩きにくい足を自分で噛み切って帰ってきたのではないだろうか。寂しそうな顔をしていた。


 恩山寺を後にし、先ほどの三叉路の所まで下りて来た。

「しまった。お遍路道について確認するのを忘れた」

 先ほどの道標はこちら十八番から下って来たお遍路さんのためだとは理解できたが下りてきた者には直進と受取れる。しかし三叉路なので右か左かだ。

 休息がてら、あてのない通行人を待つことにした。やはり誰も通らない。

「牛小屋と納屋の間を抜けて下って行く右の道を行ってみようか」と何度も考えてみたが時間のロスをしたくない今日の行程を考えると冒険は諦めて来る時に見ていた十九番への道標があった所まで戻ることにした。


      第十九番札所 立江寺へ


 十九番へ向って黙々と歩いていると右側に「十八番恩山寺一・五キロメートル」と書かれた道標を見つけ立ち止まった。

 民家と民家の間に幅五十センチほどのお遍路道がある。

「やはりあの牛小屋と納屋の間を抜けて下って行く道を歩いたらここに出てくる近道だったんだ」

 大きく遠回りしたことが口惜しくてしょうがない。

 疲れがドッと出て暫く動く気がしなかった。

 何気なく使い捨てカメラを取り出しこのお遍路道を写真に収めた時、口惜しさが消えていく不思議な感覚に気が付いた。

 写真を撮ることが何かの未練あるいはこだわりからの気分転換、諦めの作用があるとは思っても見なかった。

「さあ出発だ。先は長いぞ」


 門前町を有した立江寺に着いた。

 時計を見ると十二時二十分、思ったより早く着けたようだ。

 天気は回復中で風は強いが五月の厳しい陽射しは時折顔を見せる程度で私にとっては恵みの日和であり歩くペースも快調だ。

 堂々たる仁王門をくぐる時、お参りの前に腹ごしらえがしたくなり後戻りしかけたが、この立江寺は関所寺であることを思い出し、食事はお参りを済ませてからすることにした。

 関所寺とは罪人や邪心を持っている者は弘法大師のおとがめを受けこれより先へは進めなくなると言われており、おとがめも無く無事に納経を済ますことが出来たお遍路さんは一安心するとのことだ。   【写真 見逃した遍路道】

  関所寺は四国八十八ヵ所霊場の内四ヶ所あり、各国に一ヵ寺づつあるらしい。

「仁王門をくぐった段階でお参りを止めて腹ごしらえに行くとは、ふとどき者め!」と大師のおとがめを受けるはめになる所だった。くわばら、くわばら。


 お参りを済ませ記帳所に行くと記帳所の壁にお遍路さんへの配慮であろう、十九番から二十一番札所までの距離と歩いた場合の時間が書いてある。

   十九番~二十番  十五・八キロ  歩いて 五時間

   二十番~二十一番 二十六・五キロ 歩いて 十時間

「ええっ」思わず声が出ていた。

 十九番から二十番については納得がいく。

今日泊まる予定の民宿金子屋に予約をしたときに金子屋は二十番札所鶴林寺の手前三キロにあると聞いていたのでそれぐらいの距離は覚悟をしていた。

 しかし明日の行程にある二十番から二十一番への距離は予想外だった。明日宿を発ったら二十番から二十二番まで歩く予定だ。

一昨年の出発前に買い求めた案内冊子「四国八十八ヵ所巡拝の道しるべ」は自家用車での距離と時間しか書いてないがそれでも参考にしていた。

冊子を取り出し見てみると「自家用車で二十五キロ 約一時間、その後歩いて一キロ 約二十分位」と書いてある。壁に書いてある距離とほぼ同じだ。次の二十二番までについては「十二・五キロ 約三十分位」と書いてある。そうすると明日の行程は金子屋を出て二十番までの三キロを加えると二十二番まで約四十キロになる。平坦な道なら走ってでも行くが、二十番鶴林寺は標高五百八十メートルそして大きな那賀川を渡り次の二十一番太龍寺は標高六百メートルの高さにある。

到底無理な話だ。脳は宿泊場所の変更が必要かどうか再確認の急速な回転を始めた。

私のスケジュールでは必ず近道があるはずだと考え、金子屋から二十番までの三キロを一時間、地図上直線距離四キロを三時間、二十一番から二十二番までの地図上直線距離七キロは下りだから四時間そして食事休憩および誤差を含めた余裕時間を三時間と見ていた。

「必ず近道があるはずだ」と自分に言い聞かせてみたものの、もしもの時は泊まる場所のめぼしぐらいは付けておかねばならない。

 お坊さんに尋ねてみた。

「二十番から二十一番へは歩いて十時間と書いてありますが、近道はないのですか」

「ありますよ。昔のお遍路道が。しかし険しい山道でそれでも四、五時間はかかります。ましてや二十一番さんには宿坊が無いので宿は山を下り切った所の龍山荘か坂口屋さんになりますね」

 ホッと安堵のため息をついた。

予定通りだと安心はしたものの万一のことを考え龍山荘と坂口屋の電話番号を教えていただき立江寺を後にした。


       民宿金子屋までの道中


 立江寺の門前町で腹ごしらえのため食堂を探すが土産屋は開いていてもその中の食堂はやっておらず困ってしまった。

 どこか食事のできるところが無いか尋ねると門前町を抜けたところの県道脇の喫茶店を紹介された。

 そこを見逃したら食べるところは無いと聞いたため喫茶店を探す目は道標を探す以上に真剣であった。

 食事を済ませ元気回復!

 空を仰ぐと相変わらず曇り空で山の方は雲が多く、いつ雨になってもおかしくないような天気だ。風が強い。恵みの風であろう。

 歩け!歩け!

 誰にも会わず黙々と歩いているとバスが時折追い越していく。

 ジーゼルエンジンの音はうるさいはずなのに、なぜか無音で通り過ぎ遠くへ消えていくような錯覚を覚える。

「何処へ行くバスだろう。疲れたなあ。乗りたいな」

「乗るつもりなら次のバス停で待ってみたら」

「すぐ来るかな」

「行き先と時刻は書いてあるだろう。バス停で調べてみたら」

 そんな問答が出始めた。

「行き先が書いてあってもそれが何処なのか分からない。二十番鶴林寺への標識と道標だけが頼りだからな」

「運転手に聞いてみたら。鶴林寺の方に行きますかって」

「変なところで降ろされたら迷子になるな。何しろ人を見ない、人に遭わない。尋ねる人がいない」

 ブツブツ言いながらも足は前へ前へと進んでいたのだった。

 長いきつい坂を登りつめた所にバスの待避所があり、Uターンをして出発を待っている先ほどのバスを見つけた。

「なんだ。ここまでだったのか」

 誘惑に負けなかった。バスに勝った。バス停に立ち止まることもなく予定をまっとうした。たわいもない事に感激していた。

萓原のT字路まで来た。右だ。

バッグの帯が肩に食い込む。なぜ私はこんなに重たい荷物をかついで歩いているのだろう。

足のふくらはぎの痛みがひどく、何度か小休止をしながらも黙々と歩き続けていた。

よくテレビや雑誌などでお遍路さんの紹介がされる。

白装束を身にまとい、右手に金剛杖、数珠を握った左手には鈴を持ち神妙な顔をして歩いている。

もちろん汗をびっしょりかいて手ぬぐいで汗を拭きながら歩いている姿や、リュックサックを背中にしょった姿、バッグを手に下げてのお遍路さんは見たことが無い。

なぜだ。私は身軽な服装をしているのに汗びっしょり、重いバッグが肩に食い込んでくる。あのようなすがすがしい顔で歩いているお遍路は想像もつかない。

疲れがグチになってきたようだ。

 彼ら、彼女らは荷物をどうしているのだろう。下着類は臭いままで着替えないのだろうか。雨に降られた時のあるいはもしもの時の着替えは? 洗面具は? ひげ剃りは? 薬は? 雨具は? 懐中電灯は? 非常食は? 水は? 女性の場合だったら化粧道具も要るだろう。

 白装束のお遍路さんは小さな白い袋を肩にかけている。頭陀袋というらしい。私どもが子供の頃でまだランドセルが手に入らない頃、肩からさげた布製のかばんのような袋だ。その半分も無い小さなあの袋の中に全てを入れているのだろうか。納経帳やお軸も財布も入れているはずだ。信じられない。

 可能性を考えてみた。

 荷物は替えの手ぬぐいを一枚、替えの下着は二枚だけ。宿に着いて着替えたら必ず洗い一晩干して乾かす。乾きが悪かった場合のことを考え大きなビニール袋を一枚携行しておく。このビニール袋は透明がいいだろう。なぜならいざ雨に降られた場合は頭からかぶってカッパ代わりにするためだ。そうすると雨具は持参しなくていい。

 後は成り行き任せだ。もし暗くなってしまったら動かず、翌日明るくなるのを待つ。非常食も持たず一食抜いたところで死ぬことは無いだろう。歯を磨きたい時は宿で塩を少々分けてもらい指で洗う。

「途中で怪我をしたら、体の具合が悪くなったら」

「うーん、やはり数人でチームを組んで行動する方がベターだな。必要な物も分担できるし、車なら荷物を置いておくことも出来る」

 結論が出た。私のように一人で歩いてのお遍路の方が異常であり必然的に荷物も増える結果になっている。

「おまえは一人で歩いてみたかったのだろ。空海が歩いた道を歩いてみたかったのだろ。先人がお遍路で何を考え、何を求めたか少しでも近づいて感じてみたかったのだろ。だったら荷物の重さは我慢するんだな」

 さあ、グチはやめて先を急ごう。

 今まで目に入るものは畑、田んぼ、山道、遠くに民家ぐらいであったのに珍しいことに会社が目に入った。懐かしさを感じる。

 中野工業株式会社。通り過ぎかけて庭がちょっと違うことに気がついた。なんとゴルフが出来る庭である。ワンホール八十ヤード位のパースリーだろう。バンカーもある。なんと粋な会社だ。

 ここで遊んでいる社員の顔が見たかった。話がしたかったが就業中で残念である。

 ガードレールによじ登り不安定な格好で写真に納めた。


 県道二七六号線と県道一六号線が交わる三叉路の沼江の交差点に着いた。十四時四十分だ。

 鶴林寺まであと七・五キロの標識がある。ということは金子屋まで四・五キロだ。思ったより速いペースだった。

 あとは勝浦川に沿っての平地だ。一時間もあれば充分だろう。

 十分間コンクリートの護岸壁に腰をおろし休息した。

 川が大きくカーブする見晴らしのいい場所で、上流の方まで見通せる。

「金子屋はあの辺だな。すると今日何キロ歩いたことになるかな。南小松島駅を振り出しに二十二~三キロは歩いたことになるな」

 地図を見る目はもう明日の行程を見ている。もちろん十四万分の一の地図には私の歩く道など載っていない。

「どんな道だろう。宿に着いたら明日の食料を調達だ」

 十四時五十分立ち上がって歩き出した。

 気が緩んでしまったのか金子屋までの四・五キロは肉体的にとても辛く感じた。

ふくらはぎが痛む。立ち止まりバッグを下ろす。そしてまた歩き出すの繰り返しだ。

しかし精神的には無事に歩けた満足感に浸りながらのんびりと爽快な気持の最終歩行であった。

 十六時ちょうど金子屋に到着した。


      民宿金子屋にて


「こんにちは」声をかけるとおばあちゃんが出てきた。

「○○さんお客さんですよ」

 どうもおばあちゃんは目が悪いようで手探りである。

娘さんであろう女将さんが出てきた。足にギブスをはめてびっこをひいている。

 泊り客がまだ誰もいない中を部屋まで案内される時、目が悪いおば びっこあちゃんにびっこをひいている女将さん、それに加え歴史を感じさせる大きな古い民宿でもあり失礼とは思ったが無気味さを感じてしまい、ここにも試練の場があったのか、と一瞬思ってしまった。

「先日階段を二段ほど踏み外し捻挫しましてね。おばあちゃんは目が不自由だし身体障害者の民宿みたいでしょう」と言って笑った女将さんの顔を見て現実の世界に戻れたようだ。

 しかし心の中を見透かされたようで、気まずい思いをしてしまったし、させてしまったかもしれないことを悔いた。

「いえ、いえ、そんなこと無いですよ。お風呂をいただく前に明日の食料を買っておきたいのですが」

 話をそらすのに懸命だ。

 近くの駄菓子屋さんを教えて貰い、行ってみることにした。


 見知らぬ旅人がこの時間にパンとおかきを買うのを不思議そうに店の奥さんと牛乳配達の人が見ている。

 支払いをする時、声をかけられた。

「お遍路ですか」

「はい、明日早く発つので昼飯の調達ですよ」

 一人で巡礼していると知ると驚きの顔に変わった。

「今日は何処から?」

「明日は何処まで?」

 明日新野(あらたの)まで歩くことを話したら信じられないと言う顔で心配そうにアドバイスしてくれた。

「鶴林寺から大井町に抜けるお遍路道が崖崩れで通行止めだったから、もう復旧したかどうか鶴林寺でよく確かめてから行くのですよ」

 店を出ると牛乳配達の人が出てきて、牛乳パックを二つ車から取り出し、

「喉が渇いたら飲んでください。頑張ってね」

 胸が痛かった。走り去る車に書いてあった明治乳業の文字が忘れられない。四国の人情が心に焼きついてしまった。


 宿に戻り風呂に入る。

「一番風呂ですよ、お泊りのご一行は遅くなるそうです」

 食事も広間で一人のんびりといただいた。お世話の女将さんについておばあちゃんもやって来た。

 ここでも一人で歩いての巡礼にびっくりされていた。

 おばあちゃんからは歴史を勉強させていただいた。

「立江寺も長曾我部軍の兵火で焼失し再建された物ですよ。明日お参りする二十二番平等寺さんも長曾我部軍の兵火で焼かれたのですよ」

 四国で長曾我部は悪魔の一族のようである。

 そう言えば一昨年前の初日、第五番地蔵寺も長曾我部に焼かれた話を羅漢堂をお世話しているおばあちゃんから聞いていたが、広い範囲に長曾我部の兵火が及んでいたことを初めて知ったのである。

 四国一円を我が物に支配していた長曾我部元親であったが、羽柴(豊臣)秀吉が降伏させ、秀吉に仕えていた蜂須賀小六の子、家正が阿波の新領主となり、吉野川河口一帯の地名を徳島と改め、土佐へと南下する土佐街道をはじめ五街道を整備し、宿場町を興し、遍路や旅人に宿を提供しお遍路の加護策をおこなったとのことだ。

 女将さんも明日の行程が気になっているようだ。

「もし二十番から二十一番さんまでで体力を使い果たしたら、太龍寺から歩いて六キロ先のバス停「阿瀬比」まで出て、徳島バス加茂谷線に乗り新野町の「山口中」バス停で降りたら二十二番平等寺へは歩いて三・五キロ位で楽ですよ」

 地図まで書いてくれた。

「ありがとう」感謝の気持でいっぱいだ。

 そうしてる間に今日お泊りのご一行さんが到着したようで賑やかになってきた。

 私は部屋に戻り明日の行程の再確認だ。

 先ほど女将さんが心配して楽な方法を教えてくれたが予定通りJR新野駅まで歩くつもりだ。新野駅から日和佐駅まではJRを利用することにしている。

計画の段階で一日増やして二十二番から二十三番まで歩くことも考えてみたが二十二番平等寺から新野駅まで約二キロ、その後は国道五十五号線を二十二キロ歩いて日和佐に向かうことになる。

国道五十五号線は別名土佐街道で昔はお遍路のメイン街道であったが今は車が行き交う幹線道路だ。

 丸一日排気ガスにまみれて歩くことも無かろう、と三十三分で行けるJRを選び一日節約することにした。その代わり日和佐駅からは歩いて二十三番薬王寺の近くの薬王寺温泉に宿泊することにしている。

 既に新野駅から日和佐方面行きの時刻は調べてある。

「一時間に一本か。最終が二十二時五十分か。十六時台の電車には乗りたいなあ。そして薬王寺温泉でのんびりし・た・い・・な・・・」

 寝てしまっていた。


 五月二十八日(火曜日)


 五時四十分起床。

 昨夜の天気予報では本日は曇り、一部雨、南より崩れるとのことであった。窓を開けると曇りだ「よし!」山で雨に遭わないことを祈る。

 洗面の時、腰の痛みを感じる。食事の時も痛かった。肩にかける荷がこたえたのだろうか、一抹の不安が走る。

 やおらメモノートを取り出し住所、氏名、自宅の電話番号を書きしるした。

 ぶざまな事になった時、身の回りの品に私の身柄を示すものが無いのに気づき、もしもの事を考えノートに書き込みながら、一日の無事を祈った。

 今そのメモを開いてみると本日はハードな行程と書いて概略行程を書いたあとに「昼のパン等は用意済み。覚悟をしてかかる」と意気込みが書いてある。その後に「もしもの時、持物に住所氏名を書いたものが無いのでここに記す」として住所、名前、電話番号そして四十四才と書いてある。当時の心の揺らぎと意気込みがひしひしと伝わってくる。

 出発の時、宿のおばあちゃんより「昼の食事のたしにしてください」と大きなお茶名物焼き饅頭をいただいた。

女将さんも笑顔で見送ってくれている。

どこまでも優しく気遣う人の情けの大きなお土産をありがたく受取って金子屋を後にした。


     第二十番札所 鶴林寺へ


 七時に出発した。

 金子屋から十メートル程の所に大きな石の道標がある。そこを左に折れ、小川沿いの道に入る。鶴林寺まで三・一キロである。

 登校中の小学生達とすれ違う。ペコッと会釈をして通り過ぎる。

「おはよう」と声をかけると、はにかむ笑顔が可愛くて私にとっては何よりのはなむけの笑顔であった。

「ごくろうさまです」

小さな声であったが仏の声を聞いたような錯覚を覚えた。

振り返り天使達の後姿を見送っていた。

そしてまた一人ぼっちになった。

草木で覆われた人一人歩ける急な山道に入っていたのだ。

昭和三十八年に標高五百八十メートルにある鶴林寺までドライブウェーが出来て、その後このお遍路道はほとんど使われていないとの事だった。

時折木々の間から下界が見える。もうこんなに登ったのかとびっくりする。

それにしてもきつい坂道だ。ふくらはぎが悲鳴をあげている。筋が切れそうだ。

冷静にこの坂道の状況を観察すると、踵が地に付いていないのだ。

ふくらはぎが悲鳴をあげる理由がよくわかる。

疲れて立ち止まり振り向くと高所恐怖症の人なら目まいを起こしそうな急な坂だ。             

【写真 鶴林寺への険しい道】

雨で地面がぬかるんでいたら滑って前に進めないか、滑り落ちてしまいそうな坂道である。あまりにも危ない急な斜面の場所には地元の人たちが整備してくれたのだろう、表面がザラザラのコンクリートが流され滑り止めに筋目が入れてある。

昔、お年寄りのお遍路さんもこの道を歩いたのだろうか。

悲鳴が、泣き声が聞こえてきそうだ。

私でさえ思い切り、がに股で歩いたり、蟹のように横向きや後向きに歩かないと転げ落ちそうなのである。

「遍路ころがし」の由縁がわかるようだ。


やっと傾斜がゆるいところに来たので休息を取ることにした。

ふと立て札を見ると古い時代に作られたお遍路さん用の水飲み場がある。岩でほこらのように囲まれた中に清水が受けられ飲めるようになっている。

「ありがたい。昔の人も一休みして飲んだことだろう」

 水を飲み、汗を拭きながら周囲を見回すと右山肌がえぐり取られ、人が座ってなら五~六人は入れるような窪みがある。人工的なほこらだ。

 背筋に冷たい物が走るのを覚えた。

「もしかして、これは野宿用では?」     【写真 水飲み場】

 水飲み場も偶然ではなかろう。

 昨夜金子屋でお遍路協会編の冊子を拾い読みしたときに、八十八ヵ所巡礼の道に場所は書いてなかったが何ヵ所か野宿できる場所があるらしい事を知った。

私のイメージでは田舎の古い神社かお寺の軒先、あるいは雨露を凌げる屋根付きの休息所、悪くても大きな洞窟かほら穴であった。

「まさか、これが」

 凍り付いてしまった。

 そして、外灯も無い暗い中で、身を寄せ合って座り励ましあい野宿をしている人が見えてきた。

 雨に降られやむなく野宿をしているお遍路さん、病に犯され、あるいは怪我をして動けなくなったお遍路さん、またこの急な坂に疲労困憊し鶴林寺宿坊を目前にしての悔しい野宿を強いられたお遍路さん達が見えてきた。

 それまでしてお遍路に駆り立てたものは何だったのだろう。

 業に打ち勝つため死を覚悟の巡礼を代償としたのだろうか。

 いやいやそんなレベルではないだろう。もっと高い精神構造でないかぎり出来ないはずだ。いったい何を求めたのだろう。そして成し遂げたとき何を得たのだろうか。

 私は今、あなた方が歩いた同じ道を歩いている。歩きやすい靴を履いて、雨具その他を装備している。雨や曇りでお日様が見えなくても時計があるから時間はわかる。また地図があるからだいたいの位置はわかる。物理的な条件をあなた達と同じレベルまで下げないとその答えを得る事が出来ないのだろうか。

 パンフレットにも書いてあったし金子屋のおばあちゃんの話にもあった。蜂須賀家が統治するようになって五街道が整備され宿場町の充実でお遍路の加護策が施され、江戸中期以降、庶民が経済力をつけ始めた時期には、悩みや願いを持っての多くのお遍路さん達以外に、寺社参詣にことよせた「物見遊山」的お遍路が流行り、参拝し朱印をいただいた納経帳やお軸が当時の社会的、精神的ステイタスシンボルになったとの事だ。

 そのような先人のショックは大きかったことだろう。他の人と同じように苦痛や困難を受けざるを得なかった。

「もう嫌だ。私は帰る」

 今の世ならそれも可能だろう。ヒッチハイクやタクシーを使うことも出来る。しかし当時はそうはいかない。今まで巡ってきた道を戻ることも苦痛であり、ましてや一人だけで連れから離れることは死を覚悟しなければならなかっただろう。

 大声をあげ自分の惨めさを他人のせいに転化した者もいただろう。

 前に進むしかない。そんな無情と葛藤しながら涙ながらに前に進むことを強いられた者もいただろう。

 そして前に進むにつれ、一つ打ち終えるたびに、ここまで歩けたことに感謝し手を合わす姿に変わっていったのだろう。

「良かったね。ここまで来れたよ。次へ進もうか。仏様が見守ってくれてるから大丈夫だよ」

「うん」

 一つ逃避からのレベルを越えた。自分に強くなった。自分を制御出来たことで他のお遍路さんの笑顔が美しく見え始めた。笑顔でいるほうが楽しいことがわかってきた。これも巡礼のお陰かと思え始めた。手を合わすことで感謝を表すことが心を和ませてくれることもなんとなく解かり始めた。苦痛や冷たい雨も試練や修行と思えるようになっていく自分に気づき始めた。四国の人の情に逢うたびに虚栄の殻が一枚一枚剥がれ落ちていくことにも気づき始めた。そして高い精神構造へのレベルの階段をすこしずつ登りつめていったのであろう。

 まだまだ急な坂道が続くが先程よりはましになった。

 静かだ。鳥の声と私の吐息しか聞こえない。

 こんな道は人もめったに通らない。倒れたり足を滑らし谷に落ちたら一週間以上はほったらかしだろう。

 鶴林寺はまだか、鶴林寺はまだか。


 お遍路道と車道が交叉する場所に出てきた。

遍路道通行止めの案内板が目に入る。案内板には見なれた赤い遍路姿絵に「注意」と朱書きされたプラスチックの板が貼り付けてある。

鶴林寺から大井町間の遍路道は崖崩れの復旧工事のため通行止め、その期間は平成二年十一月五日~平成四年三月三十一日までと書いてある。来年の四月まで通行止めだ。

「復旧がどれほどかわからないから、鶴林寺でよく確かめてくださいね」

心配して忠告してくれた駄菓子屋の奥さんの言葉に歩けるかもしれない一縷の望みを寄せて、まだ行程の変更は考えていない。

 上に向かって真っ直ぐに登って行った。


 鶴林寺の駐車場に着いた時は青色吐息の状態であったが、山門までの道は朝のすがすがしい空気の中を体が泳いでいるような、そして緑の木々が私を歓迎してくれているようであった。

 時計を見ると八時十分、一時間十分の長い長い道程だった。

 山門の左側には鶴の彫り物と日本一大きな草履、右側にはなんと運慶作の仁王像だ。

「こんな所に運慶の仁王が」

 本物かどうか鑑定など出来るわけが無いのに、なぜかしばしにらめっこをしていた自分が滑稽にも思えたが、にらめっこが出来るほど立派な仁王の像であったことは確かである。

 四国では山門に大草履をよく目にする。ここの大草履は日本一大きいそうだ。私の推測だがどうも仁王様の履物を意味しているように思える。

本来対で仁王様が門を守るのだが、仁王様の代わりに大草履の場合をよく目にした。「こんな大きな履物を履く仁王様が居るのだぞ」と睨みをきかす大草履であろう。「猛犬注意」の札の代わりに大草履を飾ったのだろうと考えるのは無理な解釈か?

 境内に入ると樹齢数百年以上の杉の大木に目が釘づけになる。五~六人が手をつながないと囲めないほどの大木も有る。

 本堂へは数十段の階段を登らねばならない。

 気が緩んでしまった私には「これでもか」と、とどめを刺されそうであった。

「金子屋の女将さん、おばあちゃん、駄菓子屋の奥さん、牛乳配達のお兄さん、鶴林寺に着きましたよ。ありがとう。目が善くなるといいね。捻挫も早く直ってください。

ありがとう」


 お参りを済ませお坊さんと話すチャンスを得た。

「ここは標高五八〇メートルですが、次ぎの太龍寺さんは標高六〇〇メートルでここより高いですよ。しかも六・五キロあります」

 一番心配している崖崩れのことを聞いた。

「もともと崖を削った道だったのですが崖が崩れてしまって・・・新しく崖を削って道は出来たと聞いていますが、通行の許可はまだ出ていません」

 残念そうな私の顔がお坊さんの心を動かしたのか、うれしい返事が返ってきた。

「崖崩れの手前に工事用のはしごが掛けてあります。そのはしごを降りて修復工事の為に作られた車両用新道へ降りたら大井町に抜けられます。おたくだったらはしごを降りれるでしょう」

 最後になぜ本堂のご本尊が地蔵菩薩で本堂右隣の三重塔に五智如来が祭ってあるのか、仏の位から考えると逆ではないのかと聞いてみたかったが、親切に道を教えていただいた上でお茶を濁すことにもなりかねない質問をする事に躊躇してしまった。

 私だけの疑問にしておこう。

「よし。予定通り出発進行だ」

 珍しく参拝に来られた同年配のご夫婦とすれ違った。

私服姿だ。観光客かもしれない。

軽く会釈を交わし私はお坊さんに教えていただいた二十一番への道を捜した。


     十一、第二十一番から第二十三番札所まで


      第二十一番札所 太龍寺へ


 お遍路道の入口は飲み物の自動販売機が置いてある場所の横にあった。つまり大師堂の前の崖を降りていくのである。

「崖を降りて行く」と言う表現がぴったりの急な下り道であった。

 九時に出発した。

 しばらく降りていくと仏様が祭ってある。(不動明王だったと記憶する)

 あらためてこの険しい山道を無事に太龍寺まで行けることを祈願し、必ず太龍寺に元気な姿で立つことを約束した。

 進むにつれこの道をお年寄りの方も歩いていたのだろうかと疑いたくなるほど急な坂道だ。

先ほど登って来た鶴林寺までの急な道よりはまだましだが、落ち葉が多く足を取られ何度も滑りかける。非常に危ない状況である。

 横向きに一歩一歩進むが滑るので脇の雑木につかまりながらである。手を離すと勢いがつく。また雑木につかまりブレーキをかける。そんなことを繰り返している内に小走りにあるいはピョンピョン飛びながら進み、脇の雑木や竹につかまりブレーキをかける進み方になっていた。あたかも猿が木から木へ伝い歩きしているようである。

危険な方法だが私にとっては楽で滑って転ぶよりはましに思えた。

 傾斜が緩くなるとゆっくり歩き、傾斜がきつくなると自然に小走りになり猿の木渡りだ。

お年寄りには厳しい道だと思った。

 

崖崩れの所までやって来た。

            【写真 がけ崩れでわずかにお遍路道が残っている】

新しく崖を削り取り、人一人やっと歩ける程の道が一部、出来ているのが見える。

 まだ山肌は崩れた後を生々しく残している。

 あり地獄のような臼状の地形のため、崩れた山肌と新しく作られたお遍路道がよく見える。写真に納めた。         【写真 工事用に作られた道】

 足を踏み外したら谷底に落ち大怪我ではすまないだろう。

 お坊さんの指示に従ってはしごを捜すと、工事用の垂木で作られたはしごがあり、三メーターほど下の広い道に下りた。

 この道は遍路道の修復のため山を削り工事用道路として作られたもので、その先に道は無くこの道路は空に向かって飛び出すジャンプ台のようだ。

 広い道だから気持ちがいい。遠くの景色も望める。ひと時のピクニック気分を満喫していた。

 お遍路道の修復の為にこれだけ立派な工事用の道を作ったのか。お遍路道の修復だからこそ人と機材を運ぶ車両用の道を作ったのだろう。

 お遍路道に愛着を持って大切に守ろうとする人達の気持ちが伝わってくるようだ。

 水無し河川の落石防御工事の取り付け道路に合流し、山を下りきって県道に出ると那賀川にかかる水井橋が見える。


九時五十分水井橋に到着した。

 見下ろすと川面まで十五メートルはあるだろう。

広々として景色のいい場所だ。

緩やかにカーブを描く大きな川を見ていると時間が止まったようにさえ思える。

悠久の流れを眺めながら心のこもった牛乳で喉を潤していた。

 そして足を投げ出し座り込み、

優しく頬を撫でて川下へ走り去るお茶目な風としばし戯れていた。


「さあ標高六百メートルの太龍寺を目指そう」

 橋を渡るとすぐ坂道が迎えてくれた。民家がある。道標に従って右に折れると幅一・五メートルほどのコンクリートの道が続き、ぐんぐん登って行く。

右は山と言うより絶壁だ。左は谷川の音が下のほうから聞こえてくるが川面は見えない。時折木々の間から水面で反射した光だろう、キラキラとサインを送ってくる。

「足を踏み外すと下に転落するぞ」と気を付けてはいたが、二度、足を踏み外しそうになり冷や汗をかいた。

 一度目はほぼ垂直に切り立った右の崖五メートルほどの所に大岩があり、その凄さに見とれて歩いていると危うくあと一歩で奈落に落ちる所であった。

 二度目は汗を拭くために歩きながら眼鏡をはずしタオルを顔に当て、拭いて前を見たときは目の前は谷だった。

 道の中央を歩いていても、目が離れ二~三歩斜めに歩いたら谷底へ転落である。

「二度と脇見をするな。何かをする場合は必ず立ち止まってからにしろ。コンクリートの道だから歩き易いと思うのは大間違いだ。油断は命取りだぞ」ときつく自分に言い聞かせたものだ。


 コンクリートのお遍路道が前方、左に大きくカーブしながら登っているのが見える。それを見た時びっくりして我が目を疑ってしまった。

 私が今歩いているお遍路道は厚さ二十センチほどのコンクリートの道でその下は奈落の底である。

 バッグを降ろし、腹ばいになって半身を谷にせり出し道の裏底を覗いて確認をしてみた。

「うあー」

 思わず声をあげてしまった。

 この道は自然の立木や丸太で支えられている。

道は材木や一部鉄で作られておりその上にコンクリートが敷かれているものであった。

 本来のお遍路道は崖を削った細い道だったものが長い間に危険な道になったため広くしてくれたのだろう。

 しかし広くするに当たっては崖にへばりついた道からひさしを出す方法を採った。それがこの形であろう。

裏底奥にあるはずの本来のお遍路道を確かめたかったが、怖くて確認できなかった。

 確かにこのコンクリートの道を歩き始めた時から、ちょっと変わった雰囲気だなあとは思っていた。

それはコンクリートの道に接するように杉の大木が林立しており、目の前の幹は大木の中腹か上の方なのである。

「相当急な崖なんだなあ」位にしか思っていなかった。

 道の下にも大木が生えており、道の高さで切られた大木の幹がこの道を支えているのだ。

 しかしコンクリートが敷いてあるだけで恐怖感が無くなり、歩けるのが不思議に思えた。

 信じられない光景であった。


 左に大きくカーブして谷川を横切った辺りからコンクリートの道ともお別れして地面の道になり、意味は違っているが「地に足がついたしっかりした歩き」とはこの事だなと実感したものだ。

 山深く、細くなった谷川に沿って登って行くと、地元の人達の協力で作られたものだろう、休息所があった。疲れた体を癒す憩いの場所だ。

 しかし一握の心無い人達の仕業だろう。たばこの吸殻、空缶、お菓子の空袋などが無造作に捨てられている。

「軽い物ばかりなのになぜ持って行かないのだろう」

 もちろんここにはゴミ箱も灰皿も無い。あったとしてもこんな山の中のこと、ゴミの後始末のお世話を誰も出来ないからだ。

 個人個人で後始末をするのがマナーであろうに。

 ゴミの中で心のこもったお饅頭と二箱目の牛乳をいただく気になれず、疲れた体に鞭打ってゴミ拾いをしてからにした。

 携帯していたビニール袋にかき集めても缶ビール一本分の重さにも満たないのになぜ人は?

 やはり人の性根は悪なのだろうか。自然や動物や他人との関わりの世界のマナーを知らないはずは無いだろう。知っていて実行しないのは悪の誘惑を甘美に受け止める性根であろう。

 私にも悪の誘惑はしばしばある。その度に自分に言い聞かせている。

「それをするのに何秒かかる? それをするのに何歩動く事になる?

それをしたら死ぬほどの苦痛を受けるのか?」

 お饅頭が喉につかえた。牛乳をいただいた。

 一息ついたところで谷川の水で顔を洗う。その冷たさとせせらぎに、しばし空虚と安堵の世界にひたり、そして次第に復活する気力を感じていた。

 メモを執る。「出発。十時三十五分」


 しばらく登って行くと、またもや信じられない光景を見た。

 右斜面三メートルほど下にシートで被った普通乗用車が置き去りにされている。

 あのコンクリートの道を登って来た車だろう。

前方を見ると、この道の先は人一人が歩けるほどの道で車が通れるような道ではない。

 信じられない事だ。山肌にボディーをこすりつけ、助手席の者は身を乗り出し脱輪しないか必死だっただろう。谷川を横切りここまで来ると右側がなだらかな斜面になっている。いちかばちか、この斜面でUターンを試みたのだろう。しかし雑草に覆われた斜面の土は柔らかく身動きが取れなくなって、やむなく車を放棄したのだろう。

 うまく方向転換できたとしてもこの道まで登ってこれるような斜面ではない。状況は転落に等しい。

すべてが無謀だ。無計画、状況判断の曖昧さが生んだ結末だろう。

 軍事用のヘリコプターでも持ってこないかぎり公道に戻すことは出来ない。朽ち果てるまであのままか、ガス切断器と工具を持ち込み、解体して廃棄するしかない。それにしても大変な労力を必要とするだろう。

 歩きながら、乗っていた人達の会話を、その時の心理状態を想像しながら無常観に浸っていた。

失敗を糧にして強く生きていて欲しいものだ。


 行き止まりかと思った。

周囲よりやや草が倒れているので道であろう。獣道とはこんな道を言うのだろうと思った。               【写真 獣道か?お遍路道か?】

最近歩いた人はいないのではないかと思わせる道だ。

見慣れた赤いお遍路さんの姿絵に真っ直ぐの矢印を描いたプラスチック板の道標が優しく進むべき道を教えてくれている。

前方に目をやると二十メートルも先は暗い山林が立ちはだかっている。

「この先はどうなっているのだろう」

 もう一度心の道標を見つめていると「勇気を出してさあ行こう」

誰もいないのに声が聞こえたようだ。後ろから押されたようだ。

「ちょっと待て。写真を撮っておく」

  

 まだまだ登っていく。

標識があった。ほっとした。

読むと「太龍寺まで一・五キロ」今歩いて来た方向を示す矢印には「鶴林寺まで五・五キロ」と書いてある。

 時計を見ると十時四十五分だ。

「えらく速いペースだなあ」

鶴林寺から山を滑るように駆け下りたのが効いたのだろうか。

「新記録が作れそうだぞ。もうすぐだ。頑張れ」

 そう思って元気を取り戻したのも束の間、心臓破りの坂道が待っていた。

 大袈裟な表現ではない。初めのうちは百メートル歩いては休み、五十メートル歩いては休みであったが、ついには十メートル歩いてはバッグを投げ出して休みを取る繰り返しであった。

 十メートル進んでは立ち止まり休む事を何度繰り返していただろう。心臓が破れそうな目にあうのは久しぶりのことだ。

 静かだ。誰もいない。時折鳥の声を聞くぐらいだ。

 お年寄りのお遍路さんには難所であったろう。

自分のペースで一歩一歩、前へ前へと進んだことだろう。

「南無大師遍照金剛」弘法大師様に身をゆだねます。

呪文のように口ずさみながら歩く笈摺姿のお遍路さんが私の前方に見えてくるようだった。

白装束の笈摺、白装束は死装束「違う。身も心も清く自分を無にして巡礼するために白装束で身を包むのだ」

嫌な事を考えてしまい慌てて打ち消していた。


二~三メートル高さの強烈な坂だ。先は空が見えている。と言うことはここを乗り越えると平坦な道か下り道だろう。

登りつめて前を見た。藪の中から顔を出し前を覗いた形だ。驚いた。

そこには極楽浄土の世界が広がっていた。

目の前を横切る広い道、道沿いには杉の巨木が鎮と立ち、巨木と巨木の間には柔らかな陽の光と静寂だけが漂っている。

つい二秒前までの景色と二秒後の景色の落差にしばし茫然とたたずみ周囲を見回しては幽谷の世界に同化していた。

目の前のベンチに体を投げ出すようにして座り、今出てきた別世界からの出口を眺め鶴林寺からの辛かった道程を思い出していると、体の中にはもう一つの大きく広がる空虚なそして何事も包容できる空間が広がっているのを感じていた。

標識によると太龍寺まであと四百メートル。

現在十一時四十五分。最後の一・一キロを歩くのにちょうど一時間かかっていた。

太龍寺の方から一組の中年の夫婦がゆっくりと楽しそうに歩いて下りてくる。

「見覚えのある人だ。そうだ鶴林寺で会った人だ」

 ベンチに座っている私を見てびっくりしている。

「ここから出て来たのですか? あの鶴林寺から歩いて」と言って別世界からの出口を指している。

彼らは鶴林寺から車で約二十六キロ走り、駐車場から太龍寺までの一キロを歩いてお参りを済ませここまで戻ってきたとの事だ。

「太龍寺さんの次は二十二番さんへ行くのでしょう?」

「ええ」

「私たちもこれから二十二番さんへ行くんだけど・・・」

 一瞬次に続く言葉が予想できた。

心地よい誘いの言葉に違いない。

私の心は大きく門を開いてしっかり受け止める心構えはできている。そしてその心遣いには感謝して丁寧にお断りしようと相手の目を見つめていた。

「・・・歩いてのお遍路、頑張ってくださいね」

「ありがとうございます」

 お礼の返事がやけに小さかった。

そして二人の後姿を寂しく見送っていた。

「お前何を期待したんだ?」

「何も無い。心構えは出来ていた」

「ぜひ、ぜひ、と誘われても心は動かなかったか?」

「・・・」

「まだまだだな。歩け、歩け」


      第二十一番札所 太龍寺にて


標高六百メートルの太龍寺に着いたのは十二時ちょうどだった。

 記帳所が手前にあり、記帳所の向かいにお茶が用意してあったので先に記帳を済ませ食事をすることにした。       【写真 西の高野山、太龍寺】

 お坊さんとにらめっこをしながら昨日買っておいたパンを食べていると、何処からともなく犬が寄って来て私をじっと見ている。

「欲しいのか?」

 犬と一緒に食べたため、あっと言う間になくなってしまった。

 六角堂、護摩堂、庫裏、さらに石段を登ると

本堂、大師堂、弁天堂、多宝塔と「西の高野山」と言われるだけあって全体に荘厳さを漂わせた立派なお寺である。特に本堂のます組やかえる股の彫り物などに重厚な歴史を感じさせられ、しばし見とれていた。

 ゆっくりしたかったのだが、尋常でないこの疲れからペースダウンも予想されたので急ぎ足でお参りを済ませ先に進む事にした。


      第二十二番札所 平等寺へ


 太龍寺を十二時三十五分に出発した。

 平等寺まで地図上直線距離で約七キロ、平等寺からJR新野駅までは約二・五キロ。平等寺までは四時間を予想していたがこの調子で行けば三時間で行けそうな予測だ。

 太龍寺から約一キロ下った所に売店と駐車場がある。

車の進入はここまでで、車を降りて登ってくるお遍路さんの一行とすれ違った。

 懐かしい九州弁が耳に入る。

 もともと九州生まれの私には懐かしい響きだ。

 駐車場のバスを見ると宮崎のご一行だった。

 不謹慎とは思ったが売店で缶ビールを買い、喉の渇きを潤した。

「うまい」至福の味だ。


 車が通れる道をどんどん下りて行く。

時折下の道へショートカットする道があるが、坂が急過ぎて危なっかしいので極力安全な車道を歩いていた。

 車がすれ違えるほど広いコンクリートで舗装された道になった。

 今思い起こせばこの頃から気の緩みが始まっていたようだ。

 午前中歩いた厳しく辛かったそして危険な道を克服し、孤独で閉鎖的な道から開放されたことで気持は勝利した喜びに酔っていたようだ。ましてや四~五時間はかかると聞いていた道程を三時間ちょうどで踏破したことで奢りもあったのだろう。

 悪魔の仕業なのか修行を強いる仏の仕業なのか、試練の時が次第に近づきつつあることに気づいていなかった。


 右手遠くには山の峰が見える。山頂には所々まばらに生えた木が影絵のようだ。

 歩きながら現世の身の回りに起こるいろいろな事を思い出しては弘法大師と話をしながらの時間を悠々と過ごしていた。

 そして巡礼の旅へのきっかけ、数々の思い出、先ほどまでの苦難。

「表彰状。貴殿は苦難に耐え、難所と言われた鶴林寺、太龍寺の道を克服したことをここに表彰する。空海」

 大相撲の優勝表彰式のあの口調を真似て大声で叫んでいた。


 一台の乗用車が猛スピードで登ってくる。

「危ない」身の危険を感じ、道の右側(谷側)を歩いていた私は道の端いっぱいに立ち止まり道路を背にし谷側を向いた瞬間、ドンと音がして右肩に掛けていたバッグがはねられ、肩からはずれたバッグの反動で危うく崖に落ちそうになった。

車がバッグに当たったと言うことは車と私の背中の距離は二十センチも無かったのである。

 車は止まることなく猛スピードで走り去って行った。

 もしバッグを左肩に掛けていたら、バッグに当たった反動はまともに私を押すことになり、私は崖下に落とされていただろう。

 運転していたのはお遍路さんだろうか。そうは思いたくない。

 広い道なのに私を殺すつもりだったのかと思われるほど怖い思いをさせられた。

 右側(谷側)を歩く方が車にもよく見えて安全だろうと思っていたがまさか逃げ場を失い谷底に落とされるかもしれない危険予知はしていなかった。

左の山側を歩くことに変更した。

この事件を通して左側を歩くことにしたことは試練の舞台への序章にすぎなかった。


 この山道を車で走る時、好んで崖側を走る者はいないだろう。

そのためか道の中央から山側のコンクリート舗装がひどく傷んでいる。

先ほどの運転手もコンクリートのひどい傷み場所に気づき谷側に避けたらそこに私が立っていたのかもしれない。

 道はより平坦になってきた。

 ますます難関を克服し平等寺に一歩一歩近づく喜びが気の緩みを助長していた。

 周囲の景色を愛でながら歩いていた。

 山頂の木の枝に止まる大きな鳥も影絵の中に溶け込んでいる。

「絵になるなあ」

 その瞬間だった。右足首に激痛が走り右につんのめってしまった。

「しまった。取り返しのつかない事をやってしまった」

 コンクリートの道が欠けて深さ十センチ程の穴が開いていた。右足内側が穴のふちにわずかに掛かり、右斜め前に傾いたため足の甲で全体重を受けてしまったようだ。

 激痛が走る。座り込んでしまった。

 激痛がおさまるのを待って引きずるようにして歩き始めた。

 痛みがひどい。杖が欲しい。金剛杖を突いて歩いていればもっと軽い怪我で済んだかもしれない。

 百メートルも歩くと民宿龍山荘の前に来た。

 そこはもう整地された道だ。整地された道のほんの百メートル手前でコンクリートの落とし穴に足を突っ込んでしまった事が口惜しくてしようがない。

 道を隔てた所に龍山荘の前栽がある。

「休もう。足の様子を見てみよう」

 腰を下ろし足を見ると腫れてきている。

 薬を塗る。使いたくなかった薬だ。使うつもりなど無く御守りのつもりで持ってきたのに使う羽目になったことを悔やんだ。

「なんとか歩けそうだ」

 歩き始めた。民宿坂口屋の角を曲がると観光バスなどが駐車できる広場があり売店の前のベンチまでたどり着いた。

歩くと痛みがひどくなってくるようだ。

ベンチでしばらく休んでいると売店から出てきた人が横に座り話しを始めた。

私が一人で巡っていることを知ると阿瀬比から平等寺まで旧お遍路道がある事を教えてくれた。

「ついでがあるから阿瀬比まで送ってあげよう」と言って車のキーを取りに坂口屋の方へ行った。

 民宿坂口屋の大将だろうか。心の中で手を合わせていた。

 足の怪我のことは一切話していないのに。感謝だ。

「阿瀬比まで何キロですか」車の中で聞いた。

「二・六キロ」

「そこから平等寺までは?」

「四・五キロ位かな。小高い山を越えるが近道のはずだ」

「助かりました」

 足の怪我のことを話し平等寺まで送ってもらいたい気持が口をついて出そうになるのを押し殺していた。

身から出た錆、人の助けを請うような大怪我をしたわけでもない。この場に及んで負けたくなかった。そして阿瀬比まで送ってくれるこの人の気持を大切にし、怪我人を平等寺まで運んだ結果に変えたくなかった。

 足の痛みはますますひどくなる。

山の中で動けなくなったら、そんな動揺もあったが「まだ這う事が出来るじゃないか」と自分に言い聞かせていた。

 阿瀬比のT字路に来た。

車は左折し五メートルほど進み止まった。

「右手のあの細い農道がお遍路道ですよ。山越になるけど頑張ってください」

「ありがとう」

 手を振ってくれている。私も車が見えなくなるまで手を振っていた。感謝の気持に加え、動けなかったからだ。車から降りた時の激痛に顔がゆがんでいた。

 痛みがおさまるのを待ってゆっくり歩き始めた。

そしてまた一人になってしまった。


 景色も見えない。見る気がしない。

目は道の状態を見続けている。

小さな小石を踏むことが、つまずくことが、滑って体のバランスを崩すことが致命傷になる。それこそ歩けなくなり這っての巡礼になりかねない。

「小石にも枯葉にも油断するな」

「南無大師遍照金剛」「・・・」「南無大師遍照金剛」

 もはや奢りも無く過信も無い自分を感じ始めている。

痛みはふくらはぎにまで来ている。歩き方に無理が生じているのだろう。

 しばらく歩くと仏の恵みか道の脇を水が流れているのに気がついた。用心に用心を重ねて小川に下り、淵に腰を降ろす。

 靴紐を解かないと靴が脱げない状況だ。

靴下を脱ぎ足を見てぞっとしてしまった。

内出血が始まっている。足の甲から五本の指が赤や紫色になり始めている。

 小川の水はこの上なく冷たく、冷たさが痛かった。次第に痛みが麻痺し生き返る心地よさを味わっていた。

 痛みが引いて冷たくなってしまった足に薬を塗り直しまた歩き始める。

 痛みは一歩一歩ごとに眠りを覚まし始める。痛みが薄れていたのは五十メートルしかもたなかった。

 この調子で平等寺までたどりつけるだろうか。小高い山を越えると聞いた。不安は後戻りが出来る決断のリミットを短く短くし始めている。

 緩い左カーブの道で山にさしかかる手前、左手奥に山を背にして藁葺き屋根の民家がぽつんと一軒見える。小川で足を冷した場所からでも見えるはずなのに今まで気がつかなかった。人の気配も感じられない絵の中の幻のような民家だ。私の気持ちを試すかのように意地悪に現れた。

「どうする? 訪ねて見るか?」

「・・・」

「引き返すには限界の距離ではないのか? 訪ねて相談してみたら?」

「・・・相談をする相手は弘法大師だ。ここは空海の道だ」


 次第に坂もきつくなりついには山の中に入った。

 二日前の雨のなごりかしっとり濡れた滑りやすい道は、捻挫して内出血が始まった足には怖くて長い道程となってしまった。

 いつしか数珠を握っている右手が太腿を叩き始めている。

 足の痛みを他の痛みに転化しない限り我慢が出来ない。

「ピシッ、ピシッ」

 数珠で太腿をひっぱたく音と激しい息づかいだけが静寂を破り、山道に響いている。

「頑張れ、たかが捻挫じゃないか。骨が折れていたらもう既に肉がちぎれ骨が飛び出しているはずだ。うろたえるな」

 数珠がちぎれ飛び散るまで叩き続ける覚悟だ。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」

 太腿を叩く効果も次第に薄れていく。

 痛みを我慢し続けていると、気が朦朧とし始める。

 大声が山々に響いた。

「これが試練か? 朝七時から標高六百メートルの山を二つ越え歩き続けて、まだこの試練か?」

 静寂が何事もなかったようにまた戻って来る。

 小さな声が聞こえる。

「うろたえるな! まだ歩けるじゃないか。もう一つへまをしたら捻挫ぐらいの痛みではすまないぞ」

 立ち止まった。

 痛みが引いて冷たくなってしまった足に薬を塗り直しまた歩き始める。

 痛みは一歩一歩ごとに眠りを覚まし始める。痛みが薄れていたのは五十メートルしかもたなかった。

 この調子で平等寺までたどりつけるだろうか。小高い山を越えると聞いた。不安は後戻りが出来る決断のリミットを短く短くし始めている。

 緩い左カーブの道で山にさしかかる手前、左手奥に山を背にして藁葺き屋根の民家がぽつんと一軒見える。小川で足を冷した場所からでも見えるはずなのに今まで気がつかなかった。人の気配も感じられない絵の中の幻のような民家だ。私の気持ちを試すかのように意地悪に現れた。

「どうする? 訪ねて見るか?」

「・・・」

「引き返すには限界の距離ではないのか? 訪ねて相談してみたら?」

「・・・相談をする相手は弘法大師だ。ここは空海の道だ」


 次第に坂もきつくなりついには山の中に入った。

 二日前の雨のなごりかしっとり濡れた滑りやすい道は、捻挫して内出血が始まった足には怖くて長い道程となってしまった。

 いつしか数珠を握っている右手が太腿を叩き始めている。

 足の痛みを他の痛みに転化しない限り我慢が出来ない。

「ピシッ、ピシッ」

 数珠で太腿をひっぱたく音と激しい息づかいだけが静寂を破り、山道に響いている。

「頑張れ、たかが捻挫じゃないか。骨が折れていたらもう既に肉がちぎれ骨が飛び出しているはずだ。うろたえるな」

 数珠がちぎれ飛び散るまで叩き続ける覚悟だ。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」

 太腿を叩く効果も次第に薄れていく。

 痛みを我慢し続けていると、気が朦朧とし始める。

 大声が山々に響いた。

「これが試練か? 朝七時から標高六百メートルの山を二つ越え歩き続けて、まだこの試練か?」

 静寂が何事もなかったようにまた戻って来る。

 小さな声が聞こえる。

「うろたえるな! まだ歩けるじゃないか。もう一つへまをしたら捻挫ぐらいの痛みではすまないぞ」

 立ち止まった。

「数珠ではもう効かない。千枚通しが欲しい」

 今回の巡礼にナイフを携帯していることを思い出した。

バッグから電工用のナイフを取り出していた。

「馬鹿なことを考えるな! ナイフを太腿に刺して問題が解決するか? 筋を切ってしまったらもう歩けないぞ」

「大丈夫だ。私もそこまで馬鹿じゃない。心配するな。座禅をしていて邪念が入った者の肩を後ろからピシャリとお坊さんが活を入れるあの板を作るつもりだ」

 びっこを引きながら探すが作れそうな素材が見つからない。

「すりこぎに変更だ」

 手ごろな枝を拾い、不要な小枝を削り、握りを作り、すりこぎらしき物を作った。顔面は足の痛みでゆがんでいる。

 太腿を叩いてみた。

「きくぅー」

 内出血は続いているだろう。出続けてこれ以上出る場所がなくなるまではこの痛みは続くだろう。足がめいっぱい腫れあがったときが出血の終わりだ。

「このすりこぎで少しは気がまぎれるだろう。さあ行こう」

 太腿を叩くより膝下を叩くほうが効果があることもわかった。

 叩いた時の骨の折れるような痛みが足の皮膚が破れそうな捻挫の痛みから数秒間の解放を与えてくれる。

「南無大師遍照金剛」「・・・」「南無大師遍照金剛」

 朦朧とする脳内で、お遍路を始めた初年度の第五番札所前の民宿森本旅館で、うっすらと涙を浮かべて訴えた神戸の人を思い出していた。

「羨ましい、あなたが羨ましい。私の分まで頑張ってください」

 強烈な鼻向けの言葉であった。足が悪い身で覚悟のお遍路を試みたが無理とわかり断念した人のその気迫を貰ったはずだ。

 気迫だけでなくあなたの業も今感じている。

「負けない。頑張る。平等寺が私達を待っている。厄除けのお寺だ。あなたの足の痛みも和らぐだろう」


 道が下りになってきた。

道の脇に仏様が祭ってある。(お地蔵様ではなかったと記憶する)

「しばらく休もう。気力が持続できない」

 足を投げ出して休息を取った。

 怪我には十分注意をして何度も自分を諌めて来た。

危ないこともしたが十分危険に対する対処を考えての行為であった。

 しかしこの捻挫は・・・悔しくてしょうがない。

その時、背筋を冷たいものが走る感覚を覚えた。

「もしかして、あの『表彰状・・・』の口上が、弘法大師に対して

・ ・・まさか?」

 心の落とし穴に足を踏み込んでしまったのだろうか。

 静かに座りなおしていた。右足は折ることが出来ず正座は出来ない。左足を折り右足は伸ばしたままで仏様に手を合わせ、非を悔い、許しを乞う姿がそこにあった。


竹林が広がる。

久しぶりに竹を見て心が和む。

真っ直ぐにのびた上の方からサラサラと心地よい葉音が聞こえてくる。

「ほらほら、竹林を愛でるなら立ち止まって。そうしないと鋭く尖った切り株が落葉の下からお前を狙っているよ。これが現世だよ」

「気を付けるよ」

 痛みはまだひどくなるようだ。

 痛みが極限になるまでの我慢と、太腿を叩き数秒間の開放をあじわう繰り返しが続くびっこを引きながらの前進であった。

「どんな理由があったか知らないが、再就職先の目途も無いまま会社を辞め第二の人生を歩もうとしているが、この道がその道だよ」

「わかった。しっかり目に焼き付けるよ」

 一人やっと歩ける狭い崖道にさしかかった。

落葉に覆われた狭い急な下りの崖道に初めて恐怖を感じた。

捻挫をして不自由だからそう思ったのではない。心底、恐怖を感じた。いったん滑ったら掴まる物が無く、細い雑木をなぎ倒しながら二十メートルは落ちて行くだろう。

もし怪我もせず元気な身であったなら、ここでもっとひどい試練を受ける事になったかもしれない。

 左足で前に踏み出し右足を寄せる。また左足を前に踏み出し右足を寄せる。その度にパンパンに張り詰めた皮が破けそうな痛みに加え骨が曲りそうな痛みが走る。

 痛みからか気力が薄れ、また朦朧とし始める。

 前方に三本丸太の橋が見える。

お遍路の怖さを感じた。

「あの丸みは足に無理かもしれない。足が破れてしまうぞ。他に道は? 何か表面を平たくできる板はないか?」

 周囲を見回し捜すが、回り道も平たい板も見当たらない。

 一歩踏み出し、三本丸太の橋に乗ってみた。

 激痛が走り体のバランスが崩れ、慌てて一歩下がった。

 丸太の丸みが足の血管を切ったような痛みだ。

この丸太の上で右足に体重はかけられない。

 這って行くことも考えた。直径二十センチ程の丸太三本の凸部を行くか溝部を行くか考えたが、どちらも不安定で万一何かの拍子に激痛が走ったら転落もありえるし、膝の皿へのダメージを考えると躊躇してしまった。

 結局左足に頼らざるを得なかった。

左端の丸太に左足で乗り、右足は右端の丸太に軽く乗せ、ほとんど全体重を左足で受ける姿勢からスタートだ。

体を前方に少し倒しすかさず左足を前に出す。ちょうど左足でケンケンをする要領だ。そっと右足を前に進める。

一息入れて、また体を倒す繰り返しだ。足を踏み外さない事だけを考えて十~十五センチづつ前へ進んだ。

 橋の正確な長さは覚えていない。短い橋だったと思うがずいぶん時間がかかったようにしか覚えていない。

 橋を渡り崖道を下ってやっと平坦な道に出てきた。

 足の痛みは指先まできている。無理な歩き方で左足まで負担がきていた。

 休み休み平地を一キロほど歩いてやっと平等寺にたどり着けた。

時計を見る目も虚ろだった。十五時三十五分着。記録を残した。

 

      私からのお遍路さんへのアドバイス


 阿瀬比から約四・五キロ程の短い旧お遍路道は、冒険心旺盛な若いお遍路さんには問題無いと思いますが、お年寄りには滑りやすく急な坂の崖道などがあり要注意のお遍路道だと感じました。

 お年寄りにはこのお遍路道の入口にあたる阿瀬比から、継続して車道を歩いて新野へ向かい、新野町のバス停「山口中」の所を右の川を横切り平等寺へ向かう方がいいかと思います。

 もし疲れているようでしたら阿瀬比のバス停からバスに乗り、新野町のバス停「山口中」で折り、平等寺まで約三・五キロを歩く方法もあります。

 本編「民宿金子屋にて」の女将さんからのアドバイスを参考にしてください。


      第二十二番札所 平等寺にて


 足の痛みと精神的疲れは落ち着いて周囲に気を配る事すら制限をし始めていた。

 頭の中は本堂と大師堂、それと記帳所しかなかったようだ。

思い出せる事はまず階段があった。四十二段の男厄坂を登りお参りをした。

本堂ではお参りの後、失礼かとは思ったが腰を下ろし休ませてもらった。

ふと見上げた天井には心和むたくさんの草花が描かれており、福井県永平寺の大広間の天井画を思いだし対比させ眺めていた。

そして本堂からの帰りは三十三段の女厄坂を下りた記憶がある。

厄を落とすことが出来ただろうか。

 万病に効くと言われる有名な白水の井戸や、極彩色の閻魔様など十王像が立ち並ぶ閻魔堂があったらしいが記憶に無い。

 その後は新野駅まで歩くかタクシーにするかを思案した事しか覚えていない。

 タクシーで新野駅に向かう決心がついたところですりこぎともお別れをした。

痛みを散らし、そして励ましてくれたすりこぎを護美箱へそっと奉納する時、目頭が熱くなったのを思い出す。至福の満足をかみしめることが出来た事に対してであった。

 駐車場の隅の電話ボックスからタクシーを呼びJR新野駅へ向かう。


     薬王寺温泉ホテル千羽までの道中


 平等寺から新野駅までの約二キロを歩く元気はもうなかった。

 タクシーを下りるとすぐに電車が入ってきた。

「上りの電車だろうか、下りの電車だろうか」

 下りの時刻表を見ると正に下りの電車だ。

「一時間に一本しかない電車だ。なんとか乗らねば」

「切符は?」駅員がいない。

「自動販売機は? ・・・無いぞ」

 電車の車掌が客の乗降を見ている。

「日和佐まで行きたいんだけど切符はどこで・・・」

「乗って!!」

 間一髪乗りこむと同時にスタートした。

 ひと駅ふた駅み駅と過ぎて行く。その度に乗降客の出入りがある。私は整理券も発駅乗車券も何も持っていない。常識では始発駅からの乗車料金が取られるはずだ。

 しかしここは人情味溢れるのどかな別世界である事を思い出し、のんびりと車掌が来るのを待っていた。

「新野から日和佐まで」

「はい、ありがとうございます」

 ほんとに別世界があった。

 電車は日和佐までの約二十キロを三十三分で走る。平地の国道五十五号線(土佐街道)とはいえ、歩いたら半日はかかる距離だ。

 座っていると痛みも引き始め、別世界を走るのどかな乗り物に揺られながらしばしの安息を味わっていた。


 十六時四十一分日和佐駅に到着。

 席を立つとき痛みが走ったが、内出血も止まったようでなんとか歩けそうだ。

 駅から第二十三番札所薬王寺に向かって二~三百メートルも歩けば宿に着ける。元気を出して歩くことにした。

 しかし歩き出すとまた痛みが襲ってきた。

捻挫の痛みだ。あの足の皮膚を突き破って骨が飛び出しそうな痛みは弱くなっている。電車での休息が内出血を止めてくれたのだろう。

 日和佐は薬王寺温泉街で日和佐城それに大海亀の産卵地として有名な観光地であり、駅前通りには人が行き交っている。

「がんばってください」

「ご苦労様です」

 すれ違う人が声をかけて行く。

 ひどく哀れな歩き方をしていたのだろう。

 お遍路笠をかぶり、うつむきびっこを引いて歩いているこの人は、 足に業を持っての辛い巡礼の旅をしているお遍路さんに見えたのだろう。

「そんな信仰心が厚い立派なお遍路さんじゃないんです。この足は今日・・・」

 すれ違う人の優しさと自分の不甲斐なさを考えると、なんとなく悲しく思えた。

 頑張れ、薬王寺温泉は目の前だ。


      薬王寺温泉ホテル千羽にて


 やっと着いた。十七時ちょうどだ。

 二~三百メートルほどであったが二~三キロ歩いたように遠く感じられた。

 部屋に通され窓の外を見ると山の中腹に第二十三番札所の薬王寺が見える。ホテルから二百メートルほどだろう。すぐ近くだ。

 あしたあのお寺でお参りを済ませたら本年度の巡礼は終わる。

 獲物を狙うハンターのような、あの城を落とせば天下が取れる城攻めの将のような目でしばし眺めていた。

 あと一息だ。と思う反面、獲物を前にして断念しなければならない事態になりそうな不安も感じながら眺めていた。

 と言うのも、靴下を脱いで気になる足を見た瞬間、唸ってしまったからだ。

パンパンに腫れた足は黒、紫、赤紫の三色で、血管が切れての激しい内出血は予想を越えたものだった。

 足は太いナスビのようで五本の指はそのナスビの先に腐りかけた空豆、大小の黒豆、大豆にあずきがめり込むように可愛らしく付いている。触っても指には感覚がない。

「明日の朝はどうなっているだろう?」

 不安を投げ捨てるように薬王寺を眺めていた。

「必ず歩ける。必ず発心の道場を打ち終える」

「まずは風呂だ」

 温泉につかると生き返るような幸せを感じる。

 湯船から揚がり、水で足を冷す。また右足を上げたままで湯船に入る。これを何度か繰り返し温泉を楽しんでいたら、のぼせたのか疲れがドッと出たのか風呂から上がるとめまいがしていた。

 部屋に戻り涼みながら足に塗り薬を塗ろうとしていた時、食事の用意に仲居さんが入って来た。

「その足、どうしたのですか」

「捻挫してしまって」

 あまりのひどさに信じられない顔をしての沈黙があったが、その後は機関銃のようにしゃべり始めた。

「お風呂入ったの」「暖めたらダメなのに、湯船につけたの?」

「医者は?」「痛くない?」「どこで捻挫したの?」「ふあー、それで歩いてきたの?」「明日はどこまで?」「大丈夫?」

「そうだ。腰を痛めている仲居がいるから湿布薬をもらって来てあげる」と言い残し食事の配膳も忘れて部屋を出て行った。

「二枚もらってきたよ」

 貼ってくれた上にテーピングの代わりにと靴下まで履かせてくれた。感謝だ。

「大浜海岸に亀が産卵に来ると聞いていますが大浜海岸は近いのですか」

「その足で行くつもり? 残念でした。産卵時期は六月末頃からでまだ一ヶ月先よ」

 その時期には亀が上がって来たと各旅館に連絡が入り、観光客は見に行く事ができるとの事だ。

 食事の後、家に電話を入れた。

今回の旅で初めての電話だったので心配をしていた上に捻挫の話に女房は怒ってしまった。

無事でホッとした所に捻挫の話に言葉をなくしてしまったのだろう。決して本心で怒っているのではない事は伝わってくる。

「病院に行くから早く帰ってね」

 帰着予定時間を告げた。

「駅で待ってる。何かあったらすぐ電話してね」


      第二十三番札所 薬王寺にて


 五月二十九日(水曜日)

 心地よい朝を迎えた。足の痛みも色もあまり変化無し。

 洗面に立つと痛みが増してくる。

 食堂に行くと昨夜の優しくて賑やかな仲居さんが心配そうに声をかけてきた。

「食事の後、出発します」と言うと呆れた顔をしながらも笑顔で励ましてくれた。

そして目と鼻の先にある薬王寺なのに近道を一生懸命教えてくれたことを思い出す。

 荷物を預け、身軽になってお参りに向かった。


 薬王寺の門前は土産屋が並び賑やかな風情が残る門前町であった。

 ガイドブックでは薬王寺に宿坊無しとなっているが、最近建てられたものだろうか薬王寺の前に一階がロビー、二階が喫茶レストラン、三階が宿坊の薬王寺会館がある。

 薬王寺は厄除けのお寺として有名で、皇室の厚い加護を受け続けていただけに古い歴史の中にも良く手入れされた堂々たるお寺だ。もちろん御本尊は薬師如来である。

 立派な庫裏、鐘楼、本堂、大師堂、地蔵堂そして昨日ホテルからも見えていた異国の物かと思われるような色鮮やかな宝塔がそびえている。

塔身は円筒形で宝形造りの朱塗りの屋根に、五つの相輪が屋根の中央と四隅に立っている。大きなこけしが飾り物を付けた傘をかぶっているように見える。密教の教義「瑜祗教」にもとづく塔でゆぎとう瑜祗塔と言うそうだ。

 山門をくぐり上り坂の参道をぬけると三十三段の女厄坂、続いて四十二段の男厄坂があり本堂に到る。

 手摺につかまり左足で一段登っては右足を引き上げて一歩一歩進む姿は人に見せられたものではなく我ながら哀れを感じた。


 本堂の屋根の雨水が樋を伝わり大きな水瓶に溜まるようになっているのは多くのお寺で見てきたが、ここの水瓶はひときわ大きく立派な金属製の水瓶で目を誘った。水は防火用水や渇水時の水として使う古人の知恵だ。


 お参りを済ませ、本堂横から始まる六十一段の還暦厄坂を上って行く。

 登り詰めた所に瑜祗塔があり、そこは海に向かって真っ直ぐな門前町、日和佐の町、そして太平洋が見渡せるすばらしい展望所であった。

 煙草を燻らせながら心行くまで安息を享受していた。

「やっとここまで来れた。二年がかりだったな」

「ここが薬王寺だ。今立っているここが」

 今年の目標であった二十三番札所薬王寺だ。阿波の国、最後の札所薬王寺だ。徐々にではあったがやり遂げた達成感がふつふつと沸いてくるのであった。

「阿波一国二十三ヵ寺、発心の道場を打ち終えたぞ」

 次ぎは土佐の国の十六ヵ寺「修行の道場」、そして何時になるかわからないが伊予の国の二十六ヵ寺「菩提の道場」、讃岐の国の二十三ヵ寺「涅槃の道場」が待っている。

 鳴門の第一番札所霊山寺から二十三番札所番薬王寺までの思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

「旅立ったのは寒い十二月だったなあ」

「金のかからないリフレッシュ休暇として思いついたのが巡礼の旅。物見遊山的な気持ちだったのに、二年越しでここまで来たのは何が私をそうさせたのだろう。発心の道場と言われる由縁がこうさせたのだろうか」

 道に迷う事や怪我は覚悟で古人が歩いた道を一緒に歩いてみたいと思う気持ちがまだまだ継続しているのはなぜなんだろう。

 車で巡ればもっと楽なのに。

「土佐の国は厳しいぞ。修行の道場だ。二十四番札所は室戸岬でここから八十三キロの道程だ。その他にも二十六番から二十七番が三十四キロ、二十七番から二十八番までが四十キロだ」

 身震いが襲って来た。

「室戸岬が見えるかなあ?」

「昔のお遍路さんはどうしたのだろう。海岸沿いの平坦な道を一日四十キロ歩いても二日はかかる。宿場はあったのだろうか? 野宿をした人もいただろうな」

 昔のお遍路さんはこの瑜祗塔からどんな気持ちで室戸岬に続く目の前の太平洋を眺めていたのだろう。そしてどんな気持ちでこの薬王寺を発って行ったのだろう。

 門前町に宿を取りどんな気持ちで食を摂ったのだろう。

 どんな顔をしてどんな話をしながら床に就いたのだろう。

 私みたいに怪我をしたお遍路さんもいただろう。

 年老いたお遍路さん、若いお遍路さん、道中で面白かった事、びっくりした事、危なかった事、思わぬところで出会った知人の事、旅先の珍しい郷土品、それぞれのお国訛りや方言に笑い、驚き、そして四国の人の暖かい人情と仏のご加護に感謝しただろう。

「もう嫌だ。私は帰る」と言って一度は挫折しかけたあの人も、わがままを言って同行の者を困らせたあの人も、業を持ち死の旅立ちに顔をこわばらせていたあの人も、みんな柔らかい顔で話をしている。楽しんでいる。

 海を眺めながら次ぎから次ぎへと場景がめぐっているが、浮かんでくるお遍路さんの顔はみな明るく活気に溢れた顔だった。そして話は次ぎの旅への糧となるものばかりであった。

「弘法大師は四国を巡る先々で人々のためになる足跡を残したんだよな。ところで私にできることはなんだろう」

 難しい問いかけであった。

 思いつきで始めた巡礼の旅。しかし歩いて旧お遍路道をたどるガイドブックも地図も無く計画の時に困ってしまったことを思い出す。 

 結局は迷子になるかもしれない不安と、自分でたてた確信の無い予定表だけを頼りに行き当たりばったりの旅だった。

「若い人達にもまた後世のお遍路さんのためにも安心して気軽に旅立てる地図代わりの物を作れないかな? そして特に若い人達にもお遍路を身近な旅に感じて欲しい。元気な内に。人生スタートの時に、または折り返しの時にこの旅を通して自分自身と対峙して何を感じられるか挑戦してみるのも面白いと思う」

 伊能忠敬の事を思い出したが、首を大きく横に振っていた。

「それは無理だ。しかし記録に残そう。自分の歩いた道を」

 記録に残してからどうするかまでは考え及んでいない。

ただ忘れたくない。忘れる前に記録を残しておこう。

「修行の道場は厳しいぞ、室戸岬までは電車とバスを乗り継いでなんとか一日で行き、第二十四番札所をスタートにしようか」

 もう次ぎの巡礼の計画が頭の中で始まっている。

「しかし一番難しい事は、まとめて休暇が取れるかどうかだな」

 突然現実の世界に舞い戻ってしまった。


 ふと目が右足元に移る。左足に比べシューズの紐が緩められ膨れ上がった右足が目に入る。

「お前はこの足で明日二十四番札所へ出発できるか」

 またきつい問いかけだ。

 虚ろな数秒間が過ぎた。

「出発しただろうな。もう内出血は止まっている。自分のペースで歩き始めただろう。お年寄りに追い越され哀れそうに私を見る周囲の目にも耐えて歩き続けただろう」

「なぜ、そうまでして歩くんだ?」

 混沌の数秒間が流れた。

「・・・」

「強がりか? 誰かに命令されたのか? それとも現世からの逃避か? 人と違った事をする自己満足か? 酒の肴のネタ作りか?」

 そして煩悶の数秒間が漂っている。

「わからない。なぜだ」

 うつむいてしまった。

「頑張ってみよう。修業の道場が待ってるぞ。弘法大師と一緒に歩こう。空海の道を」


 この旅に私なりの大義名分を立て望んだものだが、その大義名分の成果をあらためて問われてその大義名分のために歩くのだと断言できず絶句してしまった自分を見てしまった。

 物見遊山的な大義名分であったことに気づき始めた煩悶であったたのだろう。

 物理的条件を合わせれば古人の心に近づけるであろう事は必要条件ではあるが一要素に過ぎず、自分の心の動きをしっかり見つめる事が古人の心を理解できることであろうと考る。

「弘法大師の気持ちや昔のお遍路さんの心を感じたとして、それが何になるんだ?」

 開放に向かう平穏な数秒間が訪れた。

「いいんだ。虚無で終わっても。言葉に表せなくても、それが利得や悟徳の形にならなくても感じられた時が私の旅の終わりだ」


 今年の予定はここまでだ。

帰ったら新しく生きる道を探さなければならない。

辛い決断の後、八つの欲を捨てお茶を引いた身であるが家族を守るためには最低限の物質的な糧は必要である。

「明日からの人生が真の修行の道場かもしれない。自分の心の中に菩提の道場や涅槃の道場が創れるだろうか。同行二人、南無大師遍照金剛 さあ現実の修行の道場に戻ろう」


 そろりそろりと階段を下りて行くと女厄坂で若い女性の二人ずれに出会った。観光客であろう。

 左手にたくさんの一円玉を持っており、一枚ずつ階段の隅に置きながら上ってくる。

「そうか一段ごとにお賽銭を置いて厄除けをする風習があるんだ。

 気がつかなかった」

 手摺に掴まりながら下りてきた私に気づき照れくさかったのか、しゃがまずに立ったまま一円玉を置いたため一円玉は階段の下まで転がり落ちて行った。

「うあー、どうしょう」

 嬌声を揚げた二人は一円玉を拾いに下りて行った。

 すれ違う時、私から声をかけた。

「ごくろうさまです」

 こっくり会釈をして揚げた顔は照れくさそうに苦笑いをしていた。


     十二、帰路


 宿に戻りお土産を買いお世話になったお礼を述べ宿を後にした。

 一~二分で着く距離で運転手には申し訳無かったが日和佐駅までタクシーにし、十時四十二分発で徳島に向かった。

 十一時五十五分、徳島の五駅手前、南小松島駅に着いた。

 窓から見る駅舎が遠く懐かしく思えた。

 つい二~三日前、焼山寺のお参りを済ませた翌日、この駅に降り立ちこの駅を起点に第十八番札所恩山寺を目指して歩き始めた事を懐かしく思い感無量になる。

 捻挫というお土産を作ってしまったが私にとっては満願成就であり嬉しさひとしおである。

 焼山寺から下りの山道で拾ってくれたお遍路さんの一行に始まり民宿久保の大将とおくさん、岩間さん、金子屋の女将とおばあちゃん、牛乳屋さん、駄菓子やのおかみさん、坂口屋の人、ホテル千羽の人々、皆優しく親切な人達だった。みんなに見守られての旅だったと感謝している。

   胸がジンとするのを感じながら

   南小松島駅から遠ざかるにつれて

   エンディングの真っ白いカーテンが

   ゆっくりと静かに降り始めたのを感じていた。


     十三、番外


 十七時三十三分、女房が待っている駅に着いた。

 そのまま病院へ運んでもらった。

 私の元気な顔を見て女房が笑ってこう言った。

「世話のかかる人」

 私より年配の医者がびっくりしてこう言った。

「何をしたんだ」

 骨に異常無し。ひと安心だ。


 家に着き、いの一番にバッグの重さを計ってみるとお土産を除いて七キログラムもあった。

「来年はなんとか軽くしよう」

 風呂に入る前、真っ黒に腫れた足でびっこを引いて歩きまわる私を呆れ顔で見ている女房と二人の息子の姿があった。

                              完

    


 




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