第14話


桃子ははっと夢から覚めた。


小さな講堂で映画の試写会があったのだ。どこかの国の素人に毛が生えたような監督が撮ったヴァンパイアの映画だった。ストーリーは記憶にないが、ヴァンパイアが台所に行って鍋を開いたら中身が腐っていたシーンだけ覚えている。彼は中身をごっそり裏庭に捨てていた。

そのシーンで桃子ともう一人だけが口を押えて笑った。顔を見るとたまだった。大人になったたまは花柄のシックなワンピースドレスを着て、

「わらわの夢の方には桃子が出てきておるよ」

と言った。化粧した顔が女優のように綺麗だった。


寝汗でびっしょり濡れた寝間着を脱いで着替えた。たまは今、この家にいない。桜史郎もだ。

彼が十八歳になったら手放す予定だった。ほんの数年どころか数か月。桜史郎が桃子の手元で過ごしたのは、たったそれだけに過ぎなかった。


窓を開ける。早朝の空気はしんと肺に染みた。

「ごめんね、桜子。あなたの息子を守ってあげられなかった」

季節は六月。庭にはいつのまにかアジサイが自生して、小さな花を元気なくつけていた。


桜史郎が冬宮の施設を破壊して、その奥に祀られていた神の像を盗み、姿を消したのは三月のことだった。死者が出なかったのが奇跡と言われた破壊ぶりだったという。桃子は残った関係者に捕まって、尋問のようなことをされたが途中で解放された。


何も聞かされていなかった。何も知らなかった。また、何の力もなかった。そのことがかろうじて命を救ってくれたのだった。


思うに――桜史郎は少年漫画でいうとろこの主人公のライバルだったのだと思う。主人公が波ノ宮奏汰で、さしずめ鉄口優希はヒロインといったところだろうか。倫理呪言委員会は敵役。桃子はモブキャラクターだ。

桜史郎はまだ若く世間を知らない。桃子がもう少し、気を付けていたら違っていたのかと思う。


桜史郎と一緒に鉄口優希も姿を消していた。新体操でもやっていそうにすらりと優美な少女の姿を思うたび、二人してそんな絶望的な選択しかできなかったことに、桃子はすまなく思うのだった。


(せめて優希ちゃんの方と連絡先、交換していたらなあ。相談に乗ってあげられたかもしれない)

――二人が姿を消したあと、波ノ宮奏汰はこの家にやってきて、桃子に頭を下げた。


「ごめんなさい、おばさん。俺が……俺が、原因だったんだ」

泣きそうに声が震えていた。リビングに上げてお菓子を出した。桃子はそのとき左足をひきずっていた。冬宮に連れていかれたときにくじいたのだった。


「それ……」

と指さしたきり奏汰が二の句が継げないので、

「自分で転んだのよ」

と誤魔化したけど、果たして誤魔化されてくれたものか。そうだといい。


お菓子はみかんをゼラチンで固めたゼリーだった。みかんの皮を容器にするとかミントを飾るとか、そういう工夫はひとつもなくて、空いていた小鉢に果肉とゼラチンを入れて冷やし固めただけのもの。それでも果肉を取り出したり絞ったり、慎重に薄皮を剥いたりする作業に桃子は心癒されたから、作ってよかったと思っていた。


一口食べて、奏汰の死にそうに白かった顔がちょっとだけほころび、目から涙がぽたぽた落ちて、

「うまいです」

と言って泣き始める。

「あらあら、果汁が飛んじゃったのね」

とタオルを持ってきて黙って前にいた。カップの紅茶が湯気を立てなくなるまで奏汰は俯いていた。ちん、とティッシュで洟をかんで、奏汰は話してくれた。


「冬宮が怪しいってことは周知の事実だったじゃないですか。優希が――危ないかもしれない、ってことがわかって。あいつ言わなかったんです。俺たちに、オカルト部に迷惑かけないようにしようとしてたんです。桜史郎はそれを知って、助けようってことを言って。でも俺は、」


奏汰は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

「俺は行かないって言ったんです。冬宮の先生たちのことを信じてたし、優希は無茶なことしないって思ってた。あいつはずっと冬宮で育ったんだから、反逆みたいなことはしないだろうと思い込んでたんです。桜史郎は夜、この家を抜け出して冬宮に駆けつけて……そのまま。優希のやったことを、罪を被ったんです、あいつ。主犯は優希で、俺なんですよ。俺が怖気づいたから、あいつら二人がやったんです……」


桃子は話を聞き終え、エアコンはこうこう音を立て、紅茶のポットは冷めていく。桃子は奏汰に微笑みかけた。涙目の子供相手に、それ以外できることを彼女は知らない。


「あなたは悪くないよ。私だって桜史郎がそんなことを思ってるなんて知らなかった。一番近くにいた大人なんだから、もっと何かできたはずなのにできなかったんだもの。もし悪かったとしたら、私が一番悪い」

「そんな、」

「でしょう? そんなこと言われたって困るでしょう。それと同じ」


立ち上がって新しいお湯を沸かしに行く。

「戻ってきたら、いつかまた会えたら思いっきり怒ろうね。こっちを頼ってくれなかったこと、勝手に思い込んで先走って、私たちを信用しなかったことを罵ってやろう。ね? だからそれまで私たち、できることをやりましょう」


熱湯と次の茶葉で沸かしたお茶を飲み、ようやく奏汰は落ち着いた。

頭を下げて帰っていく彼が可哀そうで可愛かった。桜史郎にもああして他人に、大人に頼るところがあってくれれば――桃子がそれを引き出してやれればよかった。強くそう思う。


再会してから初めて、室井に連絡を取ったが、彼の元にも詳しい情報はないという。


「なんかわかったら知らせてやるよ」

「役に立たないなあ。なんでも知ってるって豪語してたじゃない」

「限度があンの!――まあ、ガキなんてすぐに見つかるだろ。暮らし方もわかってないんだから」


この会話の一週間後に地元のネットニュースに男性の遺体が見つかった事件が小さく載った。顔が潰されていて身元を示すものもなく、……細い身体の、中年男性の遺体だという。桃子はそれが室井でないことを信じている。いけ好かない、どうしようもないやつだが桃子の味方になってくれ、お金ごしでも協力しようとしてくれた奴だ。


両親と妹が、甥っ子がいる世界が、まさかそこまで暗く底のないところだったなんて、信じたくない。かつて自分がいた場所もまた、そこにほど近かったなんて。


桃子にできるのは信じること、前を向くこと、そして落とし穴に落ちないこと、それだけである。


桜史郎の部屋に初めて入ったのは五月のことだった。コンセントの絵に描いたようなタコ足配線を外し、教科書や服が散乱する床を踏み越え、マウスや文房具でぐちゃぐちゃになった折りたたみ机の上を整理整頓した。桜史郎がいなくなったときにドヤドヤやってきたスーツの男性たちによって、パソコンは持ち去られていた。


世界のベールが一枚ずつ剥がされて、剝き出しの本能的な戦いが始まった感じがする。桃子の周りでどんどん火種が火を吹き上げ、そのうち大火事になってしまう、予感がする。少年漫画でいうならば最初の小手調べのパートがすんで、いよいよ本格的にストーリーが動き始めた、そんな時期なのかもしれなかった。


七月の気配が見え始めた月末、早くもやってきた熱帯夜に都会の方は苦しんでいるらしい。桃子は自室のベットの上でうとうとして、寝苦しい夢を見た。


リビングのテーブルに五歳の姿のたまが坐って、絵を描いていた。

「たまちゃんに頼みがあるんだけど、いい?」

「なんじゃえ」


子供椅子に腰かけたたまはクレヨン片手に振り返る。桃子は通帳を見せた。

「うちの両親が私に残してくれた分ってことなんだけど。もし私が死んだらたまちゃん、これを取りに来てもらってほしいの。あなたならネコババしないでしょ? それで、桜史郎が困ったらここから助けてあげてほしい」


たまは赤い目を丸くしたが、黙ってうなずいた。小さな鋭い爪の生えた、赤い線で模様の描かれた手を厳かに上げ、人差し指と中指を額に当てた。

「信太の森にかけて誓おうぞ。任されたからには信じてくれて構わぬ」

「ありがとう」


桃子は深く頭を下げる。

「心から感謝します。どうかあの子をよろしくお願いいたします」


たまはにこっと笑った、ようだった。人あらざる者がレベルを下げて人間の相手をしてくれているとき特有の、言質は取ったぞと念押しする空気。

「承った」

「――元気にしてるの?」

「わらわと鉄口はの。桜史郎はちょっと寝込んでおる」

「ヤダ。何したのあの子」

「難しい妖刀を従えようとしたのじゃ。なまくらめ、ばたばたに暴れよってのう。それで力が拮抗して、夢を彷徨っておるよ。もうちょっと深くまで潜ったら会えるのじゃないかえ?」


とたまはテーブルの下を指さした。そこには深い、深淵と呼ぶにふさわしい底が見えない穴が開いている。ちょうど桃子が入れそうな大きさだった。首を横に振って拒んだ。


「死んじゃうと思うからやめとくね」

「ホホ。ほんに賢い子じゃこと。――のう桃子。わらわは封印されておったところを桜史郎に目覚めさせられ、契約したのじゃ。おぬしが血縁の縁でもって桜史郎を愛するのと同じくらい、わらわも恩と契約を越えたところであやつのことを好いておるよ。努力家じゃし、まっすぐじゃもの。ずっと見守ってやるからのう」

「そうね。お願い。私にはお願いすることしかできないけど」

「ええんじゃよ。桃子のような者がたくさんいることこそ、世の安定のことわりじゃ」


たまはひょい椅子から飛び降りた。

「目を覚ましたらあやつらにも桃子のことを言っておいてあげる。きっと涙流して喜ぶのう」

「ううん、言わないで。その方がいいわよ。一生懸命逃げて、成長して、戦わないといけない人間でしょう。桜史郎も優希ちゃんも、波ノ宮くんも」


たまは何も言わず、ただ嫣然と微笑むのだった。

目を覚ました桃子はスマホで時間を確認して、危うく遅刻しかけていることに目を剥いた。ぐったりした視界がすぐに晴れる。急いで着替えなくては。


それぞれが生まれ持ったものに合わせて日常が作られ、日常が人生を作る。桃子は自分の人生を生きる。それがまたいつか、桜史郎たちのそれと交錯することはあるのだろうか?


すべては動き出してしまった、これから始まる物語の中にある。


【完】

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選ばれた少年と暮らした五か月についての記録~あるいは作ったごはんの記憶~ 重田いの @omitani

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