58.薔薇色の微笑み





 繰り返し、夢に見る光景がある。

 あらゆる場面で称賛されるセイラの姿。その様子を、アリサは遠くから眺めている。


 口々に褒め称えられる中、殊更に聞こえてくるのは両親の声。

 朗らかな母に、物静かな父。


 けれどセイラを褒める時だけは、二人共に同じ嬉しさを声に滲ませている。

 いつか、きっと自分も――懸命に努力したアリサに届いたのは、純桜合格の報せ。

 それも学科試験でトップ。この上ない結果だった。


 ――これでわたくしもお姉さまのようになれる……いいえ、きっとなってみせるわ!


 両親のもとへと急ぐ。二人の喜ぶ声を聞くために。

 けれど何度思い返しても、両親の言葉から『セイラ』の名前が消えることはなかった。


 ――凄いわね、アリサ。これで、新入生代表になるのよ。


 ――か。それは凄いことだな。


 首席になれたから凄いではなく、『セイラと同じ』だから凄い――その時初めて、アリサは喜びではなく小さな違和感を覚えた。

 気づけば、自分よりもセイラの話の方が長くなっている。アリサ自身も、いつの間にか両親と共にセイラを称えている。


 どれだけの努力を重ね、結果を出しても、その先には必ずセイラの姿があり、高い壁として立ちはだかっている――憧れと隣り合わせの場所に仄暗い感情が生まれていることを、アリサは自覚できていなかった。あるいは俄かに気づいていながら、目を逸らそうとしていたのかもしれない。


『手紙』を日課として書き綴り始め、物書きを志したのもその表れだった。


 セイラのいない道へ行きたい。セイラがやらないようなことをやりたい……そんな思いが根底にあった。

 けれどそれでは、意味がないことも理解していた。

 セイラは物語など書かない。けれどもし書けば、きっと自分よりも優れたものを書くに違いない。


 根拠のない不安が募っていくばかり――振り払う方法は、たった一つだけ。


 それを悟った時、アリサは決意した。

 いつか、セイラのようになりたい。そう思うばかりではいけないのだと。


 そういう感情につけ込もうとした瑠佳の企みを結果的に撥ねつけたのも、当然のように育んできた正義感からではなく、やおら芽生え始めたセイラへの対抗心からだったのかもしれない。

 舞白の苦悩に対し、セイラが取ったスタンスは静観の類い。過去の傷はいつか癒えるものと決めつけ、舞白が自ら立ち直るのを見守っていく。


 それが間違っているとは思わない。問題集の模範解答のように正しく感じられる。

 けれどそれは、新たな苦悩が生まれないことが前提ではないか、とアリサは思った。

 それこそ、瑠佳のような悪意を向けてくる者がいれば、ただ見守っているだけでは意味がない。


 それに――アリサは信じたかった。

 いつか舞白が、自分や友人たちのことを、信じてくれる日が来ることを。


 ――アリサさん。


 聞き慣れた声がした気がして、アリサはハッと顔を上げた。


 まだ早朝の、がらんとした教室の中。

 日直のために誰よりも早く登校したアリサは、花瓶の水を替えたところで手を止めていた。日直は隣の席の生徒と二人で担当するが、残念ながら今朝も独りぼっちだった。

 改めて黒板の前に立ち、チョークで今日の日付を書き入れる。


 六月半ば――聖母祭から早一ヶ月が過ぎた。

 梅雨盛りの空は今日も鉛色で、窓の外では静かな雨が直線的に降り注いでいる。四角い教室に一人でいると、雨の檻に閉じ込められたような鬱屈とした気分になる。


 だからこそ、一番会いたいと感じている親友の声を空耳したのかもしれない。

 あるいはそれが、予感めいたものであればいいのに――そんな風に思いながら、日直者名の欄に自分の名前だけを書き込んだ時。


「……アリサさん」


 はっきりと耳朶まで届いた声。今度は疑わなかった。

 それでも少なからず驚いたのは、教室にひっそりと姿を現したもう一人の日直である生徒――彼女の持つ白い髪が、最後に見た時よりもだいぶ伸びていたことだった。


 黒髪の頃とはまだ比べものにならないくらいの短髪だが、以前よりは幾分、少女らしく映る。背丈の高さも相まってかどこかの運動部にでもいそうな風貌に見えてしまうのが少しだけおかしく、アリサは思わず相好を崩した。


「やっと、来てくれたのね。もう怖くはない?」


「……怖いけど、でも、来たいって思ったの。ちゃんと来て、みんなに伝えたいって」


 ためらいがちな言葉と共に差し出されたのは一冊のノートで、表紙には『Letters』と題されている。

 それはアリサが未来の自分に向けて書いている『手紙』ではなく、新たな『手紙』が綴られたノート。

 アリサだけではなく、小雛や菊乃、悠芭、ほかのクラスメイトたちにも協力してもらって書き上げた『手紙』の束、正真正銘の『Letters』――。


「そう。ちゃんと、読んでくれたのね」


 自分の言葉だけでは、彼女の苦しみを和らげてあげることはできない。腹心の友になれたとしても、彼女がアリサのことしか信じられなければ意味がない。


 だからこそ、アリサは友人たちの言葉を集め、『手紙』にして渡そうと考えた。

 アリサだけでなく、友人たちみんなが、どれだけ彼女を心配し、そして待ち侘びているのか。それを伝えたかったから。


(少しは、お姉さまを超えることができたのかしら。わたくし一人の力ではなくても)


 スマートなやり方ではないのかもしれない。セイラにはもっと別の考えがあったのかもしれない。

 それでもこの日、親友の心を確かに動かしたのは偉大な姉ではなく、自分や友人たちの言葉であることが、アリサは嬉しかった。


「どうせなら、もう少し早く来てほしかったのだけど。日直のお仕事、ほとんど終わらせてしまったんですもの」


「ご、ごめんなさい」


 皮肉っぽい言葉を向けられ、薄赤の瞳が申し訳なさそうに揺れる。

 アリサはお得意な調子で「冗談よ」と笑い、


「ほら、あとはあなたのお名前だけよ。早く書き入れなさい」


「うん……」


 ためらいがちに受け取られたチョークが、雪のように白い手によってこぢんまりと操られる。


(そう、わたくしたちは違うわ。初代アリスさまや、瑠佳さまのお祖母さまのようには、きっとならない……)


 篝の内側で、身を焼くほどの想いに駆られた少女たちの過去。

 それが瑠佳の言うように、現代まで続く純桜の隠された伝統なのだとしても――この瞬間だけはどちらも『アリスさま』ではなく、腹心の友でしかないのだから。


 ほどなく、アリサの名前の横に『稲羽舞白』と書き加えられた時、アリサはそっと身を寄せた。


「おかえりなさい、舞白さん」


 薔薇色に染まった白い頬が、幸せそうに笑った。


「――ただいま、アリサさん」



 1st Spring, ――Fin.

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かがりの庭のアリス ―Alice Wanders in the Garden-Past― 界達かたる @Kataru_K

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