57.篝火花





 華やかな庭園に兎が一羽。


 その背中を追うように迷い込む、一人の少女。


 誰もが知る物語の始まりのように、その光景は微笑ましい。


 ――けれどこれは、物語とは違う。


 窓の外に広がる確かな現実。


 不思議でもなんでもない、ありふれた邂逅。


 もしもこの出会いが、物語のように運命的なものであるのなら……、


(――アリスに相応しいのは、誰になるのかしら)


 生徒会室の窓際に立ちながら、瑠佳は入学式に見た光景を思い返していた。

 まだ微かな朝靄が立ち込める早朝。窓から見下ろすことのできる篝乃庭に人影はない。生徒会室にも静けさが満ち、一人きりで佇む瑠佳に一時の安らぎを感じさせる。


 入学式の日。準備の途中に生徒会室へ立ち寄った瑠佳は、篝乃庭に入り込んでいる二人の新入生を偶然見かけた。時間からして新入生代表の二人――アリサと舞白であることはすぐに見当がついた。

 この時はまだ、二人の姿を微笑ましく見つめていた。しかし入学式で、舞白が代表演奏を終えた頃には、瑠佳の中に不安めいた予感が生まれていた。


 確信を持ったのは四月半ば。朝方にセイラから呼び出され、篝乃庭へ赴いた時だった。


『稲羽舞白さんも、篝乃会に加わるわ』


 マリア像の前に薄桃色のシクラメンを供えながらセイラは告げた。

 決定事項であるような言い方に、瑠佳は疑問を抱いた。


『稲羽さん? でも、あの子には……』


『問題があることを知っているのは私たちだけ。だから、瑠佳さんにだけは話しておく』


『どうして篝乃会に? まさか、稲羽さんから志願を?』


『違う。でも、遠からず彼女は決断する。私とアリサが、背中を押すから』


 瑠佳は、顔には出さないまでも酷く憤然としていた。

 セイラは舞白を利用しようとしている――不安が現実のものとなりつつある。


『無茶だわ。もしも稲羽さんになにかあったら……それでも、セイラさんはあの子を篝乃会に入れるというの? どうして?』


『それが、アリスさまのご意思だから』


 アリスさまのご意思――いつ頃からか、セイラが口癖のように使い始めた言葉。

 彼女がどれだけ今のアリスさまを崇拝しているのか。あるいはアリスさまさえ、自分のために利用しようとしているのか……。


 セイラが庭園を去ったあと、気づけば瑠佳は、供えられたシクラメンの花を散り散りに破き、吹き抜ける風に乗せて飛ばしていた。

 怒りに任せた短絡的な行い。思い返すと、どうしようもない自己嫌悪が募る。

 けれどあれは、瑠佳にとって決意の表れでもあった。


 ――やはり、稲羽舞白を放っておくわけにはいかない。


 恨みのない相手を傷つけることは心苦しかったが、そもそも舞白を引きずり出したのはセイラの方だ。そう思えは良心の呵責は薄まり、むしろ早々に問題が明らかとなった方が舞白のためでもあると考えた。あれほどの秘密を隠し通して生活するには、純桜はあまりに閉鎖的過ぎる。

 けれど舞台から残酷な退場劇は、またもアリサの手によってフイさせられた。


『瑠佳さまのお気持ちは、理解できないわけではありませんでした。セイラお姉さまへ対抗心を燃やされるのも。ですが――』


 聖母祭の幕が下りたあと。二人きりの控室で、仮初めの妹は決然と言い放った。


『わたくしは、わたくしのやり方で、お姉さまを越えるつもりです。瑠佳さまのような、非道なやり方ではなく』


 非道という言葉に、瑠佳はそれほどショックを受けなかった。自分の在り方を本当の意味で理解するには、アリサの絶望はまだ幼過ぎたのだ。


(今はまだ、それでも構わないわ。火種を投げ入れることができただけでも充分。いずれアリサさんも思い知ることでしょう……いつの間にか自分が伴奏に回っていること。それがどれだけ愚かで、屈辱的なことかも)


 従う側ではなく、従わせる側になること――。

 子供の頃に祖母から教わった言葉。貴船家の中における自らの運命を憂い、這い上がるための拠りどころとなった教え。


 瑠佳の祖母は物静かながら芯の強い女性だった。婿養子を取って代を継ぐ女系の一家で育った祖母だが、長女ではないことから有力な名家に嫁ぐことを強いられた。純桜でアリスさまと慕われていた頃のことで、なぜ自分ばかりが、と縁談を渋っていたという。


 祖母には当時、入学時から親しくしている同級生がおり、公然とはできない秘密の関係にあった。女が我を通しやすい女系の家風で育ち、心の底では男性を蔑んでいた祖母にとって、対等に愛し合えるのは同じ女学生だけだと思っていた。あるいは、一方的に決められた縁談に対する抵抗心もあったのかもしれない。


 しかしその同級生は、祖母に縁談が持ち上がっていると知り、距離を置くようになったという。

 初めは余計な気を遣われているのかと思ったが、そうではなかった。その同級生にも同じような縁談があったものの、祖母との関係があった手前、尻込みしていたらしい。


 けれど互いに嫁ぐことが決まれば、きっぱりと関係を精算できる――結局のところ、その同級生にとって祖母との関係は、学院に通っている間のの類いでしかなかった。

 少なくともそう感じた祖母が、憤りの念を燃やしたのは言うまでもない。


 幸か不幸か、祖母がアリスさまの真実を知ったのも同じ頃だった。初代アリスさまが抱いた嫉妬の念が、大きな火種となって心の内側に投げ込まれたのだ。


 ――小火については、祖母もよく覚えていないという。

 確かなことは、足元に小さく残った火傷の痕と、『篝』が消えたバージン・ガーデンが未だ篝乃庭と呼ばれている事実だけ。のちの父母の会によって、彼岸花のあとに植えられるのはガーデンシクラメンと決められた。


(お祖母さまは成し遂げてみせた。何十年もかけて、あの篝乃庭を……私だって、いつか必ず)


 小さく拳を固めた時、生徒会室のドアがノックもなく開かれる。

 入ってきたのはセイラだった。窓際に立つ瑠佳を見ても特段驚いた様子はなく、静かな足取りで中へと踏み入ってくる。瑠佳はすぐに拳を解き、普段通りの人当たりのよい笑みを心がけた。


「ごきげんよう、セイラさん。これから朝拝の鐘ではないの?」


「その前に、ここの花を見ておきたいと思って。そろそろ替え時だから」


 テーブルの上に飾られている花々を確認しているセイラ。

 色とりどりの花の中には、庭園のものとは違う赤いシクラメンも並んでいる。いくつかは花びらが落ち始めており、セイラの言う通り替え時かもしれない。


「そういえば、稲羽さんの調子はどう?」


「分からない。きっと、時間がかかる」


 平然とした声だった。目論見が外れたとは思えないほどに。


 聖母祭後、稲羽舞白は登校できておらず、一時的に旧寄宿舎へ移っている。

 意外に早い限界だった、と瑠佳はほくそ笑んだ。アリサを利用した企みなど最初から不要だったのかもしれない。


「セイラさん、もう今更の話だけど、稲羽さんを篝乃会に入れるのはやっぱり考え直すべきだったと思うわ。遠からず、稲羽さんが傷つく日は訪れていたでしょうから」


「……瑠佳さんの言う通りかもしれない。私の言葉だけでは、救うことができなかったと思う」


 微かだが、セイラの声が震えたように聞こえた。


「でも、大丈夫。あの子はいい友達に恵まれている」


「アリサさんのこと?」


「そう。アリサも、きっと」


 ああ、なんてお目出度い人だろうか――思わずほくそ笑みかけた瑠佳は、テーブルの上の赤い花びらを一つ拾い、


「セイラさんは、こんな話を知っていて? シクラメンの花弁の色が変わるというお話」


「花弁の色?」


「ええ……白いと思って買ったはずのシクラメンが、気づいたら赤い色に変わっていたらしいの。知人に聞いただけで本当かは分からないけど、セイラさんはどう思う?」


 やや間があったのち、セイラが答える。


「そもそもが白ではなく、白に限りなく近い薄赤のシクラメンだった。飾られた環境で、急激な温度変化などが起きれば、赤い色の方が強くなる可能性も否定はできない」


「へえ……さすがはセイラさん。花言葉にも詳しいはずだわ」


「とても稀なケースだけど」


 そう付言すると、セイラは無表情のまま踵を返した。


「朝拝の鐘に行ってくる。ごきげんよう、瑠佳さん」


 ドアが閉じ、生徒会室にまた静けさが張り詰める。


(そもそもが白ではなかった、ね)


 手のひらの赤い花びらをふっと宙に舞わると、瑠佳はまた窓から篝乃庭を見下ろした。


「赤く染まり始めた今では、もう遅いかもしれないけれど……」


 子供の頃、祖母の話を聞いた瑠佳には、一つだけ分からないことがあった。


 卒業から数十年後、祖母は父母の会の会長になり、バージン・ガーデン改装の折に植え直す新しい花の候補にガーデンシクラメンを強く推した。ガーデニングブームと共に人気を博していた花だが、祖母がただ流行りに乗ろうとしたとは考えづらい。なぜ、シクラメンでなければいけなかったのか。


 今の瑠佳には分かる――シクラメンの和名である『篝火花』。

 祖母にとっては、それが最後の復讐。


 当時祖母は、アリスさまの真実を庭園の彼岸花と共に焼こうとしたが、すべての花を焼き尽くすには至れなかった。庭の周りに咲く赤い彼岸花はのちに撤去されたが、マリアさまの足元に咲く白い彼岸花はすべて残ってしまった。

 それが、祖母には心残りだった。


 祖母は彼岸花に――アリスさまの遺物である『篝』すべてに、


 その炎が今なお、篝乃庭に残り続けている。

 初代アリスさまが嫉妬の焔を燃やしたであろう庭園に、『篝火花』として――。


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