56.厳かな誓い



 気づけば、舞白は泣きながらその場に膝を折っていた。


「本当は、分かっていたの。ほかの誰かになんてなれない。結局、私は私のまま……でも、やっぱり、嫌だったから」


 涙塗れの頬を両手で覆い、懺悔でもするような掠れ声を懸命に絞り出した。


「こんな自分が嫌いだったから。嫌いな自分なんか、見せない方がいいって思ってから」


「わたくしも、嫌うと思ったの? あなたの本当の秘密を知ったら」


「ずっと、そうだったから。友達ができないのも、お父さんとお母さんが離れちゃったのも、先生だって……全部、私がこんな体だから」


「でも、見せてくれたのね。わたくしのことを信じて」


 跪いた舞白の顔を、アリサがそっと胸の中に迎える。髪に触れた小さな手が舞白の身を大きく震わせた。また大粒の涙が零れそうになった。

 けれど頬を包み込むじんわりとした温もりや、とくとく微かに鳴る鼓動に気づくと、胸の中のざわめきは不思議と凪いでいくのを感じた。


「舞白さんは今日、大きな一歩を踏み出したのよ。篝乃会に入ったこと。ダンスパーティーでみなさんと一緒に踊ったこと。そして、わたくしを信じてくれたこと。あなたにとっては、どれも大きな勇気が必要なことだったと思うわ……でも、あともう一歩だけ、勇気を持って踏み出してほしいことがあるの」


「もう、一歩?」


「ええ。わたくしだけじゃなくて、みなさんのことも信じてほしいの。小雛さんや菊乃さん、悠芭さんたちのこと。舞白さんのお友達、舞白さんを慕ってくれている人たちのことよ。きっと受け入れてくれるはずだから」


 優しく諭すような言葉でありながら、確かな力強さもある声だった。

 それでも――頷けない自分が、どうしようもなく情けない。


 アリサが信じられないわけではない。小雛や菊乃、悠芭たちを疑っているわけでもない。


 ただ、どうしようもなく怖かった。

 本当の自分でいることが、堪らなく怖ろしい。


「……わたくしの言葉なんかで、簡単に乗り越えられるような問題じゃないことは分かっているつもりよ。でも、わたくしはね……悔しかったの」


 舞白の体が震え始めているのに気づいてか、アリサが少しだけ抱擁を強めてくる。


「瑠佳さまはわたくしを利用して、舞白さんを貶めようとした。結局、わたくしは従わなかったけど、やろうと思えば瑠佳さまだけでもできたはずよ。


 でも、そうはしなかった。たとえ舞台の上で明かさなくても、舞白さんの秘密を公にする方法なんていくらでもあると考えているのよ。そうすることで、舞白さんがどれだけ傷つくのか、お姉さまを陥れることができるのか……すべて分かっていらっしゃるのよ。それもこれも、舞白さんが立ち直れない、自分から秘密を明かせないと決め込んでいるからなのよ――そんなの、悔しいじゃない」


 耳元で囁くようだったアリサの声が、自然と熱を帯びていくのが分かった。


「舞白さんが怖がる理由は仕方がないことよ。でも、この先も怖れてばかりではいられないのよ。舞白さんが本当に、わたくしやお姉さま、みなさんと一緒にいたいと思ってくれているのなら……舞白さん自身で、明かすしかないのよ。みなさんのことを信じて」


 少しだけ体を離したアリサの目は、小さな涙で潤んでいた。

 けれど、舞白のような弱々しさはなかった。微かな笑みを湛え、力強い眼差しを向けている。


「さあ立って、舞白さん。せっかくマリアさまの御前にいるんだから。お互い、誓いを立てましょうよ」


 アリサに手を取られると、舞白は自分でも驚くほど素直に腰を上げていた。体の震えはなく、両の頬が少しだけ熱っぽい気がした。


「今すぐでなくてもいいわ。いつかきっと、みなさんに自分から打ち明けてほしいの。そう約束してほしいの。代わりにわたくしも、舞白さんとの約束を果たすから」


「約束……?」


「入学式の日の夜、わたくしが恥ずかしいからと言ってフイにしてしまった約束のことよ――『厳かな誓い』のこと」


 舞白を思わず両目を見開いた。溜め込んでいた雫がぼろぼろと溢れ出していく。

 両手を優しく握り直すアリサの体は、淡い月明かりを羽織らせたように柔らかく輝いて見えた。


「わたくしのあとに、同じ台詞を続けるの……なんて、あなたへの説明は不要かしら」


「……うん。何回も読んだから。何回も、誓いの言葉……」


「そうね。じゃあ、舞白さんが言う時は、そんなに涙ぐまないようにね――『太陽と月のあらん限り、わが腹心の友、稲羽舞白に忠実なることを、われ、厳かに宣誓す』」


 ゆっくり、はっきりとした声で宣誓するアリサ。

 そのあとに続かせた舞白の声は、やはり涙を滲ませた弱々しいものだった。


「――『太陽と、月のあらん限り、わが腹心の友、清華アリサに忠実なることを、われ、厳かに宣誓す』……――」


 それでも最後まで言い切ると、舞白は自然と笑みを零し、再びその場に跪いた。

 そのままアリサの体にしがみつくとまた潸然と涙を流したが、腹心の友はこれを包み込むような手つきで受け入れてくれた。


 月と、マリア像だけが、誓い合う二人を静かに見つめていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る