テセウスの機械少女

佐熊カズサ

テセウスの機械少女

Ⅰ.


 世界というのは恐ろしい。なにしろ、避けようのない危険で溢れかえっている。


 例えば、安いジンで酩酊して路地に座り込んで誰彼かまわず乱雑で卑猥な野次を飛ばす浮浪者や、いわゆる英気回復薬で英気を必要以上に養い、あちこちでたらめに相棒たる拳銃を撃ち放つ退役軍人、ところ構わず杖を振り回す根拠のない万能感に満ちた魔法使い。あるいは、散々に甘やかされて躾のなってない礼儀知らずの犬や、ごみくずを求めて黒くつぶらな目を光らせながら空を旋回するカラス、猫、ドブネズミ――いちいちあげつらっていてはキリが無い。


 そんな途方もない混沌から逃げるために、私は街から離れた小さな旧修道院を買い取って生活を始めた。26歳のときだ。


 買い取った当初はとてもじゃないが快適に暮らせる環境ではなかった。大聖堂や図書室には蜘蛛の巣がはり、中庭の草は際限なく伸びていた。


 だが街で生活する恐怖を思えばそんなのは大した問題ではなかった。蜘蛛の巣をほうきで払い落とし、草を刈り込み、修道院長室のベッドシーツを新しくした。


 そして最後に、地下倉庫に眠っていた計算機や車のエンジンなどを分解して人工魔力の結晶とともに組み直し、私は機械のメイドを造った。


 ……せっかくこの紙を閉じることなく読み進めてくれた心優しい読者諸兄姉に誤解のないよう弁解させていただくと、私が彼女を造ったのは、私に生活能力がないからでも機械仕掛けの少女に興奮する変態だからでもない。私に代わって危険渦巻く街へ行ってもらうためだ。


 どれだけ街や人々から距離をとったところで生活に必要な食料などが揃っているのはそこである上、数少ない街に行かずに済む方法である自給自足は時代遅れだし非効率だ。それに、機械なら壊れたとしても簡単に直せる。パーツになりそうなものは地下倉庫にまだいくらでもあった。


Ⅱ.


 大聖堂の扉が開く重く古めかしい音が修道院中に響いて、修道院長室にまで届いた。ようやく帰ってきた。


 私は窓辺から中庭の大木の影に咲いたブルーベルを眺めるのをやめ、帰ってきた彼女に会おうと調理室へ向かった。


 広くて日当たりのいい回廊をぐるりとまわり調理室へ入ると、彼女が戸棚にリンゴを並べているところだった。


 焦がしたキャラメルのような色の髪をシニヨンにまとめ、黒いシンプルなロングワンピースの腰の上でエプロンの白いリボンが控えめに揺れる。


「お帰り、テセウス」私は彼女に話しかけた。


 テセウスはゆったりと振り向いた。


「つい先ほど戻りました、旦那さま」


 新緑色のガラスの眼がこちらを向くが、その眼はどこも見てなどいない。魔法ですべてを感知する彼女にとって目などただの飾りでしかないのである。


 彼女の名前はテセウス、私が造ったメイドだ。


「今日はどこか損傷したかな?」テーブルに開かれたカゴの中からバゲットを取り出し、戸棚にしまうのを手伝いながら尋ねた。


「はい」テセウスは答えた。「左のすねを犬に噛まれました。それと、若い魔法使いにあばらのあたりに魔法をかけられました」


「そうか、じゃあ後で確認しよう。それが済んだら部屋においで」


「はい」


 努めて笑みを絶やさないようにしながら調理室を後にした。


 まったく忌々しい世界め。回廊を歩きながら私は心の中で悪態をついた。もしかしたら舌打ちくらいはしていたかもしれない。


 確かに彼女を修理することは簡単だ。はっきり言ってほとんど毎回のことだから手慣れてはいるし、彼女を構成するパーツには初期と同じものなどもうひとつも残っていないだろう。しかしだからといって、傷ついた彼女を見るのは決して気分の良いものではない。外出のたびにどこかしらに傷をつくって戻ってくる彼女を見ては、世界が心底憎くなる。テセウスの単調で簡潔な応答だけが私の救いだ。


 地下倉庫に立ち寄って計算機を少し分解し、テセウスのパーツになりそうなものをいくつか手にとった。歯車、パイプ、バネ……。損傷の具合がわからないので、少し余分に持っていくことにした。


 回廊を回って部屋に戻ると、すでにテセウスが待っていた。


「待たせたね」


「いえ、6分だけです」


 すまし顔で言うテセウスの横を通って窓辺のテーブルに持ってきたパーツを置いた。テーブルにぶつかる重たい音や金属同士がが触れ合う甲高い音だけが部屋に響く。椅子を引き、彼女に向き合うようにして座った。


「エプロンとワンピースを取って」


「はい」


 テセウスは後ろに手を回してエプロンのリボンを解き、肩紐を外してエプロンを足元に落とした。それからワンピースの胸元のボタンを5つだけ外し、前をはだけさせてそのままエプロンの上に落とした。彼女の足元に白と黒の布がわだかまる。


 私はその布の上に両膝をつき、彼女を見上げた。ため息が出るほど美しい。薄い魔力の膜によって形を保っている彼女の体は顔と首、両手以外は透明で、内側の複雑な金属機構が透けて見える。窓から差し込む光に当てられて鈍く輝く。常にどこかしらが動き続けている人間とは違い、彼女の体は必要なとき以外はまったく動かない。無駄がない。彼女は完璧そのものだ。


 みぞおちのあたりの金属の奥から、人工魔力の結晶が弱く青白い光が漏れている。交換まであと3週間程度の余裕がありそうだ。


 左のすねに視線を移す。確かに犬に噛まれたようだが傷は浅く、犬歯によって空けられたふたつの穴だけだった。穴に指を入れて膜を裂き、工具を手に持ってネジを途中まで回した。工具を指に挟んでネジと破損したパーツを外し、新しいパーツを留めた。破れた膜の修復はできない。自然に閉じていくのを待つしかない。


 腰を上げて膝立ちになり、魔法使いにやられたというあばらのあたりを確認する。膜は無事だが中のパーツが少し焼け焦げているようだった。工具を突き立てて穴を開け、下に引いて膜を破る。中に工具と指を入れ、焦げたパーツと新しいパーツを交換した。


 修理を終え、私は服の輪の外に立った。再び椅子の上に座る。


「終わったよ。服を着て」


「はい」


 テセウスはかがんでワンピースを拾い、袖を通して下から順番にボタンを留めた。エプロンも拾い上げ、腰のリボンを結んだ。


「いい時間だからお茶を淹れてもらおうかな」


「はい」テセウスは言った。「この部屋へお持ちしますか?」


「うん、お願い」


 テセウスが出ていき部屋の扉が閉まるのを見守った。それから椅子の位置を戻して、中庭のブルーベルを眺めながら彼女が紅茶を淹れてきてくれるのを待った。


 平凡な日々は退屈だが平和で、こんな日がいつまでも変わりなく続けば良いと願わない日などなかった。


 だが読者諸兄姉はすでに勘付いていることだろう。平凡平和な日が続くのであれば、私がわざわざ時間を割いてキーをタイプして紙に文字を打ちつける意味などない。何かが起こったに違いない、と。


Ⅲ.


 ことが起こったのはその日の夜。珍しく大聖堂の扉をノックするものが現れたのだ。


 いつもなら来客はの対応はまるっきりテセウスに任せてしまうのだが、今度ばかりは私も様子を伺おうと部屋を出た。なにしろ、太陽が残した温もりもすっかり冷え切り月が澄んだ白い光を浮かべる寂しい夜に誰かが訪ねてくることなど、これまで片手で数えるほどしかなかったものだから怪しまずにはいられなかったのだ。


「旦那さま」


 回廊から大聖堂へと続く扉に手をかけたところで、背後から不意にテセウスに声をかけられた。驚きで暴れる心臓の動きを感じながら振り返った。月の光に照らされた彼女の顔はつるりとして青白く、幻想的だった。


「私が対応いたしますので旦那さまは――」


「わかってる」私はテセウスの言葉を遮った。「でもこんな時間に訪ね人が来るなんて心配だから、少し後ろで様子を窺わせて」


「……かしこまりました」テセウスは言った。「では旦那さまは扉のすぐ後ろで声や音を聞いていてください」


 そう言うとテセウスは私の代わりに扉を開け、先に大聖堂に入り外へ繋がる扉へ向かっていった。


 私も彼女を追うが、扉の近くにたどり着く前に彼女は外へ出ていってしまった。少しだけ見えたその人影は、背が高く山高帽を被った男性のものだったと記憶している。


 私はゆっくりと閉まっていく扉に小走りになり、左右の扉の隙間がなくなると同時にその扉に耳を張り付けた。その直後――


 ドン、ドンッ! ドンッ!


 鼓膜や内臓が震えて慌てて飛び退いた。


 破裂音か発砲音か、もしくは爆発音のようにも聞こえた。とにかく派手で激しい破壊的な音だ。


 私は急いで扉を開けた。走り去っていく人影はすでに遠く、長いコートの裾がコウモリの翼のようにはためいていた。


 そいつを追いかけることはせず、私はテセウスの姿を探した。しかし彼女はどこにもいなかった。代わりに、扉の前にバラバラになった金属パーツの山と散り散りになった布切れが落ちていた。


 ああ、ついにこういう事態が起こってしまったか、と思った。自分でも意外なほど私は冷静だった。


 私は屈み込んで金属パーツをひとつひとつ手に取り点検し、まだ使えそうなパーツを探した。


 残念ながら再利用できそうなパーツは片腕分しかなかった。人工魔力の結晶も盗まれたか粉砕されたか。とにかく金属と布の山から見つけることはできなかった。


 極力無駄は避けたかったが仕方ない。片腕分だけのパーツを持って、私は地下倉庫へ向かった。


Ⅳ.


 ――というのが事件のあらましだ。


 その後、1日がかりでもう一度テセウスを組み立てた。同じ手順で組み立てた彼女は、やはりこれまでと同じように淡々と冷静に働いた。


 山も谷もない日々の歯車は再び回り出した、というわけだ。


 ここまで辛抱強く私の話に付き合ってくれた読者諸兄姉に頼みたいことがある。どうかあの夜この修道院を訪ねてきた不気味で乱暴な紳士を探し出してほしい。情報が少なくて申し訳ない。何しろ暗くてよく見えなかったものだから。それから、もし見つけたら、警察に身柄を差し出す前に私の前に連れてきてもらいたい。


 私はどうしても彼と少し話がしたいのだ。


 というのも、どうもテセウスの様子がおかしい気がするのだ。仕事はミスなくこなすし、返事も単調でシンプル。具体的にどこがどうおかしいのかと聞かれても具体的には説明できない。


 ただ、あの紳士に襲われ再び組み立て直したその日から、彼女はどこか違う気がするのだ。

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テセウスの機械少女 佐熊カズサ @cloudy00

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