マイ ピュア レディー

明日出木琴堂

マイ ピュア レディー

山々がいろいろな色の緑で覆われて、潮を含んだ南風が伸ばし放題になった私の黒髪を撫でていきます。

お気に入りのブルー×ホワイトのロンドンストライプのエプロン。

そのフリルも南風が揺らしていきます。

空気が少しだけ湿っているから、何もかもがキラキラ輝やいて、本格的に暑くなる前の優しく過ごしやすいほんのひと時の季節。


…そんな詩的な想いに浸りながら店先の掃除をしていると、見覚えのある古い黒い自転車が近づいてきました。

絹を裂くようなブレーキ音と共に、私は一気に現実世界に引き戻されます。


いつもの場所にいつも通りに自転車を置いて、中年男性は いつものようにこう言います。

「茜ちゃん、おはよう。」

いつもの真っ白に輝く大きな歯。

それしか印象に残らない笑顔で挨拶をいただきました。

「おはようございます。寺格丸さん。」

この方はおじいちゃんの喫茶店【六花】の常連様の寺格丸さん。

フルネームは寺格丸山岳。

「じかくまるさんがく」って読むらしいんだけど、□〇△(四角、丸、三角)みたいな噓みたいな本名なのです。

『ご両親はシャレでつけたのかしら…。』

「もう開いてる?大丈夫?」

「はい。いらっしゃいませ。」


お店の扉を開けると、今更のカウベルが鳴って来客をおじいちゃんに知らせます。

解き放たれた入口からは珈琲豆を焙煎する苦い香りが一斉に飛び出してきます。


「いらっしゃい。今日は早いね。また、依頼無しかい?」

珈琲豆を焙煎しながらおじいちゃんが声をかけました。

「手厳しいなぁ…。」

せっかく、綺麗にセットした七三別けの髪を掻きながら答える寺格丸さん。

「モーニングセットでいいかい?」

「それと卵サンドも。」

「朝から食欲旺盛ですね。」おしぼりと水をテーブルに置きながら言うと…。

「ここしばらく、結構〝頭″使っててさ。」と、返事をいただきました。

「頭?頭突きでもやってるんですか?」

「そうじゃないよ。頭脳。頭脳だよ、茜ちゃん。」

「だから朝から〝完全脳食″って言われている〝卵″を摂取ってわけだ。」と『どうせ情報番組の受け売りだろ。』って、言いたげなおじいちゃんの辛辣な返し…。

「…ああ。そっちですね。」と、この後のことが垣間見えた私の返し…。

「茜ちゃんには俺がどう見えてるんだろう…。」

「あはははははっ…。」






寺格丸さんは、ご本人いわく「日本一環境配慮した私立探偵社の社長。」だってこと…。

おじいちゃんいわく「社長、兼、社員、兼、探偵…の、一人ぼっち私立探偵社。」ってこと…。

「万年、依頼無し、金無しで、調査も公共交通機関か自転車か徒歩だから、環境に優しいって言ってるだけ。」だって…。

言いたい放題ですよね。


そんな寺格丸さんなのに、何故かよく【六花】に入り浸るのです。

そしてそういう時は、寺格丸さんの新作のお披露目も兼ねているのです。






先に上がったモーニングセットをテーブルに運ぶと、タブレット端末を睨みつけている寺格丸さん。

「どうしたんですか?そんなに怖い顔しちゃって。」

「茜ちゃん、この絵どう思う?」

「えっ?絵って?」

「この絵さ。」

差し出されたタブレットに映されていた絵はとても印象的でとても違和感を覚える日本画でした。


「なんか…、すごくインパクトのある絵ですね。日本画じゃないみたい。」

「そうなんだよね。」

「誰の絵なんですか?」

「葛飾北斎って知ってる?」

「はい。富士山の絵の人ですよね。日本史や美術の授業で習いましたけど…。」

「その北斎の娘さんの葛飾応為って女性ひとが描いたとされている【夜桜美人図】って絵なんだよ。」

「へぇー。その方のその絵がどうしたんですか?」

「今さ。新作の構想を考えててさ…。」

『なるほど、今回の新作の題材は【絵】なんだ…。』






寺格丸さんは私立探偵のかたわら?『かたわらなのかなぁ…?探偵のお仕事は全然…。』

…講談師をやっているんです。

講談師って言っても、アマチュアで老人会やデイサービスなんかでお話を披露しているようなんですけどね。

気になった事が出てくると、推理力…、じゃなくって、妄想力を発揮して、摩訶不思議な新作話を作り上げちゃうんです。

それをいの一番に【六花】の私たちに披露しに来るんです。

私たちにアドバイスを求めるためじゃないし、おかしなところを添削してもらうためでもないし、評価を聞きたいわけでもないのに、披露しに来るんです。

「唯我独尊。」「我、思うが故に、我有り。」状態で、とにかく一方的に言い聞かせるのです。

そのせいか、人気はイマイチ…、どころか、知る人だけが知る状態のようで…。






「その絵が新しい講談の題材なんですか?」

「そうなんだ…。でも、彼女の現存する作品を見れば見るほど、なんか頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃって…。」

「人気講談師の悩みってやつですね。」

「茜ちゃん、茶化さないでよ。」






出来上がった卵サンドをトレイに乗せ、寺格丸さんのテーブルに向かいます。

【六花】の卵サンドは卵焼きを挟んだサンドイッチ。

オリジナルのマヨネーズで味付けして、キュウリを一緒に挟んでいるだけ。

茹で卵のサンドイッチとは違う味わいがあるんですよ。

「昔の卵サンドと言えば卵焼きを挟んだものだったんだよ。」って、おじいちゃんは同じことをいつも力説するの。

私も【六花】のお手伝いをするまでは食べたことがなかったけど、これはこれで美味しいんですよ。





「はい。お待たせしました。」

「待ってました!」って、タブレットを見たまま返事をする寺格丸さん。

「どんなお話を考えているんですか?」

「茜ちゃんにはちょっと…、かなぁ…。」また、タブレットを見たまま返事をする寺格丸さん。

「ええ…。アダルト系ですか?寺格丸、セクハラですか?」

「違う。違うよ。」

「じゃあ、何が”ちょっと”なんですか?」思わず寺格丸さんの正面の椅子に座ってしまいました。

「時代背景さ。まだ10代の茜ちゃんじゃあ、実感できないかなぁ…、って思っただけなんだよ。」

「それは、どういうことなんですか?」

「ん…。女に生まれただけで、やりたいこともできない。才能があっても認められない。そんな時代の話だからさ。ジェンダーレス、ジェンダーフリーを謳う現代に生きる茜ちゃんには共感できないかなぁ…、って。」

「男尊女卑とかってやつですよね。」

「それとも少しニュアンスが違うかなぁ…。」

「どういうことですか?」

「男尊女卑は江戸時代の身分制度にある武家の社会から出てきた考え方で【武士に成れない女は劣っている。】って、体力的差別から出てきた考え方なんだけどね。」

「…。」

「町人である葛飾応為の場合は、女は労働力であり、子を産むものであり、家事、掃除、洗濯、針仕事をするのものだったんだよ。」

「それじゃあ、ロボットじゃない。」思わず女の私は感情的になってしまいました。





「山岳くん。コーヒーのお代わりは?」

「いただきます。」

「アメリカンにしておくかい?」

「そうですね。お願いします。」

少し興奮気味になった私をクールダウンさせるために、おじいちゃんが気を利かせて声をかけてくれました。

おじいちゃんはアメリカンローストした珈琲豆を手回しのミルで挽きます。

ミルマシーンよりも粗く挽くためなんです。

粗く挽いた珈琲豆はコーヒー成分が抽出しにくくなるんです。

【六花】のコーヒーはサイフォンで一杯一杯、淹れるタイプ。

アメリカンのときは、通常よりも水を多くして、火にかける時間を少しだけ長くするんですよ。

そうすると、しっかりした味わいがあるのに薄いコーヒーができあがるんです。

何杯でも飲めちゃうおじいちゃんオリジナル製法。

【六花】をお手伝いするまでは、アメリカンコーヒーって、お湯で薄めたコーヒーだって思ってました。

お茶とか紅茶とかと同じで、コーヒーも奥が深いものですね。

知らないって本当、罪ですね…。





おじいちゃんがテーブルにアメリカンコーヒーを2杯持って来てくれました。

「茜、店が忙しくなるまで山岳くんに色々教えてもらいなさい。」って、私の気持のモヤモヤを見透かしたようにおじいちゃんが言ってくれました。

確かに、女性蔑視がまかり通っていた時代に名を残した葛飾応為さん。

いったいどんな女性だったのでしょう。

それに、葛飾応為さんが残した作品への違和感。

この違和感の正体を知りたい…。

寺格丸さんは、どんな脚色を施すのでしょうか…。

私の『知りたい。知りたい。』という好奇心が搔き立てられてしまいました。






「それで、寺格丸さんはどんなお話を作ろうとしてるのですか?」

「初めは残っている史実から応為が北斎のゴーストライターだった、ってのを考えていたんだけどさ…。」

「うん…。」

「結構、同じような話を書いてる本なんかが多かったんだ。」

「それじゃあ、盗作疑われちゃいますね。」

「で…、悩んで悩んで。応為の作品をじっくり見てたら、なんか引っかかるものがあってさ。」

「どんなことなんですか?」

「応為の作品って言われている物って10点ぐらいしかないんだよね。」

「ふう…ん。」

「その中でも2点だけが全然違うんだよ。それがさっき見せた【夜桜美人図】ってやつと、もう1点がこれ…。」

そう言うと寺格丸さんは私にタブレット端末を手渡してきました。

「葛飾応為作【吉原格子先之図】…。」

私は知らず知らずのうちに絵の注釈文を声に出して読んでいました。


『この2点の絵だけは何か違うって感じる…。時代なのか…。手法なのか…。…。…。とにかく全く違う…。』






「それで、どんなお話になるんですか?」

「そうだね。起承転結の【起】は、こんな感じかなぁ…。」と、言うと寺格丸さんは目をつぶって上を向いて言葉を綴っていきました。






時は江戸時代の後期のことでございます。

大きな飢饉が起こり、各地で内乱が起きるような不穏な時代でございました。

そんな時代背景の中において、人気を博した人物がおりました。

名を葛飾北斎と申します。当代随一の人気絵師でございます。

よわい古希を迎える中、その画力は衰える事も無く、精力的作品を生み出しておりました。

そんな上り調子の北斎のもとに三女のお栄が嫁ぎ先から三下り半を突き付けられ帰ってまいります。

このお栄、男勝りの気性の持ち主の上、女にも関わらず炊事、洗濯、掃除に針仕事と、女のすべき事は一切合切いたしません。

不得手から手をつけないのかと言うと、単にやりたくないからやらないだけでございます。

身長が180センチあったと言われる北斎の遺伝子を受け継いだのか、お栄もすこぶる背が高く、その上、大酒飲みで煙草も嗜む、男の中の男と言って良いほど豪快で豪胆な女でございました。

そのお栄の嫁ぎ先がなんと、父、北斎と同様の絵師を生業とする男のところ。

惚れて結婚したのならいざ知らず、この当時の結婚などは、犬っころを貰うようなものでございます。

住まい、食い扶持は与えられるが、見知らぬ男の世話をして、子を産み育むのが女の一生でございました。


しかし、お栄の結婚相手の男も絵師であった事が災難でございました。

北斎という超のつくほどの一流絵師の子供として育ったお栄。

毎日の飯を食うように北斎の超一流の絵に触れることになります。

嫌でも目が肥えます。

その上、環境的には自然と英才情操教育になっておりました。

結果「門前の小僧習わぬ経を読む。」が如く、お栄の絵の腕前もまんざらでもございませんでした。

と…、言うか、どちらかと言えば〝天才肌″。

サラブレッド中の

おかげで、お栄は北斎の絵師としての遺伝子を全て受け継いだ女子おなごに成長しておりました。


しかしながら、つがいとなるその相手は、残念なことにでございました。

あまりの格の違いからお栄の口から出る言葉は「下手糞。」の、一言でございます。

毎日のように「下手糞。」「下手糞。」と、繰り返された駄馬も流石に黙ってはおれません。

この時代、駄馬であっても男が上、女が下。

男が絶対であって、女は相対で不確実な存在でございました。

結果、お栄は三下り半を叩きつけられ、離縁されてしまいます。

どれだけ正しい事であろうと、どれだけ理にかなっていようと、男が「ノー。」と、言えば女はそれに従わざるをえない時代。

「別れる。」と、言われれば、それに従うしかないのです。

ただ、この時のお栄にとっては、妻などと言う堅苦しい締め付けから解放されて清々した心持ちでございました。





「おとっつあん。おとっつあん。ただいま戻りました。」

「はあ?お栄、今、何と?」

「だから、離縁されて帰ってきたから。」

「聞いてないよぉ…。」

「今日からここで寝泊まりするね。」

…などと言った会話が、北斎親子の間にあったのか無かったのかは定かではございません。

ただ、お栄は北斎のもとに出戻ったのでございます。

そして、父の作品作りの手伝いを一人の絵師として始めます。

その時、父、葛飾北斎から授かった画号が【葛飾応為】でございました。





そんな親子二人の生活を始めてから数か月が過ぎたある日。

この日は父、北斎が数年来温めておりました風景画の錦絵の上梓じょうし(出版)のため援助をしていただける版元の人物にご挨拶に伺う日でございました。

今日こんにちで言うところの【スポンサー】様でございます。

父、北斎の道行きに付き添う応為も朝早くから髪を洗い、結い直しと、スポンサー様に不快感を与えないように準備を整えておりました。

今で言うモデルのように背が高い応為は、安物の着物を着ても絵になっておりました。

その上、史実では顔は顎の出たおかちめんこと残っておりますが、これは身内の謙遜でございまして、どちらかと言えば美人のたぐいでございました。

ただ、これだけ整っているお栄でも、女の用意は時間の掛かるもの、あっという間に家を出る時間となるのです。






「おとっつあん。おとっつあん。馬頭田様んとこへ行く時間だよ。」

障子越しに北斎に声を掛ける応為でございましたが、中からはうんともすんとも返事が返ってきません。

「おとっつあん。急がないと遅刻しちゃうよ。」

かねてよりずぼらでだらしない父、北斎のこと、約束を忘れて寝込んでいるものだと思う応為でございます。

元々、【北斎】と言う画号も「あほくさい」から取ったものでございます。

娘のお栄の画号も北斎が彼女を呼ぶ時の「おーい」「おーい」から【応為】と名付けた次第でございます。

シャレが効いていると言うよりは、世の中を舐め腐っていると言った方が適切なようでございます。

それほどまでにルーズでズボラな父、北斎にはらわた煮えくり返り、障子を力任せに引き開く応為でございました…。






「はっ?!」

応為の見たものはしらみだらけの煎餅布団の上で白目を向いて息絶えている父、北斎の姿でございました。


年老いた父、北斎のこと、いつ逝っても仕方がないと常々考えておりました応為ではございましたが、今日のこの日に旅立たれるとは露にも思うところなく、不意を突かれたとしか思いようがございませんでした。


『兎に角、馬頭田様には事実を伝え、上梓じょうし(出版)の取り消しと詫びを入れましょう…。』


肝心のメイン絵師の急逝では、風景画の錦絵本の上梓じょうし(出版)は叶いません。

スポンサー協力を快く受けて下さった馬頭田様のご厚意に感謝申し上げると共に、実現不可能になった事実を謝罪するしか仕方ございません。

しかし、この対応は、応為にとって【本意】ではございませんでした。





『どうにかして、あの本を世に出せないものだろうか…。』


これが応為の本意でございます。

ではなぜ、ここまで思い入れるのか…。

志半こころざしなかばにこの世を去った父、北斎の無念を晴らすため…、などと言う思いからではございません。

よわい古希を迎えようとしていた天才画家北斎も、流石に老いに勝てず、この頃は筆を持つ手も震える始末。

最近は北斎の頭の中の情景を、構図を、色彩を、その他諸々を、北斎の言葉から汲んで、全て応為が描き出していたのでございます…。





「ちょっと待って。待って下さい。それじゃあ、ゴーストライターの話じゃないのですか…。」

「茜、山岳くんの話の腰を折っちゃ駄目だよ。」

「あっ、ごめんなさい。」

「丁度良かったよ、茜ちゃん。一気に話し過ぎて喉渇いてたところだったから…。」と、言うと寺格丸さんは冷めたアメリカンコーヒーを口にしました。






文字通りのコーヒーブレイクの後、「ここからが起承転結の【承】になるかな…。」と、言うと寺格丸さんは話を続けました。






応為には兼ねてより葛藤がございました。

それは、女に生まれただけで何もかもが認められないということでございました。

何をやっても認められない女が存在している意味があるのか?ということでございました。


『自分は父、北斎と変わらぬ絵師としての才能を持ち合わせている。なのに女であることで世に出ることはない…。』

『出てもせいぜい北斎の〝娘″として話題になる程度…。』

『真っ当に実力を認めてもらえるわけではない…。』

『そして今、父である北斎がこの世を去ったことで、葛飾応為の名は、作品は、もうこの世に出ることは無くなった…。』

『結局のところ、男の庇護のもとでしか、女は生きられないのだ…。』と…。


男女平等を謳う今の世では考えられないほどの理不尽と不平等がまかり通っていたのでございます。

どんな時代においても己の下に多くの弱き者たちを置くことで社会のバランスを保ってきたのは歴史上の事実でございます。

逆に、平等を謳う現代こそ社会のバランスが保てなくなっているのかも知れません。

ただ、応為にとっては不平等が問題なのではなく、女である自分がどうすれば認められるか、という一点が問題だったのです。

自己顕示欲と言ってしまえば、その通りなのでしょうが、応為のそれは欲望と言うよりは現代で言うところの性同一性障害、いわゆる【トランスジェンダー】に近かったのかもしれません。

生まれ持った【性】と生まれ持った【精神】の不一致。

そんなことを誰かに相談できる時代でもなければ、そんな意味不明な事を口走れば【気違い】と認定される時代。

応為は一人で悩み、一人で答えのない問答を繰り返すしかございませんでした。

そんなことを唯一忘れさせてくれる存在であった父、北斎。

そんなことを唯一忘れさせてくれる仕事であった絵師。

それが今、父、北斎を喪い、絵を描くことすらも応為のもとから消失しようとしているのでございます。






応為は目の焦点が合わないほどに悩みながらも、馬頭田様の御屋敷に向かうのでございました。

道中、答えの出ない問答をずっと頭の中で繰り返します。

うわの空でとぼとぼと歩みを進めます。

爪先に当たる小石も、足袋を汚す土にも気が回りません。

約束の時間が迫っていることも気にかけることなく、頭が痛くなるほどに同じことを繰り返し考えておりました。

その時、ぼやけた視界が目の前に現れた大きなものをとらえたのでございます。

瞼を見開き焦点を合わせその大きなものを観察いたします。


『なんだい…。公孫樹いちょうかぁ…。』


道の真ん中にそびえ立つ公孫樹いちょうの大木。

四方八方に大きな枝を広げ山ほどの緑の葉を茂らせておりました。

つぶさに見ると、目の前公孫樹いちょうの後ろにも公孫樹いちょうの大木が…。その後ろにも、その後ろにも、という具合に街道の中央に公孫樹いちょうが一列に生えておりました。

街道は中央に生える公孫樹いちょうによって左右に分断された状態でございます。

応為が進もうとする方向の左半分の街道は、お日様が煌々と道を照らしておりました。

対する右半分の街道は、生い茂る公孫樹いちょうの葉が影を落とし、まだ陽が高いというのに夜の暗闇に似た暗さでございました。


『今の気分じゃあ、こっちだね…。』と、応為は右側の街道を進むのでございました。。


公孫樹いちょうに別けられた右側の街道へと歩みを進める応為。

一歩、暗闇に足を踏み入れますと何か違う世界にでも迷い込んでしまったような錯覚に陥ります。

今まで明るいところに慣れていた目も、急な暗さに順応できず視力を失ってしまいます。

思わず立ち止まり、視力の回復を待つ応為でございました。


暗闇の中の生臭い臭い。

まとわりつく湿り気。

濡れてぬかるんだ地面。


左側の方を選んでおけば良かったと、後悔する応為でございました。

しかし、男っぽい気性の応為、引き返すことは頭の片隅にもございません。


『あたいに二言はねぇ!』とばかりに、目が慣れてまいりますと、スタスタとそのまま歩を進めるのでございました。






暗い、ジメジメした街道を心細気に進む応為。

道のぬめりのためか、足取りの重いせいか、歩けど歩けど、一向に先が見えません。

進めど、進めど、いつまでたっても暗闇の中…。


『だいぶ歩いたと思うんだけど…。』


流石に男っぽい気性の応為も弱気になります。

先ほどこの世を去った北斎の死を気にかける余裕もなくなります。

どれだけ目を凝らして前を見ようとも、明るい光は見えません。

それどころか、先を見れば見るほど、奥は真っ暗でございます。

不安に駆られ、来た道を振り返る応為。

しかしそこにあるのも、先の見えない暗闇だけでございました。

渋々、歩みを進める応為でございました。

そんな中、何気なく一本の公孫樹いちょうの根元に視線を落としたのでございます。


暗い中に公孫樹いちょうの濃い黒のシルエット。

その根元に公孫樹いちょうの濃い黒よりも濃い、真っ黒な物体がございました。

高さは応為の膝ぐらいで、頭があるように見えたのでございます。

気になる応為は膝を折り、視線を下げて、そこにあるものをじっくりと観察したのでございました

その時、上空の風が公孫樹いちょうの枝を揺らし、葉の隙間から一瞬、細い光が差し込んだのでございます。


『あっ。お地蔵さん。』


公孫樹いちょうの根元にあったものはお地蔵さんでございました。

地蔵がそこにあることは、別段、変わった事ではございませんが、言い知れぬ不安を抱いておりました応為にとっては、一縷の光明のように見えたのでございます。

応為は袖から手拭いを取り出し、お地蔵さんの顔を拭き始めたのでございます。

何らかの感謝の念を感じたのでございましょうか…。






一心不乱にお地蔵さんの顔を拭く応為でございました。

ジメジメした万年日陰に立つお地蔵さんは、黒いこけに覆われておりました。

拭けども拭けども、なかなかこけは拭き切れません。

それほどまでにお地蔵さんは、深く深くこけに覆われておりました。

さらしの木綿の手拭いが長年のこけと汚れで真っ黒になってしまいます。

それでも、手拭いの汚れていないところを探し出してはお地蔵さんの顔を拭く応為でございました。

そうしながら、知らず知らずのうちに涙を流す応為。

やがて、苔生こけむした地蔵の顔が元の石肌に戻ってまいりました。

「お地蔵さんもあたいも、違う場所、違う時代に生まれてたら、日の目を見る事ができたのかねぇ…。」と、言葉話さぬお地蔵さんに、心情を漏らしてしまう応為でございました。






「ここいらで一息。」

「?!」

私は、寺格丸さんの言葉に我を取り戻しました。

寺格丸さんのお話が絵のお話から少し怖いお話になっていたので、語り口調にのめり込んでしまっていました。

寺格丸さんはカウベルを鳴らして外のベンチへ向います。

そこには喫煙スペースが設けられているので…。

昔の喫茶店なら、水、おしぼり、灰皿を一緒に出すのが当たり前だったらしいんですって。

お店の名前のプリントされたマッチや百円ライターまであったんですって。

今じゃあ、考えられません。

『寺格丸さんって、タバコ吸うのに、あの歯の白さ。どんな歯磨き粉使ってるのかしら…。』

なんて、私も関係ないことを考えるほど一息つけました。


そんな風に考えていると寺格丸さんが帰って来ました。

席に着くなり「ここからが【転】かなぁ…。」と言うと、また目を瞑り語り始めました。





応為がお地蔵さんの前から去ろうと体を起こした時に、激しい目眩に襲われたのでございます。

応為は起こした体をしゃがんだ姿勢に戻し、目眩の治まるのを待とうといたします。

その時、不思議なことが起こります。

応為はしゃがみ込んだ応為自身の姿を空中から見ておったのでございました。


『なっ?!なんだい、これは?!』


応為の体から応為の魂だけが抜けてしまったのです。

今で言う【幽体離脱】と言う現象でございます。

ふわふわと霞のようになって空中に浮かぶ応為の魂。


『あたいは、死んじまったのかい?』

全くもって状況が掴めない応為でございました。






ふわふわと形無く空中に漂う応為の魂は、徐々に形を成してまいります。

霞はどんどん、どんどん、一点に集まりかたまりになってまいります。

そのかたまりは、小さく、小さく、凝縮していくのでございます。

そして、どんどん、どんどん、小さく凝縮して米粒ほどのサイズの玉になったのでございました。

するとその玉は、急に上昇し始めます。

どんどん、どんどん、速度を上げながら天へ向かってまいります。

青い空に昇っておった応為の魂は、あっという間に真っ暗な空間に放り出されたのでございました。

その応為の視界には、真っ暗な空間の中に無数の光の線が通り過ぎる光景が映りました。


『ひえぇぇぇぇぇ…。なんだい?!なんだい?!』


応為には自分に起こっていることがちんぷんかんぷんでございます。

応為は視界の中を目まぐるしく通り過ぎる光の線に耐え切れなくなり、見るのを止めてしまいます。

いつまでも、いつまでも、物凄い速度で上昇する応為の魂。

それが、ふっと、停止いたします。


『…あの世とやらに着いたのかい?』

恐る恐る視覚を戻します。


『えっ?!』

そこに広がるのはただただ真っ暗な闇。

音もない漆黒の空間。


『あたしゃ…、地獄送りになったのかえ…?』

しかし、よぉ~く視覚を凝らして見ると、闇の中に煌めく無数の粒粒があるではないですか。

無数の煌めきは同じではなく、明るいのもあれば暗いのもございました。


『なんなんだい?』


それは見た事の無いものではなく、見たことが有るもの、記憶にあるものでございました。

不安を与えるものでは無く、どちらかと言えば、安心を与えてくれる光景でございました。


『これは、夜の空!!』


真っ暗闇に小さな無数の星の煌めき。

よく見た見慣れた光景。

応為は少し安心いたしました。

安心した応為は視線をあちらこちらに向けてみます。

どこに視線を向けても応為の視界に入るものは、そこかしこに拡がる暗闇と星の瞬きだけでございました。

しかし、ぐるりと応為自身を回転させますと、遠くの方に黄金色に輝く熱を帯びた光が…。


『あれ…。あれは…、お日様かえ…?眩しいね…。暖かいね…。』


そして、お日様が照らす方へと視線を動かしますと、応為からは死角だった位置に大きな、大きな、青い球体が…。


『きれいだねぇ…。いったいあれは何ぞ…?』


暗闇の中で一際輝く、様々な青の染料をこぼしたような球体。

応為はそれに深く心惹かれたのでございました。


『もっと近くで、もっと詳しく見たい。』


応為の絵師としての性分が、今置かれている自分の状況の何もかもを忘れさせて、単純に興味ある事だけに突き進ますのでございました。

そうなると応為の魂は、何も考えずどんどん青の球体に近づいて行くのでございます。

近づけば近づくほどに、それまで色彩でしかなかった青色が具体的な物体となって認識できるようになってまいります。


『あれは…、水。たくさんの水。』

『あれは…、木。あれは…、地面。』

『あれは…、あの形は…、富士山。じゃあ…、あれは空と…、雲…かえ。』


応為には見えている一つ一つの物体は理解できるのですが…、それと青い球体がどうにも結びつきません。

青い球体に富士山が在ることが全く理解できませんでした。

自分たちがこのような星に生きているなんて思いもよらなかったのでございます。






応為の魂は、富士山に向かいます。

どんどん近づいてまいります。


『やっぱり、富士山…。』


それは生前の父、北斎と富士見坂で一緒に見た富士山そのものでございました。

富士山を様々な方向から見ながら応為の魂はどんどん降下してまいります。

すると富士山と海の先に広がる大きな町を見つけたのでございました。

応為の魂は興味本位からそちらの方へと近づいてまいります。

近づくと何やら蟻のように動き回る沢山ものが…。


『あれは…、もしや、人…。』


もっともっと近づきます。

沢山の人々。

沢山の家々。

そして、大きな天守閣。


『これは…、お江戸…。』

この時初めて、応為には、あのきれいな青い球体に自分たちが住んでいることを理解できたのでした。


『あたいの生まれ育ったお江戸は…、青いお星様の中に在ったんだねぇ…。』


自分の置かれている状況も忘れて、立てるはずのない場所から、見たことのない風景を眺められたことに魂になった応為はすこぶる興奮していたのでございました。






『あれはこんな形をしてたんだね…。あれの裏はこんな風になってたんだね…。』


必死に頭の中で視界に入る映像を絵に描き換える応為でございました。

自分の置かれている状況も時間も忘れて無我夢中になっておりました。


そこに一陣の風。

魂となった応為にはあらがうこともできず飛ばされてしまいます。


『あれぇ~。魂も風に飛ばされるのかえ?』


飛ばされた応為の魂はどんどん速度を上げて飛んでいきます。

飛ばされながら応為の視界に入るものは、見たことのない土地。

見たことのない山々。

見たことのない建物群。

見たことのない人々。


『あたしゃいったい何処へ行っちまうんだい?』


そんなことを考えながら飛はされていく応為の頭の中に奇妙な映像が飛び込んでまいりました。

その映像は、見た事の無い沢山の絵画の映像でございました。

精巧に緻密に描かれた絵。

立体的で現実的な絵。

陰影がしっかりとつけられた絵。

沢山の色彩の使われた絵。

線や四角や丸しか描かれていない絵。

染料を投げつけたような絵。

どれもこれも初めて目にする絵。

それらが応為の頭の中に映っては消え、消えては映るを、繰り返していくのでございました。


『なんだいこの絵は…?異国の絵かえ…?異人さんらは、こんな絵を…。』


頭の中に洪水のように飛び込んでくる世界中の絵画たち。

その一点一点を頭に、心に、焼き付けようと努める応為でございました。


『忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない。』


貪欲に記憶しようと足掻く応為でございました。


『あたいも…、あたいも…、あたいも…、こんな絵を描いてみたい。だから、あたいは…、死んでらんない。』


そう思った瞬間、一瞬にして何ものでもなくなってしまった応為の魂。

もう、何も見えず、何も聞こえず、何も考えられない…。





《…さっきはありがとう。あなたの望み通りの、違う場所、違う時間を見れましたか?この経験があなたの役に立つのなら、めでたしめでたし。あとは、現世で経験なさい…。》

突然、応為の頭の中に鳴り響いた声。


『?!』






「姐さん。姐さん。大丈夫かい?」

不意の掛け声に意味もわからず意識を取り戻す応為。

「あたいは…、何を…?」

「姐さんがここで座り込んでたもんだからさ、心配になって声を掛けたんだよ。」と、浅黒い顔の中年女が応為の目の前に立っておりました。

「ご、ご心配、ありがとうございます。」と、我に返ると、自分が公孫樹いちょうの根元に寄っかかり寝ていた事を察した応為でございました。

辺りを見回すともう目的地までは目と鼻の先でございました。

来た道を見返すと街道の真ん中にある公孫樹いちょうは応為の寄っかかっていた一本だけございました。

公孫樹いちょうの木は、たった一本だけでございます。

それ以外、何もございません。

何も…。

その根元で茫然自失の応為…。

ただ、手には黒く汚れた手拭いが握られておりました。



 



「ストップ。ストップ。緊張したぁ~。休ませて、寺格丸さん。」

「話がぶっ飛び過ぎたかな…。」

「急展開で理解が追いつかないです。」

「ごめんごめん。」と、言いながら寺格丸さんは鼻の頭を右手の中指で掻いていました。

「茜、近所のスーパーでいつもの牛乳を買ってきてもらえるかい?」

「ええっ?!おじいちゃん、今?」

「今。」

「…。うん、行ってくる。寺格丸さん、少しばかり待っていてもらえますか?」

「大丈夫だよ。」

私はおじいちゃんの理不尽な依頼に腹を立てながらも、大急ぎでスーパーに寄り、指定の牛乳を買って帰ったのに…。

寺格丸さんは急なご用事ができたようで、帰られたあとでした。

私は全てが釈然としないまま、この日の喫茶店のお手伝いを続けました。





昨夜の大雨が噓のように止み、汚れを洗い流された木々の葉が、黄緑色に透き通る清々しい朝。

午前中の優しいお日様の光が、ゆっくりと地面を温めていきます。

その時に香る心落ち着く匂い。

雨上がりの土の匂いって、何とも言えない魅力を持っていますね。

雨が降った後の土が濡れて香りを放つ瞬間は、なぜか特別なもの…。

その香りは、なぜか懐かしさや幸福感をもたらします。

雨上がりの日に外に出て、土の匂いを感じる瞬間は、不思議と心地良いものです。


なんて…、また自分の世界に浸っていると耳をつんざくけたたましいブレーキ音…。

一気に現実世界に引き戻されました。


いつもの場所にいつも通りに自転車を置いた四十路男性は、いつものようにこう言います。

「茜ちゃん、おはよう。」

「おはようございます。寺格丸さん。」

「この前はごめんね。話の途中で…。」と、言いながら寺格丸さんは鼻の頭を右手の中指で掻いていました。

「今日は最後まで聞かせてもらえるのでしょうか?」

少しばかり皮肉な言い方をしてしまう私…。

それはそうでしょう。

あんな蛇の生殺しみたいな状態で一週間近くも放っておかれたんだから、嫌みの一つでも出るってもんです。

「大丈夫。今日は用事は起きないから。」と、笑う寺格丸さん。


『〝起きない“って…?言い方、変じゃない…?』


…なんて考えながらお店の扉を開けます。

乾いたカウベルの音と共に吐き出される苦い香り…。

「いらっしゃい。結構かかったね、山岳くん。」

「手厳しいなぁ~。」と言いながら、綺麗にセットされた七三分けの頭を掻く寺格丸さん。

「モーニングセットでいいかい?」

「いえ。今朝はホットドッグセット、二つで。」

「二つ?朝からヘビーですね。」おしぼりと水をテーブルに置きながら言うと…。

「ここしばらく、結構、疲れててさ。」と、返ってきた。

「もう、いいお年齢としですものね。」

「そうじゃないよ。取材。取材でだよ、茜ちゃん。」

「取材って?」

「ん…。えっと…。」なにか歯切れの悪い寺格丸さん。

「だから朝から〝疲労回復に効果がある″って言われている〝肉″を摂取ってわけだ。」って、どうせ料理番組の受け売りだろ。って言いたげなおじいちゃんの皮肉な返し…。

「…ふうん。そうなんですね。」何か後ろめたさが見え隠れする寺格丸さんの様子に引っ掛かりを覚える私…。

「茜ちゃんには俺がどう見えてるんだろう…。」

「どうなんでしょう…。」隠し事をされているようで少しぶっきらぼうな返事になってしまう私…。





出来上がった二本のホットドッグと二皿のサラダをトレイに乗せ、寺格丸さんのテーブルに向かいます。

これが結構重いんです。

【六花】のホットドッグはスパイシーカレー味。

カレー粉を混ぜたマヨネーズを少し焼いたホットドッグバンズに塗って、カレー粉で味付けした炒めた千切りキャベツとグリル焼きしたロングウインナーを挟んでいるだけ。

〝だけ″だけど、ホットドッグバンズから飛び出すグリル焼きしたロングウインナーでボリューム満点。

茹でたウインナーのホットドッグとは違う味わいがあるんですよ。

ただ、私だと一本食べきれるかどうか…。

「最後にラッキョウのみじん切りを乗せるところが味噌なんだ。」って、おじいちゃんは同じことをいつも自慢するの。

私も【六花】のお手伝いをするまでは食べたことがなかったけど、プレーンなホットドッグとは違う美味しさがあるんですよ。


「ふぅ…。はい、お待たせしました。」

「待ってました!」って、タブレットをテーブルの上に置いて手を擦りながら返事をする寺格丸さん。

「で、今日は最後までお話し下さるんでしょうね。」と、嫌味のスパイスをふりかけた言葉と共に寺格丸さんの前の席に腰かけた私…。

「勿論。勿論。でも、その前に…。」と言うと、慌てて寺格丸さんはホットドッグにかぶりつきました。





「はい、お待たせ。アメリカン。」

おじいちゃんが寺格丸さんのテーブルにコーヒーを持って来てくれました。

「残りは後で出すよ。」って言うと、私に向かって「茜、良かったね。モヤモヤが晴れるね。」って言ってカウンターに戻って行きました。


『なんか…、私のこと、何でもお見通し…、って感じじゃない…。』

二人の間に何かありそうな…。

『なんか…、怪しい…。』


…なんて考えてると「それじゃあ~お待たせした【結】をば…。」と言うと、寺格丸さんは腕を組み、上を向いて目を瞑って話し始めました。





「馬頭田様。馬頭田様。遅くなり申し訳ございません。葛飾応為でございます。」

たいそう大きな御屋敷の閉ざされた門の前で大声を張り上げる応為でございました。

「馬頭田様。馬頭田様。遅くなり申し訳ございません。葛飾応為でございます。」

開かぬ門に同じ言葉を繰り返すしかない応為でございました。

「馬頭田様…。馬頭田様…。」

不意に御立派な門扉が音もなくゆっくりと開きます。

「聞こえておる。葛飾応為。」と、門番が応えます。

「遅れて申し訳ございません。馬頭田様は…。」門番に深く頭を下げ、状況を知ろうと努める応為。

「応為。まだ御主人様は御支度ができておらぬ。少々ここで待たれい。」

「承知致しました。」

謝罪の念を示すためか、門外で頭を下げじっと待っている応為でございました。

そこへ年嵩のいった御女中がやってまいります。

「応為。中へ。」

「はい。失礼いたします。」

終始頭を下げたまま、御女中についていく応為でございます。

背の小さな御女中は衣擦れの音を立てることもなく速足で廊下を進みます。

しかし、背の高い応為は頭を下げたままでも難無くこれについてまいります。

どこまでも続く長い、長い、白木の廊下。

埃ひとつない磨き上げられた白木の廊下は踏んでも軋み音ひとつ立てません。

歩を進める毎に、若々しい乾燥した木の香りが鼻腔に入ってまいります。

その心地良い香りは、体を強張らせていた応為の緊張を解いてくれたのでございます。


御女中はこれまたたいそう御立派なふすまの脇に正座いたしますと、

「旦那様、葛飾応為がまいりました。」と、滑らかな声でお伺いを立てます。

「お待たせした。入ってもらってくれ。」

声を確認した御女中はふすまの取っ手に両手の指を掛け、静かに引きます。

するとこれまた擦れる音も無く、ふすまは人一人分だけ開け放たれました。

立ち尽くしていた応為は、慌てて正座し、頭を廊下にすり付けたのでございます。

「馬頭田様、遅くなり大変、申し訳ございませんでした。」

馬頭田様ではなく、座する廊下の白木に向かって声を吐く応為。

「頭を御上げなさい。こちらの用意ができておらず、待たせてしまったな。すまなかった。」

「いえ。私が遅れたせいで…。」

「お前さんは遅れてないだろ。遅くなったのはわしのせいだ。」

「あ、有難きお言葉、ありがとうございます。」


『あたいは遅れちゃいないのかい…?あんなに道草を食ってたのに…。』と、不思議に思う応為でございます。


「いい加減、頭を上げなさい。して、北斎翁は?」

「…。…。申し訳ございません。父、北斎は…、本日、亡くなりました。」

「そうでしたか。それは、お悔やみを申し上げます。」戸惑いも無く言葉を返す馬頭田様。

まるで今日起きた事を知っているかのような落ち着きようでございます。


「常々、お世話になっておりました馬頭田様のご期待に背く事になってしまい、誠に、申し訳ございませんでした。」

「それはどういうことだい?」

「父がご協力をお願いしておりました新しい試みの風景画の錦絵本のことでございます。」

「その本がどうかしたのかい?」

「父、北斎亡き後…、上梓じょうし(出版)は…、不可能かと…。」

「ん…。絵が描けないと言うことかい?」

「いえ。下絵(原画)は出来ております。」

「絵師の絵が出来ておって…。では、彫師、摺師の問題かい?」

「いえ。彫師、摺師には何も問題はございません。」

「はて?それではなぜ故、上梓じょうし(出版)が無理だと…?」

「北斎の浮世絵は北斎の人気で売れていたと思います。北斎と言う人間がいなくなったということは、人気もなくなるということに等しいと思うのです。」

建前を正直に口にする応為。

「それで?」

「北斎亡き後、この新しい試みの錦絵本が売れるとは思えないのでございます。」

「葛飾北斎の浮世絵は葛飾北斎の人気で売れていたと…。」

「はい。」

「はて?お前さんは不思議なことを言う。」

「…。」

「そんなことで人々が北斎の浮世絵を買うかい?」

「…。」

わしは北斎などという名など関係無いと思うがのお。」

「…。」

「単純に絵が素晴らしいから買うと思うがのお。」

「…。」

「それに、ここしばらくの絵はお前が描いておることも聞いておる。」

「…。」

「しかし、北斎の浮世絵の人気は衰えることはなかった。否、今は昔以上に人気が沸騰しておる。」

「…。」

「それは名ではなく、絵が良いからではないか?」

「あたいが描いても、北斎の名で世の中に送り出したから売れたのでございます。」

「そうかのお…。」

「女のあたいが、葛飾応為の名で出しても、売れなかったと思います…。」

「そう思うんなら、それはそうかもしれんな。」

「…。」

「ただ、絵は名を売るために描くものではない。絵を売るために名を広げるものでもない。絵師は人々を喜ばせるために良い絵を描き、売る。人々は良い絵をこぞって買う。絵は名で売れるものではない。」

「…。」

「ましてや、浮世絵は絵師一人で出来ているわけではない。」

「はい。」

「元絵(原画)を描く者。元絵(原画)を分割する者。そこから版木を彫る者。絵の具を作る者。色を擦る者。出来た浮世絵を売る者。いろいろな役割を持った、いろいな人の手を経て、浮世絵は世の人の目に触れることになる。」

「はい。」

「葛飾北斎なんぞ、その役割の中の一人でしかない。」

「それは…。」

「絵を買う人々にとって葛飾北斎なんぞ、屋号にしかすぎん。」

「…。」

「応為、それはお前のおごりでしかない。」

「…。」

「天才と言われる人間を目の当たりにしてると、普通の感覚を失ってしまうものだ。」

「…。」

「お前はあの街道に立っている公孫樹いちょうを見て来たかい?」

「はい。」

公孫樹いちょうは何で公孫樹いちょうと書かれるか知っておるかい?」

「…。いいえ。」

「あれはな、植えた者から三代目に実がなるのだよ。」

「へ…。え…。」

「親が種を撒き、子が育(はぐく)み、孫の時に実を結ぶ…。」

「…。」

「お前の親である北斎が葛飾流の浮世絵の種を撒いたのだよ。」

「…。」

「そして応為、お前さんがそれを育てねばならんのだよ。」

「…。」

「育てるのは、女が得意とすること…。」

「…。」

「そしてそれを次の世代に繋ぐ…。」

「…。」

わしはそこに参加したいだけ…。」

「…。」

「うだうだ話しておっても詮無いこと。わしは今回の錦絵本の支援は変わらず行う。応為、お前さんたちは予定通り上梓じょうし(出版)に向かって作業なさい。」

「…はい。」

「失敗はわしが被るから案ずることはない。ただ、お前さんは、北斎工房の錦絵本を作り上げてくれれば良い。」

「…はい。」

「お前さんは負け戦と思うとるかもしれんが、金を出すわしの言う通りやってくれれば良い。」

「…。承知…、いたしました。」


馬頭田様の御屋敷を出ると、応為は悩みつつも、最後になるかもしれないが、それでも絵を描ける喜びで、往路よりは足取り軽く復路につきました。





翌日の朝より、応為は錦絵本に携わる事になろう者たちに事情説明にまいります。

「北斎は昨日、亡くなりました。」

「馬頭田様のご依頼とご支援で、予定していた風景画の錦絵本を出そうと思います。」

「この本の上梓じょうし(出版)が終わってから、身の振り方は考えようと思います。」と…。


北斎の死は、北斎工房の浮世絵に携わる者たちに衝撃を与える事になったのでございます。

話を聞いて、違う工房へと鞍替えする者が続出いたしました。

女の応為は、己の力の無さを痛感いたします。

それでも「この本だけは…。」と、居残ってくれる者も少なからずおりました。

応為は協力してくれる人々への感謝を心に刻み、残ってくれた者たちの役割の把握をし、足りない役割の部分を他の工房へお願いして回ります。

しかし、先の見えない工房の依願などには、なかなか色よい返事はもらえません。

ましてや、女が絵師の工房のお願いを快く聞いてくれる物好きな工房はございませんでした。

ただ、「北斎翁のお悔やみ替わりに…。」と、引き受けてくれる工房もあり、どうにか製本までの工程は確保できたのでございます。

この結果の全ては、亡き父、北斎の人望と、その人柄を偲んで力を貸してくれる職人の方々のおかげだと感謝するしかできない応為でございました。


そしてここからが本当の正念場でございます。

いろいろな方々の思いに報いるだけのものを作り上げなくてはいけません。

応為の両肩に大きなプレッシャーがのしかかります。


生前の父、北斎の話から、新作錦絵の下描き(原画)は出来ておりましたが、これを清書しなければなりません。

いわゆる、版下絵を完成させなければならないのです。

それも三十六枚も…。

しかし応為は、鬼気迫る勢いで三十六枚の版下絵をあっと言う間に終わらせてしまいます。

出来上がった版下絵を検閲に回し、許可を受けた後、彫師に主版おもはんを彫っていただきます。

主版おもはんが出来上がったら、何枚か墨一色で摺り、それらは絵師である応為の元に戻ってまいります。

絵師である応為は墨摺りの主版おもはんチェックを行います。

版下絵と比較して印象は変わっていないか?

線のおかしいところはないか?

輪郭線はきれいに出ているか?

様々な箇所を多岐に渡ってチェックを行います。

これには理由がございます。

それは、絵師の描いた絵が100パーセント表現されることがないのが浮世絵だからでございます。

絵師の版下絵を硬い木に彫り写す段階で、彫師の技量によって絵の良し悪しが変わってしまうからなのです。

細かな意匠などを省略してしまう彫師もおるぐらいです。

熟練した浮世絵絵師は、それが分かっているので、可能な限り単純な線を用い、大胆な構図や誇張といった手法で見る者の目を惹きつけるように努めてきたのです。

ですので、主版おもはんの見極めも絵師の力量が試される工程となるのでございます。

いくら絵師本人が絵が上手くとも、その絵が自分の手を離れた瞬間から、他人の手に委ねないと完成しないのが浮世絵なのでございます。

ただ、この錦絵本の彫師は父、北斎の下で長年彫師をやってくれていた者が残ってくれており、応為が主版おもはんに不安を抱くことはございませんでした。


そして応為による色分けの作業が行われます。

ただ、色分けの段で、応為はぱったりと作業を止めてしまいます。

理由は、応為が思い描く色彩と、絵の具の色が合わなかったからでございました。

どれだけ顔料を調合しようとも、応為の思う色は出来なかったのでございます。


応為の目指す色。

それはあの美しい青い球体の青。

あの夢かうつつか分からぬ経験で見た、あの水の青、あの空の青。

それをどうしても今回の錦絵に表現したかったのでございます。

昨今の浮世絵では、海の向こうから入って来たベロ藍(合成顔料)の青色を用い、開放感の有る空の青や、透明感の有る水の青を、表現できるようになっておりました。

ベロ藍(合成顔料)が使われるまでの青色と言えば、植物や藍から作った渋い青の染料が主流でございました。

染料は色粉末を水や油などの溶剤に溶かし、紙や絹に色を染み込ませて着色する絵の具。

一方、顔料は溶剤に溶けない合成色粉末を定着剤と混ぜ合わせ、紙や絹の表面に定着させ着色する絵の具。

顔料絵の具の出現によって、色鮮やかで美しい濃淡が表現出来るようになったのでございます。

その上、人工的に作れる顔料は、一定の色を作れ、価格的にも安価である優れものでございました。

父、北斎も、競合絵師である広重も、ベロ藍(合成顔料)を用いることで一世を風靡いたしました。

しかし、応為にはそれだけでは新作の錦絵本は売れるようには思えなかったのでございます。

北斎工房のたぶん最後となる上梓じょうし(出版)でございます。

満足がいくものを、納得がいくものをと、考えてしまうのは詮無いことでございましょう。

そして、あの不思議な体験をした時に脳裏に見えた絵画たち…。

その中の一枚の絵画が、応為の脳裏に浮かぶのでございました。


『あの…、女の…。あの…、何かを注ぐ女の服の布地の青…。』


応為の記憶に残る一枚の絵画…。

あの絵画の中にあった青…。

明暗で区切られた背景の中にあっても一際ひときわ、目を引く服の青…。

どうしてもそれを表現したく思う応為でございました。





応為は摺師に青について尋ねます。

すると、

「それは瑠璃るり(ラピスラズリ)だな。」と、簡単に答えが返ってまいりました。

瑠璃るり(ラピスラズリ)…。」

その青色は応為にも理解できました。

ただ、その青はとてつもなく貴重な品で、途方もなく高価な代物でございました。

余りにも高価故に、父、北斎ですらも採算が合わぬと、使うことを止めたほどでございました。

しかし応為は知れば知るほどに、瑠璃るり(ラピスラズリ)を使いたく思うのでございます…。

ただ、瑠璃るり(ラピスラズリ)は金子きんすがあっても簡単に手に入るものではございません。


藁をもすがる思いの応為は、なりふり構わず版元の馬頭田様に相談いたします。

瑠璃るり(ラピスラズリ)ですか。なかなか手に入れるのは難しい物を…。」

しかし、馬頭田様は悩むどころか笑顔をたくわえ。

「お前さんはツキがありますね。ほれ。」

馬頭田様は肘掛けの蓋を開け、紫の小さな巾着を畳に投げたのでございます。

少し重たそうな音を立て畳に落ちた紫の巾着はコロコロと応為の前に転がり止まります。

「こちらは?」

「開けてごらん。」

紫の巾着の金の組紐を緩め、中身を取り出すと、それは深い青色の石でございました。

「…?」

「それが瑠璃るり(ラピスラズリ)だよ。」

「こ、これが!!」

「偶然だろうが、先日、オランダ人商人がこれを持ってきて、取り引きをしたいと言ってきた。」

「そんな都合の良い…。」

「ただ、上梓じょうし(出版)する錦絵本にこんな高価な顔料を使うことはできん。そんな事をしようものなら、売るだけ赤字を出すだけだからね…。」

「はい。」

「お前さんの色分けの段階ではそれを使えば良い。理想の色分けが出来たなら、それに近い色をベロ藍(合成顔料)を調合して、そして錦絵を摺りなさい。」

「はい。」

「それで売れれば儲かるだろう。」

「承知いたしました。」






応為は馬頭田様より瑠璃るり(ラピスラズリ)を受け取ると、色分けの工程に入ります。

そのために、従来では行わない主版おもはんの墨摺りに直接色を塗って、応為の頭の中にある景色を描き出したのでございました。

海の浅いところから深いところを、空の低いところから高いところを、瑠璃るり(ラピスラズリ)の濃淡で塗り分けます。

その青は、空の広さや高さ、水の動きや質量までを感じ取ることができました。

そして、その青に挟まれた紙そのままの色の部分、そこにはまるで、温度や湿度や匂いまで感じられるような空気が存在しておりました。

応為が着色したその新鮮な一瞬を切り取ったような主版おもはん画は、この錦絵本製作に携わる全ての者に驚嘆を与えたのでございました。





このショックが功を奏したのか、ベロ藍(合成顔料)を重ね摺りし、瑠璃るり(ラピスラズリ)の深く濃い青を作り出すことに成功したのでございます。

これは和紙職人たちの努力の賜物でございました。

元々、こうぞの長くしっかりとした繊維で作られる強い和紙。

それの強度をもっと上げ、度重なる馬連ばれんによる摺りに堪えれるようにしたのでございます。

何度も何度も、同じ部分にベロ藍(合成顔料)を重ねることによって、瑠璃るり(ラピスラズリ)の深く濃く輝く青と変わらぬ青を作り上げたのでございます。

この成果により、応為の理想とする錦絵の大量生産の目途が立ったのでございます。

摺り上がった三十六枚を持ち、版元の馬頭田様にご確認をいただきにまいります。

馬頭田様は錦絵の一枚を見るなり、

上梓じょうし(出版)せよ。」と、お言葉を下されたのでございました。





生前の父、北斎に名付けられていた【富嶽三十六景】と題された錦絵本は、前代未聞の売れ行きを記録いたします。

増刷に増刷を重ね、新たな錦絵も加えるほどに人気を博したのでございました。

この結果、葛飾北斎亡き後の北斎工房の浮世絵は人々に認められることになったのでございました。

父、北斎が遺した作品を父、北斎の代わりにどうにかやり遂げたことで、満足している応為でございました。

「虎の威を借る狐。」としての役割は果たせたと思う応為でございました。


『これはあくまで葛飾北斎の遺作がもたらした偉業。女の私の絵師としての力じゃない…。』


やはり、世間が女絵師を認めたのではなく、葛飾北斎と言う絵師の遺作が認められただけだと思う応為…。

もう筆を置こうと決意する応為がおりました…。





ところが、応為の思いとは裏腹に北斎工房への作品依頼が殺到することになります。

次から次へと入る注文に辞めるに辞められなくなる応為。

スポンサーで版元である馬頭田様からも新作への矢継ぎ早の催促がまいります。


『どうなっているのよ。もうおとっつあんの下絵(原画)は無いわよ。』


女絵師の描く版下絵で摺られた浮世絵が売れるわけがないと思う応為。

疑心暗鬼な応為が描く版下絵。

その絵で北斎工房は、浮世絵、錦絵を立て続けに上梓じょうし(出版)してまいります。

しかしながら、応為の不安を余所に北斎工房の浮世絵、錦絵が店頭に並ぶや否や、どの作品も「売り切れ御免」の文字が掲げられることになります。


『おとっつあんの残した優秀な工房、熟練の職人たちのおかげで上々の売り上げが出せて、本当に助かった。女のあたいの絵だけじゃあ、こんな結果にならなかっただろうに…。』

こう思う応為がおりました。

注文主、版元に顔向けできたことを素直に胸をなでおろす応為がおりました。


しかし、応為の心中は相変わらず「いつ辞めようか…。いつ辞めようか…。」の一点張りでございました。

女の自分の力量不足は重々承知。

【葛飾北斎】の名を汚すようなことはしたくない。

今の北斎工房の人気のあるうちに絵師としての職を辞したいと本心から願う応為でございました。




辞め時を画策する応為の気持ちに反するように浮世絵の注文はこと切れることがございませんでした。

それに無我無心で対応する応為。

目の回るような忙しさから辞め時を逸してしまいます。

注文が続けば続くほど、増えれば増えるほど、猫の手も借りたいほどに人手も不足いたします。

辞めるつもりが人を雇う羽目にまでなってしまいます。

仕方なく手伝い程度の気分で人員の募集を掛けますが、またまた応為の意に反して腕の確かな若者たちが集まってしまいます。

元々、辞める意思の固い応為は、

「責任が持てない。」ということで、来る者、来る者に丁寧に断わりを伝えるのでございます。

ただ、断られた者たちも一歩も引きさがらず、

「どうか雇って下さい。」の一点張りでございました。


『本来ならば、葛飾北斎の下で修行したかったのでしょうね…。もう、おとっつあんはいないのにね…。』と、ここでもまた父、葛飾北斎の偉大さを知らしめられる応為でございました。


しかし、

「いつまでもそんな押し問答を繰り返していても時間の無駄。」と、てんてこ舞いの工房の職人たちに言われ、詮無く数人の若者を雇うこととなる応為。

そんな慌ただしい時間が、一年、二年、五年、十年、二十年と、続いたのでございます。





応為も知らぬ間に還暦近いよわいになっておりました。

父、北斎の遺した工房の絵師として二十年ほど、がむしゃらにやってまいりました。

この時間の間に、工房の古くからの職人たちの幾何いくばくかは天寿を全ういたしました。

幾何いくばくかは隠居し、余生を子、孫との暮らしを楽しんでおりました。

あの時雇った若者たちも一人前の職人に育ちました。

その中のある者は、腕を請われ新天地で力を振るまっております。

ある者は、暖簾分けを受け独立いたしました。

父、葛飾北斎の工房もやっと喧騒が去り、波が引いたように落ち着きを取り戻しておりました。

静かになった工房で応為は思います、

「おとっつあんの名【北斎】だけでここまでやってこれた。」と…。

ここまでの成果を上げても全ては父、葛飾北斎の名のおかげと思う応為でございました。

そうまでに思ってしまうのは、この時代の女と言う性の位置づけのせいでございます。

父、北斎存命の頃は、その傘の下で男勝りを誇っていた応為でございました。

…が、父、北斎亡き後、周りの人たち助力によって生かされてきたことを痛感した応為は、女の弱さを実感するしかなかったのでございます。

「女は弱い…。女は認められない…。気性が少しばかり強くとも、女は男には勝てない…。」

還暦近くなってそう自身に刻む応為でございました。






緑がむせ返るような初夏の日でございます。

馬頭田様の使いの者がやって来て、応為に馬頭田様の御屋敷に寄ってくれと伝えてきました。

版元で北斎工房の大スポンサーでもある馬頭田様からの呼び出しでございます、お断わりするわけにはいきません。

還暦近い応為には少々長い道行きにはなりますが重い腰を持ち上げて馬頭田様の御屋敷へ向かいます。

父、北斎の亡くなってから、かれこれ約二十年ぶりの馬頭田様の御屋敷への訪問でございました。

この間も、浮世絵の依頼や上梓じょうし(出版)の事で何度となく連絡は取り合ってはおりましたが、直接、面と向かってお会いするのは二十年ぶりでございました。

二十年前のあの日は、憂鬱や不安といった精神的に足取りが重かったのですが、この日は老化から肉体的に足取りが重たくございました。

小石に躓かぬように重く前に出ない足を一歩一歩と進ますのがやっとでございました。

白足袋が汚れることなど気にしてはいられません。


重い足をどうにかこうにか運んで、

「あと、もう少し。」と思える場所まで参りますと、見覚えのある大木が街道の真ん中にそびえ立っておりました。

「御立派になられて…。」

大きく枝を広げ、たわわに茂る葉が街道一面に影を落とす公孫樹いちょうの大木を見て応為は無意識に言葉を漏らしておりました。


『やっぱり一本だけだねぇ…。あの時のあたいは夢でも見てたのかねぇ…。』


昔の朧気な記憶。

その記憶を夢であったと言い聞かせるしかできない応為でございました。

公孫樹いちょうが作る日陰へ進みゆく応為。

初夏の暑さが一気に和らぎます。

肉体的限界が近かった応為にとってこの涼しさは救いでございました。

「まだ、お約束の時間までには余裕がある。ここでしばらく休ませてもらおう…。」と、公孫樹いちょうの幹に手を置いた応為。

その刹那…。


《現世は満足できましたか?》


応為の頭の中に言葉が響きます。

『?!』

訳の分からない応為を放っておいて、言葉は続けます。


《今日までの間、あなたは女とみられてはいなかった…。》

『へぇ?!』何を言っているのやら…。


《かと言って、男であったわけではない…。》

『はぁ…。』問答かえ?


《女であったが、男のように生きてきた…。》

『そうなのですか…。』頓智かえ?


《名はあったが影のようであった。影のようだったのに、名を知る者が出てきた。》

『難しい…。』なぞなぞかえ?


《この経験があなたの役に立ったなら、めでたしめでたし…。》

『…。』なんなの?

これ以降、言葉は聞こえませんでした。






「婆さん。婆さん。大丈夫かい?」

「へっ?!」不意の掛け声に意味もわからず意識を取り戻す応為。

「あたしゃ…、何を…?」

「婆さんがここで座り込んでたもんだからさ、心配になって声を掛けたんだよ。」と、浅黒い顔の若い男が応為の目の前に立っておりました。

「ご、ご心配、ありがとうございます。」と、我に返ると、自分が公孫樹いちょうの根元に寄っかかり気を失っていた事を察した応為でございました。

もう馬頭田様の御屋敷までは目と鼻の先でございました。

その根元で茫然自失の応為…。





「馬頭田様。葛飾応為でございます。」

たいそう大きな御屋敷の閉ざされた門の前で小声で名乗る応為でございました。

不意に御立派な門扉が音もなくゆっくりと開きます。

「お待ちしておりました、葛飾応為様。」と、門番が応えます。

「わざわざのお出迎え、ありがとうございます。」門番に深く頭を下げ丁寧な挨拶を返す応為でございます。

「只今、案内の者を呼びますので少々ここでお待ちください。」

「承知致しました。」

門外で応為が静かに待っておりますと、年嵩のいった御女中がやってまいりました。

「葛飾応為様。どうぞ中へ。」

「失礼いたします。」

御女中についていく応為でございます。


『二十年前にここに来た時もこの御女中が案内してくれたような…。でも、御女中は全然変わっていない…。』

二十年前、応為よりも年上に見えていた小さな御女中は、二十年後、応為よりも年下に見えたのでございます。


背の小さな御女中は楚々として廊下を進みます。

全然変わらぬ御女中が気になって背の高い応為は彼女を抜いてしまいそうになるのでございました。

どこまでも続く長い、長い、白木の廊下は踏んでも軋み音ひとつ立てません。

歩を進める毎に、若々しい乾燥した木の香りが鼻腔に入ってまいります。

その心地良い香りは、二十年前と何ら変わらぬものでございました。


御女中はこれまたたいそう御立派なふすまの脇に正座いたしますと、

「旦那様、葛飾応為様がお越しになられました。」と、良く通る声でお伺いを立てます。

「入ってもらいなさい。」

声を確認した御女中はふすまの取っ手に両手の指を掛け、静かに引きます。

するとこれまた擦れる音も無く、襖は人一人分だけ開け放たれました。

御女中の後ろに立っていた応為は正座し、頭を下げ申します。

「馬頭田様、お久しぶりでございます。」

「急な申し出にもかかわらず、出向いてもらい申し訳ない。」

「いえ。お世話になっております馬頭田様のお声がけ、馳せ参じます。」

「そんな堅苦しい挨拶はよいよい。どうぞお顔を上げて…。」

「はい。」と、顔を上げる応為。

目の焦点が合い、馬頭田様の顔がはっきりと見えた瞬間、応為の頭に疑問符が浮かびます。


『どういうこと?馬頭田様はよわい卒寿を迎えたと聞いた…。卒寿祝いもされたと聞いた…。なのに、目の前に座っている馬頭田様は二十年前と変わらぬ御姿…。』


驚きに目を白黒させている応為に構うことなく馬頭田様は話を続けたのでございます。

「この二十年間素晴らしい作品を描き続け、わしの私腹を肥やしてくれて、本当にありがとう。」

「ありがたきお言葉でございます。」

「それもこれも、男のように…、否、人として馬車馬の如く働いてくれた応為のおかげだな。」

「いえ。工房の皆の力があってこそ…。」

「それもそうだが、全ては応為の絵があってこその結果…。」

「め、滅相もございません。」

「否。お前さんの絵は北斎翁が生きていた頃から素晴らしかった。北斎翁鬼籍後は、お前さんの絵筆は北斎翁のそれを超えておった。」

「そんなことは…。」

「北斎翁の傘が無くなったお前さんは、その時やっと本気になれたんだろう。」

「…。」

「北斎翁の亡くなった後のお前さんの絵は日本中の男絵師たちが束になってかかったとしても、敵わなかっただろうな。」

「…。」

「お前さんの向かうところ敵無しの絵は、北斎翁の作った工房を維持し、新しい才能も育て上げた。」

「…。」

「その北斎翁の孫弟子たちも実を結ぼうとしておる。」

「…。」

「二十年前にわし公孫樹いちょうの話を見事に実現しましたね。」

「あ、ありがとうございます。」

「お前さんは、父親として工房を守り、母親として弟子を育んだ。」

「…。」

「もう、二つの性はよいだろう。女に戻ってもらって、ひとつ仕事を依頼したいのだが…。」


『あたしゃ、そんな御立派な生き方はしてないですよ…。買い被りもいいとこですよ…。』と、心の中で自分を卑下する事しかできなかった応為でごさいます。


「それは?」

「女絵師、葛飾応為として絵を描いてもらいたいのだよ。」

「は、はい…。」





馬頭田様のご依頼というのは、𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】の広告絵を描いてもらいたいというものでございました。

いわゆる【別注】というやつでございます。

それも、北斎工房としての作品ではなく、女絵師、葛飾応為の作品として描いてもらいたいと…。

父、北斎の時代よりお世話になっている馬頭田様のお願いでございます。応為に断る由はございません。


絵画作製にあたって吉原遊郭の妓楼【和泉屋】を知るために何度となく𠮷原に通う応為でございました。

元より女の応為にとっては馴染みのない場所、男衆から話を聞いたところで想像もつきません。

今日こんにちの刑事ドラマで言うところの〝現場百回″しか、手立てはございませんでした。

しかしながら、己の名での製作依頼に足の不調も忘れ足繁く通う応為の姿がございました。





何度も通ううちに応為は吉原遊郭の妓楼【和泉屋】にて行われる「張見世」《はりみせ》を見る機会がございました。

夕刻の𠮷原、花魁おいらんたちが室内に居並び、往来に面して展示されるのでございます。その様子をはばかることなく無遠慮に通りから覗く男衆…。


格子の中の花魁おいらんたちの華やかな打掛姿。

幾多のかんざしで飾り立てた豪奢な髪型。

江戸時代の高級遊女は、美しい着物を纏い、結ったまげにきらびやかなかんざしや櫛などを二十本ほども挿していたということでございます。


今夕、その格の高い遊女の代名詞ともいえる、着物、髪飾りをした女性たちが、室内の壁沿いに並んで座っているのは、吉原遊廓の妓楼【和泉屋】の店内でございます。

格子越しに往来から覗く男たち。

その男たちに、自分たちの姿を見せ、客を待っているめす

花魁おいらんの姿が漏れ見える格子の隙間に顔を埋めるように覗き込む恥も外聞もないおす

まさに、欲と欲のぶつかり合う生々しい光景が、ここにございました。


格子の内側の一見、華やかな世界。

暗闇に提灯の明かりだけの格子の外の自由な往来の世界。


しかし、明るい店内の遊女たちの表情は、格子に隠れて伺い知ることはできないのでございました…。

光と影によって強調されたドラマティックな人々。

その人々のそれぞれの物語が浮かびあがってくるようでございました。


刹那…。

応為の記憶が蘇ります。

吉原遊郭の妓楼【和泉屋】の「張見世」《はりみせ》を現実に見た応為の脳裏には、公孫樹いちょうの木の下で不思議な体験をした時の頭の中に映し出された数多くの絵画のうちの一点が思い浮かぶのでございました。





居ても立っても居られなくなった応為は、動かぬ脚を無理矢理に進め、工房へ戻るのでございました。

紙を取り、呼吸を忘れるほどに筆を走らせます。

目に焼き付けた光景を、脳裏に浮かんだ記憶を、紙上にぶつけます。

そして、ものの一瞬で描き上げたのでございました。


数日後、しっかりと乾かした絵を持って、𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】に向かう応為。

今日こんにちまで幾多の絵を描いてまいりましたが、この絵は応為が女としての自身の感性をいつわる事無く描き上げたもの…。

一人の女の応為として描き上げた、後にも先にもない作品でございました。

そして、この絵は応為本人にとっては会心の出来でございました。

ただ、それが依頼主である𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】の意向に沿っているかどうかについては不安がよぎるところでございました。


自信を持てない応為は、𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】に着くと直ぐに依頼主の主人と会い、出来上がった絵をそそくさと手渡します。

その主人は絵を見るなり…、

「応為様、別の絵師をご紹介頂けないでしょうか。」と、応為に言葉をかけたのでございます。

「し…、承知…、いたしました。」と、深々と頭を下げる応為…。

自分自身に素直になって描いた絵は〝拒否″されたのだと、思う応為。

やはり、女で無名のあたいでは受け入れられないのだと、再認識する応為。

挨拶もそこそこに𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】を立ち去り、工房に戻るが否や、そこにいた若い絵師の一人に、

「𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】さんに行っとくれ…。」と、魂のない台詞を投げたのでございました。





𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】の件から一年近くが経とうとしておりました。

あの日以来、筆を取ることがなくなった応為。

この一年で北斎工房は整理を進め、実質的に今は廃業状態でございました。

すっかり静かになった作業場を一人掃除をしていた応為。

そこへ、

「応為様。応為様。おられますか?」と、聞き覚えある良く通る年嵩の女の声。

「はい。はい。居りますが…。」

「馬頭田様の使いでやって参りました…。」

「少々、お待ちを…。」

ガラガラと動きの悪い引き戸を開けますと、低くした視線の先にに立って居ったのは馬頭田様のところの御女中でございました。。

「お久しぶりでございます。応為様。」

「お久しぶりでございます。皆様お変わりなく…。」と、紋切り型の返答をする応為に対して…。

「お話は後ほど。兎に角、こちらの駕籠で御屋敷まで…。」と、急かす御女中。

訳も分からず駕籠に乗り込む応為…。






寸刻で馬頭田様の御屋敷に到着し、馬頭田様の前まで連れてこられた応為。

何が起きているかも分からず、馬頭田様への挨拶すらもできず仕舞いで惚けておりますと、

「いつものいつもの呼び立ててすまぬな。」と、馬頭田様。

「め、滅相もございません。」と、馬頭田様の言葉で正気を取り戻し、畳に額を擦りつける応為。

「前回の𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】さんの依頼、たいそう喜んでおったよ。」

「あ、ありがとうございます。」


あの時の𠮷原遊郭の妓楼【和泉屋】の主人の言葉から、『そんなはずはない。』と、心の中で言い放つ応為。


「お前さんの絵の余りの出来の良さから〝この絵を店先に貼り出すなんて出来ない。″と思ったらしく、お前さんとこの格下の絵師を手配してくれるようにお願いしたんだって…。」

「…えっ?」

馬頭田様の話を上手く咀嚼出来ない応為。

「お前さんの絵を見た瞬間に〝この絵は家宝にする。″と、決めたらしいよ。」

「はぁ…?」

狐につままれたような話に理解が追いつかない応為。

わしも見せてもらったが、屋敷の奥の奥から後生大事に出してきて…。」

「へえ…。」

わしに触らすこともなく、緋毛氈ひもうせんを引いた机の上に置きましたよ。」

「はあ…。」

心に刺さった棘が音もなく分解していくような感覚を得た応為。

「しかしながら、あれは見事な絵でしたよ。お前さんにしか描けん絵だね。」

「あ、ありがとうございます。」

心に響く言葉が応為の涙腺を緩めようとします。

「それで、また頼みだ。」

「は、はい。何なりと…。」

気を取り直して気を引き締める応為。

「上野の桜が咲き誇る頃に、秋色女しゅうしきじょが遊びに来るんだよ。」

「はい。」

秋色女しゅうしきじょ…。昨今人気の若い歌人…。』と、聞きかじった話を思い出す応為。

「その時に秋色女しゅうしきじょを描いて欲しいんだ。」

「はい。承知いたしました。」

胸のつかえの取れた応為には馬頭田様の願いを無下に断る理由はございません。

快くお受けする意思を伝えたのでございました。





そして、四月一日わたぬきを少し越えた日、秋色女しゅうしきじょを描く日が参ります。

馬頭田様の手配して下さった駕籠で朝早くから上野に向かう応為。

今回の作品は今日一日中かけて、可能な限りの背景の下絵(原画)と秋色女しゅうしきじょの下絵(原画)を描くのでございます。

そして、その中の一番良い下絵(原画)どうしを合成し、構図を作り、上絵(清書)にする方法を取ることにいたしました。

なぜ、その場のスケッチをそのまま絵に仕上げないのか…?

それは、今回の作品が秋色女しゅうしきじょと言うアイドルのスナップ写真のような依頼だったからなのです。


浮世絵には人気役者の役者絵と言う当時の〝ブロマイド″のようなものは存在しておりました。

芝居の一場面を絵にした芝居絵と言う〝ポスター″のようなものも存在しておりました。

これらの〝演出″された絵は、江戸時代の大衆の娯楽文化として確固たるものとなっておりました。

しかし、今回の依頼は限られたファンが秋色女しゅうしきじょと言うアイドルの自然な雰囲気の日常の出来事や一瞬を手元に置きたいというものでございます。

そのため応為は、その場の臨場感と秋色女しゅうしきじょの表情のリアリティーのベスト×ベストを切り取ることによって、秋色女しゅうしきじょの最大限の魅力を表現しようと試みたのでございます。






この日は朝から快晴の春の暖かい日でございました。

早朝の桜は八分咲きと言ったところでございましたが、この暖かさで満開を迎えることは間違いございません。

最高のスケッチ日和でございます。

応為は駕籠を降り、あちこちを見て回ります。

今体いまていで言うところの【ロケーションハンティング】ということでございます。

不忍池、寛永寺五重塔、根本中堂、東照宮、清水観音堂、…等々、動かぬ脚に鞭打って精力的にベストスポットをスケッチして回ります。

何枚も何枚も、おおままかに正確に、大胆に細密に、光景を切り取り画面を構築してまいります。


お昼近くに秋色女しゅうしきじょ一行が不忍池にやってまいりました。

応為は秋色女しゅうしきじょのスケッチにかかります。

秋色女しゅうしきじょと言う歌人は、赤い長襦袢に長い振袖、剃っていない眉から未婚の若い娘であることは直ぐに推測はできましたが、本人に近づけば近づくほど、年の頃なら十を少しばかり超えたほどの少女であることに気づきました。

しかしながら、和歌を書く短冊には細やかな地模様が入っており、筆は汚れひとつなく今日の為に下ろされた高価なものであることは容易に見て取れました。


『これだけの道具を惜しみなく使えるってことは…、お飾りってわけじゃないんだ…。実力もあるってことだね…。若いだけでちやほやされているわけじゃないんだね…。』


応為は少女と女のはざまにある秋色女しゅうしきじょが時折り見せる妖艶な色香を描き出すことに神経を注ぎます。

その一瞬は女である応為にしか描き出せない、未成熟な女が一時だけ放つ特別なつや

何枚も何枚も、一瞬現れる秋色女しゅうしきじょのそれを瞬時に描き上げていきます。

カメラの連写のように瞬間を切り取っていきます。

墨で手が黒くなろうとも、土で蹴出けだしが汚れようとも、描き続けます。


時間も忘れ、取りつかれたように秋色女しゅうしきじょを描く応為。

何時しか周りは暗くなり、灯篭に火が灯される時間となっておりました。

清水観音堂の一角で、

「ぼちぼちお開きかねぇ…。」と、夢中から覚めた応為がそう思った矢先、秋色女しゅうしきじょが灯篭の灯に近づき短冊に歌をしたため始めたのでございます。

暗闇の中、灯篭の光に映し出される秋色女しゅうしきじょの皴ひとつない真っ白なしなやかな肌。

強烈な長襦袢の赤。

暗闇の中で紫陽花のように浮かび上がる桜の淡い桃色。

様々な濃淡が存在する暗闇。

その濃淡を切り分ける様々な曲線と直線。

有機質な曲線で領域が明確にされる松の影。

無機質な曲線と直線が表現する石灯篭。

明かりの違う星々。

一番強く輝く灯篭の火。

短冊に書かれた「井のはたの 桜あぶなし 酒の酔」という歌。

応為は息を吞みました。

呼吸をすることを忘れるほど、その瞬間に魅入られました。

知らず知らずのうちに筆を取り、我を忘れて紙の上で動かしておりました。





工房にスケッチを持ち帰った応為は二日ほど、寝込んでしまいます。

精力的に動き回ったせいなのか、無我夢中でスケッチをしたためたせいか、単なる年齢からくる疲労のせいか、工房に帰った寸刻で眠ってしまいました。

寝ている応為の頭の中では秋色女しゅうしきじょのスケッチをした様々な場面が現れては消え、現れては消えを繰り返しておりました。

しかし、その中でも何度も現れる場面が夜の清水観音堂での一瞬でございました。


『あれほど快晴で桜が満開だったのに…、何でまた夜…。』と、夢見ながらも思う応為でございました。


それと同じ位に現れるのは暗がりの中に浮き立つ女性の肖像画。

かつて頭の中に飛び込んで来た映像の記憶でございました。

暗闇から飛び出して来たような若い女性は、頭に青い布を巻いておりました。


『こんな風に…。秋色女しゅうしきじょを描いてあげたい…。』と、記憶をなぞる応為でございました。


そう思った瞬間に応為は目を覚まします。

顔を洗うこともせず、食も摂らず、絹地を広げます。

そして、その絹地に筆で点を打ちました。

その点を中心に一心不乱に絹地に墨を置いていきます。

一気に線を描き上げてまいります。

上野で描いたスケッチを何度も何度も確認し、画稿と幾度も幾度も見比べます。


墨がしっかりと乾いたら淡い色から濃い色へと着色を進めます。

色を重ね、色を重ね、何度も色を重ね、何色もの【暗】を描き出します。

様々な色調の【暗】と眩しいほどの【明】が絹地の絵を立体的に浮かび上がらせます。

最後の黒を置いた瞬間、精も魂も尽き果てた応為は微動だにすることなくその場で気を失っておりました。







数日後、出来上がった絵を持って馬頭田様の御屋敷を訪れる応為。

出来上がった絵を馬頭田様に見ていただくと、馬頭田様は一瞬、深く息を呑み、目を見開き、一気に息を吐くのと同時に、

「天晴。大年増おおどしま。」(江戸時代の年齢を重ねた女性に対する最大の誉め言葉)

と、大声で賛美されたのでございます。


刹那…、


応為は女である自分自身を初めて好きになったのでございました。











「てな、感じかな…。」って、

寺格丸さんは髪を掻きながら少し恥ずかしそうに話を締め括ったんです。


今では考えられないほどの差別…。

私には想像する事すらできません。

寺格丸さんの講談はフィクションだけど、生まれ落ちた段階ではっきりとした優劣があるなんて…。

自分の性を嫌って生きなくちゃいけないなんて…。

残酷過ぎます。


…なんて、傾聴後感想を考えていると、おじいちゃんがスマホいじってお店のBGMを変えたんです。

私には聞き覚えのないイントロ。

ずっと昔の歌謡曲のようです。

でも、聞きやすい可愛らしい曲。

「おじいちゃん、これなんて言う曲なの?」

「ん…。尾崎亜美さんの“マイ ピュア レディー”って曲だよ。」




♪ちょっと 走りすぎたかしら

風が吹いていったわ

やっぱり頭のうえは ブルースカイ

たった今 気づいたの

今日のあなたに似合ってる

いつもとおんなじ口笛

あっ 気持ちが動いてる

たった今 恋をしそう♪




うん…、そうかも…。

マイ ピュア レディー 〝私の中の純粋な女性″

…なんて、間違った翻訳だけど、そんな風に解釈すると…。

講談の中の葛飾応為さんは、駆け抜けるように生きて、そしてたった今、恋をしたんですね。

御自分自身に…。











おしまい







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マイ ピュア レディー 明日出木琴堂 @lucifershanmmer

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