肌色の川

長尾たぐい

肌色の川

 百貨店の天井はこの空間に一つの窓もないことを客に気取られないよう、煌々と光を放っている。新宿高野のシュークリームに乗せられたメロンが、シュウウエムラのアイシャドウのラメが、フルラのミニ財布のジッパーが、銀色のマルジェラのタビブーツがその光を反射する。ここには選び抜かれた素敵なものしか存在しない。顔の皮膚をファンデーションで、脚の皮膚をストッキングで覆い、黒いリクルートスーツを着込んだ就活生は許容範囲内の異物だから、ショーケースに近づいてもハンガーラックに近づいても何も言われない。

 気づけば十階の「暮らしのフロア」にいた。ここより上に商品を売る階はない。行き場を失くした私は、人のいない食器コーナーでウェッジウッドのマグカップを手に取った。澄んだ白が美しい。花や野イチゴの浮き彫り模様を右の指先でなぞる。ふいに、カップを掴んでいる左手を開いてみたくなった。薄暗い貸オフィスの蛍光灯の下で滴るほどの汗をかいていた掌はもう乾いていて、ウェッジウッドは地面に落下していく。すっぽりと指が収まるがしかし優美な取っ手が、いの一番に地面に当たり衝撃ではじけ飛ぶ。可憐なモチーフに大きな亀裂が入る。それが縁にたどり着いて無数の破片を生む。不格好な凹凸が破片の白い輪郭に影を落とす。

「普段使いのものをお探しですか?」

 店員の笑顔は完璧だった。パイプ椅子の上で私が浮かべるべきだった表情。手にはいつのまにかうっすらと汗をかいていた。私は曖昧な返答を返しつつ、ウェッジウッドを元の場所に戻し、その場を離れた。表面にべったりと残った指紋をすぐに拭き取る店員の姿を想像しながらエスカレーターを下る。ストッキング越しに足の甲へ、スーツ越しに肩へ食い込む合皮の感覚が急に耐え難いものに思えた。

 百貨店の外、駅はもう混み始めていた。帰宅ラッシュの時間帯より少し早いけれど、電車の席はどこも埋まっている。私は扉脇の空間で手すりに半身を預けた。

『これであなたも陶器のようなすべすべ肌に』

 広告の中で微笑むモデルと目が合う。ドラッグストアで簡単に手に入るメーカーのフェイスパウダー。朝、コーヒーを飲んだ後に百均のベージュのマグカップを机の上に置きっぱなしにしてきた。底に積み重なったコーヒー渋がまた濃くなるだろう。ずっと、ずっと我慢していた溜息をつきたくなった。肩と足の痛みが一段と強くなる。


〈了〉

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