花忍び
八かづき
第一話 へっぽこ忍び
「は...はは..あははははっ!」
爽やかな寒空の下、狂ったように乾いた笑いが宙に木霊する。朝露に濡れた鳥兜の葉、その先端についた雫が、勢いよく横切った振動でぽたっと地に落下した。
(やらかしたあ!!)
冷や汗だらだらの顔で林を爆走する少女ーー
昨日は春先とは思えない、蒸し暑い夜だった。寝苦しい時間が
端的にいえば、遅刻したのである。
(ひぃぃ...農作業もう始まってるぅ)
忍びは基本、農民だ。任務がない時は彼らと同じ生活習慣を送っている。
日の出と共に動きだし、朝餉を食べ、午前中は農作業に従事する。昼餉は食べず、午後からは各々任務に備えた修行を行い、
しかし、まだ任務につかない子供は別である。農作業と修行に代わるもの、それが寺子屋だ。集会所としても使われる学び舎では、
上忍三家。
そんな、普段は任務で忙しい先輩忍びたちから教えを受けられる今は、将来仕事をするための貴重な機会なのだ。
寺子屋に通えるのは、任務が始まる十三才まで。齢十二の海蘭もまだぎりぎり、この枠内に収まっている。
「はぁ、はぁっ....へへ、ははは...」
持てる全力で寺子屋までの距離をひた走る。もはや誰も歩いていない
(間に合わねえ)
悲しいかな。海蘭という少女は鈍足である。野山で育った野生児この上ない育ちなわけだが、残念なことに運動神経の悪さは天性のものであった。駆けっこでは常に出遅れ、
(ーーさぁて)
息を整わせつつ思考を巡らせる。俊足は望めない。ならばこのまま平地を全力疾走しようと間に合わないことは明白だろう。
師の呆れ顔を浮かべる。近道を、使うべし。心に師を忍ばせた海蘭の判断は早かった。
視界の端に竹林の穴を捉え、利き足に力を込める。すなわちーー
「強っ行、突っ破ぁ!」
抜け道。ズザザアッと音を立て、木々の空隙から竹林内に身を躍らせる。すぐさま竹によじ登り、適当な高さから蹴り上がると、そのまま幹から枝、枝から幹へと跳び移りながら進んだ。
(へんっ!跳躍なら、負けないもんねーっだ!)
自分を猿呼ばわりした同期や師に心の中で毒づく。誰よりも俊足に劣ってはいるが、こういった狭く複雑な木々の隙間を縫っていくことに関しては群を抜いているのだ。
そして、それを活かさないほど海蘭は愚かでもない。
今回のような事態に備え、林の抜け道をいくつか開拓している。今通っているのは最も使っているうちの一つに過ぎない。まさに遅刻常習犯の鑑であった。
(いける、この調子なら)
文字通り、猿のような身軽さでひゅんひゅん進んでいく。風が横切り、頬を撫でる感触が妙に心地良い。疾風と一体化したような錯覚さえ覚えていた。
あるいは油断していた、ともいえる。
辰砂色の目に映った景色がそれを助長させたのかもしれない。
(見えた、寺子屋!)
視界に入った見慣れた小屋。安堵と高揚を覚えたその一瞬。目線はそのまま、我知らず力を込めてしまった足が宙を切った。
(あ)
先ほどとは違う浮遊感、着地すべき枝が遥か下方に見える。蹴り上げた高さと反動は、眼前の大きな幹へと全身を強く押し出していた。
(ぶつかーー)
気づいた時には遅かった。顔面から激突し、木々が振動する。星と葉っぱが何枚か散り、鼻に一等強い熱が生まれるのを感じた。伝い落ちていく生ぬるさが何とも気持ち悪い。
だが骨が折れてなさそうなのは幸いだった。青あざは避けられないだろうが、師の監視の下何日も臥せるよりは余程マシだから。
「……っ痛ぅ」
頭がぐわんぐわんする。早いとこ空中とおさらばしなければと視線を巡らした。今はとにかく揺れない足場がほしい。
回らない思考で状況を判断し、とりあえず投げ出されないよう両手を幹にがっちりつける。
途中で刺に当たりませんように。恐らくは届かない祈りを込めて。
重力に従うまま、下へ下へと距離を詰めていく。ズルズルと赤い線を描きながら、海蘭は地面に向かい落ちていった。
(また怒られるなあ)
漠然と、そんなことを考えながら。
花忍び 八かづき @hachikazuki
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