第14話「心月」

灰原は改めて老猫に師の礼を取った。

「無心を使うための奥儀を、どうかお教え下さい」


老猫はゆっくりうなずくと語り出した。

「無心を使う奥義などというものは無い

 心の一物を無くす事

『無物』

 ただそれだけである」


「無物?…」

灰原は少し困った。

いったいそれは、漠然と雲をつかむ様な話だった。


「無物」とは『空っぽ』という意味では無い。

自分の意識を“忘れる”事だ。

自分を忘れれば、自分も他人も区別は無い。

そうなれば、

 敵や味方の隔たりは無い。

 勝ちや負けの偏りも無い。

 生命の執着も無い。

心に隔たりが無ければ、心は自然に世界いっぱいに伸び広がり。

心に偏りが無ければ、水の様に自然に移る。

何も無いゆえにあるがままに自由である。


無心の剣は、迷わない

 だから自在に応じられる。

無心の剣は、形に執着しない。

 だから色も気配も無い。

無心の剣は、生死に囚われない。

 だから静かであり無敵なのだ」


「…理論はおよそ理解できてまいりましたが、具体的にどう剣に活かすべきかが分かりません」


「具体例など語る事は不可能なのじゃ」


「なぜ具体的に語る事が不可能なのでしょう?」


「お主は東の空を知っておるか?」

老猫は不意に突飛な事を言いはじめた。


「はい、知っております」

灰原は身を正して率直に答えた。


「ならば東の空とはどれだけの広さがあるか答えてみよ」


「?!……」灰原は言葉に詰まった。

東の空なら誰でも知っている。だがその広さは如何(いか)ほどなのだろうか?

もちろん無限である。

だが西の空も、北の空も、南の空も等しく無限である。

だとしたら東の空の無限と、西の空の無限とは、果たして別なものなのだろうか?

灰原は戸惑い視線を落として沈黙する。


老猫は静かに語り出した。

「さよう。誰もが東の空を知って理解している。だがその具体的な広さは全く理解できないものなのじゃ」


老猫は今度は虎之助に尋ねた。

「お主は月の光を知っておるか?」


「むははは、当然知っているのである!」

虎之助は自信満々に答えた。


「ならば月の光はどの様な形か?」


「むむ…それは…」やはり虎之助も答えに窮した。


「月の光には形は無い。形が無ければ境界も無い。つまり我も無く彼も無く月の光は全世界を照らし広がっているのじゃ」


老猫は今度は黒丸に尋ねた。

「お主は風より早いか?」


「へへっ、当然だぜ!」

黒丸はさも当たり前に答えた。


「ならば風を掴む事ができるかな?」


「あ?ムリに決まってんだろ!」


「そう、無理なのじゃ。

東の空も、月の光も、風の音も、

誰もが目に見えて、誰でも知っている。

だが知っていても答えられないものなのじゃよ」


老猫は月を指差した。

「月の光はアレであると指差す事は可能じゃ。

だが月の光を言葉で伝える事はできないのじゃ。

ただ『無は無であると指差すだけ』しかできないのじゃ」


灰原は一瞬、稲妻に打たれた感覚がした。

そうか!老猫は「公案」をもって心法を伝えようとしたのか。

「公案」を提示されたのならば、こちらは以心伝心の心で受けて立たなければならない勝負のはずであった。

だが灰原は老猫の心法を頭で考えてしまった。

あれこれ理屈を考える間に完全に禅機を失ったのである。


(そうか!無心であるべきは“今”であったのか!)


灰原は自分の愚かさに頭を垂れた。


猫たちに長い沈黙の時間が流れた。

ここから先は言葉で伝える事はできない。


いや、理解しようとしてはいけない。

心法には心法で向き合い、全てを捨て、全てを受け入れないと剣の極意は伝わらないのだ。

(全てを失ってしまった。我々の完敗である)

灰原はそう感じた。


老猫はふと黙り、そして視線を遠くに移して口を開いた。


「つい調子に乗って語り過ぎてしまったな。

それ以上は言葉で説明するほどに迷いが増えるであろう。

教えることはたやすい。

だが理解して確かに掴むことは難(かた)し」


灰原は落胆した。

老猫は自分の教えが我々に理解されてない事を覚ったのであろう。

あまりにも自分たちの格の低さが情け無かった。


突然、親分が老猫の前に歩み出て、地面に手を着いた。


「先生、アッシは若い頃、何度か先生に試合を申し込んで叩きのめされたバカな野郎でござんした。

バカはバカなりにいつか仕返ししてやろうと思っていれば、

夕陽の土手の上で見たんでやす。

先生が夕陽の道端で、闇の道に向かって平伏なされて居たのを。

あの時、自分は気づきやした。

『そうか、アッシはまだ剣を知らなかったのか!』という事に。

どうか、どうか一言、あの夕陽の中で悟られた事を、このバカな手前に教えておくんなせぇ」


周囲のサムライ猫たちは唖然としてその光景を見ていた。

あの親分がまるで青二才の小僧のように必死に老猫に懇願している。


灰原は気づいた。

そうか!親分さんはずっと知っていたのだ。

この老猫こそ自分たちの疑問や迷いを解決してくれる唯一の存在であるという事を。


理解できるできないではない。

剣の道を行く上は、そこに今一歩踏み込まないといけないのだ。


灰原は静かにさらに老猫に問うた。

無我無心で問いかけ無心で受ける。

これが武道家の勝負なのだ。

「無心…無物。

その境地に至った武芸者はどの様になるのでしょうか?」


老猫は何かを感じたようにうなずいた。

そして遠くを見た。


「…むかし、我が隣郷に古猫が居た。

朝から晩までウトウトと眠り居て、ネズミを取ろうとする気勢もなく鼠を取った姿も見ず。

ただそこに居るだけの猫、

まるで木彫の猫の様であった。


しかし、その古猫の居る所には鼠の気配は無し。

所を変えてもまた然(しか)り。

我、古猫に理由を問うが古猫は答えず。

四度問えども、四度答えず。


初めて問うた時、相手にされて無いと思い、無視して修行に励んだ。


二度目に問うた時、やはり彼の猫に敵わぬ事を知り、自分の道に迷いが深まった。


三度目に何としても答えを聞くべしと心を決し、全てを捨てるつもりで必死に向き合ったが、まだまだ理解が及ばずあきらめた。


四度目に出合った時。無言で向かい合い、全てを忘れて、そして全てを理解した。

彼は答えようとしなかったわけでは無い。

『無』の心法を、言葉として答る事はできなかったのじゃ。


もし『無』を形で表し、言葉で書き表せるならそれは本当の『無』であろうか?


もし「『無』を手に入れた!」と感じたなら、それは本当の『無』なのであろうか?


それらは自分が作り上げた、ただの夢幻(ゆめまぼろし)なのでは無いのか?


そして我は知った。

彼の古猫は、おのれを“忘れて”無物に帰したのじゃと。


我も無く、敵も無く、

形も無く、心も無く。

戦いも無く、勝ち負けも無い。

これが『神武にして不殺』と言うものじゃ」


「………?!」

座は沈黙した。

自分たちの目指すべき兵法の山頂は、あまりにも壮大であり、あまりにも果てしなく高い。


灰原は心を無くしてその「こころ」を尋ねる。

「我々にできるのでしょうか?…」


「必ずできる」

老猫は静かに答えた。

「そもそも剣には悟りなどというものは無い」


意外な答えに猫たちは少しどよめいた。


「悟ったと感じたならば、それは真実の悟りでは無い。

剣を極めたと思うならば、それは真実の剣の道では無い。

言葉として語れるならばそれは真実では無い


    剣の悟道とは

 我が心が創り出した夢幻(ゆめまぼろし)

 それが『ただの夢だった』と…目覚める。

   ただそれだけの事である。


老猫は遠く彼方の月を見上げる。


雲一つ無い真っ暗な夜空に、まん丸く光る月が浮かぶ。

月光は夜空の闇をまぶしく染めている。


ジッと空を見つめていた老猫は、ゆっくりと月に向かって手を合わせた。


「我もまた、彼の古猫に及ばざる事遠し…」


老猫の黒く長い影は透き通った光の世界に伸びている。

剣に全てを賭けてきた男たちの教えは今、終わった。


猫たちは一人、また一人と、ゆっくり地面に両手を着いて座礼をした。


月の光は果てしなく広がり

この世の全てに満ち溢れ、

ただ一つ真実をたたえて

全ての世界を照らしていた。



佚斎樗山 作

    〜猫の妙術 完〜

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〜まんが猫の妙術〜 矢門寺幽太 @Yamonji

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