第13話「真空」
「うーむ」虎之助が少し考え込んでいる。
「無我無心…言葉では知ってはいるのであるが、それは剣で使えるのでござろうか?」
「お前は命を捨てて懸かって来る者に、術で勝てるか?
身も心も捨てた空虚な者に、気当てが通じると思うか?」
「う!…」
たしかにその通りである。
ひたすら気術を探求して来た虎之助なら、気当てが通じない相手が一定数居る事を知っている。
銃の怖さを知らない動物に銃口を向けても無反応である様に、
殺気を向けても無反応な者もいる。
気が伝達する恐怖や驚きや迷いが起きないのだ。
もっとも、その様な相手はほぼ素人だから恐怖を感じず、気を察して動く事も無い。
だからそのまま撃てば当たるものだ。
だが、その殺気や気力をものともせず、無我無心で一徹に貫き徹してくる相手には、そもそも気攻めも気の変化も通用しない。
今までは、その様な相手には、さらに強い気で勝とうと考えていた。
だが果たして、無我無心で身も心も捨て、迷いも無く一徹に貫き徹してくる相手にどのように戦えば良いのか?
虎之助はまた考え込んでしまった。
だが虎之助の疑問はもっともだと灰原も思った。
無我無心。
その様な不安定な精神状態で術など使えるものなのだろうか?
いや、もし敵が一心不乱に攻めかかって来た場合に無心で対応できるものであろうか?
「じゃあさ、素早く切ってしまえばイイじゃね?」
黒丸の考えは相変わらずシンプルであるが、一つの核心を突いている。
「迷わず切る」それも一つの手段だ。
老猫は黒丸に意外な答えをした。
「どんなに早く動いても無理じゃな、心は光より早い」
「ありえねぇだろ!」
黒丸はのけぞった。
「お前が動き出す以前から、お前の心がこちらに伝わるから動きを見て取られてしまうのじゃ。
じゃから心法は時間を超越する」
「?なんでだ?」
「無心には自我の壁が無いからじゃな。
心を隔てるものが無ければ、
お前も、敵も、全世界も、全ての心がつながっている。
たとえ宇宙のような大きな心でも『心一つ』であるのなら、伝わるのは一瞬じゃ」
灰原はハッとした。
「全ての心がつながる?」
「あの月を見よ。
老猫は月を指差した。
「月ははるか遠くにあるが、その月光は我も彼も区別無く、一瞬で全世界を照らす。
鏡もまた一瞬で全世界を映す。
心が全世界と一つなら、一瞬で全世界が心に映るのではないかな」
なるほど、理論は分かる。
全宇宙が一つの心であるなら、自分の心もまた宇宙と一体である。
だが灰原もまた無心の戦術に少し疑問を感じた。
「無の心の状態で、果たして戦えるのでしょうか?」
「お前たちだって無我夢中に無意識に動く事はたまにあるじゃろう」
「あ…!」
灰原はハッと思い当たった。
たしかに我を忘れて心静かに働く一瞬はある。
無意識に動く事。
これは…
ひょとして老猫は『夢想剣』の事を教えているのではないか?
古来の名人たちが自得しつつも言葉にも表せず、技として残す事もできなかった剣の奥義を、この老猫は丁寧に語っているのではないか?
灰原は身体の奥から震えるのを感じた。
「じゃあさ、無心になれば勝てるのか?」
黒丸はストレートに疑問を投げかける。
「それは無理じゃな。無心になろう、なろうと意識するほど無心から遠のくものじゃ」
「意味がわかんねぇよ!」
黒丸は言葉を投げ捨てた。
「無の心を作り出そうとするならば、
その無心の心は、お前が造った『偽物の無心』なのじゃ。
空を空だと認識できるとしたら、それは空では無い。自我の創り出した『偽物の空』という幻なのじゃよ」
灰原も率直に疑問を投げかけた。
「なぜ空を空だと認識できては偽物なのでしょうか?」
「認識できる、分別できるという事は意識がまだ働いているという事じゃ。
それを無意識と呼べるかにゃ?」
「なるほど」
たしかにまだ意識が働いているから『無だ、空だ』と判別できるという事か。
では無意識で分別も判断もできないとしたら、どのような心法になるのだろうか?
〈無住〉
灰原はさらに一つ問うた。
「いったい無とはどの様な世界なのでしょう?」
「無著(むじゃく)とは、何物にも囚われない世界じゃな」
「心の壁の無い状態ですね」
「さよう、本来、心には形は無い。
形が無いゆえに世界と一体であり
形が無いゆえに自由自在と言える」
なるほど!灰原は孫子の『兵は無形にいたる』が頭に浮かんだ。
兵を形(あらわ)すの極は、無形に至る。
兵法の究極の形は無形である。
無形ならば相手はこちらの作戦を窺い知ることはできない。だから防ぐ事もできない。
兵の形は水に似る。
水の形は高きを避けて低きに向かう。
その形は「実」を避けて「虚」を撃つ。
水は敵の態勢に応じて無限に変化する。
水は無から形を成して勝つ。
だから水のような無形に変化する者には敵も味方もどのようにして勝ったのかを知ることもできない。
これが孫子の無形の理論だ。
ふむ、と虎之助が納得した風の返事をする。
「しからば無心を体得すれば自由自在になれるであるか?」
「まぁ無理じゃな」
「なんで??」
虎之助は目を丸くした。
「お主の心は
無心と聞けば無心に囚われ、
気と聞けば気勢に囚われる。
そのたびに心が揺れ動くからじゃ。
それは意識が飛び回っているからじゃな」
「意識が飛び回る?」
「さよう、それを『著(じゃく)』という。
執着の事じゃ。
たとえお主が無心になれたとしても、心がわずかでも何かに反応すれば、その瞬間、心は自由自在の霊妙を失うものじゃ。
それでは本物の『空』の境地とは言えまい。『空』であっても本物の空には至れない。
それを『頑空』という」
黒丸が首を傾げる。
「心が動くと何かマズいんだ?」
「心が動く理由は、何かに執着してしまうからじゃのう。
自我の心がわずかでも外界に反応すれば、意識はその反応に固着してしまう。
つまり『一瞬で心が縛り付けられてしまう』のじゃな」
「『居着き』ですね」灰原は少しずつ理解してきた。
「うむ」老猫は灰原の禅機を感じてうなずいた。
「ならばよう、心が固着する前にパパパパって動き回ればイイじゃん」
やはり黒丸はシンプルに考える。
「ふむ、相手が手筋を読む事ばかりに執着している場合なら悪くは無いアイデアではある。
じゃが、たぶんお主の手の内を読まれてしまうのがオチじゃろうにゃ」
「オイラの手の内が読まれるだって?」
「お主は自分が動き回る事ばかり考えている。
相手をよく見ていない。
気ばかりが早く早くと動き回って、心が落ち着いて居ない。
だから簡単な気術に引っかかってしまうのじゃ。
それにお主は、あちこちに反応し過ぎる。
いちいち反応してしまう者が自由自在になれると思うか?」
「んぐっ…。」
また黒丸は一本取られてしまった様だ。
「『居着かない』それは心を動かさない心法と解釈してよろしいのでしょうか?」
「剣の居着きとは、心の居着きの事じゃ。
心が居着くのは、心の執着にある。
何物にも執着しなければ心は動かない。
じゃが心を縛り付けているのもまた自分自身の心なのじゃ。
自分自身の心の執着が剣を迷わせ、剣を恐れ、剣を頼り、剣に使われる。
それを防ぐ方法は一つしか無い」
「それが『殺人刀(せつにんとう)』つまり自己を捨てる道ですね」
「さよう。迷いを断つために心を捨て去る。
心を捨て去るために我が身を捨て去る。
もし死を恐れず命を捨て去る覚悟があるなら、相手の術に惑わされる事も無く。
道に迷う事も無し。
剣の教えとは全ては心の迷いから去るための教えなのじゃな」
〜〜猫の妙術13「真空」〜〜 完
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