未来

槙野 光

未来

 中学二年生の夏休み。GWぶりの家族旅行。

 母と私は、父の運転する車で海沿いにあるホテルに向かっていた。


「楽しみだね!」


 久しぶりの海に昂揚する気持ちを抑えきれず後部座席から身を乗り出すようにして言うと、「最近山ばっかだったからなあ」と父が頷き、「あら、パパ山嫌いなの? 私は好きよ。青々とした葉に鳥の鳴き声。素敵じゃない」と母が返し、「そうだな、山もいいよな」と父がまた頷く。

 娘と妻に弱い父は、時々イエスマンになる。

 可笑しくなって母とふたりで含み笑いを浮かべると突然車内に白い光が差し込み、眼前に青い海が広がった。

 太陽に晒された海の上で光が踊り輝き、海鳥が鳴く。


「海だよ、海!」


 躍動する鼓動を抱え声を上げると、車はゆったりとした弧を描くようにカーブを抜け、そして、三階建ての建物が現れた。

 真っ白な建物はそこだけ世界から切り離されたような異様な空気に包まれていて、昂揚していた心が萎むように身体が竦み、思わず隣にいる母に身を寄せた。

 なんだろう、あれ……。


「ねえ、今の建物って……」


 恐る恐る訊くと母は瞬きを繰り返し、やがて私を見て淡い笑みを浮かべた。


「あれはホスピスよ」

「……ホスピス?」

「そう。残された時間を穏やかに過ごしてもらおうって、そういう施設」


 ――残された時間。

 それは、胸の奥が掴まれるような悲しい響きだった。


「……そうなんだ」


 私が小さく言葉を落とすと、母が小さく顎を引く。


「そっか……。未来みらいはまだ、産まれてなかったもんね」

「ああそっか。もうそんな前になるか」


 母の言葉に、父が含んだように言う。

 ふたりだけに通じる会話に何だか置き去りにされてしまったような気分になった。


「ねえ、どういうこと?」


 不貞腐れたように口を窄めて訊くと、母は私の髪を上から下へと撫でてくれた。暖かさが滲み出るような、優しい手のひらだった。


「未来がまだお腹の中にいた頃ね、未来のお婆ちゃんがあそこにいたことがあるの。お婆ちゃんはあそこの三階、海が一望できる部屋にいて、私とパパとお腹の中の未来と一緒に水平線を見たのよ」

「……お婆ちゃん」

「そう、未来のお婆ちゃん。未来が産まれる前に亡くなった私の母親。自分の意見は曲げない頑固で厳しい人だったけど、あそこにいたあの人は……、棘が抜けたみたいに穏やかだった」


 そう言って、母は海を見る。

 窓硝子に映る母の表情は夢の中にいるかのように薄ぼんやりとしていた。


 ――母の心は、今どこにあるんだろうか。


 考えを巡らせていると、母がふっと表情を和らげた。


「実はね、未来の名前はお婆ちゃんが考えたの」

「えっ……?」

「目の前に広がる水平線のようにどこまでも続く自由な『未来』がありますようにって、そう願いを込めたの。

 水平線を見てそう言ったあの人の穏やかな表情に、ああ、この人はこれから産まれてくるお腹の子のことを愛してくれているんだって。私のことを愛してくれていたんだって、そう思った。……今でも、水平線を見ると思い出すの」


 「だから」と、母が私を見て淡く微笑む。


「だから私、海より山が好き。母の好きだった水平線を見ると……、ほら、しんみりしちゃうから。だから、次は山に行こう。ね、パパ」


 母が感傷に浸った空気を払うように明るく言うと、「そうだな、そうしようか」と父が頷く。

 そして私は、水平線は眺めた。


 しばらくすると窓の合間から人の話し声が飛び込んできて、気付けば車は市街地に出ていた。

 ホテルや観光地の話を始める楽しげな父と母。目の前に広がる雑多な町並み。

 切り離されたように建っていた白壁の建物が置き去りにされていくようで少し物悲しくて、けれど、唇の内側で自分の名前を呟くと胸の奥に光が灯るようだった。


 ……ねえお婆ちゃん。私の名前、お婆ちゃんが考えてくれたんだね。


 心の中でお婆ちゃんに話しかけると潮風が母の髪に触れ、私の頬を撫で去っていく。

 目を瞑り、通り過ぎてしまった香りに思いを馳せる。そして、水平線を見て微笑む母と父とお婆ちゃんの姿を思い浮かべると赤子の産声が微かに鼓膜を揺らしたような、そんな気がした。


 そして――。


「未来、忘れ物ない?」

「やっぱり駅まで一緒にいくかい?」

「大丈夫ー! もう、お母さんもお父さんも心配性なんだから」

 眉尻を下げる両親に笑みを浮かべて「行ってきます!」と元気よく家から出ると、冷たさを孕んだ冬の空気に包まれ、思わず身を縮めた。

 

 時が経ち、私は高校三年生になった。

 私は今から大学受験に向かう。


 あの夏の日、私には夢ができた。

 あの水平線が、私に道をくれた。


 ――私は、助産師になる。


 お婆ちゃんが私に未来をくれたように、今度は私がみんなに未来を与えたい。


 だから、頑張るよ。……お婆ちゃん。


 心の中で呟いて口の合間から立ち上る白い息を追うように空を見上げると、薄水色の空に尾を引くような白雲が浮かんでいた。

 私は前を向く。そして、水平線のようにどこまでも続く雲を辿るようにゆっくりと、歩き出した。

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未来 槙野 光 @makino_hikari

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